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駒沢公園の秋 [2009年10月31日(Sat)]


























































八雲へと駒沢よぎる 紅葉並木 朝から走る人 みな美しき

これは「本歌取り」というより、単なる晶子の名歌の盗作。
本歌? ほれあれ、それ・・・

清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人 みな美しき

それはともかく、駒沢公園は紅葉が盛りです。その中を
大勢の人が早朝からジョギングしていました。

日本の秋、最高です。
さざんかの季節 [2009年10月31日(Sat)]





































 さざんかさざんか咲いた道・・・を歌って、道を横断し、
折から秋田に進駐してきた米軍の行列をストップさせた話は
以前小欄に書いたかと思いますが、この花を見るともう一度、
この話をしたくなるのです。

 神童と言われた(かもしれない)ご幼少の私は
秋田女子師範学校付属幼稚園でこの歌を習いおぼえ、
母に聞かそうと夢中になっての帰り道、
延々と続く行進が終わるのを待ち切れず
突っ切ろうとしました。

「ピーッ!」。MPの笛で行進がピタリと止まり、
おそらくは
「hey! Baby. Come on!」
とか言われた(英語を解した?)に違いないのですが、
大きな声でこの歌を歌いながら進んだのです。

 即刻、親父が警察に呼ばれました。

「なぁ、おまわりさん。あんたね、お役目ごくろうさん」
くらいのことは言ったはずです。

「んだどもな、忠正はまだ4つだ。4つのガキさ何しゃべたて
やじゃがね(ダメだ)」と、そのあとに開き直ったようだ。

当時の秋田魁新聞にもこの神童(咳払い!)横断の雄姿は写真付きで
出ました。

さざんかを見るたび、両親を思い出します。
サクラと紅葉が美しく [2009年10月31日(Sat)]

















































 狂い咲き などと言うなよ 秋の桜(はな)

 駒沢公園を二周り散歩してきました。

 桜が咲いていました。ほかにもいろいろ秋は
実もなるし、葉も紅葉して、目を楽しませてくれます。
赤十字と人道支援シンポ [2009年10月31日(Sat)]












 ICRC(赤十字国際委員会)と外務省の共催により、
人道支援シンポジウム「紛争下における人道支援」に
参加し、拝聴(会場は外務省北国際大会議室)してきた。

 第1セッションは、
山影進東大教養学部長をモデレータとする
「人間の安全保障と人道支援」。
パネリストは緒方貞子JICA理事長、
鶴岡公二外務省国際条約局長、そして
ICRCのアラン・エシュリマン東・東南アジア事業局長。

 名モデレータによる進行で、
格調高い充実した内容だったというほかない。

会場の過半を占めるのが若い女性というのも
少々驚きだ。おそらく国際関係論や国際政治学を専攻し、
将来は国連や国際協力NGOなどで働こうという人たちと見た。

 さまざまな紛争下の問題が指摘され、
興味深く拝聴させていただいた。

そのあとの、フロアからの質問として、
私は自分自身の40年近く前の体験、すなわち、
日本からの最初のICRC海外駐在代表として、
東パキスタン(途中でバングラデシュとして独立)や
南ベトナムで活動した体験に基づき、
ICRC、国際人道法、赤十字の標章といったことを、
もっともっと不断の教育で普及する必要性があることを
質問というか、意見を述べた。エシュリマン局長からは
もちろん賛同はえたが、
そのための方策や取り組みについての特に具体的な回答は
出なかった。しかし、これはわが国を含めて重要な課題だ。

 ジュネーブ条約では条約本文で、あらゆる機会を通じての普及を
約束しているのである。

 日本は過ぐる戦争で、虚実あわせて、
国際人道法上、
さまざまな問題を起こしたのは論を俟たない。

その上、1949年8月のジュネーブ4条約や
1978年の2つの、2005年の3番目の議定書の普及となったら、
遺憾ながら、国民のほとんどが知らないのではないか。

 赤十字の標章の乱用もひどい。個人病院や犬猫病院にまで
赤十字のマークが付いていたりする。
安全第一の緑十字のマークさえ、
ジュネーブ条約から言うと「?」である。

各国の経済開発、教育振興がなされ、
紛争防止、文盲撲滅も重要である。そのためには、
日本が人道大国として民生支援の面で
さらなる活躍すべきであると私は考える。

 そのためにもまずは日本国内での
人道的な関心の向上、知識の普及に
赤十字も関係省庁も努めるべきである。
吉田松陰と白旗 [2009年10月30日(Fri)]



        


          吉田松陰









 つい先日、10月27日は、吉田松陰(1830〜59)が小伝馬町の獄舎で
刑死して150年目にあたる。

 そこで、松陰と旗について少し書いてみたい。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

「無風状態では「日の丸」が降伏を示すようだ」と
英国人から言われ、
昨今のいやな言葉で言えば、
いささか“ムカついた”経験がある。

 白旗はかなり以前から、
降伏、帰順、和解、軍使派遣などの意味を表わすということが
世界的に知られていた。

  わが国でも、吉田松陰は次のように述べている。

 西夷諸国水戦の法、戦敗れて降を乞ふ時は、
白旗を船上に引き揚ぐ。又用を弁ずるが為めに
来る時は、脚船に白幡を建てて行。
 其の時は敢えて妨害を加へざるを式とすと云ふ。
                  『吉田松陰全集』第一巻

 脚船とは速度の速い小型の便船のこと。これは
アヘン戦争(1840〜42)の際、白旗を掲げた
英国の船に清国側が発砲を続けたことに触れての記述である。

 松蔭が世界に目を向け、
海外のさまざまなな知識を身につけていたことは、
他の箇所でもよく判る。

 また、1874年の「ブラッセル宣言」
(英国不参加のため発効に至らず)では、
「交戦者の一方の命を帯びて他の一方と談判を為すために
白旗を持ち鼓吹手(喇叭士又は鼓士)一名及
旗手一名を具して到る者を戦使とす。
 戦使並に之に随行する鼓吹手及旗手は
不可害の権利を有す」(第43条)と決めた。

 また、現在も有効な国際法である、1907年の
「陸戦の法規慣例に関する条約」の付属書
「陸戦の法規慣例に関する規則」(陸戦法規)でも、
「戦者の一方の命を帯ひ、他の一方と交渉する為、
白旗を掲けて来る者は、之を軍使とす。軍使並
之に随従する喇叭手、鼓手、旗手及通 訳は、
不可侵権を有す」(第32条)として、
白旗を掲げる軍使の不可侵権を認め合っている。
 
 ペリー艦隊とぎりぎりの折衝を続けた末、幕府は
フィールモア米国大統領からの、
貿易の希望を表明する親書を受け取った。

 このとき、ペリーが一文を添えた。それには
通商を拒否するなら開戦も辞さずとあり、
もし和睦したいなら、「此度贈リ遺候所ノ白旗ヲ
押立ベシ然バ此方ノ炮ヲ止メ艦ヲ退ケテ和睦ヲイタスベシ」とあり、
国旗のほかに和睦(降服)の合図を旗で示すことを求めた。

 但し、これについては松本健一麗沢大学教授が
1995年に「資料発掘」として、
いかにもペリーの砲艦外交を印象付け、
これを偽文書だとする宮地正人東大教授、
岸田秀和光大学教授、秦郁彦日大教授らを巻き込む大騒ぎになって、
いまだ決着がつかない。そのあたりの事情は、
毎日新聞の岸俊光記者が
好著『ペリーの白旗』(毎日新聞社)で
総括してくれているので、これ以上は論及しない。

 筆者は白旗がいつからこうした意味に
用いられるようになったのかは、詳らかではないものの、
源氏の白旗のはるか以前、
わが国でも白旗を帰順の意味で用いていたということを
述べておきたい。

 すなわち、景行天皇(第12代の天皇。在位71〜130)の12年、
九州征伐の時、
周防の神夏磯媛(かみなつそひめ)という女酋が
榊に鏡、玉、剣の3種の神宝を飾り、
その上に素幡を立てて天皇への帰順の意を示して出迎えた
という話が『日本書紀』(720)にある。

 このほか神功皇后や欽明天皇の話の記述の中にも
降伏を意味する白旗の使用例が見られる。

 古代の日本と近世の米国で、
白旗が同じく帰順や降伏を意味していたということであれば
興味深い。

 白旗については日本でも戦前からよく知られ、
沖縄戦で幼い少女が白旗を掲げて米軍に身をさらす話が
比嘉冨子のノンフィクション『白旗の少女』となり、
2009年9月にはテレビ東京でも
開局45周年記念ドラマスペシャルとして放映された。
小林よしのり氏のマンガで [2009年10月29日(Thu)]










 昨日、「末次一郎を面罵した鈴木宗男」について書いたところ、
多くの方から、さまざまなメールをいただきました。

 その中で、こういう話は「もっと見出しを考えて工夫せよ」という
川越市在住のS氏や横浜市在住のH氏からご助言・ご忠告が
ありましたので、今一度、掲載させていただきます。

 同文ですので、昨日ごらんになった方には申し訳ございません。

    ❀❀❀❀❀★❀❀❀❀❀❀★❀❀❀❀❀❀

 国際情報雑誌「SAPIO」の創立20周年記念号(2009年8月)で、
小林よしのりが
「ゴーマニズム宣言 北方領土おもねり・譲歩外交の愚劣」と題し、
鈴木宗男の対露外交の誤りを糾弾している。

 その中で、、わが師には鈴木自身が、長年指導を受けてきた
にも関わらず、日露友好議員連盟の総会で、
パノフ駐日大使はじめ大使館員と100人近い衆参両院議員を前に
記念講演をした末次に
屁理をこねて面罵したのであった。

 非礼であり、国益を害するものであった。

 小林のマンガからその部分のみ紹介させていただく。

 私も同席していたので、その状況には詳しい。

 ただ、このあとのところで、小林は、
「宗男・佐藤優は、末次氏やその流れを汲む
四島一括返還論者を”右バネ”と侮辱的に呼ぶ」と書いているが、
佐藤は一度も、末次を名指しで侮辱したことはないし、
著書などでは十分敬意を払っている。

 また、その「流れを汲む四島一括返還論者」゙とは、
まさにわれわれのことであろうが、
私には右も左もない。宗男・佐藤が「右バネ」という表現を
していることも、寡聞にして知らない。

 かつて私は週刊新潮に2週間にわたり、
埼玉県立大学教授吹浦忠正との実名で
鈴木宗男について厳しい記事を書き、
爾来、当人との付き合いを拒否しているが
いずれこの当時の傲慢不遜な宗男の態度については
詳述することもあろう。

                 (本稿敬称略)
沖縄の畏友に感謝 [2009年10月29日(Thu)]






  ドラゴンフルーツ




 沖縄在住の畏友・安谷屋幸勇氏(沖縄青年会館長)から、
珍しいドラゴンフルーツ、スターフルーツ(星型の果実)、
そしてグアバをご恵贈いただきました。

たまたま数名の来客があり、
写真を撮影する間もなく、
みんなで興奮しながら食べたところで、そうだ、
これは小欄で紹介するんだったと思ったのですが、
後の祭り。私の胃袋でも撮影して、というわけにもゆかず、
写真はネットからのものです。

安谷屋さんは若いころ青年団のリーダーだった人で、
その後も沖縄の復興、返還、地域づくりに
献身してこられた「地元の名士」。

4年ほど前に北方領土にもご一緒しました。
沖縄の三線(さんしん)を持参され、名演奏を披露し、
往復の船内では当時、北方領土問題担当の
小池百合子大臣に手ほどきしていました。

ヴァイオリンを弾ける百合子大臣、早速、
われら酔客を前に、メイ演奏をしていました。

昨年、認定NPO法人難民を助ける会が
沖縄平和賞を受賞したとき、個人負担でみんなで
沖縄に参りました。そのときにも、
那覇の青年会館で行なわれた研修会で
沖縄事情を講義してくれ、
そこでも三線を聞かせてくれました。

先般、北沢防衛大臣とこれまた畏友・長島昭久防衛政務官が
訪仲した際、沖縄青年会館でお二人と少数での夕食会を行い、
われら共通の師である末次一郎先生の話で大いに盛り上がり、
「特に、長島政務官からは吹浦さんのことが話題となり、
人間付き合いの大切さを感じ大いに感激いたしました」との
お手紙が添えられていました。

長島氏は安全保障問題の専門家、
「彼こそ防衛大臣に」という声もあったほどです。
沖縄の地域リーダーと率直な意見交換をするあたり、
大臣ともどもなかなかやるなぁという印象です。

ところで、グアバって「蕃爽麗」って書くんですってね。
初めて知りました。

最初に書くべきことを忘れました。心からの御礼を
申し上げます。ありがとうございます。

来年1月には末次先生の胸像の清掃にみんなで参ります。
そのときにお目にかかり、また、
三線を聞かせていただけることを
愉しみにしています。
同年同月同日生まれの友逝く [2009年10月28日(Wed)]






         河野 昭 氏


                










 河野昭氏が亡くなりました。行政管理を極めた官僚でした。
官僚としての最後は行政管理庁の事務次官でした。

 私とは、なんと同年同月同日生まれ。それだけに
特別気になる存在でした。

 その彼から「告別の辞」が届いたのです。お嬢様の
今木静花さんが代筆した“絶筆”です。癌との苦闘が
人生の最後だったという悔しくも悲しい知らせです。

 河野氏との最初の出会いは、
彼が中曽根康弘国務大臣行政管理庁長官の秘書官だったとき、
つまり30年近くも前のことです。平河町の
中曽根事務所の待合室で、将棋を指し、「入玉引き分け」。

やり直しをしているところに、
オヤジさんから声がかかり、それまでとなったのです。

 もう時効ですから話してもいいでしょう。
千円をかけての一番でした。
「引き分けなら年長者が払うべし」と岡目八目をしていたI秘書。
双方、(薄い)財布を出し合ったところで、
「えっ!」と気づいて、爾来、肝胆相照らす仲となったのです。

 私が北方領土返還運動に貢献(?)したというので、
第一回総理府総務長官(北方領土問題対策相)表彰を
いただいたときの表彰式のときでした。

 司会者が、「まもなく大臣が到着します」といった直後に
河野官房長(当時)が入ってきました。満場、シーンと
静まり返っているところですから、視線は
おのずと部屋の入口に向います。

 すると、私の前にスタスタと歩み寄り、大声を挙げて
「よう、フキさん、おめでとう。
よくやってきたよねぁ、思えば」と
ざっくばらんに話しかけてくるのです。

 列席の北方領土返還運動関係の仲間や総理府のお役人たちは、
どうして官房長と吹浦(ごとき)が
かくも親しいのかに、目を白黒。説明しかけたところに、
誰だったか忘れましたが、
その大臣が入ってきたものですから、この話はそれまで。

 だれも気付かない二人の運命的な関係だったのです。

 同年同月同日生まれというのは
運勢が同じということになるのかなぁ。

せめて今夜は自己や新型インフルエンザに気をつけ、
ワイン断ちでもして追悼しようかとも思いましたが、
フランス人の奥様を持つ河野氏のことだから
それは不本意である(に違いない)。いつもの赤を
白にかえて、河野氏を偲びたいと思います。
                       合掌

   ❀❀❀★❀❀❀❀❀❀★❀❀❀❀

告別の辞

近く彼岸の地に旅することとなり、
お世話になった皆様にお礼のご挨拶を
致します。
昨年12月以来入院し、抗がん剤・放射線
などの治療を続けてきましたが あまり効果が
見られず、この夏は自宅で鎮痛剤により
がんの痛みと闘ってきました。最近は病苦が
9割以上を占め、生きる喜びは1割以下という
状態です。
さて、私はここまで性格的には未熟者でしたが
皆様には本当に親しく飲み、また遊んで
いただきました。又 仕事の能力という点でも
不十分な面が多かったにも関わらず、皆様の
おかげで全うさせていただきました。
私はこうした皆様に感謝しつつ 旅立てる
ことを幸せに思っています。
なお 送別会は家族・兄弟のみによる
簡略なものを考えており、香典の類は
一切いただかない事としています。

河野 昭
(娘 静花 代筆)
末次を面罵した鈴木宗男 [2009年10月28日(Wed)]












 国際情報雑誌「SAPIO」の創立20周年記念号(2009年8月)で、
小林よしのりが
「ゴーマニズム宣言 北方領土おもねり・譲歩外交の愚劣」と題し、
鈴木宗男の対露外交の誤りを糾弾している。

 その中で、、わが師には鈴木自身が、長年指導を受けてきた
にも関わらず、日露友好議員連盟の総会で、
パノフ駐日大使はじめ大使館員と100人近い衆参両院議員を前に
記念講演をした末次に
屁理をこねて面罵したのであった。

 非礼であり、国益を害するものであった。

 小林のマンガからその部分のみ紹介させていただく。

 私も同席していたので、その状況には詳しい。

 ただ、このあとのところで、小林は、
「宗男・佐藤優は、末次氏やその流れを汲む
四島一括返還論者を”右バネ”と侮辱的に呼ぶ」と書いているが、
佐藤は一度も、末次を名指しで侮辱したことはないし、
著書などでは十分敬意を払っている。

 また、その「流れを汲む四島一括返還論者」゙とは、
まさにわれわれのことであろうが、
私には右も左もない。宗男・佐藤が「右バネ」という表現を
していることも、寡聞にして知らない。

 かつて私は週刊新潮に2週間にわたり、
埼玉県立大学教授吹浦忠正との実名で
鈴木宗男について厳しい記事を書き、
爾来、当人との付き合いを拒否しているが
いずれこの当時の傲慢不遜な宗男の態度については
詳述することもあろう。

                 (本稿敬称略)
静岡で藤家虹二の演奏会 [2009年10月28日(Wed)]









静岡在住の小欄愛読者・加藤ミカさんは、地方文化の振興に
なみなみならぬ情熱をも持ちの方。しかも、天下国家の議論をこなす
なかなかの人物。将来は政治家にと勧めているが・・・

「一流の音楽や芸術を地方で楽しむということに関しては、
地方という場所は、首都圏とは悲しいくらい事情が異なります。
地方で文化を楽しむって本当に大変です。多分、
都市に無い課題では?と思います」と地方都市の状況を分析し、
それならばと
うら若き女性の細腕(?)で敢然と挑戦しているのです。

ミカさんはさらに続けます。
「たとえば、首都圏にいると当然だと思う数多くのコンサートも、
数が極端に少ないですから、行く機会は遥かに少ない、
それゆえに場慣れした人も実際には少ないです。
昔よりは近くに立派なハコが増えたから、
以前より行けるようになり楽しむ人は増えてはいますが、
都市には全く及びません。地域格差というのに文化格差とは
なぜ感じないのか?疑問でした」。

地方、といっても静岡市は天下の政令指定都市、それでも
「実際に、私がコンサートを初めて開く時、
こんな所に良い音楽家が来て演奏してくれるはずない。
貴女は頭がオカシイ…といった人が何人もいました。
初めから諦めています」というのです。

その辺になると、この「都会の田舎者」にはいささか
判りかねるのですが、そうかもしれません。

そこで、この人は、しばらく考えてみて、そうだ、
体験していただくことが
まず第一だ、と考え、立ち上がったというのです。

ターゲットはかの藤家虹二(ふじいか・こうじ)さん、
生涯現役というクラリネッティスト。
「藤家さんとはいきなり電話でお願いしました」。

コンサートの開き方など全く知らないし、
主催者は自分一人。
「ギャラもたいして払えません、
あるのは熱意だけです」。

「やりたいならやってみなさい」と受けた藤家さんも立派。
そこから、全てが始まりました

「収益に関しては、実際には利益はありません。
売れたチケットの全代金を使用した経費で引き、
あとの全金額は藤家事務所に渡して、
そこからギャラを払っていただいてます。
元々の金額(チケット代金×人数)が少ないので
演奏家もボランティアのようなもので、
厚意で来ていただいています。
ですから、満席にしたいのはこのためです。
スタッフは、全員、ボランティアです。実際には、
準備は一人で、無償でやります。ですから、
コンサートに協力いただく方に
プロが一人もいないことです」と胸を張る。

人徳というものであろう。

この加藤さん、普段は普通の会社員。
音楽の仕事とは無縁で、いわゆるプロモーターではありません。
「藤家さんのマネージャーに1から教えていただきながら、
手探りで進めています」。

「チラシは?」と訊くと、
「行きつけの美容院の店長が作成して下さいました。
チケットは、開催するホールをはじめ街の喫茶店や
ジャズバー、レストランのオーナー、サラリーマンや
主婦の人達やプレイガイドの協力で宣伝して販売しています」。

まさに地域ぐるみを作り上げたということですね。
「地域の協力なくして、コンサートはできません。
当日の受付や照明、その他のスタッフも
全て知り合いが行って下さいます」。

コンサートを開く時に、思いました。
「文化は必ず地域に潤いをもたらします。すぐには無理でも、
眼には見えなくても、人の心に訴え、
体験していくことは無駄ではないと思います。
色々と褒めていただいくと、本当に嬉しいけど
自分の手柄にしたくないんです。
周囲の人、みんなで作っていった、それが一番嬉しいし、
大切だと思いますし、だからこそ、良い音楽家をお招きして、
とびきりの時間を作りたいと思います。
いつか、一番行きたいコンサートを開きたいです。
一人で開催するからか、宣伝が弱いので色々なことを考えて、
やっていますが、まだまだ努力が足りないようです」

 静岡周辺でこういう人をぐんと支援して、
いっしょに地域文化の振興を担おうという人はいませんか?

そこまではりきらなくともせめて、当日、顔を出してみよう
という方、大歓迎だそうです。

 藤家虹二クィンテットの演奏会は、
11月28日(土) 17:00開演
静岡市・江崎ホール(054−255−2231)
前売り:6千円、当日:6千5百円
問合せ:すみや静岡本店楽器フロア2F
電話:054−253−6222
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