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戦陣訓起草者に聞くH [2011年02月26日(Sat)]




   岩畔豪雄



   中支の中隊長から召換

── 16年の春、『戦陣訓』が発表されたのですが、準備にとりかかられたのはいつごろのことですか。

白根 13年ですかね。私はまだ中支(華中)の一線部隊の中隊長をやっておりました。ある日突然、連絡がきて「教育総監部付を命ず」というんですね。何事だろうと思いました。師団長以下、びっくりしました。何事か、と検討もつきませんでした。

  〔注〕中支・九江の廬山で全面的反攻に出てきた蔣介石軍と相対峙していたとき、突然、降ってわいたように陸軍教育総監部第1部へ来いという配置転換命令を受けた。昭和14年春のことである。……そのころ、騎兵部隊の一中隊長であった私などには無縁のポストなのである。……私を指名されたのは教育総監部第1部第1課内において道徳教育を担当していた班長の浦辺彰少佐(のち戦死)で、中隊長時代に自分の中隊長室の前に“軍隊教育研究所”という看板をかかげたことのあるエピソードの持ち主で、いわゆるモーレツ人間の集団だった。 <白根孝之「『戦陣訓』はこうして作られた」
(「文藝春秋」昭和46年4月臨時増刊号)78頁>

── どうして白根先生が指名されたわけですか。

白根 それはね、その人は残念ながら戦時中に交通事故で亡くなりましたが、浦辺という現役の少佐がいましてね、彼が教育総監部の第1部に在籍していました。その人の目に私の書いたものがとまっていたんですね。まあ、『戦陣訓』のようなものをつくろうと火をつけてやいのやいのいったのは岩畔さんあたりだったんですね。

  〔注〕浦辺彰(うらべ・あきら)少佐=1904年、茨城県鹿島生れ。大阪地方幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、大正13年10月、陸士兵科第38期生徒となる。同15年7月、同期生339名とともに卒業。第74連隊中隊長当時の昭和11年7月号の「偕行社記事」に「機会を求めて実践陶冶を施す精神教育の具体的方案」の論文を(所題の懸賞論文に応募して、選外佳作として同誌に掲載されたもの)載せている。

同年12月、教育総監部に入る。『戦陣訓』完成後、第一線部隊長となるも、同17年、再度教育総監部勤務となり、出張中の同18年5月21日、南方戦線にて「陣没」した。

同19年5月、同部が遺稿を集めて『陣頭録』(全364頁)を成武堂から刊行している。未定稿。

  ほかにも「偕行社記事」に「軍隊教育者として戦場心理考察上の参考」(同13年6月号)、「思想対策的見地よりする部下取扱上の一参考──戦時下下級幹部のために」(同14年6月号)が掲載された。

   岩畔豪雄(いわぐろ・たけお)大佐(のち少将)=大正5年12月、陸士歩兵科30期生として入校、同7年5月卒(同期生630名)。陸軍中枢部にあって切れ者として著名。南方においても岩畔機関を率いて活躍。戦後は、京都産業大学世界問題研究所長(当時の部下で岩畔についで同研究所長に就任したのが若泉敬教授)などを務めた。著書『戦争史論』(昭和42年、恒星社厚生閣)。
                                  (つづく)
戦陣訓の起草者に聞くG [2011年02月25日(Fri)]








── 外国人がこれを見て非常に感心しますね。私も外国の人とつきあいがいろいろあるものですから。「立派な軍律だ」「各国にあるものと比較しても大変すぐれている」と彼らはいいます。外国のこの種のものを研究されたことはないのですか。

白根 それを集めたくても、集める方法がなかったですね……。スパイかなにかで持って来なくては……。でも知っている外人はみな「ワンダフル、ワンダフル」といいますね。びっくりしました。

── 今でもみなそういうふうにいいます。私はソ連の将軍からも感想をきいたことがあります。ソ連でも捕虜になるな、といっているようですよ。

  〔注〕(1942年5月)党機関誌「ボリシェヴィーク」(現在の「コムニスト」)に、「わが母国の歴史における愛国的精神」と題する長大な論説が掲げられた。この論説はロシアにおける最古代からの歴史的愛国主義者たちの列伝ともいうべきもので、遠い昔の<伝説>的な誰か彼れが「捕虜となるより死を選ぼう」と言った、
「ロシアを救うか、この首を捧げるかだ」と言った、「名誉の死は恥辱よりましだ」と言った、「外国による束縛より死の方がましだ」といった──等々の<戦陣訓>を書き連ねた……。
<清水威久『ソ連と日露戦争』原書房、208頁>

 M・A・ミルステイン中将(ソ連)「日本軍が1941年に新しい軍訓を出したことは少したったころ知った。全部読んだこともある。すばらしい軍訓だと思う。捕虜になるなというのはソ連の軍隊でも厳しく教育する。徹底抗戦してだめなら、かじりついても戦わねばだめだ。詳しく調べたわけではないが、1929年の捕虜に関するジュネーブ条約にソ連と日本が加入しなかったのは、自国の軍人で捕虜になる者はほとんどいないという考え方があったからではなかっただろうか」

白根 世界に出して恥しくない軍訓ないし武訓ですよ。英語訳は確かにできていたわけです。
── 戦争当時に翻訳されていたのですか。

白根 そうです。少なくともアメリカではね。

── 米国の手に入って、先方が英訳したのでしょうね。

白根 アメリカが訳したのです。
それには日本人の何人か手助けしたと思われますが……。
私の知り合いの外国人もこんな立派なものがあるのに、なぜ日本の軍隊は、ああいうことをしたのかと訝っていましたよ(涙声)。
私も残念です。しかし、こういうことをしてもなお、日本の軍隊には乱れがあったのです。本当に残念なことです。
リビア情勢、元王子の発言 [2011年02月24日(Thu)]




         

      


      現在のリビア国旗(1977〜)








 1951年の独立から1969年のカダフィ大佐による革命までの
  王政時代のリビア国旗。現在、反政府デモの参加者たちが掲げている。






ロイターによると、
イドリス元リビア国王が大叔父にあたるリビアの
ムハンマド・アッサヌーシー氏(48)が、
同国最高指導者カダフィ大佐について、
「強硬姿勢を貫いたとしても政権は
間もなく崩壊する」との見方を示したようです。

また、元王子
「リビア国民が自由を望んでいるため、
カダフィ大佐の政権死守への闘いも
長くは続かない」

「国民の結束は強く、
この大きな革命は最終的に勝利する」

「リビア国民は政権が崩壊するまで、現
政権に平和的に立ち向かおうとしている。
国民は正義が訪れるまで引き下がらない」

「国際社会に対して、暴力行為阻止への
協力を要請し、関係各国には
カダフィ政権への支援を停止するよう求める」
と滞在先のロンドンからコメントを発表しました。

 1969年のクーデターで
イドリス国王が退位し、
カダフィ大佐を元首とする共和国が誕生した後、
1988年、国王一家は英国に移住したのでした。

 この人がこの段階で、
直ちにリビアの反政府運動の中心になったり、
ポスト・カダフィの「顔」になるとは
いえないでしょうが、旧王族の発言として、
耳を傾ける必要があるやもしれません。
朝日新聞、これはあんまりです [2011年02月24日(Thu)]






    2月24日付 朝日新聞9面








     同日付 産経新聞2面








      同 7面





 朝日新聞の整理部や校閲部の責任者に
今一度、申し上げたいのです。

 リビアの反政府勢力の掲げる国旗について。

 きょう24日付の朝刊9面、見出しは
「反体制派検問 翻る三色旗」。

写真の「えとき(説明文)」は
「緑一色の国旗に代わり、三色の旗が
はためいていた」。

 記事には
「国境や幹線道路沿いに設けられた
反体制派側の詰め所には、
赤、黒、緑の三色旗が掲げられていた。
市民が作った<新たな国旗>だ。
カダフィ氏が1969年に
無血クーデターで実験を握るまで
使われていたものだという」。

 昨夜は偶然、機会があって、
小欄が昨日指摘した
「巨大な旗」としか報道していなかった
昨日の朝刊を書いた記者(旧知)に指摘したが、
同記者は
「黒ではなく青く見えた」と返答していた。

 そこで、覚えてほしいのは、
「イスラムの国旗には青は出てこない」という
原則だ。例外は、マレーシアのみ。

 ほかには、北京政府に反旗を翻している
「東トルキスタン(新疆ウィグル)独立運動」
の旗は、中国の国旗と判然とした差を示して
白地に青で三日月と星である。

 さて、イスラムの国旗の共通点は
あと2つある。

@ 緑白赤黒の4色、これは
初期の4人のカリフを
象徴しているものであり、
アフガニスタン、ヨルダン、
アラブ首長国連邦、クエート、
シリア、スーダン、
パレスチナ、西サハラなどいろいろある。

A 三日月と星もイスラムの国旗に共通だ。
トルコ、アルジェリア、チュニジア、
パキスタン、西サハラ、旧エジプト、
そして王政時代のリビアなどの国旗だ。

 だから、何度も言うように、
今、リビアで反政府側が掲げているのは
カダフィが政権を握る前の
王政の国旗なのだ。その点は、記事は正しい。

 ただ、それを三色旗とは言わないのだ。

 三色旗の典型はフランスのトリコロール。
リビアの王政時代の国旗は「イスラムの4色」で、
中央に白い「三日月と星」のついたもの。

 朝日の写真は撮影する角度が悪く、
「三日月と星」がはっきりとわからないが、
きっと入っていたに違いない。

「翻る三色旗」の見出しは、
少々無理、ないし無意味ではないだろうか。
戦陣訓起草者に訊くF [2011年02月23日(Wed)]











   こんな立派な軍律があるのに……

── 『戦陣訓』の成立当時の事情を伺いたく参上致しました。
白根 あれもずいぶんつけまわされましてね。出たのは確か昭和16年でしたね。日本の社会全体が戦時色になっていましたよ。確か1月でしたね。

── ええ、16年の1月8日付です。

    〔注〕昭和16年1月7日、東条陸相は、宮中に参内、天皇陛下に拝謁を仰付けられ、『戦陣訓』について上奏し、御裁可を仰ぎ、その翌8日、陸軍始観兵式に際し、「陸訓」第1号を以て、これを左のとほり全軍に示達し、戦陣道徳昂揚の資に供した。
<陸訓 第一号>
本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ
 昭和16年1月8日
               陸軍大臣 東条英機
       (中略)
  『戦陣訓』は、ただ前線の将兵のみならず、内地に在る現役軍人及び在郷軍人をはじめ、銃後の一般国民にも甚だ肝要なる訓練資料である。特に、やがて皇軍の軍籍に入り、興亜の聖業完遂の大任を負へる後継者たる青少年には、心魂の底まで、この教訓を感銘せしめ、これによって、皇国臣民の人格を築き上げることが必要であろうと思ふ。
<三浦藤作『戦陣訓精解』東洋図書(昭和16年4月20日刊)、1〜2頁>

『戦陣訓』の公布後も「対上官犯」は根絶しがたく、陸軍省は昭和17年12月19日、同犯根絶を図るべく、
@上級指揮官の指導監督及び処断の強化、A下級幹部の能力向上、B在郷軍人の軍紀風紀の緊縮、C私的制裁の根絶、D酒害対策、E「年令年次ノ著シク異ナル兵ヲ混合シテ軍隊ヲ編成スルハ成ルヘク避クヘキコト」など、具体的に示した通牒を発した。

  『戦陣訓』の全文は約3千字。序文、本訓其の1(第1皇国、第2皇軍、第3軍紀、第4団結、第5協同、第6攻撃精神、第7必勝の信念)、本訓其の2(第1敬神、第2孝道、第3敬礼挙措、第4戦友道、第5率先躬行、第6責任、第7死生観、第8名を惜しむ、第9質実剛健、第10清廉潔白)、本訓其の3(第1戦陣の戒、第2戦陣の嗜)、結び、の大別して20項目で成立っている。「生キテ虜囚ノ……」は、本訓其の2の第8にあたる。

白根 そうでしたね。16、17年頃は僕はジャーナリストに追いかけまわされた時でしたよ。

── どこにお住まいでしたか?

白根 ここ(杉並区西永福)です。まだまだ元気でしたからね。もう齢80近くなって、ようやくここしばらく、この問題について訪ねて来る人は途絶えていたのです。それが最近またちょいちょい復活してきましたね。

── 申し訳ございません(笑)。

白根 いや、こうして生きている以上は、自分でお役に立つことがあれば、後の世代の人に伝えることも重要ですからお会いしているのです。

── 当時つけまわされたというのは、どういう意味ですか。

白根 新聞記者の常ですからね。本能ですから……。内面をさぐろうさぐろうとしていたんですね。ところが真相とか裏面となると人を傷つけ、自らも傷つくわけですから、なかなか話せるものじゃないですよ。その後しばらく途絶え、それから1、2度ありましたかねえ。

── 戦後ですか?

白根 ええ、昭和23年以後ですね。

── しかし、戦後いろいろあったというのは、主として、「生キテ虜囚ノ……」に焦点を合わせ、ああいうものをつくったのが「いけない」と考えている人が調べようとしていたのではないですか。

白根 いや、そういうことはありません。そういうことで反対をするためにやってきたということはないです。新聞や週刊誌では始終反対されていましたが、そういうことを真正面から責めるなんてありません。むしろ、あべこべですよ。
(つづく)
村おこしの現況 [2011年02月23日(Wed)]


        


   剪画は、日本剪画協会の石田良介会長の作。禁無断転載。






 いただいた年賀状、約1200枚を整理しています。

 これは、
財団法人日本青年館の山本信也総務部長から
のもの。 

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

体育の日、帰省した折に誘われて、
とある地域の運動会に参加しました。

会場は佛の里・国東半島の谷あいにある
廃校になった小学校です。

52回目となるこの運動会は、
地区公民館の主催で
4地区の対抗で行われます。

参加して驚いたことが三つありました。

まず第一は、企画・運営・出場者の
平均年齢が何と70歳というのです。

テント張りから、ライン引き、審判、
そして競技の実況放送まで何でもやります。

二つ目は、プログラムに
すべての住民の名前がエントリーされているのです。

かなり議論もあったようですが、
入院中の方から寝たきりの方まで、すべて。

三つ目は、一所懸命に運動会を
楽しんでいる姿です。

公民館で火災発生との有線放送も
何のその、
若い?消防団員は現場に向かい、
残ったみんなは嬉々として
競技に熱中しているのです。

温かい人間関係と、
地域をみんなで守っていくんだという思いを
目の当たりにし、
きちんと手入れされた
周囲の田畑を見て、
さもありなんと会場を後にしました。

  ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 実に光景が見えるようです。

 日本全体の象徴のような地域なのかも。
霧島温泉、ただいま営業中 [2011年02月23日(Wed)]






































まずもって、鹿児島両県境のみなさまに、
衷心よりお見舞い申し上げます。

 私が硫黄温泉・霧島ホテルに泊まったのは
2月6日。龍馬とお龍が日本初の新婚旅行で
宿泊した昔からの宿だそうです。

 ところが、前々日のNHKニュースで、
「相次ぐキャンセルで困惑する霧島温泉」
というのをやっていたのです。

「きょうのお客様はみなさま4人だけです」と
あるホテルのご主人が話していた姿が
印象的でした。、

 これは気の毒だと思った私は、
即座に、予約している霧島ホテルに電話しました。

「今、NHKニュースで知ったんですが、
霧島温泉では、キャンセル続きで大変なようで」

「はい、少しずつ増えてます」

「私、あさって予約している吹浦と申しますが、
キャンセルはしませんからね。頑張ってください」

「はぁ、ありがとうございます。こういう電話で
激励のあったことを
明日の朝礼で話させてもらいます」。

 で、2日後、実際に宿泊したところ、
その霧島ホテルもがら空きでした。

 部屋に着くや係のお姐さんに、少々、
泣かれてしまいました。

「お客様ですか、一昨日お電話くださったのは。
ありがとうございます。なにぶんあの放送のあと、
キャンセルが集中しまして・・・」。

あとからフロントで聞いたところでは、
103室のこのホテルでキャンセルが急増し、
3000人もに達したそうです。

「あの放送は酷いです。あれで一気に団体さんが
消えました」。

 きっとNHKに抗議が集中したんでしょうね。
それから2日後、NHKは同じ映像を流しつつ、
「それでも風向きが反対の霧島温泉は
平常どおり営業しています」と付け加えていました。

 公共放送のありかたまで考えてしまいました。

 みなさん、宮崎や鹿児島の温泉郷はいいですよ。

 私は「貧者の一灯」を市役所の人に渡してきましたが、
そんなことよりも、どんどん訪問し、宿泊することが
大事です。それが一番の支援になるのです。

 行きの日本航空機など、心なしか、
わざわざ火口寄りを飛んで、激しい噴火を繰り返す
新燃岳を見せてくれました。

 このホテル、寛永元年にはあったようです。
近代でも、犬養健、若槻禮次郎、高橋是清といった政治家、
与謝野鉄幹・晶子夫妻、
藤田嗣治、野口雨情といった文化人も宿泊したとあります。

3代ほど前の
ご主人が植えたという、裏庭の杉木立が最高です。

 また、ふんだんの湯を「かけ流し」で
使っているのです。プールのような超大型の
岩風呂もあります。

 今、予約したら、絶対歓迎されますよ。
私がそうでしたから。いや、特別なことをして
もらったのではありません。

 そのプールのような超大型の岩風呂を
独占して、大声で数曲、歌ってこれたのです。

 よく響かないわけがないでしょう。
名歌手になった、最高の気分でした。
北方領土と桜島 [2011年02月23日(Wed)]





   鹿児島と桜島間は4キロ、納沙布岬と貝殻島間は3.7キロです。写真は、城山から桜島を臨む光景。





 2月6日、私は新燃岳の火口から南西5キロの
霧島ホテルに泊めていただきました。

 前々日は桜島ふるさと温泉旅館でしたが、
ここは火口からわずか2キロのようです。

 チェックイン直後に震度3程度の地震があり、
少々慌てましたが、いいお湯に浸かり、
ご機嫌で一杯、もとい数杯やってぐっすり寝ました。

 この話を鹿児島の人たちにいくら話しても、
みなさん、「もう分かってるよ」と
乗ってくれません。

 もう一つ驚いたのは、
鹿児島の斯界の悪さです。

「なんだこれは」というくらい、降灰で
先が見えないのです。

 ところがこれも、「生まれたときから
こうだった」ので、異に解さないのです。

 北方領土の講演についてはみなさん、
大いに関心を持ってくださいました。

 なんといっても、「奄美大島の復帰を
成し遂げた県ですから」であり、私が
「納沙布岬と貝殻島(歯舞群島の1つ)の距離は、
鹿児島と桜島の距離よりも近いんです」と
言ったのが、実感になったようでした。

手の届きそうな距離、
フェリーでわずか15分のところに
桜島があるのです。

「みなさん、桜島をソ連軍が
占拠したと思ってください」
にわかに緊張が走ったのが、
演壇からわかりました。
焼け出されたビルマ難民学生への支援 [2011年02月23日(Wed)]










 小欄で、
ビルマ難民でアパート全焼のため焼け出された
アウン・タンテイさん(明治大学への特待生入学決定者)
への緊急支援をお願いしたところ、
みなさまから
即座に173万円もが寄せられました。

 去る19日、
社会福祉法人さぽうと21(不肖吹浦が理事長)の
高橋敬子事務局長から50万円を
現金でお渡しいたしました。

 状況によっては今後ともアウンさんへの支援を
続けますが、残余の醵金はとりあえず、
特別会計として積み立て、
今後、同様の状況に陥ったケースに付き、
熟慮英断して支援するようにしたいと思います。

 ご了承のほどをお願いいたします。

アウンさんからは当日のお礼の言葉とともに、
「私と私の家族のため、とても役に立ちました。
本当にありがとうございます。
しっかり勉学に励みます」
とのメールをいただきました。
リビア報道、産経vs朝日 [2011年02月23日(Wed)]





          産経新聞








     朝日新聞






 私は自宅では朝日新聞と産経新聞を
読んでいる。以前は、もっといいろいろ読んでいたが、
今はとても時間がない。

 それと読売の朝日化、
朝日の読売化に見られるように、
新聞購読全体のパイが小さくなりつつある中で、
ライバル紙の読者を奪おうとする「たくらみ」が
見えて、各新聞の個性が減ってきている
ような気がするので、朝は、この2つで
私には必要にして十分だ。

 ところで、今朝の2紙を見て、
あれあれ朝日さん、これはと思ったことが
ある。

2面トップの写真説明。
「リビア東部の港町トブルクで20日、
建物に上がって巨大な旗を掲げる反政府デモの
参加者たち」(ロイター)とある。

 他方、産経は同じく2面で
「リビア第2の都市ベンガジで21日、
戦車の上で、カダフィ大佐が
クーデターを起こす前の
王政期に使われていた旗を掲げる市民」
(AP)という説明を付けている。

 朝日の国際部か校閲部に私がいたら、
産経のような「えとき」をする。

 ちなみにこの旗は1951年12月、
対イタリア抵抗運動の指導者だった
ムハンマド・イドーリス首長を
国王に独立した当時の国旗で、
1969年にカダフィ大佐らによる革命で
倒されるまでの国旗だったもの。

 反政府グループがどの旗を掲げるかは
さまざまな意味を持っているはずだ。

 イドーリスの「王子」が健在であり、
あるいは、その人がポスト・カダフィの
「顔」になる可能性もある。

 そうした点に関心が向かず
、旗の大きさのみ報道するのなら、
「天下の朝日」にも少々、問題ありではないか。