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極限の人事不省に意識あり [2010年06月23日(Wed)]

人事不省に陥ったとき、人間は無意識では何を考えているのだろうか。病気や大ケガで意識がなくなる、脳の働きが正常でなくなって自分が自分でなくなるときに、自分を支えていたはずの意識はどこかに行ってしまう。

外から見れば失神したり、昏睡状態であったり、錯乱状態であったとしても、その人の無意識は、病気やケガの痛みと戦い、生命の危機を乗り越えようとしているのである。生きようとする姿は悲痛であり、そのけなげさに胸が締め付けられる。

先週私の母が「母でない状態」であった半日間。それを過ぎて丸一日たつと、関わってくれた医療者に感謝し、家族をねぎらう姿が見られた。そのときやっと家族全員が人心地ついた。

人はいずれ老いて死ぬ。あるいはケガや病気など外的条件によって死ぬ。なんのために死生観をもたなければならないのか。死の恐怖を死生観という物語によってなくすため、かけがえのない人がいなくなるという空恐ろしい不安と喪失感を少なめるため。なによりも生きる今の時を大切にするという覚悟を固めるために死生観は明らかになっていなければならない。

ふだんは難しいことは考えない、そもそも極限の修羅場のことなど考えたくないものだが、いずれはその時はやってくる。
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