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血糖値に気をつけよう [2012年11月30日(Fri)]


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この季節になると、年賀状作りを前に、喪中のお知らせが相次いでやってくる。

そんな中で、今度は、多年ご指導をいただいてきた傘寿の先輩から、「ご挨拶申し上げます」と最初に書かれた、厳しくも辛い挨拶状が到来した。少し血糖値の高さを気にしなくてはいけないわが身としては、身につまされる思いで拝読し、コピーを身近な所に貼って、拳拳服膺している。

曰く、
<昨年は大腿骨頚部を骨折して人口骨を入れる始末となりました。今年は1月から8月半ばまで入退院を繰り返し、やっと懸命に努力しているところです。全ての根源は糖尿病にあり、全身の血管が硬化状態にあることからきています。

右足指に壊疽が発生して切断するかどうかまでなりました。さらに、感染症に罹り敗血症をせんこくされて、高熱の中でどうしようもありませんでした。心臓も弱り、全身麻酔に耐えられない身体になりました>。

文章の最後には、<余力を考えますと年頭のご挨拶もこれでお仕舞にしたいと思います>とあるのには、胸が裂けんばかりの強烈なものを感じました。

先輩!
現代医学を信じ、ご自愛ください。span>
元難民支援生が後輩にと大型寄付 [2012年11月28日(Wed)]


11月3日の読売新聞に開催されましたので、ご存知の方もおられるでしょうが、私の周りでこんな「いい話」がありました。
子どもの頃、私が長らく代表幹事や副会長をしていた難民を助ける会の支援で、家族のみんなが日本で初等教育や高校、さらには上級学校に進むことが出来たカンボジア難民の一人が、ソン・モノラックくんが祖国カンボジアで事業に成功し、毎月5万円ずつ、返金したいといってお金を持ってやってきたのです。

彼が小学生だった頃、銚子市で開催した「難民合宿」のとき、お風呂の入り方を教え、背中を流し合った仲の私としては、こんな嬉しいことはありません。

まず、記事をご覧ください。<元難民 奨学金の恩返し カンボジア人男性 支援組織に300万円寄付>というのが見出しです。

     〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

 32年前、インドシナ難民として来日し、奨学金を受けながら都立三田高校を卒業して、母国で建設会社を設立したカンボジア人のソム・モノラックさん(43)が、国内にいる難民らの教育支援に役立ててほしいと、都内の難民支援団体に寄付を申し出た。今月から5年間、毎月5万円ずつを払い、かつて、奨学金として自分や兄弟が受け取った300万円を寄付する予定という。
 ソムさんが、寄付を申し出たのは、品川区のNPO法人「難民を助ける会」(AAR)。AARによると、ソムさんは1980年、ポル・ポト派の迫害を逃れて家族11人で来日。港区内に住み、奨学金を受けながら、区立檜町小(現・赤坂小)、区立赤坂中、都立三田高校を卒業した。ソムさんの兄、弟2人、妹2人も奨学金を受けた。
 ソムさんは94年に帰国し、兄と建設会社を設立。会社経営は軌道に乗っていた。今年9月、カンボジアを訪れたAAR職員と偶然出会い、寄付を申し出た。ソムさんは「私たちが、あの支援にどれだけ助けられたことか。ようやく恩返しができる」と話したという。

 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

この事業は、1993年にAARと同じビル内に設立された社会福祉法人さぽうと21(現在の理事長は不肖・吹浦忠正)が引き継ぎ、こうした日本と縁のある在日外国人を支援しています。

そして、来たる12月26日(水)14:00から、日比谷内幸町の日本記者クラブで現在、支援を受けている人やかつての支援生たちが集まり、研究発表とシンポジウムを行います。これは年賀状の寄付金による助成事業です。使用言語は日本語のみ。レセプション参加費を含む。

どうぞお越しください。

なお、準備の都合上、あらかじめ、社会福祉法人さぽうと21事務局にお申し込みください。残席10人分くらいですので、お急ぎください。電話:03−5449−1331

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20121226(水)在日難民などが語る「今、日本社会に伝えたいこと」_チラシ裏.jpg


郷 隼人さんと朝日新聞の読者たち [2012年11月21日(Wed)]




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先日、小欄ではカリフォルニアで服役している歌人・郷 隼人さんが1年半ぶりに「朝日歌壇」に復帰したことを嬉しさいっぱいに書きましたが、郷さんのことはもちろん、多くの読者が注目していたのです。

朝日新聞は11月19日付で<「甲乙閑話」短歌が結ぶ人と人>として、こう書いています。

郷さんからはこちらから何もしていないのに、先年、直接、お便りをいただき、驚き、かつ恐縮してしまったことがあります。感性も表現も豊かで、私が朝日新聞を購読している何割かの理由は、この人の投稿歌に出会えるからです。

さまざまな事情があって、まだしばらくは「(アメリカ)郷 隼人」のままのようですが、ご壮健で、私たちを励まし続けてくださいと祈り、お願いするほかありません。

     ❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀

 わが詠みし短歌(うた)を待つ人居てくれる
 何て幸運(ラッキー)な奴なのだ俺 (アメリカ)郷 隼人

 この歌が10月29日の「朝日歌壇」に載った翌日から10日間で、手紙とはがき、100首もの短歌が全国から寄せられた。作者は米国で殺人罪で終身刑となり、獄中から16年に亘り投稿を続ける。郷隼人はペンネームだ。昨年4月4日の入選を最後に投稿が途絶え、1年半ぶりの登場だった。

 「郷さん、お元気でしたか」「ほっとしました」。涙を流して読んだ人、思わずひとりで手をたたいたという老婦人。「なんとはなしに生きてる実感」と詠んだ歌も。私は朝日歌壇を担当して1年。熱心な愛読者がいるとは知っていたが、正直驚いた。

 郷さん自身、かつて自著の後書きに「どうして、まったく面識のない人々が、これほどまでに親身になって僕のことを心配してくださるのか」と書いている。その温かいまなざしは、当時ブームだった全戦全敗の競走馬ハルウララへの応援と同じものではないか、とも。そして被害者家族を気遣い、美化されないよう自戒する。

 いや、少し違うと反響を読んで思う。望郷と母への思い、そして痛切な悔悟の念をまっすぐに歌う「郷隼人」は、読者にとって、会えない息子であり、懐かしい友であり、ままならない日々を送る自分自身なのではないか。ネット全盛の時代に、短歌が結ぶこんな交流がある。(伊佐恭子)
日本は政治システムに欠陥があるのではないか [2012年11月15日(Thu)]


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野田さんが強気に出た。
しかし、バックアップが全然不足。
常任幹事会が解散に反対したまま解散とは、
見ようによっては独裁だ。

「民主主義が絶対にすばらしい政治システムだ」とおもうほど
ナイーブではないが、昨今の政治家は、民主政治は仲間づくりと
その結束の維持が何より大事なことをお忘れのようだ。
別に野合しろとはいわない。
しかし、結党の責任はおおきいものがあるはずだ。
それが日々、各党とも崩壊に向っている感を否めない。

民・自両党になかなかの人材がいるのに、
なにも政治が進まないという、これは日本の悲劇だ。
しかも、国民の政治への期待も低いし、参画意識も低調、
新聞は読まないし、政治を議論しない。

その結果、各政党とも、候補者難でとんでもない人たちが
公認されたり、都知事選に無所属で出たりする。

ここは一度、全党解散、
全員無所属で選挙をしたいと思うほどだが、
これは憲法が許さない。結社の自由は大事だが、
それぞれの結社には責任があるというものだ。
日本に尊敬される政治システムはできるのだろうか。
選挙制度をはじめ、国家のシステムを
大いに議論していいのではないだろうか。
鯖、秋刀魚に祖国思う受刑歌人 [2012年11月12日(Mon)]


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夕されば刑庭(にわ)の秋風身に染みて
  祖国(ふるさと)恋し日本語恋し

アメリカ・カリフォルニア州で服役している郷 隼人さんの短歌が今週も「朝日歌壇」に入選している。この人はおそらく「朝日歌壇」で最も多く入選した詠み手ではないだろうか。

それでも、この1年半余り、おそらく投稿を控えていたのではないだろうか。

この歌の選者・高野公彦氏は、「第一首、有名な俊成の歌<夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉(うずら)鳴くなり深草の里>を踏まえながら、自分の境涯を嘆く。<祖国恋し日本語恋し>の心が作歌の原動力かも>と「評」で述べておられる。

郷さんの故郷は鹿児島、つまりお名前は「薩摩隼人」ということだ。

獄中生活が長くなり、関係者が受刑者移送条約により、祖国日本での服役の可能性を調べているが、果たして、日本で刑に服すことができるのか慎重に検討を重ねているようだ。

今週の「朝日歌壇」にはもう一首が二人の選者によって選ばれている。

何故秋になれば故郷が恋しいか
  鯖・鰯・河豚・秋刀魚・キビナゴ

永田和宏、馬場あき子のお二人の選者はこれを挙げておられる。郷さんは、アメリカには板前として渡った人。「鯖・鰯・河豚・秋刀魚・キビナゴ」に、ただ「食べるだけ」の私とはまた違った思いがあるのかもしれない。

アメリカの監獄では焼き魚、煮魚などというのは、でないんだろうなぁ。差し入れに行ってあげたい。この大歌人に。 
猪木正道先生逝く [2012年11月07日(Wed)]


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   猪木正道先生



猪木正道先生が逝去された。享年96。安保問題の論客として知られた。京大名誉教授として、高坂正尭、木村 汎、矢野 暢、西原 正、五百旗頭 真といった逸材を指導し、そのまた弟子に、中西輝政、前原誠司などを輩出している。防衛大学校校長としても大きな足跡を遺し、1986年には勲一等瑞宝章を受章、2001年に文化功労者に選ばれた。

戦後すぐから一貫して民主的社会主義の大切さを唱えた。政治権力の正統性や独裁権力を分析する一方、新聞、雑誌に精力的に論評を発表。日独の独裁政治研究は全3巻の「評伝吉田茂」(78〜81年)にまとめられたが、これは戦中戦後の日本を知る上で、必読の書となっている。

防衛大校長を辞任後は平和・安全保障研究所を創立その理事長(引退後は高坂、西原などがその任を継ぐ)でいらした。

私は猪木先生がわが師・末次一郎の主宰する安全保障問題研究会(安保研)の共同座長(今一人は佐伯喜一野村総合研究所社長)でいらした頃から京都に転居されるまで、特に防大校長時代以降、大いに「可愛がられた」。なんども横浜のお宅に伺い、教えを請い、時には微力ではあったがご協力申し上げたこともある。

そんなときには帝国ホテルやホテル・オークラにお誘いくださり、特大のステーキをご馳走してくれた。「日本人はもっと肉をくわなきゃいかん」。最晩年まで大好物のステーキを食べ続けたとのことだ。

熱烈な読売ジャイアンツのファンで、何度かいっしょにロシア各地を回ったときでも、毎日、その日の試合結果を電話で取り寄せてはご報告させていただくのが私の日課だった。その勝ち負けで、少なくとも表面的にはご機嫌が変わったのが、この大学者先生の人間味だった。

70年代の中頃、クレムリンにコスギン首相を訪ねたときのことも忘れられない。緊張している日本側に、同首相がいきなり「よくいらした。私は1時間ほど時間がある。何を話そうかね。それにしても諸君は若い。猪木さんというのかね、いくつかい? ほう60、若いね。まだコムソモールだ」。

これで双方すっかり打ち解け、率直に、北方領土問題と日ロ平和条約について話し合った。

また、安保研として80年代にグルジアで会議をしたとき、そのリーダーぶりから、日ソ双方からグルジア語の「タマーダ」(愛すべきボス)と呼ばれて親しまれた。ただし、ソ連との厳しい議論では一歩も譲らず、鋭い舌鋒と温かい包容力には多くを学ばせていただいた。

日本の安全保障政策については「平和憲法の理念を守りつつ、自国の防衛軍を明確に保持できるようにするべきだ」と改憲論を打ち出す一方、リベラリズムの立場から、教育勅語や戦前の軍国主義を批判した。旧民社党の理論的支柱となり、佐藤、大平、中曽根各首相についてはブレーン役を務められた。中曽根首相の強い「引き」で、定年前の京大法学部から防大に籍を移された。中曽根も叙勲その他でその功を讃えた。

先月は岸田純之助元朝日新聞論説主幹が亡くなられ、これでわが安保研の創立以来のメンバーは全て他界された。

今、この研究会は袴田茂樹新潟県立大学教授を会長に宿願の、北方4島の返還と対露関係の抜本的改善をめざして、灯火を継いでいる。同志とともに深甚なる謝意を表し、ご冥福をお祈りする。
                           (敬称略)
絶対感動する催しです 在日外国人の実力を示します [2012年11月06日(Tue)]


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詳しい説明はあえて省きます。不肖・吹浦が理事長(もちろん無給)をしている社会福祉法人さぽうと21では多年、優秀な在日外国人を支援してきました。

そして、毎年、その人たちが貴重な意見を発表する機会を作ってきました。

今年は、年末の12月26日、内幸町の日本記者クラブで開催します。

老若男女、善男善女、美男美女・・・みなさんお越しください。入場無料。

目が覚めるほどの感動をご一緒しませんか?