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プーチンさんとブーチンさん [2011年02月28日(Mon)]









 ロシアのブーチンさんと会った。

 もう一度、書く。
プーチン首相ではなく、
ブーチン駐日公使、
ウラジーミル・プーチン首相ではなく、
セルゲイ・ブーチンさんだ。

 前任のオベチコ公使が
モスクワに戻った後任だ。

 プーチン首相が頭角を表す前に、
ブーチンさんに会っているが、
すっかり忘れていた。

 用事は3つ。

 わがユーラシア21研究所が
3月21、22の両日、
日本財団ビルで開催する
「日露専門家対話」の概要を説明し、
開会式でのミハイル・ベールイ大使の挨拶、
21日(?)のレセプションの開催、
会議へのオブザーバーの参加である。

 プーチンではなくブーチン公使は
基本的に了解し、大使の最終判断を得て、
28日中に返事をすると答えた。

 ロシアとの話は何でも時間がかかるのが
普通だが、
新潟総領事から転任してきた日本通だけあって、
なかなか行動が早い人と見た。

 返事の結果? 体調を崩している私が
早退したので、実はまだ分かっていない。

 ユーラシア21研究所のほうがロシア的?
早稲田ほかはおかしいのではないか [2011年02月28日(Mon)]










 京都大学でメールを使って
入試のカンニングをした受験生がいた
という事件、

 その前に早稲田や立教でも、
関西では同志社でも同様のことがあったとか。

 どうしてその時には騒ぎにならなかったんだろう?
郷隼人氏、朝日歌壇最多入選者 [2011年02月28日(Mon)]













 鍵持たぬ生活に慣れ 施錠さるる
生活に絶対慣れることはない

 20数年にわたりアメリカの獄舎にいる
郷 隼人氏の短歌が、
今朝の朝日新聞の朝日歌壇でも、
3人の選者に選ばれている。

 高野公彦、永田和宏、そして
馬場あき子の3選者である。

 永田は一席にこの歌を挙げ、
「郷氏、鍵を持たぬ生活には慣れても、
外から施錠される生活に
遂には慣れられぬと詠う。本欄には
郷氏を気遣う歌が
いつも多く寄せられている」と
「評」に記している。

 また、3席に挙げた馬場は、
「第3首の服役中の日常。鍵を持たされず
施錠の身は厳重という境涯の
悲しみをかみ締める思いがある」。

 おそらくは、郷氏は朝日歌壇で
最も入選した回数の多い歌人だろうと思う。

 このすばらしい感性を持つ模範囚を、
アメリカの法制度は仮釈放できないものかと
嘆じる。
ポスト菅は誰? [2011年02月28日(Mon)]











菅直人首相の政治的余命は
いくばくもない、というのが、
永田町周辺の「常識」となっている。

毎年、首相が交替というのは
対外関係を考えても、
なんともみっともなく情けない話だが、
それで得られる国益と失うものを比較すれば、
不等号の向きは自ずから明らかである。

では、菅さんによる破れかぶれの解散がないとすれば、
後継者の群像は以下の人たちか。

前原誠司外相、
野田佳彦財務相、
枝野幸男官房長官
原口一博前総務相、
玄葉光一郎国家戦略担当相、
岡田克也幹事長

  (以下、敬称略)

しかし、原口を除けばいずれも、
菅さんとは一蓮托生のはず。

 率直に言って、国民的な人気は
前原、原口か。

 しかし、いずれも未だ成熟度が不足と言う
印象が強い、

「イケメンの前原」という女性は多いが、
それで務まるなら、「私がとっくに」と
思うのは、不肖・吹浦以外にも大勢いるはず。

 にせメールにひっかかって代表を辞任したと言う
お粗末は依然、尾を引いている。仙谷の影もちらつく。

 原口は小沢べったりに舵を切り替えたことで、
党内の支持勢力を固めるのが難しい。

わが師であり、
原口にとっては同郷の末次一郎に心酔し、
その写真を議員会館に掲げている点は関心だ。

 前原も末次を見て、政治家への志を立てたと
先日も毎日新聞のインタビューで応えていた。

 野田は松下政経塾で一歩先んじてバッジを
つけたことで、40、50代の元塾生に
一目置かれているが、この人の
政治的な志は何なのか、いっこうに見てこない。

玄葉光一郎にはオーラが感じられない。しばらく、
力を蓄えてからでいいのではないか。

 岡田克也には親小沢グループが忌避するであろう。

 また、統一地方選挙で敗戦(するであろう)責任を
担わねばなるまい。

 枝野幸男は鳩山・菅の下で抜擢されて
目立つ存在になったが、まだまだ錬度が足りない。

 結論として、ポスト菅、いまのところ
本命なし。

 私は野田に注目はするが。
北方領土のロシア軍 [2011年02月27日(Sun)]




  択捉島単冠(ひとかっぷ)湾。
1941年11月末、ここに
31隻の連合艦隊が密かに集結し、
真珠湾に向かった。
 湾が深く、霧が多く、
住民が少なく、ハワイに近い・・・
といった[好条件」がそろっていた。
が、それは当時の話。






 北方領土を含む日本北東部につらなる島々を
ロシアではクリル列島と言う。

 ロシアのマカロフ軍参謀総長は、
そこに新たなタイプの駐留部隊を創設すると
明らかにしたのが一週間ほど前。

 メドベージェフ大統領の指示に沿って、
駐留部隊に新たな兵器を配備し
近代化を図るという。

 日本のメディアは
「北方四島の返還を求める日本側を
牽制した格好だ」と報じていたが、
小欄では話題にもしなかった。

 そこに、昨日は、同参謀総長が、
北方領土を含むクリル諸島に駐留する部隊の
装備を近代化する一方で、
兵員数を削減する方針を明らかにした、
と「インタファクス通信」が伝えた
というニュースが流れたる。

 時事通信によれば、
<同参謀総長は、今月末までに
メドベージェフ大統領に
クリール駐留部隊の装備近代化計画を
提出するとし、この中に
「兵員数の部分的な削減」が含まれると述べた。

 ただし、
「同時に行われる装備近代化によって
戦闘準備態勢は強化される」とも指摘した。

 同参謀総長は、
具体的な兵員削減幅は明らかにしなかったが、
クリルに現在ある五つの軍事小都市のうち
残るのは二つになる見込みとしている>。

 五つの軍事小都市が
どこを指すかは明らかではないが、
択捉島の天寧(てんねい)と
北千島の幌筵(ぱらむしる)か。

 私は3年ほど前に天寧を訪問したが、
軍事小都市というにはあまりにお粗末。
ハバロフスクの部隊の出張所ないし
出先の初任兵基礎訓練場と言う程度だった。

そもそもこの地域にロシアが
駐留部隊を置くべき軍事的な必要性は
全くない。そこを近代化したり、
強化しても何の意味もないことを
ロシアの軍事専門家なら
だれでも知っていること。

 早晩ロシア版「事業仕分け」に合うに違いない。

 費用対効率で考える人がロシアにだって必ずいる。

 日本側としては、勝手に躍らせておけばいい話。

 ただし、長期的にはきちんと領土の返還を
求め続けることなのはいうまでもない。
春の陽に誘われてB [2011年02月27日(Sun)]











































2月27陽撮影。ストックとキンカンの実です。東京・目黒で。
春の陽に誘われてA [2011年02月27日(Sun)]








































        ミモザ(フサアカシア)




 2月27日、東京の目黒・世田谷で撮影したものです。
春の陽に誘われて@ [2011年02月27日(Sun)]






























 春の陽に誘われて
目黒・世田谷方面を散策してきました。

春は名のみの・・・で日陰での風にはまだ
冷たさが残っていますが、
河津桜、ミモザ(フサアカシア)、ストック、キンカンの実
などと出会いました。

逃げる2月、来る3月、
晩冬というより、早春でしょうか。

わが60歳代は残り数日となりました。

でも、これからの日々、3月下旬の
「日露関係専門家対話(通算29回目)」を前に、
意欲が盛り上がる日々であろうと思うだけで
気分は爽快です。
リビア国旗の変遷と朝日新聞 [2011年02月27日(Sun)]







  2月26日付 朝日新聞朝刊1面









 カダフィが政権を握った1969年からの国旗







 1972年、アラブ共和国連邦となって国旗が改定された。





<img src="http://blog.canpan.info/fukiura/img/7752/125px-flag_of_libya_svg.png" border="0">




         


       1977年エジプトのサダト大統領がイスラエルを訪問すると
     発表したことに抗議し
     一夜にして変更した現在の国旗。





 朝日新聞は2月26日の朝刊で、初めて「カダフィ体制が始まるまで使われていた旧国旗を掲げて、町の解放を喜び会う市民たち」との「えとき」をつけた、「越田省吾撮影」という写真を1面トップに掲載した。

 この旗は1951年、英仏両国による国連信託統治の地位を離れ、1つの王国となって独立して以来、18年余にわたって国旗であったものである。

 その後は、カダフィに反対する在外抵抗運動のシンボルとして欧米で掲げられてきたという経緯もある。ここに何らかの気持ちを察することはできるはずではないか。

 このことだけで、ただちに「ポスト・カダフィ」は王政復古だというほど簡単ではない国内事情のある国ではあるが、反政府勢力の人たちが、「王政時代は思い出したくもない」ということではないのではないか。

 26日までは「巨大な旗」としか報じてこなかった朝日が、ようやく、「カダフィ体制が始まるまで使われていた旧国旗」としたのは1つの改善ではある。しかし、朝日しか読んでいない人には、これが王政時代の国旗あることを昨日まで知らされてこなかったのである。

 ここで、リビアの歴史と国旗の変遷を少し振り返ってみよう。

 リビアは古くはトルコの支配が長く続いたところであるが、1911年にトルコを破ったイタリアの植民地となり、第二次世界大戦までそれが続いた。

 その後、戦後は英国(トリポリタニア地方とキレナイカ地方)、フランス(フェザーン地方)に分割されて、国連信託統治領となった。

 1951年にこれらの3地域が統合され、イドリス国王のもとで1つの国「リビア連合王国」になった。

 現在、反政府側が振りかざしている旗は、このときの国旗であり、41年間に及ぶカダフィの独裁的統治下にあってはこれが抵抗運動の旗印とされてきた。

 もともとは、イスラム教の1グループであるサヌーシー教団のリーダー・サヌーシー家 の旗(黒地に三日月と星)に由来し、その上下にアマと緑の帯をつけて、イスラム教国共通の4色の旗としたものである。

1969年9月1日、イドリス国王がトルコを訪問中に、青年将校カダフィがその追放をはかり、無血革命に成功した。これによって国名は、リビア・アラブ共和国となり、国旗は赤白黒の横三色旗となった。

  1972年、汎アラブ主義が盛んに唱えられる中で、 リビアはエジプト・シリアとともにアラブ共和国連邦 を結成し、国旗を統一した。この旗はそれまでのリビア国旗の中央に、アラビア語で連邦の名を書いた巻物を持つ金色の鷲(クライシュ族の鷲)を描いたものであった。

 ところが、1977年3月8日、エジプトのサダト大統領が、11月11日からイスラエルを訪問すると発表、カダフィはただちに連邦を離脱、連邦は解体した。カダフィは、国名をリビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国と変更した。

 部下に命じで国旗の変更を検討させt、国旗は一夜にして、緑一色に変わった。緑は預言者ムハンマドのターバンの色ともマントの色ともされている聖なる色である。


 現在の国名の日本語表記は、「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」(外務省)。だた、、社会主義人民リビア・アラブ国と訳す場合もある。

 後者は2004年まで用いられたが、CIA Factbook の名称変更に伴い、ほとんどの場合、前者としている。この名称も、もし、カガフィ政権が倒れた場合には変更されるものと思われる。

 独立以来の国名を復習すると、

@1951年 〜 1963年 : リビア連合王国
A1963年 〜 1969年 : リビア王国
B1969年 〜 1977年 : リビア・アラブ共和国
C1977年 〜 2004年 : 社会主義人民リビア・アラブ国
D2004年 〜現在に至る : 大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国

であり、CDの時代は同じ緑一色の国旗で、他はそれぞれ違うデザインの旗を掲げていたのである。

 このまま反政府勢力が勝利すれば、また国旗が変更になるのは必定であろう。
戦陣訓の起草者に聞くI [2011年02月27日(Sun)]








白根 岩畔さんが陸軍大臣にこれを意見具申したら「お前がやればいいじゃないか」といわれたそうですが、結局、これは軍人教育の問題ですから教育総監部(注・山田乙三総監、今村均本部長)でやれ、ということになり、陸軍大臣から総監に話があって適当な人捜しをやったんですね。

  〔注〕(教育総監部本部長に)就任して間もないある日、部下の課長後藤大佐(光蔵、浦辺の遺稿集の序文を執筆、当時少尉──吹浦注)から次のことを報告された。

「岩畔軍事課長(後の少将)が支那の各方面戦線を視察した後、東条陸軍大臣に対し、『明治大帝より下賜された勅諭の5ヶ条を軍人精神の根拠とすべきことは永久に変えてはなりませんが、実状に照して戦地の異常環境に即応する具体的教訓を示す必要のあることを痛感しました』と報告いたしましたところ『すぐそれを起案して提出せよ』と指令され、軍事課を中心として幾人かの起案委員を設け、手をつけては見ましたもののなかなかはかどらず、結局“こういう教訓書の起案は教育総監部に依嘱すべきだ”ということになり、こちらに交渉してまいりました。
戦陣に於ける教訓といえば出征軍人軍隊に対するものであり、多年総監部が主張しております“出征部隊の軍隊教育こそ、当然当部の関与すべきものである”の懸案をこの際解決するために、右の起案に着手してはいかがでしょう」
<今村均『続・一軍人六十年の哀歓』芙蓉書房、165頁>

 そして専任には浦辺少佐がいいということになりました。浦辺という人は軍人の中でもめずらしく文学のわかる青年将校でした。
そして彼が主任に任命されまして、人集めにかかったわけです。
当時はもちろん『戦陣訓』などという名前はありません。
『軍人に賜りたる勅語』があるし、その一部の面だけを謳歌するようなものをつくる必要はない、という意見も相当強くて、喧喧囂囂、随分、議論をやりました。
それが「1、軍人は忠節を尽すを本分とすべし」では余り抽象的で実践訓にならないではないか、もう少し具体的にとらえてはどうか、というところに落ち着いたわけです。

  〔注〕「陸海軍人に賜った勅諭、または典範令において軍人精神・戦闘訓練等総ては尽されてゐるが、一兵士の心掛けとして一層具体的に親切に説明する必要のあることを思ひ慎重に研究した。『戦陣訓』の題は教育総監部が主体となって練り定めたもので、文中の国体観等は相当の学者が参与したのである」
<『戦陣訓』制定に関する東条陸相の談、昭和16年1月8日付『東京日日新聞』>

   関東軍と京都師団の石原莞爾中将とがその不要論を力説したが、支那総軍は急速な公布を希望してきた。
<今村『続・一軍人六十年の哀歓』芙蓉書房、166頁>

  『戦陣訓』は「結」のところで「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。さればこれを戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず」と述べ、その由来と根拠を明確に規定しているけれども、公布当初から、たとえば石原莞爾のように勅諭のほかにそのような屋上屋を重ねるが如きものは不要である、と主張し、配布を拒否した者もいた。
<大原康男(國學院大学助教授)『帝国海軍の光と影── 一つの日本文化論として』日本教文社、248頁>
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