人情け身重の妻に天と地に [2015年04月04日(Sat)]
東京に暮らしているころだった。妻は身重でお腹が目立ってきていた。電車に乗って二人で出かけた時のことである。用を済ませて帰る頃、妻は疲れてしまってツラそうだった。
電車は混んでいて座る余地はなかった。妻の顔を見たのか、それともお腹を見てのことかは知らないが、私の前に座っていた中年男性が立ち上がって席を空けてくれた。私がどうも……と礼を言うやいなや、50才代とおぼしきオバサンがスルッと空いた席を占領した。あまりの早技に声も出なかった。 どうやら私の右隣に立っていたオバハンだった。オバハンの顔には勝ち誇ったかのような微笑みがあった。上目遣いにこちらを探る様子でもあれば、「妊婦に譲られたものを横取りするなんて…」と抗議したかもしれないが、さすがは都会人、洗練された歴戦のオバハンらしく涼しい顔で座っていた。 「大丈夫?」 妻は「大丈夫よ」と答えたものの、男性からの好意を悪意で蹴散らされたあとのことだ。わたしたちは苦笑して「仕方ないね」とあきらめた。あの頃は若かった。今なら皮肉のひとつでも言ってやったと思うのに。 「世の中にはいい人もいれば、悪意の人もいるもんだねえ」と、聞こえよがしに言ってやりたかった。あのオバハンはどんな人生を送ったのだろうか。人の弱みにつけこんで自分の利益を優先する人なのだから、他人と喜び分かち合い、悲しみに対しては励ましを送る善意の人生ではなかったことだろう。 (飛天という名をつけられた椿。白地に赤い絵の具を細かく飛ばしたかのような切れ味がある。出雲村田製作所の椿祭りにて) |