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「秋入り」は風邪に注意 [2011年09月30日(Fri)]










 「秋入り」という言葉を初めて知りました。

 1日の平均気温が22度以下の日が
5日間続いたとき、
その最初の日にさかのぼって
「秋入り」というそうです。

 私が風邪気味になったのが4,5日前。

 急激に寒くなったのを軽く
みたのかもしれません。

 午前中、診察を受け、
何種類もの薬をもらい、
5時に帰宅して、静養しています。

 医師は食事と休養ですというが、
漢方に詳しい友人からは、
「内臓が疲れるので食事は控えめに」と。

 そこで、酒をやめ、普通に食事を
しました。

 明日は10月1日、名実ともに秋。
みなさまもご自愛ください。
公平性・迅速性・透明性 [2011年09月30日(Fri)]







 赤十字新聞10月号が贈られてきました。

 その中で<9月9日、
近衞忠W日赤社長が記者会見し、
義捐金について、
「被災者間に差をつけない」
「被災地域への支援に偏りを出さない」
「信頼性を損なわない」ために、
一括した受付を行い、
公平に配分されるよう
尽力してきたことを説明>したと
あります。

この記事では、
「一括した受付」とは
どういう意味か解りませんが、
おそらく政府が設置した「配分委員会」に
そっくり渡したという意味では
ないでしょうか。

さすがに、近衞社長は一方で
「配分基準の策定や配分拠点となるべき
行政機能の回復に時間を要し、
被災者への義援金配分が滞る事態が発生した」
ことを認め、
「義援金の原則である
公平性・迅速性・透明性のうち、
今回は迅速性に課題が生じた」と
認められたようです。

 この反省は結構ですが、
被災地では行政機能が滞るのは、
被災当初から、
火をみるより明らかだったのでは
ないでしょうか。

 小欄がこれまで指摘してきたのは、
そもそも日赤は銀行なのか、
救援事業団体なのか
ということです。

「この経験をさらに生かし、
義援金の受付・配分の仕組み全体について、
関係機関で幅広く協議するため、
日赤がイニシアティブをとっていきたい」という
記事はいいのですが、
それでは、阪神淡路大震災のあと、
国会でも批判されたことはこの15年、
何も改善されていなかった
ということでしょうか。

社内で傷をなめあうのではなく、
大いに外部の識者に情報開示して
率直な意見を求めるべきでは
ないでしょうか。

国際事件記者・大森実先生のことD [2011年09月30日(Fri)]





  シアヌークビルで。右端は次の訪問地・香港に向かって移動を始めた筆者




 1970年3月の研究所解散後も私は、
インドシナ半島とは深いご縁が続き、
拓殖大学に移った私は同年6月、
現地を訪問した。

戦災孤児たちのための施設を
南ベトナムに創立するために
松田竹千代前衆院議長の主宰する
アジア福祉教育財団の調査団メンバーとして
ベトナムやカンボジアを訪ねたのである。

大森実先生からは大森研究所時代の同僚・
中島照男くんの安否を調べよとも命じられ、
涙ながらに多少、情報を得ることもした。

取材中にポリポト派の武装勢力につかまった中島は、
最後に素手で抵抗したまま殺害されたことも、
最終的に判明した。

10数名の日本人が同様の気の毒な
最期だったことが次第に明らかになった。

爾来、私は両国やアジア諸国とも
深い関係が続いている。

71年には国際赤十字の駐在代表として
バングラデシュの建国時に長期間滞在し、
73年にはインドシナの駐在代表に転じた。

75年にさしものベトナム戦争も停戦になり、
70年代の末には多くの難民が
ラオス、ベトナム、カンボジアの
インドシナ3国から流出した。

このときには、「難民に冷たい日本人」との
批判を受けて立ち上がった相馬雪香さんが
中心になり、
79年、今の認定NPO法人難民を助ける会の
創設に加わった。
                  (つづく)
国際事件記者・大森実先生のことC [2011年09月29日(Thu)]


  カンボジアのシアヌークビルで。大森先生の左は秋山ちゑ子先生、右へ高田冨佐雄さん、筆者。





話を戻すが、PU「東南アジア版」では
まざまな苦労を重ねた。

第一、パスポートが出ない。

あの手この手で外務省に働きかけたが、
「日米関係に影響を及ぼしかねないことは
するな」と担当課長に厳重注意を食らった。

そして最後は大森先生ともども、
時の愛知揆一外相に呼ばれた。

大臣室には600の旅券が山積みされている。
愛知外相と大森先生はもちろん
互いに尊敬しあう仲。

意図は十分わかっている。最後は、
「船は指定された国以外には
立ち寄らない」との誓約書と交換に、
外相は目の前で担当課長に
旅券給付の指示を出してくれた。

神戸で出港を見送った私は
東京に飛んで帰ったが、
稀にみる大雪で、
東京駅から赤坂見付まで30センチもの雪道を
歩き、翌朝、羽田から
飛行機で先回りして準備しなくてはいけないのに、
空港は閉鎖。

船の速さが憎かった。

一方、神戸を発ったソ連船「イリーチ号」も
大変だった。公海上で
アメリカの戦闘機が急降下して
嫌がらせをするのである。

それでも各地で大歓迎。とりわけ、
カンボジアでは大森先生と昵懇の
シアヌーク殿下じきじきの指示で、
GANEFO(新興国スポーツ競技大会)の競技場で
歓迎式典と、記念のサッカー大会。

600人の参加者は選手村で
止めていただいた。

古き良きカンボジアの最後の時代だった。

27台のバスを連ねての
アンコールワット日帰りツアー、

夜明け方にプノンペンに戻ってきた一行を
迎えた時は心底、ほっとした。

結局、上司の高田冨佐雄編集長ほか10数名が
プノンペンからベトナムを短期間訪問、
切迫する戦場の雰囲気をみんなに報告した。

 2011年3月の大森先生を偲ぶ会では
その船上でカップルとなった恵良ご夫妻に
声をかけられた。

お嬢さんが数年前、
東洋英和女学院大学大学院での
私の教え子。

また、このPUで
海外旅行の味を覚えた?瀬間さんは、
その後、旅行社を立ち上げ、
私は今年も30余名でそのお世話で、
フランスとドイツを訪ねた。

「大森学校」は拡がり、
世間は狭いということなのだろう。
                 (つづく)
難民を助ける会の名称とプーチン??? [2011年09月28日(Wed)]



共同議長を務めるピョートル・Y・バクラノフ(ロシア科学アカデミー正会員、同極東支部太平洋地理学研究所長)と筆者












   議長席から撮した、会議風景。会議は日露両国語の同時通訳で行われた。







   最終セッション終了後の記念写真。日本側からはやむをえず、
退席した人も多く、全体ではほかに10人近い人が参加した。
前列左から3人目がロシア側団長のヴィクトル・V.L.ラーリン氏(ロシア科学アカデミー極東支部歴史学研究所長)
 
 








 認定NPO法人難民を助ける会は
1979年11月24日に、
東京・青山の日本青年館国際会議場で
開催された設立総会で発足しました。

当時は、「インドシナ難民を助ける会」
という名前でした。

満5年を経た同じ日、同じ会場で
行われた総会で、
「難民を助ける会」となりました。

難民問題が広く、アフリカ各地等に
広まっていたからです。

こういうのを発展的「改称」とでも
言うんでしょうか。

この日、緒方貞子上智大学教授、
神谷不二慶応義塾大学教授、
井川一久朝日新聞記者の3人を
パネリストに、
私が司会をしたシンポジウムでも
3先生から、賛同と励ましを
いただきました。

ところが、今、実はこの名称で
少々困っているのです。

同会は、東日本大震災で
被災された方々のために
ということで、かれこれ約10億円相当の活動を
しているのですが、
どうも「難民」という言葉が、
お気に召さない様子なのです。

少なくとも怪訝そうに
受け取られるようです。

阪神淡路大震災の時には、
そのこともあって、
姉妹団体の
社会福祉法人さぽうと21の名前で、
これまた10億円を越える支援活動を
行いました。

当時は、NPO法ができる前のことで、
難民を助ける会へのご寄付は、
未だ免税対象になっていなかったことも、
大きな寄付を受け入れ
にくくしていたのです。

今度は、難民を助ける会が全面に出、
さぽうと21は教育支援に絞って
活動をしています。

それはともかく、
そこでまた難民を助ける会は
名称を再検討しようという話になったのです。

既に、英語では、
Association for Aid and Relief(AAR)とし、
「難民」という言葉を消しています。

それでも、当初の
Association to Aid Indochinese Refugeesや、
その後の
Association to Aid the Refugees同様、
略称はAARのままでいいのです。

実際の活動対象としては、
refugeesとはいえない受益対象が
大幅に増えてきているのです。

ハイチの地震、ミャンマー(ビルマ)や
スマトラの大地震等となると、
refugeesとは程遠くなります。

そこで、自分の提案ながら、
これはうまく英訳できたと
喜んでいたのですが、
Association for Aid and Reliefとして、
英語の略称は
そのままAARでやってきました。

 それが東日本大震災で
いよいよ舞い少で困ってきているのです。

 むしろ、「助ける会」だけで
いいのではないか、という意見は
有力です。

 そんなときに、
きょうまで開かれていた
「東京・ウラジオストク・フォーラム」の席上、
名越健郎前時事通信仙台支社長が
ロシアのアネクドートを紹介してくれました。

「100年前の支配者はラスプーチン、
今はプーチン、
100年後はチン(中国)」、
議長をしながら私が
ひときわ大きな声で笑ってしまったのは、
ひとえに、上のことを考えてきて、
いささかストレスになっていたからです。

会場の誰にも
それはバレてはいないのですが、
私自身、この小話では、
当分笑えそうな気がします。
国際事件記者・大森実先生のことB [2011年09月28日(Wed)]




   1969年3月、カンボジアのシアヌークビル港でPUのチャーター船(ソ連船・イリーチ号)
  からの参加者と握手する大森実先生。右端は、次の訪問地への先発を急ぐ私。





 1968年11月、私はモスクワへの
出張を命じられた。

「太平洋大学(PU)」で東南アジア版をやりたいので、
冷戦のさなかではあるが、
ソ連船をチャーターしようということになった。

 先生のハラの底には「できれば
北ベトナムに日本の青年600人を連れて行き、
ハイフォン港ででも献血させたい」
という思いがあった。

そのためにはソ連船でなくては
まず出来ないのだ。

 同月29日に羽田を発った日航と
アエロフロートの共同運航便は
「モスクワ豪雪のため」という理由で、
イルクーツクに3泊4日停止し、
説明のなさに加え、
寒さと食糧不足で心もとないまま
日本人乗客13人などと耐え忍んだ。

モスクワのモルフロート(船舶公団)に出かけて
オファーしては
2,3日は回答待ちという交渉だった。

 このため約3週間滞在し、
ようやく妥結に持ち込むことが出来た。

 この間、役得とはこのこと、
時間つぶしもあり、毎晩、
ボリショイ・バレエやオペラに通うことが出来、
先生からは電報で、
「ようやった。ヨーロッパで1週間、遊んで来い」
というご褒美までいただいた。

 この旅行がもとで、
PU「ソ連・欧州セミナー」も実施できた。

 横浜からバイカル号でナホトカに向かい、
レニングラードから北欧各地を経由して
ロンドンに、それから鉄道で西欧各地を訪問、
ナポリからまたソ連船で東欧諸都市を経由して
オデッサ、ヤルタとまわり、
飛行機でハバロフスク、鉄路ナホトカ、
4度目のソ連船で横浜へという
48日間という長旅だった。

この時の難問は、出発前、
ソ連のビザがなかなか下りないことだ。

当時も今もかの国の査証事務は
疑わしいことで有名だが、
大森先生はコマロフスキー参事官と
電話1本で解決してくれたのだった。

おかげで、「コ」参事官とは、
先年この親日外交官が亡くなるまで、
東京で、モスクワで
長いおつきあいをさせていただいた。

私に取ってソ連・ロシアとの関係は深まるばかり、
これまでに122回訪問し、
北方領土返還のための
「トラック2」による国際会議は30回以上に
及んでいる。

現に昨日からは2回目の
「東京・ウラジオストク・フォーラム」を
日本財団ビルで開催しています。

そしてNPO法人ユーラシア21研究所を
根城に、ロシア語のHPを
10年近く前から継続し、日本財団の英断で、
今春からはジャパンエコー社を換骨奪胎し、
先ず英語と中国語で、
10月からは、国連公用語全部(6ヶ国語)での
発信を開始する。

私にしてみれば、
それもこれも、大森先生が冷戦の枠を超えて
ソ連に目を付けたことが、濫觴というほかない。
              (つづく)
上海での地下鉄事故 [2011年09月27日(Tue)]





    頼むぜ、中国さん!





 相次ぐ中国の鉄道事故。

 今度も信号の故障だって?

 で、5時間後に再開?!

 今度も埋めちゃうのかな?

 いやぁ、バラバラにして「燃えないゴミ」だろうが。

 そうだね、信号が悪くて
車両が悪いわけじゃないもんな。

 あと3週間後に私は上海を訪問する。

 地下鉄はやめよう、杭州行きも鉄道はやめよう。

 すると、自動車?

 それしかないね。あっ、ダメか・・・

 ?

 だって、信号が危ないんだろう?
国際事件記者・大森実先生のことA [2011年09月27日(Tue)]



                 




 大森実先生には何度も韓国に
連れて行っていただいた。

おかげで金鍾泌(キムジョンピル)首相、
丁一権(チョンイルゴン)首相、
張基栄(チャンギヨン)副首相(韓国日報社長)とは
何度もお目にかかったり、
杯を交わす機会があった。

その金元首相とは3年前再会した。

中村紘子さんが
ベートーベン「ピアノ協奏曲」5曲連続演奏をした際、
偶然出会い、杯を交わし、
大森先生の思い出を親しく語り合った。

「大森さんは、テレビ朝日の番組を
持っていて、その仕事でもキミは
一緒にソウルに来ていたね。

放送時間の都合から日本語でやってくれ
というムチャには、
少し勇気が要ったよ」。

韓国の要人が日本のテレビに
日本語で出演したのは
このときが初めてだった。

助手の私としては、
この「大成果」が、
嬉しくてしょうがなかった。

 私を大森先生に引き合わせてくれた
中曽根康弘先生が総理になって
最初に訪問したのが韓国。

全斗煥(チョンドファン)大統領の出迎える
金浦(キムポ)空港で
いきなり韓国語で挨拶をした。

「韓国語を禁じた国の首相が
初めての訪韓で韓国語をしゃべった」と
多くの韓国人を驚嘆せしめたのは、
実は、この「嬉しさ」の延長線上にあったことは
あまり知られていない。
          (つづき)
国際事件記者・大森実先生のこと@ [2011年09月26日(Mon)]


    
         今は亡き大森 実先生






以下は、『大森実追悼集(仮題)』に恢子(ひろこ)夫人の委嘱により
寄稿した拙稿である。追悼集は来春出版を予定している。

「巨星墜つ」、
今春、大森先生が逝かれた。

1966年2月、私は
中曽根康弘衆院議員(後の首相)のご紹介により、
大学院から
できたばかりの
大森実国際問題研究所に直行した。

その後の5年余りに及ぶ研究所生活は、
爾来45年のわが人生を
決定付けるものであった。

スタッフはみな同年代、
互いに社会経験はゼロ、
毎日、原稿用紙に10枚書いて
1ヶ月見ていただいたことなど、
苦しくもあったが、
今では楽しい思い出となった。

そのせいか、70歳になった今でも、
たとえ駄文であろうとも、
毎日、数回ブログを更新するのは
平気である。

当時、日々、
政治、経済、外交、安全保障など、
「世の中」をどうみるべきか、
自分が何をなすべきか、
その全てを実地に先生に
内外で教えていただいたことには、
どう感謝したらいいかわからない。

今でも、判断に困るとき、
先生ならこのことをどう考えるのだろうかと、
恩師のまなざしを思い浮かべることが
しばしばある。

 65年8月、国交回復直前の韓国に
約3週間滞在した私は、
特に、日韓関係に関心があった。

日本の越し方行く末を見るに、
韓国は格好の鏡になる
というように思ったからだ。

だから、研究所が他に先駆けて開催した
「日韓政経セミナー」を担当した時は、
こんな若造にここまで
やらせてくれるのかというほど
企画に加えさせていただき、
日夜興奮して準備にあたったのだった。

日本側のトップは
財界トップの今里広記日本精工社長。
牛尾治朗、服部禮次郎、堤 清二といった
後に財界の中心的存在に
なっていった人たちがまだ40代だったが、
積極的に参加し、
今里、大森のお二人の薫陶を受けていた。

後に国際法泰斗と言われた
寺沢 一東大教授が学界から参加し、
電通の成田豊地方部長(現・最高顧問)が、
研究所の担当者だった。

このセミナーは日韓両国で
交互に4回ほど開催したが、
あるとき、今里さんがソウルで、
小ぶりだが、すばらしい石灯籠と出会い、
感動のあまり
「おい、あれを何とか合法的に持ち帰れんか」
という難題を授かった。

大森先生と相談すると、
「やってみぃや」。

今、その石灯籠は、
麻生太郎邸と背中合わせの
渋谷の今里邸の庭に、
まさに場を得た形で鎮座ましましている。
 
余談だが、今里さんは
お嬢様(新歌舞伎座の設計監修をしている
杉山隆先生の令夫人)に、
「これは大森君のところの
フキウラくんとかいう若いもんが
努力と工夫で我が家のものにして
くれたんだ」と伝え、
みなさんが私を探してくれていたそうだ。

ようやく5,6年ほど前、
ピアニストの中村紘子さんのお宅で、
偶然、その方と親しくなり、
お庭に80本もある梅ノ木が満開の折、
お邸にお招きいただいた。

石灯籠の品の良さは場にぴったり、
そこへ絵に描いたように
鶯がやって来、
目前の光景に感動して、
出された美食を前に手が止まったほどだった。
               (つづく)
日の丸が戻ってきた話 [2011年09月26日(Mon)]
 陸上自衛隊の将校用雑誌
「修親」最新号(8月号)に
感動的な話が出ていました。

 一般にはあまり出回らないものですが、
何度か執筆した関係もあり、
贈呈いただいています。

 こんないい話、一人で感に入っている
だけではもったいない。

 最近、何かと好評な自衛隊ですが、
なんといっても、人材の豊かなことが
うれしいですね。

    ♪‥☆‥★‥♫♫‥★‥☆‥♫♫






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