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秋田で報道「大いなる秋田」 [2010年05月31日(Mon)]























 5月24日付秋田魁新報で、私もテナーの一員として出演した「大いなる秋田」東京公演のことが大きく報道されていました。

見出しは、「大いなる秋田」故郷へ響き届け 首都圏在住の県出身者ら、東京で演奏会

ご迷惑でしょうが、ご笑覧下さい。

記事は、まず1面で、こう報道しています。

  ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

 首都圏在住の県出身者らによる「大いなる秋田・東京公演」が23日、東京・杉並公会堂で開かれ、幅広い年代の165人が秋田の郷土色を表現した楽曲を披露した。武蔵野合唱団(東京)のメンバー約60人も参加。

会場は約千人の聴衆で埋まり、当初予定した楽曲が終了した後も拍手が鳴りやまず、「秀麗無比なる鳥海山よ」で始まる「県民歌」を組み込んだ「大いなる秋田」を再演。聴衆も一緒になって声高らかに歌い上げ、会場は一体となった。(小川顕)(関連記事29面に)

★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜
次に29面です。社会面のトップということです。

   ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

大いなる秋田・東京公演 古里への思い一つ 浮かぶ情景、感動の涙

 「一つになれた」「泣けた」−。東京・杉並公会堂で23日開かれた「大いなる秋田・東京公演」。

首都圏在住の本県出身者ら165人が古里に対する熱い思いを胸にステージに立ち、約千人の聴衆で満員となった会場は、大きな感動と一体感に包まれた。
 
 演奏されたのは石井歓作曲の「大いなる秋田」のほか、秋田市出身の天野正道さん作曲「交響組曲第7番『BR』より」、大仙市出身の後藤洋さん作曲「輝く日への前奏曲」の計3曲。

 息の合った演奏と合唱。最も盛り上がったのは「大いなる秋田」だった。

武蔵野合唱団も加わって声高らかに始まると、会場には涙を浮かべる人も。「鳥海山や田園風景などが目に浮かんできて、胸が熱くなった」。八王子市の原幸子さん(70)=湯沢市出身=は、約50年前に見た古里の情景がよみがえったという。

 予定していた楽曲が終わっても、拍手が鳴りやまない。アンコールに応えて「大いなる秋田」が再演されると、観客も一緒に歌い会場が一つになった。

 昨年2月に企画が持ち上がってから1年余。実行委員長を務めた湯沢高吹奏楽部OBの倉田京弥さん(46)=都庁勤務=は「こんなに大勢の人が集まるとは思わなかった。離れていても、みんな古里を思う気持ちは強いんだと実感した。やってよかった」と、晴れやかな表情を見せた。

 都内の公民館などで12回の練習を重ねたメンバーたち。10〜70代の幅広い年代が集まった。中には約25年ぶりに楽器に触れたという人も。大阪や北海道、本県から駆け付けた参加者もいた。

 「秋田を愛する気持ちがあふれた」。秋田南高吹奏楽部OGでホルン奏者の村上奈々恵さん(25)=大阪府、同級生でトロンボーンを吹いた淀川恵梨さん(25)=東京都=は、練習時から「何回も泣きそうになった」という。

 「『大いなる秋田』は心に焼き付いている名曲」。ソプラノを歌った能代市出身の佐藤悦子さん(49)=川崎市=は、会場で涙を浮かべる年配者を見て、もらい泣きをこらえるのに必死だった。

 「東京で秋田の関係者がこんなに集まり、楽曲を公演するということ自体がすごい。うれしくなった」。友人2人で訪れた都内在住の三浦明子さん(23)、斉藤志保さん(22)=由利本荘市出身=は口をそろえた。「秋田の人たちは団結力がある。素晴らしいですね」。埼玉県所沢市から訪れた夫妻がうらやましそうに話した。(小川顕)
 
 ≪300人、東京と一体感/秋田市で生中継≫

 公演は、インターネット回線を利用して秋田市で生中継された。会場の秋田ビューホテルには約300人が訪れ、遠く離れた東京会場との一体感を味わった。

 生中継を企画したのは秋田市のIT関連会社「アイネックス」。鎌田良勝社長によると、当初は定員を100人とする予定だったが、予想を大幅に上回る申し込みがあったため、急きょ会場を変更した。「これも『大いなる秋田』という曲が持つ力だろう」と鎌田社長。

 集まった約300人は、大型スクリーンで熱演を鑑賞。アンコールの場面では、東京会場と一緒に合唱し、一体感を味わった。終了後は、大画面に映し出された東京会場に向かって、盛んに拍手を送っていた。

 秋田市新屋の30代の女性は「中学校の卒業式で『大いなる秋田』を歌ったので、当時の感動がよみがえった。東京会場と一体の感動を味わえた」と感激した様子。かつて湯沢市の女学校に通ったという秋田市の女性(81)は「第3楽章の県民歌は、女学校時代からの思い出の曲。素晴らしい演奏で心に染みた」と、しみじみ話した。

 秋田会場の実行委員長を務めた石黒寿佐夫・秋田スズキ社長は「インターネット回線を用いた中継には不安もあったが、遠く離れた2会場で感動を共有できた。大成功だ。今後も県民と県出身者が協力し、秋田のために活動を続けたい」と話していた。(嶋崎宏樹)
国旗と国家主権Eプレアヴィヒア [2010年05月31日(Mon)]






             プレアヴィヒア寺院



いうまでもなく、国旗は国の旗、国家を象徴する旗である。

各国はその主権の及ぶ範囲においては
自由に国旗を掲揚することができる。

また、主権が及んでいることを明示するために、
さまざまな手段で当該地域に国旗を掲揚することがある。

したがって、紛争地域に一方の国旗が掲揚されていることを
黙認することは、領有権の帰属を争う過程で
重大な齟齬をきたす場合がある。

タイとカンボジアが領有を争ったプレア・ビヒアPreah Vihear寺院と
その周辺地域の帰属に関して、
これを見てみたい。

『国際関係法辞典』(国際法学会編、三省堂)によれば、
1904年にシャム(現在のタイ)と
現在のインドシナ3国を支配していたフランスとの条約で、
国境は分水嶺に従うこと(第1条)、
両国間に設置される合同委員会により
国境の画定が行われるべきこと(第3条)が決められ、
同委員会は1907年に作業を終え、
その結果に基づき当該地域はカンボジア側に位置するとする
地図作成した。

この地図はフランス当局が作成したものだが、
シャム政府の要請に基づき、シャム側に提示し、
翌年、これを公刊した。

一方、シャムは1934~35年にこの地域を調査し、
国境線と分水嶺の不一致を発見した。このため、
第2次世界大戦後、タイ(注12)は警備兵を派遣して
当該地域を支配するようになった。

紆余曲折は省略するが、結局、
ICJの審理にゆだねられることとなり、
1962年6月15日、ICJは判決を下した。

それによれば、タイは地図作成当時から合理的な期間内に
これに明示的なクレームをつけなかったし、
疑義を唱えなかったことは、
タイがこの地図を受け入れなかったというには無理があるとして、
ICJは当該地域がカンボジアの領有に帰するとの判決を下した。

その際、注目すべきは、判決に以下の文面を含むことである。

「ここでもっとも重要視しなければならないのは、
1930年に、タイのダムロン殿下がタイ国王の許可を得て
公式に寺院を訪問した事実である。

殿下は、プレア・ビヒアで、フランス国旗の下で
カンボジア駐在フランス弁理公使の公式接待をうけた。

殿下はこうした性質の接待の意義を
理解できなかったはずはない。

フランス領インドシナ側に権原があるということの
これより明白な確認は他に考え得られない。

この事実は抗議とか外交行動とかの反応を必要とした。

タイは何も行わなかった。(中略)一連の事実を観察すれば、
明白に対立する主張に直面して、権利を確認し、
または確保するために、ある反応が必要とされる場合に、
何らの反応も示さなかったということによって、
プレア・ビヒアに対するカンボジアの主張を、
タイが黙示的に承認 tacit recognition したという
結果になると考える」。

 このように国旗の掲揚に異議を唱えなったことが、
その国旗の示す国の主権を認知したとみなされることに
なったのである。
(tuduku
)
マカロンとマカロニ [2010年05月30日(Sun)]













 マカロン macaron というフランス風の
小さなお菓子をいただきました。

 甘いものは原則として食べない私でも
これは美味いと思いました。

 自由が丘駅前のデロワイヨというところのが評判とか。

 ただ、どなたか教えていただけませんか。

 このマカロンとマカロニとの関係を。

 マカロニハ、イタリア語では
マッケローニ maccheroni(単数形はmaccherone)、 
英語では、macaroni。これが日本に入って、
マッケローニではなくマカロニとなったと、
ものの本にはあります。

 語源的に同じように思うのですが、
マカロンとマカロニはなぜ、こんなにもちがうものなのか。

 どなたかご教示ください。

 考え出すと眠れなくなります。
鳩山さん、総理の職は無理ですよ [2010年05月30日(Sun)]











        





「国旗と国家主権」と題して小欄は拓殖大学海外事情研究所の
求めに応じて、同研究所の
月刊学術雑誌「海外事情」5月号に書いた論文を転載している。

  但し、煩雑を避けるため、20以上ある(注)を一切削除した。
全文を必要としている方はお申し出いただければ対応したい。

  それはそうと、そんな中で、5月27日に東京・平河町の
都道府県会館で開催された全国知事会議で
石原慎太郎東京都知事の常識的な質問に、
国家観と安全保障についての基本認識を欠いている
鳩山由紀夫首相は、とんでもない「失言(暴言)」を吐いた。

  石原知事は尖閣諸島についてその防衛に関する米国の
消極性を指摘した上で「日本の領土を守らないなら、
何のため沖縄に膨大な基地を構えるのか。抑止力を
現政府がアメリカに問いたださない限り、
訓練分散を論じる足場がない」
と発言した。

  これに対し、鳩山首相は「日中間で衝突があったとき、
アメリカは安保条約の立場で行動する。しかし
(尖閣諸島の)帰属問題は
日中当事者同士で議論して結論を出す、
と私は理解をしている」と答えた。

「日中間で尖閣諸島の帰属を協議しようって、
こんなバカをいう総理いるのか?
正式に(米国から)返還されたんだ。ばかな
会合だよ。ナンセンス!」。

   報道によると石原都知事は
そう言い残して途中退場したとのこと。

 政治家としての見識と役者の違いを感じる。

  岡田外相以下がここ数日、
そのフォローで苦労しているようだが、
こういうお粗末な首相には、
即刻お辞めいただくほかない。

  このままでは日本が危ない。
国旗と国家主権D 尖閣 [2010年05月30日(Sun)]




                    







琉球政府はその後、警備を強化し、
外国船の接近にあたっては退去を命ずる等を実施していた。

そうした中にあって、台湾側は警備網をかいくぐって
同島に侵入し、同国の国旗である「青天白日旗」を掲揚した。

実際の掲揚日時は不明だが、
当時のメディアに報じられた国旗の損傷状況から推察するに
1970年夏以降ではないかと思われる。

同年9月には琉球政府が「青天白日旗」を撤去し、
これを米国側に引き渡した。

1971年6月に台湾政府が領有権を主張し、
同年12月には中国政府もまた領有権を主張した。

戦前においては埼玉県に本籍を置く古賀家が
漁獲、水産加工、アホウドリの採取などの事業を行い、
戦後の一時期まで事業を継続し、また、
その後は沖縄全体を占領していた米軍が
射爆場として使用するなどしていたが、
台湾や中国からの抗議は一度もなかった。

1978年5月11日、「大日本赤誠会」のメンバーが
魚釣島に強行上陸し、
戦後初めて、同島に日章旗(「日の丸」)を掲揚した。

同年8月12日、政治団体「日本青年社」が魚釣島に
灯台を建設、「日の丸」を掲げた。

その後、灯台は厳しい気候に対応できず崩壊したと
見られている。しかし、同政治団体は、1996年再びこれを建設し、
その一部に「日の丸」を描き、
日本政府に対し海図への記載を求め、実行された。

1996年10月、台湾と香港の活動家等が提携し、
小型船41隻に分乗して尖閣諸島周辺の領海内に侵入、
内 4人が魚釣島に上陸し、
「青天白日旗」を振りかざすなどをした。

一方、1997年5月6日、新進党(当時)所属の
西村眞悟衆議院議員が国会議員として初めて魚釣島に上陸し、
「日の丸」を振りかざした。

その直後に「青天白日旗」を掲げる30隻の台湾抗議船が
周辺水域に接近、海上保安庁(以下、海保)の警告を無視して、
内3隻が日本の領海内に侵入した。

1998年6月には、再び香港と台湾から
計6隻の抗議船が同諸島周辺の領海に接近した。

海保が厳重に警備する中、
香港からの抗議船「釣魚台号」ほか1隻が
領海内に侵入、同船から降ろされたゴムボートが
魚釣島に向かいさらに接近するも、海保によって排除された。

その際、釣魚台号が理由不明のまま浸水し、
乗員は僚船および海保の巡視船に救助されたが、
同号の船体は日本側が
応急的漏水防止措置を施したもののかなわず、沈没した。

2001年5月、今度は「建国義勇軍」と名乗る日本の
「日本人の会」のメンバーが同島に上陸、
「日の丸」を振りかざすなどした。

2004年3月24日、中国人活動家7名がまたも
海保警備陣の隙を突き魚釣島に上陸した。

海保は沖縄県警察本部と協力、
出入国管理並びに難民認定法違反の疑いで現行犯逮捕した。

さらに、2007年10月28日、中国の
「保釣行動委員会」なる団体に属する抗議船が
尖閣諸島の領海に侵入、海保の警告で退出した。

こうしたトラブルは
基本的に一部の民間有志の行動に過ぎなかったが、
2008年12月8日には、
中国の国家機関である海洋局所属の海洋調査船2隻が
尖閣諸島付近の領海内に侵入し、
これを当然の行為であると説明した。

こうした行為が行われる場合、
尖閣諸島の領有を示威する手段として
いずれの側も国旗を用いている。
                              (つづく)
国旗と国家主権C 尖閣諸島 [2010年05月30日(Sun)]




     尖閣諸島最大の魚釣島(ウィキペディアより)




尖閣諸島については、
日本が実効支配しているにも関わらず、
中華民国(以下、台湾)と中華人民共和国(以下、中国)が
領有権を主張している。

筆者は尖閣列島がわが国固有の領土であると断言するが、
小論は、同諸島そのものの帰属を論ずる場ではないので、
同諸島での国旗の掲揚と領有権の誇示に
限定して若干論じてみたい。

1969年5月、琉球政府の命により石垣市が
尖閣諸島の魚釣島に同市の区域であることを明示した標杭を
設置した。

これは前年10月12日から翌月29日まで、
日本、台湾、大韓民国の海洋専門家が
国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の下に
東シナ海一帯を学術調査した結果、
「東シナ海の大陸棚には、石油資源が
埋蔵されている可能性がある」との指摘がなされたことに基づき、
紛争を防止するための手段の1つとして、
日本政府が琉球政府に働きかけた結果であった。

調査は1969年から翌年にかけても実施され、
推定1095億バレルという巨大な石油埋蔵量の可能性が報告され、
この水域がにわかに国際的な注目を集めた。

台湾はガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与え、
同諸島に「青天白日満地紅旗(以下、青天白日旗)」を掲揚し、
その写真を各国に配信した。

日本政府がこれに抗議したのが、
同諸島と国旗を巡る最初のトラブルである。

                              (つづく)

国旗と国家主権B 竹島 [2010年05月30日(Sun)]



    

   竹島。右が男島、左が女島。韓国側が撮影した写真。





当該領域の岩肌に直接、国旗を描いたり、
建造物の壁面や屋上などに
国旗をペインティングして表示するという行為もまた
先占や領有権を明示する手段として、
しばしば用いられる。

韓国は、1980年代の初めころ、竹島の頂上部に
コンクリートを敷き、
そこに韓国の国旗である「大極旗」を描くということにより、
同島を現実的に実行支配していることを
内外にアピールしたのであった。

また、国旗掲揚などにより先占を表示するという手段は、
当初は探検や調査といった形で
他国に妨げられることなく行われるのが常であったが、
領有権の帰趨が複雑で関係国の主張が
鋭角的に対立する場合、
しばしば威力的ないし強硬手段で実施されることがある。

以下に、尖閣諸島について実態を概述する。
                            (つづく)
国旗と国家主権A 北方領土 [2010年05月30日(Sun)]





    色丹島から国後島を臨む。







一定の領域(船舶や航空機を含む)を
自国の領土(特別な法的資格を持つ区域)であるということを
明示して先占を行うため、
当該領域のしかるべき位置に国旗を掲揚することは
重要な一手段である。

但し、一度国旗を掲揚すれば、
それだけで先占をなし得たということにはならない。

継続的にその国旗が掲揚され、
管理されるといった実効支配が明らかでなくては、
先占しえたことにはならないからだ。

特に、国旗の場合は布製であり容易に破損することから
しばしばこれに代わる恒久的素材による
標杭、標示板の設置といった行為が行われる。

これはまた国旗掲揚と同様に、先占を示す一手段であり、
国旗が制定される以前にあっては、
むしろ標杭や標示板の設置が一般的であった。

わが国の例でいうならば1798年、
択捉島領有の意図をもつロシアに対抗し、
幕臣で松前蝦夷地御用取扱の
近藤重蔵(1771〜1829)が
アイヌのエカシ(首長)の了承のもと、
寛政10(1798)年、択捉島北東端の
丹根萌(たんねもい)に「大日本恵土呂府」の木柱を立て
この島がわが国の領土であることを示した。

近藤は同年、幕府は蝦夷地全体を直轄地とし、
廻船問屋である高田屋嘉兵衛(1769〜1827)に
国後島から択捉島までの航路を開かせ、
嘉兵衛に「蝦夷物産売捌方」としての役職を与え、
「商場」としての「択捉場所」(17ヶ所の漁場)を開設させた。

さらに、ほとんどがアイヌである同島住民1,118人の
人別帳を作成し、漁法を指導するなどし、
実効支配の確立を図った。

「大日本恵土呂府」の木柱はこうした実効支配の
象徴とも言うべき標柱である。
                           (つづく)

ゴルフはスポーツか? [2010年05月29日(Sat)]












3年前の5月24日に、小欄は「ゴルフはスポーツか」という
愛好者やファンにとっては「憎まれ口」とでもいわれそうな
一文を書いた。

 そこに昨夜、「いとちゃん」なる見知らぬ人?から、以下の
コメントが寄せられた。

 コメント欄では文字が小さく読みづらいし、検索も難しいかと
思い、あえて、ここに転載させていただき、
ご批判、ご賛同を得たい。

 また、環境、自然保護を叫ぶゴルフ愛好者がたくさん
いるのも、私は解せない。あのゴルフ場維持のため、どれだけの
自然破壊、農薬散布・・・が行われていることか。

    ●○●○●○●○●○●○●○●○●

そのとおりです。

ゴルフはスポーツではない。

自論ですが・・・
はっきり言って大嫌いです。

★スピード感がない。

★幼少から誰もができない。金持ちだけができる。

★プロと言われる人に年寄りが多い。

★よくわからないがグリーンで行われるパターを使用した
玉入れは幼稚園児でも百回打てば入りそう。

★グリーン付近にある砂場から打つのが難しいらしいが
足で打ったほうが穴に寄りそう。あえて、
リスキーな道具を使用することが分からない。

★ゴルフ場は自然破壊の元である。

★洋服みたいなセンスの悪い物を着てやっている。気持ち悪い。

★賞金が高すぎる。

★幼少のころから誰もができるようなものだったら
今の3倍以上すごいプレーヤーがいそう。

★何かとパチパチ手拍子がうるさい。

★自分の手を使って穴に入れたりよせたりしてください。

★変な車に乗って移動するな。

★自分は40歳ですが5年くらい練習すればプロ?になれそう。
なりたくないですけど。

★あんなに広い場所でやっているのに穴が小さすぎる。
スケールが小さい。

★プロといわれる方の体型を想像してください。
とても鍛えてるとは思われません。

●これぞスポーツ
●ボクシング・バスケ・サッカーなどなど・・・
とにかく変な道具は使わない。意味のない道具を
使用しているのはゴルフだけだと思いませんか?

後賛否あると思いますが、
F1もスポーツだと思っているのは変ですか?

鍛えられていると思いますよ。
ものすごいGと何といっても生命懸けていますから・・・。立派です。

みなさんどう思います?
辻元清美さんと社民党 [2010年05月28日(Fri)]




   辻元清美鳩山内閣国土交通副大臣
         (2010年5月28日22時16分現在)




 辻元清美さん、

 あなたはたしか、農水だか、国土交通高の政務官、もとい、
国土交通省の副大臣ですよね。

 あまりに存在感が薄く、永田町周辺で40年近く仕事をしている
私も忘れてしまいました。

 あなたとはあなたが早稲田の学生時代に
朝日新聞の井川一久さんに連れられて、
当時、日赤中央女子単外の助教授だった私のところに
やってきてくれました。

 ベトナムからの「ボートピープル」を
海上で救いたいという思いに、
難民を助ける会の代表幹事だった私も共感ンしました。

 政治家になってからも、時の総理を追及したり、
政治の不正を正す姿勢は見事なものがありました。

 それが鳩山内閣で副大臣になるや、
菅副総理かあなたかというくらいおとなしくなってしまいましたね。

 今夜でも、辞表を出すべきですよ。

 社民党の党首が罷免されたんですよ。その総理のもとで、
よくぞ、副大臣を続けていることができますね。

 ここは辞表をたたきつけるべきところでしょう。

 それとも副大臣というのは、そんなに気分のいい
ポストなのですか。もちろん御利益が大きいからでは
決してないでしょうが…。

 ことの是非はともかく、
こうなったら、社民党は全員内閣を去るべきです。
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