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金正日総書記の棺を覆う旗 [2011年12月31日(Sat)]



     

  金正日総書記の棺を覆った朝鮮労働党旗







     

      インド共産党旗






     中国共産党旗








    

     ベトナム共産党旗









       

     日本共産党の党証







「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の
2代目指導者・
キムジョンイル(金正日)総書記の
柩が国旗ではなく、
赤い旗に黄色の<模様>の付いたもので
覆われていたのはなぜか」という質問を
鹿児島県在住のYさんという
高校教員の方からいただきました。

 結論から言いますと、あれは
朝鮮労働党の党旗です。

 もともとは槌と鎌という
ソ連共産党の党旗や国旗の影響で
もちろん労働者と農民の団結を
表したものです。

 鎌の形がロシアの農民が
通常使用していたものなのはそのためですが、
この「模様」が世界中の共産党やそのほか
社会主義や共産主義を標榜する政党の
党旗に採択されました。

 日本共産党は、今では、
外国の同様の名前の政党から
影響を受けない独自路線を進むことに
なっていますが、その党旗や党章は
各国と全く同様のものです。

党名もまたしかりです。

「赤旗」は今も日本共産党の党旗であり、
機関紙は「アカハタ」です。

中国語では「赤」はredよりも、純粋さを
意味する単語(日本語でも赤誠、真っ赤なうそ、
赤ちゃんなど)のため、「紅旗」とし、
国旗は「五星紅旗」と呼びます。

赤旗はもとはといえば、フランスにおいて
戒厳令発布を示す旗でした。

革命初期の1791年、
パリのシャン・ド・マルス広場に集まる
急進的革命をめざすグループを、
ラファイエット将軍が弾圧した事件が
ありましたが、逆に、
これに対する抗議として革命派が赤旗を
革命旗に採用したのが始まりとされています。

特に、1848年2月においては
ティエールら自由主義的立憲王政をめざす人々が
三色旗を掲げる中にあって、一部に
ルドリュ・ロランのように急進的な
共和政権をめざす勢力があり、
さらには社会主義を目指す人々が
赤旗を用いました。

こうした中でティエールは
「赤旗はサンドマルス広場を
一周したに過ぎないが、
三色旗は世界を一周した」と誇らしげに語って、
革命の収拾にあたりました。

結局、この「二月革命」は
オルレアン王朝のルイ・フィリップ王の
ロンドン亡命という形になり、
混乱の中でやがてルイ・ナポレオンが
皇帝の地位に就くという展開になりました。

この後で、赤旗は一躍革命を象徴する旗とされ、
この「二月革命」がドイツ諸国や
ウィーンなどにも影響を与え、
この一連の動きが近代政治史における
画期的な動向とみなされ、赤旗は、
こうした階級闘争の継承者と称する
社会主義や共産主義団体、さらには
1917年のロシア革命後は、
特に社会主義政党の支配する国の国旗や、
共産党、労働党といった政治勢力の旗に
採用されています。

そして、革命運動で流された血を
赤が象徴しているという説明もなされました。

また、一時は日本でも労働組合においても、
労働運動を資本家との階級闘争であるとして、
かなりの割合で赤旗が採用された時期がありました。
 
ま、なにはともあれ、金正日総書記の柩が
党旗で覆われていたということは、
あの国にとっての労働党旗というものの
特別の意味や意義を示しているもの
であるということでしょう。



   おことわり:この欄における旗の
    大小や上下には何ら政治的な意図や
    思惑などはありません。特に、
    大小は筆者のIT技術の拙劣さに
    よるものです。ご寛恕ください。
お正月の準備進む [2011年12月31日(Sat)]



   石井満弓さん、ありがとうございます。










    巨岩へのしめ縄を見ると、自然への畏敬の念がおのずと
湧き上がってきます。










 今年もあと半日になりました。

 拙宅では毎年、
舞鶴在住のカラーコーディネータ・
石井満弓さんからの、素敵な
クリスマス・デコレーションと
新年のお飾りを掲げ、来訪する客人、
借金取り?から宅配、集金・・・
のみなさんに、お褒めの言葉を
いただいております。

他方、山梨県北杜市長坂町の
スーパーひまわりで、おそらくは、
いにしえの八ヶ岳の噴火で
吹き飛んでいたと思われる
大きな岩に、
しめ縄がはられていました。

ことしはお互いに大変な年でしたが、
来年は、日本にとっても、世界にとっても、
そして私たち個人個人にとっても
幸せな年になりますようにと
祈らざるを得ません。


  ★    ☆    ★




今夜午前零時にスタート、国旗HP [2011年12月31日(Sat)]




 元旦の午前零時から
世界の国旗専用のHP
「タディの国旗の世界」
www.worldflags.jp を開設すると発表したところ、
お世話になっているcanpanブログでは
翌日、ヒット数第一位となり、
皆さまから激励や質問や助言など
いろいろいただきました。

ご注目、ご期待に添えるよう、
関係者一同、頑張るつもりです。

「バナーを付けるべし」「バナーを待っている」
という注文が多く、
バナーといえば「旗」という意味しか知らない
老生は苦慮しましたが、
技術担当の伊藤輝くんに早速、
ご指導いただきました。

要は、下記の
www.worldflags.jp を宣伝してくださると
ありがたいのです。

バナーページを用意いたしましたので
サイト公開後、企業・団体のみなさまや、
ホームページやブログ運営のみなさまに
お知らせいただきリンクを貼ってくださると
嬉しいです。

なお、伊藤君からは、こんな専門的な
情報もきましたので、
意味不明のままご紹介しますので、
IT通のみなさまはご活用ください。

 ✿  ✿  ✿  ✿  ✿


バナー説明文
(ホームページ・ブログをお持ちの方へ)

ホームページ・ブログ内に
画像を貼りつけ、画像をクリックすると
「タディの国旗の世界」に移動することの
出来る仕組みです。

下記の「↓↓ここから↓↓」と
「↑↑ここまで↑↑」の間にある
ソースコードをサイト内の任意の場所に
貼り付けることで実装することが出来ます。

●バナーをホームページ・ブログに
貼り付ける際のソースコード

fukiura ・大バナー / 横160px × 縦120px


↓↓ここから↓↓
<a href="http://www.worldflags.jp/" target="_blank"><img src="http://www.worldflags.jp/b/b2.png" width="160" height="120" /></a>
↑↑ここまで↑↑
ソ連崩壊から20年Bエストニア [2011年12月31日(Sat)]
  


   

    1991年、独立回復後から現在に至るまでの国旗は、
   1919年にこの国が独立してから
   39年にソ連に吸収合併されたときまでの
   国旗と同じ。

    青はエストニアの空・湖・海を表わすとともに、
    エストニアの国民を象徴し、
    希望・友情・団結を表す。
    黒はエストニアの大地と
    暗黒時代の悲しい歴史を忘れまいとする
    強い決意を示す。
    白は雪と国の発展、人々が力を合わせ、
    幸福を追求しようという意思を表す。




     

      ソ連邦の一員であった
     1941年から1991年までの
     エストニアソビエト社会主義共和国時代の
     エストニアの国旗。













       
エストニアでは
2001年には、横三色旗を
スカンジナビア諸国に共通の十字型の
デザインに変更しようとして
具体的な提案がなされたが、
未だ改定には至っていない。








ソ連を構成していた共和国は15、
その連邦加入の経過にはいろいろあるが、
バルト3国(B3)、すなわち、エストニア、
ラトビア、リトアニアは、列記とした
独立国で、各国と外交使節を交換してした
にもかかわらず、第2次世界大戦中、
巧妙かつ狡猾な手口で、
ソ連に編入され、かつ、
多くの指導的立場の人々は「シベリア送り」
となった。

 これを怒ったアメリカはワシントンの
B3大使館をそのまま外国公館と認め、
そのステイタスを与え続けていたのであった。

 1991年8月、モスクワで起こった
クーデター未遂直後に、B3は独立回復を
宣言、翌月、国連に正式加盟した。

 爾来、ロシアとは極力距離を置き、
CIS(独立国家共同体)に
加入しないのはもちろん、
2004年には、いずれも
NATOとEUへの加盟を果たした。

 年率8%もの順調な経済発展を続ける
エストニアは今年、2011年、
ユーロを採用し、西欧諸国との
一層の経済統合体制に入った。

 特に、通信・IT部門の発展は
目覚ましく、映像を見ながら
話せる電話SKYPEはこの国に
本部がある。

 人口130万のエストニアでは
毎年夏に、10万余の人による
大合唱祭が屋街で行われる。

 この国独自の繊細な文化は
大国ロシアとはとても同調できない
ことは、ソ連時代から
実は、この国を知る誰でも
感じていたことではなかったか。
           (つづく)

★    ☆    ★

2012年元旦零時開設の
世界の国旗理解専用サイト
「タディの国旗の世界」への入り方。

ホームページ・ブログ内に
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「タディの国旗の世界」に移動することの
出来る仕組みです。

下記の「↓↓ここから↓↓」と
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↑↑ここまで↑↑


王子の狐 [2011年12月30日(Fri)]








   主演の白ぎつねとのキツネポーズのツーショット。佐々木菜穂子さん。キツネらしく、ここまで化けると年齢、失礼、卒業年次不詳の名女優!!





 佐々木菜穂子さんに誘われて、
ミュージカル「往時の狐 ねがいの石」を
王子駅前の北トピアで鑑賞しました。

 佐々木さんはわが母校・秋田高校の
は〜るかに後輩ですが、
同窓会首都圏支部副会長(ちなみに、会長は
橋本五郎読売新聞特別記者)として、
われら同窓生には大きく睨みを利かせている人。

 このミュージカルでも主役の一人・白狐を
演じているほどですから、タタリが怖い?私どもは
こぞって参上と相成りました。

 いや、しかし、歳末の忙しい中を
無理してでかけて良かったというのが結論です。

 キャストが28人、ほかに合唱が14人、
ミニ合奏団付きで、スタッフも大勢。

 出演者はいずれも素人のはずですが、
老若男女、なんとなんと・・・実力者ぞろい。

 それだqけに、 これまでに至る苦労が
しのばれます。それでも、2008年以来、
もう3回目の公演とか。

 王子の町づくりのキーワードが「きつね」、
名物もきつねうどん(とは聞かなかったです)。

 王子では明日、大みそかの夜、
「きつねの行列」が
行われます(詳細はHP参照)。

 これは、都内では今や珍しい
江戸時代に起源を発する地域伝統行事とか。

 今回のミュージカルも、北区や
その「王子狐の行列の会」などの積極的な
協力があった様子。

 もちろん、
わが佐々木女子のコン夜の熱演は
ピカイチ(拍手!)。
もうコンなどとオヤジギャグをいう仲間は
いませんでした。

「佐々<キツネ>に立派」という
老生が一人いましたが。

 北区とはこれまで
あまりご縁のなかった私ですが、
これですっかり
北区が好きになったという思いで、
一杯やって帰宅しました。
猛吹雪の北国には申し訳ありませんが… [2011年12月30日(Fri)]




    富士山












        甲斐駒ケ岳













          八ヶ岳












        北  岳








 快晴。郷里・秋田のみなさんには
申し訳ないほどのすっきりと晴れた日が
続いている首都圏です。

 山梨県北杜(ほくと)市の
旧長坂町、小淵沢町、高根町周辺を
散歩したり、ドライブしていると
山々の美しさに、何度見ても
驚嘆するほかありません。

 日本一の富士山(3778m)についで、
第2位の北岳(3192m)、はるか遠くには
それにわずか2m及ばない、
第3位の奥穂高岳(3190m)もが
一か所から見えるところもあります。

 そしてすぐ目の前には、
勇壮な甲斐駒ケ岳(2967m)と
おそらくは富士山より
規模が大きかったのではないかと思われる
八ヶ岳(2899m)が
冬の日光に輝いています。

 北海道、東北が猛吹雪というのに
ほんとうに申し訳ないいい気候です。

 秋田の我が家はきょう30日が
「年越し」でした。基本的に商家
だったからと聞きます。

 そんな喧騒も寒さも忘れ、
せめて山梨県下で英気を養って、
新しい年に備えたいと念じています。

 ところで、上の写真、
富士山はともかく
どの山が火山でしょう?

 正解は、小欄のずっと下にあります。






































南アルプス山中、甲斐駒ケ岳は火山です。
少し離れた八ヶ岳も火山です。
ソ連崩壊から20年A [2011年12月30日(Fri)]







1968年11月にモスクワを訪問してから、
少なくとも100回以上訪ソ(露)した。

最初の頃に持参したお土産は
100円ライターだった。
「こんな便利なものがある」と
感心され、感謝されたものだった。

「どうやって詰め替えるのか」
と何度も訊かれた。

「使い捨て文化」のないソ連では
なんとも贅沢なものに見えたみたいだった。

「女性にはパンストが」というのも
日本から訪問するビジネスマンの
「常識」だったが、これは
「婆さん」以外にあげると効果がありすぎて
危険だった。

「石鹸とトイレットペーパーは必携」
というのも「常識」だった。

アワが出ない石のような石鹸では
こっちがアワてた。

風呂の栓も必需品だった。
なぜか、一流ホテルでも栓がない
ことが多かった。

大抵は、ゴルフボールで代用したが、
あるとき、某有名国際政治学者は
「ゴルフボールでは重い」と称して、
卓球の白い球を持参した。

 結果は、いうべくもあるまい。
 
ソ連崩壊直後は、
マールボロのカートンが、ルーブルは
もちろん、ドルよりも有効だった。

 道端でこれを振りかざすと、
3,4台の自動車が急停車してきた。

 運転手同士が言い争いになり、
わが師・末次一郎先生と
別々の車に乗って目的地に行ったこともある。

ソ連時代には、宇宙ロケットは作れても
生活用品の生産は実に苦手な国だった。

 それが74年も続くとロシアになった今でも、
国民的体質として基本的に残ってしまった。

共産主義志向という計画経済が
どうにもならない官僚主義と
非能率・非効率を生んだ。

また、
軍事費の負担は重圧として経済を圧迫した。

大国主義でアメリカと無理な張り合いを続け、
加えて、連邦内の他の14の共和国や
東欧支配の無理がたたった。

 70年代までは、ホテルのラジオでも
今の北朝鮮がおそらくそうであるように、
モスクワ放送しか入らない構造になっていた。
要するにラジオには電源と音量しか
スイッチがなかったのである。

それが大幅に「改善」されて、
世界情勢が誰にでもわかるようになり、
特に、1985年からの
ゴルバチョフ大統領時代からの
急速な新思考外交で国民の意識は激変した。

そこに持ってきての、東欧諸国の相次ぐ離反、
91年8月の、守旧派によるクーデタ―未遂事件、
エリツィンを中心とする
ロシア国内での民主派による指導力の
増強などにより
共産党一党独裁のこの超大国は
ついに綻びを隠せなくなり、

要するに、ソ連は、
冷戦という第3次世界大戦に敗れたのであった。

最大時、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、
キューバなどに「東側」の「首領(ドン)」として
勢力を張ったソ連は、
ドイツの統一、東欧、バルト3国の
勢力離脱を経て、
20年前の12月末、ついに崩壊した。
          (つづく)
国旗専用HPを元旦に開設 [2011年12月29日(Thu)]
   



        


   世界で一番、色数の多い国旗です。答は末尾に。





<タディの国旗の世界>という
HPを開設します。

2012年元旦0時のスタートです。

http://www.worldflags.jp
または
www.worldflags.jp
でご覧いただけます。

200近い各国旗の個別の解説と、
試作段階では大好評の
「国旗物語」を少なくとも
週1回は更新します。

スタート時に10本以上の
「物語」を掲載します。

老若男女、国旗と遊んでください。

国旗は国際理解の第一歩です。

私の60年触れ合った国旗の
喜びと感動をお伝えできたら
幸いです。

もちろん、私一人でできるわけがありません。

アイディアは商品企画の一流プランナーである
いとうよしみさん、
HPの企画・制作・運営は株式会社ライトの
伊藤輝(あきら)氏のご尽力によるものです。

いとうよしみさんは、
商品企画・開発を職業とし、
ライフワークで日本の文化や習慣と
それに伴う大切な想いを、
モノ、仕組み、環境の3本柱で形にし
きゅうり一本購入しても当たり前のように
1円でも社会貢献活動団体に
寄付をする仕組みを
作ろうと奔走している人です。30前後の
息子さん3人の母でもあります。

 最近は、「国旗の歌」や「野菜の歌」の
作詞家でもあります。

 「国旗の歌」についてもHPで近々紹介します。
 企画・制作・運営は株式会社ライトの
伊藤輝氏が担当します。

 いろいろな企業や団体のHPにバナーを貼って
宣伝していただければ幸いです。
バナーはHPで供給いたします。

 このHPの開設にあたっては、中野区、同教育委員会、
財団法人余暇文化振興協会など
さまざまな方々の特段のご理解・ご協力を
いただいていおります。

 記して感謝の意を表します。

 みなさまのご来訪をお待ちします。

 2012年のロンドン・オリンピックが
何倍か楽しくなることは請け合いです。

 なお、タデイ(Taddy)というのは、
40年来、主に
私の外国の友人たちが呼ぶ呼称です。










   答:南アフリカ共和国の国旗。
拙著がバングラデシュで出版へ [2011年12月29日(Thu)]










 私が国際赤十字東パキスタン駐在代表
として今のバングラデシュにいた時の
体験記
『血と泥と―バングラデシュ独立の悲劇』が
ベンガル語に翻訳され、
NHKの海外放送で何回にも分けて
今年、朗読されました。

 それを聴いたバングラデシュの出版社が
是非、同国で出版したいということで
この2月にベンガル語で
上梓されることになりました。

 急遽、ベンガル語版用の序文を
書くように依頼され、
以下のものをお送りしました。

☆    ☆    ☆

Bangladesh comes into being.
 ちょうど40年前、
バングラデシュが独立を迎えた日の朝、
ダッカで復活した
The Bangladesh Observer は
号外のような紙面ですが、
この見出しを掲げていたのを、
今でも覚えています。

 アマルショナール・バングラ 
アミ・トマエ・バロワシの国歌は
国中至る所で聞かれ、
「アマルデシュ・トゥマルデシュ・
バングラデシュ・バングラデシュ!」
(私の国はバングラデシュ、
あなたの国もバンギラデシュ)
「アマルネタ・トゥマルネタ・
シェイクムジーブ・シェイクムジーブ!」
(わが指導者はシェイクムジブルラーマン、
あなたの指導者もシェイクムジブルラーマン)
が叫ばれていました。私もまた、
「アミ・バングラデシュ・ク・ポチョンドコリ」
(私はバングラデシュがとても好きです)
と応えていました。

 建国の父と讃えられた
シェイク・ムジブル・ラーマンを
ダッカ空港に迎えたあの喜びの日、
私は自分自身がバングラデシュ国民の
一人になったかのように、
同僚のハルン・アルラシドくんと空港に出迎え、
元競馬場での100万人とも言われた
歓迎の人並みを前に、誘われて演壇にいました。

 しかし、
その興奮に消されかけてはいましたが、
この日を迎えるまでに
実に大きな悲劇があったこともまた、
私には忘れられません。

今、思い出してもパキスタンから
分離独立するという「産みの苦しみ」は
並大抵のものではありませんでした。

あらためて合掌し、
犠牲となられた方々を思い、
哀悼の誠を捧げたいと思います。

 今般、翻訳してくださった渡辺一弘さんや
バングラデシュのさまざまな人たちの
ご厚意により、思いがけず、
拙著がベンガル語に訳され、
NHKの海外放送で連続して朗読が行われ、
それを聴いた関係者のご尽力で
ダッカで出版されることになりました。

 ムジブ首相とはその後、
来日の機会に歓迎会の演出を担当し、
客船で日本の和歌山と言うところまで
一晩ご一緒し、お話をする光栄にも
浴しましたが、私としては、
ハルンをはじめ、
ハチヤ島でいっしょに働いた
モイン・ウディン・アーメド、
バブル教授たちはどうしているのかな、
とまず懐かしい顔を思い出してしまいます。

ここ数年、音信を絶やしてしまったことが
残念です。

そのハチヤにバングラデシュ最初の
解放区をつくったロフィクル・アロムは、
そのハチア島でDUSというNGOの
executive directorを務めており、
私の関係していた団体で、
日本に招かれお会いしたこともあります。

私にとってバングラデシュとはまさに
こうした具体的な仲間たちのことです。
 
10年ほど伺っていませんが、
最近のバングラデシュは経済も
順調な発展を遂げているようで、
健全なナショナリズムに裏づけされた、
この詩のような光景の国が、
文化、教育、公衆衛生などが
さらに充実して発展することを
切に望んでいます。

 最後になりましたが、
内戦と言う混乱期に限られた情報で
執筆したため、私の誤解や偏見等、
多々あろうかと思います。

その点をご寛恕いただければ幸いです。

また、拙著が、日本とバングラデシュの
相互理解促進の一助になってくれれば幸いです。

 ショナール・バングラ(麗しきベンガル)の
人々に神のご加護がありますように。

      2011年12月16日
(バングラデシュ独立40周年の日に)
            吹 浦 忠 正
ソ連崩壊から20年 [2011年12月28日(Wed)]


  →  





 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が
崩壊して、
この25日で満20年が経過した。

 1991年12月25日の夕方、
モスクワの赤の広場に面した
クレムリンの一番大きな国旗掲揚塔から、
赤地に鎌とハンマー、それに
黄色で縁取られた赤い星の
ソ連の国旗が降納され、
白青赤の横三色旗である
ロシア連邦の国旗がするすると
上がっていった。

 この日、
ソ連最後の大統領ゴルバチョフは
「独立国家共同体(NIS)の結成に伴い
ソ連大統領を辞任する」とテレビを通じて
発表した。

 要するに、ソ連を構成する主要な4つ、
ロシア、ウクライナ、
白ロシア、カザフスタンの
大統領が話合って、ソ連からの離脱を
決定したということだ。

 かくして、日本の60倍もの
面積(全地球の陸地面積の6分の1)があった
ソ連は15の共和国に分離して、
それぞれが独立し、
条約、国連安保理常任理事での地位、
在外公館、核兵器は
すべてロシアに引き継がれたが、
その面積は日本の40倍にまで減少した。

その後のロシアは経済の大混乱で
「あの乞食のような生活は
二度としたくないし、思い出したくもない」
という国民が多い。

そこにエリツィンの残像がダブって
強いロシア、
そのリーダーとしてのプーチンへの
支持基盤ができたが、
今回の国家院選挙の不正をきっかけに
それもまた大きく揺らいでしまった。
            (つづく)
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