やってみて成否はともかくやってみよ [2014年06月19日(Thu)]
自分自身が実際に見て、行って、やってみるのが経験というものだ。それによって得られた知識や技能は身に付く可能性が高い。成否に関わらず…。単に読んで、聞いた程度では深まっていかないというのは当たり前だ、と断ずることはできない。なかには断片的な知識と過去の体験から見事に推測し、手をうち、成功をおさめる人間もいるにはいるが、よほどの才能の持ち主と言わねばならない。その才能の主でも、やはり成功するには実行するというステップを踏まなければならない。失敗は怖いけれども、やってみて上手くいったとき、誰でも楽しい、やってみてよかったと感じる。
≪「楽しい」ということは、「私はできた!」という達成感だ(中略)、自身が人間として成長すること以上の楽しみはない▼達成感を得るには、達成感を得るまで挑み続けなければならない。国際的に活躍する起業家が指摘していた。失敗を恐れるあまり、行動しない人が多い。「失敗」という漢字自体、マイナスイメージが強いが、「失敗」を「経験」と捉え、いろいろなことを、ひたすらやってみることだ――と▼失敗をしない人は成功しない。失敗という経験から学び、次に生かしていく心の強さが、人間としての器を大きくしていく≫(聖教新聞2014年3月26日付け「名字の言」) 年を重ねるごとに失敗することが怖くなる。責任転嫁できない立場になればなるほど、やむを得ないこともある。仕事ならば許されない場合であっても、自分の生活にあって新しいことに挑戦していくことまで怖くなる、面倒くさくなるというのは、ちと寂しいことじゃあ、ありませんか。 (赤いザクロの花が咲いている。あの透明感のあるルビー色の実を思い出すと唾がわいてきた) |