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2010年、2011年、2012年D [2010年12月31日(Fri)]
 



      

 朝鮮半島で惹起した戦争に
国連軍を派遣する決議に 
拒否権を使わなかった
こと、サンフランシスコ講和条
約に  参加しなったこと・・・
ソ連の外交には、いくつかの
いまだ解明されていない行動がある。
          






 2011年の50年前、
1961年はアメリカと革命キューバの対立が
厳しくなった年だった。

 さらに、60年前の1951年は
前年11月に中国との国境まで迫った
国連軍が、林彪率いる「中共義勇軍」の
介入に遭い、
1月4日に北朝鮮・中共軍が再び
ソウルを奪うという苦戦の中での
正月だった。

 この年、日本にとっては
サンフランシスコ講和条約の年である。

 この条約で、日本は正式に南樺太、
千島列島を放棄したが、
帰属先は未定であり、
ソ連はこの条約に署名すらしなかった。

 日本の立場は、放棄した千島列島に、
日本固有の領土であり、
一度も他国の支配下になったことのない
北方4島は含まれていないというものである。
(つづく)



秋田の人は少数精鋭? [2010年12月31日(Fri)]








先に小欄で取り上げたように、 
愛知県が交通事故数で最悪だったのを
今年一挙にワースト5までになったのは
「不幸中の幸い」である。

しかし、
わが故郷・秋田県には悲劇の数字が
依然、いろいろ残っている。

 脳梗塞、心筋梗塞、自殺率が
全国「最高水準」であるのに加え、
 2008年の統計で見ると、
一人当たり婚姻率(千人比)が4.1。
その結果、出生率も6.7。

 前者は9年連続、後者は14年連続で
全国の都道府県で最小。

 この少子化に高齢化が加わり、
故郷は「山と川の(み)ある町」に
なりそうだ。

 この「山と川のある町」は
石坂洋二郎が秋田県横手市をモデルに
書いた彼の代表作だが、
おそらくご本人も
まさかというほかない
秋田県の人口減少ぶりではないだろうか。

 このままでは県が消滅しかねない。

 せめてもの希望は、「学力日本1」が
つづいていることだ。

 要するに、秋田で生き残っている人は
「少数精鋭」?
2010年、2011年、2012年C [2010年12月30日(Thu)]




  

  中華民国(台湾)の青天白日満地紅旗





1971年秋、
東パキスタン時代のダッカで
連日、BBCで聴いていたのが、
国連における中国の代表権問題。

 これより先、同年4月7日、
名古屋で開催された
世界卓球選手権に参加した中国代表が、
大会直後、アメリカチームを
中国に招待すると発表。

10日、アメリカチームが
北京に到着するという
「米中ピンポン外交」が注目されていた。

 7月9日、キッシンジャーが密使として
北京を訪問、米中関係は
一挙に転換し始めた。

 そして、未だゲリラ戦のさなか、
10月25日、東パキスタン南部の
ハチア島で私は、中国の国連代表権が
中華民国から中華人民共和国に変更され、
中華民国(台湾)は事実上、
国連から追放された。

 台湾はその後、ほとんどあらゆる
国際機関の席を失った。

 日本は民主主義と市場経済原理という
同じ価値観を持つ、南隣の国を
冷たく見放したというほかない。
            (つづく)
2010年、2011年、2012年B [2010年12月30日(Thu)]





 バングラデシュ(現在の国旗)。
 独立当時の国旗には中央に、
国土を黄色のシルエットにした
地図が描かれていた。





 2011年の40年前、
1971年3月26日、
東パキスタンがバングラデシュとしての
独立を宣言、パキスタンによる
武力制圧が始まった。

9月、国際赤十字の駐在代表として
私は現地入りした。

ムクティバヒニ(解放ゲリラ)の動きは
次第に激しくなり、
12月3日には第3次印パ戦争に発展、
2週間あまりの激しい戦闘の末、
パキスタン軍が降伏、
バングラデシュが建国された。

BANGLADESH COMES INTO BEING!
との見出しをつけた新聞が印象に残る。

歴史的瞬間に立ち会ったものとして、
以後、大切に保存した。
           (つづく)

デュナンとトルストイS [2010年12月30日(Thu)]





      トルストイ




 日露戦争とデュナン、トルストイ 

 1904(明治37)年2月、
日露両国が交戦状態に入るや、
トルストイはこの戦争を停止すべきことを
求めた論文の作成にかかり、
5月11日、ヤースナヤポリアーナの自邸で
脱稿、ただちにロンドンに発送、
6月27日付『ロンドン・タイムズ』は
約10段をその掲載に充てた。

『爾曹(じそう)、悔改めよ』(平民社訳)が
それである。

「今は爾曹(おまえたち)の時、且つ、
黒暗の勢ひなり」という
『ルカによる福音書』22章53を引いた
副題が付いていた。

 平民社に集う幸徳秋水、堺利彦らは
即刻これを翻訳、『平民新聞』で紹介し、
単行本として発表した。

「日露戦争はハーグの平和会議と矛盾せず
といへるムラヴィエフ氏及び
マルテンス博士の演説は
今人が如何に甚だしく演説と称する
思想伝播術を曲用し、
如何に多くの合理的の思索に欠けたるかを、
最も明確に、最も顕著に
表白したるものと云ふべし。

 曩(さき)の英杜(ボーア)戦争及び
今の日露戦争は
何時世界的大殺戮を惹起さんも
知れざる事なり。」
 と、トルストイはまず、
ハーグ平和会議の組織者であった
ムラヴィヨフ外相と同会議を指導した
国際法の権威マルテンスという二人の、
自国の要人を攻撃し、
以下、
平民社の解説によれば
「平和主義博愛主義の立脚地より
一般戦争の罪悪と惨害を説き
延びて露国を痛罵し日本を排撃する処、
筆法鋭利、論旨生動、勢ひ当る可らず。

 真に近時の大作雄篇にして、
一代の人心を驚醒するに足る者あり」
というトルストイ独特の論理を展開する。
             (つづく)

デュナンとトルストイR [2010年12月30日(Thu)]






  

   アンリ・デュナンと  トルストイ
   ともに1828年に生まれ、100年前の1910年に亡くなった。






 デュナンはこのあと、
会議と軍事問題一般についての
英、米、伊、仏、独、スイス各政府の態度について
若干の分析をしたあと、
生涯のテーマでもある
「戦争をより人道性(ヒューマニティ)の高いものに
することにより、よりなし難いものにしたいのです」
と述べ、次のように
この会議が本来最大の目的としていた
軍縮について触れ、この建言を締めくくっている。

「来たるべき20世紀においては、
列強の自己本位のわがままは通りにくくなり、
まるで中世の貴族のように礼節が尊ばれ、
エゴイズムが無法にも行なわれて来たようなことは
できなくなります。

 これまでのままでは、
戦場で生き残るということが
一層難しくなってきます。

 しかし、今日では、
相手国の軍需工場の増加が長くつづくなら、
生きることへの戦いは、
一層厳しいものとなり、
国家も国民も破滅以外の
何物も残らないことになりましょう。

 各国首脳が己の国民を圧迫し押しつぶす
軍備という重荷から解放し、
戦いの恐怖から解きほぐしてやる努力を
なされんことを祈っております。」

 デュナンはこのうように積極的に
ニコライ二世の万国平和会議招集を評価し、
この会議が少なくとも当初、
最大の目的としていた軍縮の達成を
大いに期待したのであった。

 トルストイとデュナンの平和への取組みは、
理想主義的平和論と現実主義的平和論として
対比することができよう。

 それぞれに限界や討議さるべき問題点はあり、
現実には、第ゼロ次世界大戦とも言うほどの
日露戦争が1904年に、
第一次世界大戦が1914年に、
第2次世界大戦が1939年に勃発し、
その終結した日から今日まで、
世界で戦争や武力衝突のなかった日はない
というのが、悲しいかな歴史的事実なのである。

 そしてその一方で、人類は常に、戦争を抑制し、
軍備を縮小し、話し合いによる紛争の解決を
はかってきているのでもある。

 デュンンとトルストイ、
人類発展の最大の妨げの一つとなり、
人類破滅の最大の危機に直面している中で、
軍備の縮小・廃絶と平和の維持・拡大に向けて、
大いに比較・検討されるべき
二人の好対照な二論を21世紀の今、
せめて新年を迎えようとしている時期に
振り返ってもいいのではあるまいか。
           (つづく)
2010年、2011年、2012年 [2010年12月30日(Thu)]











 2011年の10年目、
2001年は「9.11事件」の年。
21世紀が動じ多発テロであけたことは
人類の不幸だった。

 このあと、イラク、アフガニスタンと
戦火が拡大した。

20年前の1991年には
ソ連が崩壊した。「西側」勝利による
冷戦の完全なる解消だった。

 30年前、1981年は米国でレーガンが
第40代目の大統領に就任、
フランスではミッテランが
ジスカールデスタンを制して
大統領に就任した。

 日本では?
 中国残留孤児が初来日、
同世代に私は、強烈な悲しさに
胸がふさがれる思いだった。

 鈴木善幸首相が誕生し、
「あいつで務まるならオレも」と
二階堂進、宇野宗佑両衆議院議員が
冗談めかしてつぶやくのを訊いた。

6月17日、沖縄返還協定が調印され、
その承認をめぐって秋の「沖縄国会」は
大荒れに荒れた。

 宇野はその後、組閣したが、短命だった。

 あれからもう30年の年月が
経つ。
      (つづく)
対露外交、日本の体制 [2010年12月29日(Wed)]




  メドヴェ−ジェフ大統領。この後ろに
 最大の実力者プーチン首相がいる。




政府筋によれば、
前原誠司外相は27日、
来年1月にも
上月(こうづき)豊久ボストン総領事を
欧州局審議官に起用することになった。

上月氏は、
ロシア課長、駐ロシア公使を
歴任し、今年8月に現職に
就任したばかりで
異例の短期間での交代となる。

 小欄では8月に、対露外交のラインに
ロシアンスクールが一人しかいなくなった
ことを指摘したが、これで
原田親仁駐露大使に
小寺次郎欧州局長、そして
上月欧州局審議官となり、
形の上では少しそろってきたように
見える。

「ロシア外交立て直しに向けた
態勢強化の一環とみられる」
という解釈が普通であろう。

しかし、多年、この3人の動きを
見てきた者として
小欄は、必ずしもこれで万全とは思えない。

 日本の対露外交は
体制、人材、方針とも
まだまだ不十分である。

 いかにして、政、官、財、学、
北方領土返還運動関係者の
連携を強化するかが重要課題である。

 前原外相の
さらなる熟慮、英断に期待したい。
2010年、2011年、2012年 [2010年12月29日(Wed)]




  挿画は石田良助がはくのご厚意によって
  掲載しているものです。







 2010年がまもなく終わる。
今年は、日韓併合100年、
日米安保改定50周年などの年で
多くの関連行事が行われ、
私もいくつかに参加させていただいた。

 小欄では、
あちょうど100年前の1910年に
亡くなった人、すなわち、
アンリー・デュナン、レフ・トルストイ、
そしてフローレンス・ナイチンゲール
について連載しているが、きょうは、
もう、来年を考えていいかと思う。

 まずは、50年前、1961年。
前年の安保改定での反米機運が、
ケネディ大統領の就任演説と
ライシャワー教授の大使としての
来日で、大きく変化した。

さて、2011年の100年前
1911年、のこと。

 世界的には、
辛亥革命が大ニュース。
「眠れる大国」清国が、壊滅した。

 日本では大逆事件の年として
知られるが、国際的には、
日米通商航海新条約が締結され、
不平等条約が解消した。

 スポーツ分野では、レルヒが
新潟県高田の連隊で、スキーを初めて
指導した。

 さらにその100年前というと
ナポレオンの全盛期、
欧州が混乱している中で、
中南米諸国が相次いで独立を宣言、
1811年にはベネズエラが独立した。
          (つづく)
 
交通事故死茨城が第3位 [2010年12月29日(Wed)]






 北海道、東京に次ぎ、
交通事故死の第3位は茨城県。

友人の交通関係者に訊いた。

「人口比から言ったっておかしいですよね。
土浦ナンバ−には気をつけろ
と俗に言いますが、要は、
急な自動車保有数に
ガードレールなどの道路設備が
追いつかないことというハードと、
交通安全に対する
県民の意識向上が不十分ということでしょうね」。

年末年始、水戸街道、常磐高速を走る人、
鹿島神宮への初詣・・・
おのおの方、気をつけられよ、
が老生の願い。
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