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虚と実が清洲に会議木霊して [2013年12月01日(Sun)]

__tn_20131201225159.jpg三谷幸喜監督の映画『清洲会議』では意外と笑えなかった。喜劇の要素を盛り込んでお笑い満載の劇に仕上がっているのでは?と思っていたが、「会議とは戦さなり」という心理戦が随所にあって、その駆け引きの虚々実々を楽しんだ。会議というものが、準備の段階で万端整えた者が有利にたち、度胸でもってその場を誘導した者が勝つという真理を感じさせてくれた。笑ったといえば唯一、前作の亡霊が特別出演していたところだったかもしれない。

新しい時代をつくるのは、進取の気性を持ち勇気をもって行動できる者であることがわかる(すなわち秀吉)。古い皮袋から新しい容器に替わる転換点に立つ時、ひとは何を考えるのか。そもそも時代の節目にいるひと自体は変わり目であることをなかなか自覚できない。自覚して考え抜いて行動して失敗しても修正しながら前に進めるひとだけが勝利者になれる。さらに、どんなに万能なひとであっても死からは逃れられない。後継者を育てた者のみが、一族としての勝利を得ることができるといえる。そういう点では、信長はもちろん秀吉も敗者である。家康のみが勝者となって2世紀半にわたる一族支配をものにしたのだ。そんなことを真面目に考えさせられた映画だった。

「虚と実」という対語だけでなく、いろいろな反対の概念を思い浮かべた。

「陰と陽」 秀吉一派は陽 、柴田勝家一派は陰。
「静と動」 秀吉は動、勝家は静。秀吉が静に転じると不気味だった。お市の前では両者とも動揺していたが…。
「正統と傍流」 勝家が推す織田信孝は傍流、三法師は正統。
「速と遅」 秀吉は本能寺の変から間髪を入れず明智を討ち、勝家や丹羽長秀は後れをとった。
「視野の広狭」 秀吉は知恵でもって時代全体を見通し、勝家は猛将でも目の前しか見えなかった。
「笑いと怒り」 恫喝の笑いがあり、行き場のない悲しみを伴う怒りがあった。
「舞台と実物」 清洲城天守の庭に面した円周に配置された各部屋で行われる情報戦は、演劇の舞台であるかのような錯覚を起こした。大声で秘密を議していても、障子一つを隔てると秘密は漏れない。
「エリートとその他大勢」 清洲城の門番オヤジだけは身分は低くても存在感があった(秀吉や勝家の若き頃の知り合いとして)が、他の下級家来は台詞すらなかった。役者の立場から見ても、台詞のある役者とない役者の違いにもつながっていく。

戦国の世がダイナミックに変遷し、安定した中世社会を形作っていくこの時期。映画や舞台、小説といった虚構の世界でも、歴史の本当の姿を追う研究の世界でも、これからも魅力は尽きない時代である。それから400年余とはいっても、人類の歴史と比較すればつい昨日のことだ。興味はまだまだ尽きない時代だ。
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