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2009年の記念年A [2008年12月31日(Wed)]








 2009年は、
2月10日、イランのイスラム革命から30年、
2月12日が、ダーウィン生誕200年、
3月10日が、チベット動乱50周年、
6月4日、天安門事件20周年、
10月1日が、中華人民共和国建国60周年・・・
など、さまざまな歴史が思い起こされる。

 2009年の
<150年前>は1859年。
イタリア統一戦争のソルフェリーノの戦いでの
負傷者の救護にあたった
スイス人青年・アンリ・デュナンの提唱で、
後に赤十字とジュネーブ条約が誕生した。

ダーウィン『種の起源』もこの年、
安政の大獄が起こったのもこの年,
そして横浜開港もこの年だ。

<120年前>の1889年は
フランス革命から100年。
これを記念したパリ万博に合わせて
エッフェル塔が完成。

しかし、フランスの政界は
ブーランジェ事件で震撼した。
ブラジルで帝政廃止。
日本では、大日本帝国憲法が発布、
近代化へ大きく一歩を進めた。

<110年前>の1899年は、
ハーグで第一回万国平和会議開催、
「陸戦法規」など国際人道法が大きく進んだ。
中国では、義和団事件、日本では中央公論創刊。

<100年前>の1909年、
伊藤博文がハルビンで暗殺された。

犯人の安重根はなかなかの人物であったとされ、
今では李舜臣、柳寛順と並ぶ
韓国の3大“英雄”。

この年ジードは『狭き門』を、
メーテルリンクは『青い鳥』を刊行。

<90年前>の1919年には
第一次世界大戦が終結し、
ヴェルサイユ条約が締結された。

モスクワではコミンテルンが結成され、
中国では五四運動が始まった。

韓国では「三一万歳事件」で
9年前に併合させられた日本からの
独立が叫ばれた。
                  (つづく)





     
2009年の記念年@ [2008年12月31日(Wed)]










 あと数時間で2009年。

 そこで、大晦日、
ワイングラスを片手に、
記憶をたどりつつ、
耳はクラシックの大特集(3チャンネル)にあわせ、
少し年表をめくってみた。

 2008年は『源氏物語』千年という
すばらしい記念年であったが、
2009年の<千年前>1009年は、
安南建国(首都はハノイ)くらいしかない。

<800年前>の1209年には、
英国のジョン王が教会から破門という事件があった。

<700年前>の1309年には、逆に、
教皇のバビロニア捕囚。中世は宗教の混乱期でもあった。

<500年前>は1509年。
ポルトガルがインド洋の制海権を握る。

<400年前>は1609年。
島津家が琉球に勢力を伸ばし、
スペインとオランダが休戦して、
オランダは事実上、独立国となり、
これまた勢力を一挙に世界に拡大、
ほどなく「太陽の沈むことなき王国」となった。

<300年前>は1709年。
新井白石が幕府に登用された年。
露(ピョートル1世)がポルタヴァの戦いで
スエーデンを撃破(北方戦争)した。

<220年前>が1789年。
いうまでもなく、フランス革命の始まり、
「バスティーユ監獄」の襲撃が起こった。

<200年前>は1809年。
ナポレオンとジョセフィーヌが離婚した、
江戸で大火といったことくらいか。
                 (つづく)
交渉有利のための進軍 [2008年12月31日(Wed)]





   
    
    日露戦争時における日本軍のサハリン上陸記念碑。
    台からはずされて横倒しになっているが、完全に破壊されて
    いるわけではない。
    2008年12月に訪問したときにも撮影したが、
  実際の進軍は1905年の7月であったことから
  2006年9月に訪問したときの写真を掲載する。
  人物は筆者。断っておくが、いまはもう少しダイエットしている(笑)。














     上陸記念碑は本来、この台の上に高々と建立されていた。












    2008年12月14日、上陸記念碑前から撮影したプリゴロドノエの
   原油積み出し埠頭。最初の原油は、12日、ここから日本に搬送され
   た。以後、韓国、中国に輸出される。手前の海浜は、日本軍の上陸地点。







 日露戦争以前に、ロシアはサハリンに
歩兵1個大隊、民兵2千、砲兵1ないし2個中隊を
配備することにした。

 開戦目前の1904年1月に、民兵組織の編成が始まり、
アレクサンドロフ(サハリン北西部)を拠点に
各200人編成の民兵8部隊、
コルサコフを中心とする南にも4部隊の設置が始まった。

 これだけの部隊を編成するには
刑期を終えて島に定住した人たちや、
流刑囚・徒刑囚をも駆り出すほかなかった。

 対する日本軍は満州派遣軍参謀長の児玉源太郎大将が
帰京して
「あいつぐ勝利とはいえ、わが軍はいまだ
ロシア本土には一兵も踏み込んでいない。
ここはロシア本土である樺太を
すみやかに攻略して
ポーツマスでの交渉を少しでも有利にすべきである」と
強行に主張し、
部隊の派遣が実現したものである。

 攻勢終末点を知っていた児玉の軍事戦略でもあり、
軍人・児玉による優れた政略的発想ないしは
政軍略の一致による新たな攻撃というべきであろう。

 歴史に「もしも」が禁物であることを
承知の上で推察すると、この進攻が行われていなければ、
勝ったはずの日本は
「無賠償無併合」の講和を余儀なくされていたかも
しれなかった。

 そして、もしそういう事態であれば世論が激昂し、
場合によっては、無理に戦闘を継続し、
最終的に敗戦に至っていたとも考えられる。

 その後、1905(明治38)年1月に旅順は陥落し、
陸軍は3月10日の奉天大会戦に勝利し
(それゆえにこの日が後に陸軍記念日となった)、
海軍は5月27日の日本海海戦に完勝した
(それゆえにこの日が後に海軍記念日となった)。

 これによって、帝国海軍は日本海の制海権を
完全に掌握し、兵員や武器・弾薬の輸送で
決定的に優位に立った。

 とはいえ、この時期、日本軍は
将校、兵、武器、弾薬、戦費などあらゆる面で、
攻勢の限界点に達していた。

 中立国である中国の領土たる満州を越えて
はるかロシア本土へロシア軍を追い払うことを
理想としても、
それどころか、満州南部の中心都市・奉天以北へ
ロシア軍を追撃する余力さえなかった。

 むしろ、大本営の首脳の脳裏には、
さらなる援軍が
欧州部のロシアからやってくるという
悪夢にうなされる日々が
続いたのであった。

 日本として頼るは、米国東部のポーツマスでの
講和のための交渉であった。

 したたかなるタフ・ネゴシエータである
ウィッテ、ローゼン両代表とわたり合うのは
小村、高平両全権。

 アメリカの厚意にすがりつつも、
この対露外交交渉による、
少しでも有利な戦争の終結より、すべはなかった。

 こうした中で、交渉を優位に進めるための
軍事的手段として強行編成されたのが、
サハリン派遣部隊。

 師団長・原口兼済(かねなり)中将率いる
第13師団が新設された。

 開戦の翌年、1905(明治38)年4月のことである。

 新設とは言ってもこの師団には、
本拠地の兵営もなかった。

 移動部隊のような形であり、しかも
どこかの軍に所属するわけでもない、
独立した戦闘集団として
戦場に派遣させられた集団といっていい部隊だ。

 バルチック艦隊の壊滅(5月27日)を待って
陸奥湾岸(青森県)と敦賀(福井県)に終結、
6月17日、
第13師団傘下の
第52(鯖江)連隊が北サハリンへ、
第49(甲府)、50(仙台)の両連隊が
南サハリンへと向かった。

 決して精強な部隊ではなかった。中には、
あいつぐ戦闘で負傷したり、病気になって
療養中の者までいた。

 そのくらい兵員が不足していた。ほかに
騎兵、砲兵、工兵、機関砲隊、輜重隊(しちょう)などが
従ったが、これまた決して
十分な編成、装備、訓練の状況ではなかった。

 児玉はその程度のことを重々承知の上、
なけなしの将兵を駆り集めてでも
一個師団を急造して派遣すべく、動いたのであろう。

 大本営は前年9月に、第8師団(弘前)を
遼陽方面に向かわせた。次いで11月に
第7師団(旭川)を旅順に派遣し、
これを第3次旅順攻撃の中心部隊とした。

 しかし、本来ならば両師団は
ともに最悪の場合に日本の本土を守備し、
機を見て、中国東北部とロシア沿海州の国境をなす
ウスリー河(松花江)付近や
他の作戦に投じようとしていた「虎の子」の部隊だった。

 これで、本土には錬度の高い既設師団は
1つもなくなってしまった。

 万一、一定規模のロシア軍が上陸でもしていたら
どんな混乱を来たすかわからない、
なけなしの部隊の投入である。

 バルチック艦隊がもし連合艦隊を撃破して
日本海の制海権を奪ってでもいれば、
本土はたちまちにしてロシア軍に席巻され、
日本は大軍を満州に残したまま
降伏せざるを得なかったかもしれない。

 そこまで行かなくとも、何隻かの編成による
ロシア海軍の軍艦が残っていたら、
一大事を惹起するところであった。

 第49、50の両連隊は一路、
コルサコフ(旧・大泊)近郊の
プリゴロドノエの海岸への敵前上陸をめざした。

 このプリゴロドノエこそ、
21世紀の今、サハリン北部からの石油を
積み出す備蓄工場と積み出し港に変貌して、
世界的にも注目されている
エネルギーの拠点となっている。
日露戦争直前のサハリン [2008年12月31日(Wed)]




  日露戦争当時のサハリンにおけるロシア軍将兵。
  敗走して大陸に逃れえたのは5大隊中1つのみ。























     現在のコルサコフ(旧・大泊)港。






日露戦争当時のサハリンの全人口は3万人程度。

日本人の居住者はいなかった。

威張り腐った官吏と少数の兵員のほか
居住者の成人男子の多くが、
出稼ぎの炭鉱労働者、元囚人、
そして服役中の囚人であった。
囚人を追ってやってきた妻や家族もいた。

ロシアとしては、サハリンが30年前(1875年)に
完全に自国に編入されたとはいえ、
この遠隔地全体の防衛を全うすることは
初めから不可能と考えていた。

ロシアの中心部からあまりに遠く、
「敵国」日本からは目と鼻の先という
地政学的不利を克服する手段も乏しかったし、
その必要されあまり考えていなかったようである。

このため人員の十分な配置も行なわれず、
補給も途絶えがちであった。

そもそも、直接的な防衛価値さえ
疑問視されていたからである。

それでも、1903年、沿海州総督リレーヴィチ中将は
サハリンを視察した。そして、
北サハリンのアレクサンドロフと
南サハリンのコルサコフ(日本時代の大泊(おおどまり))に
防衛拠点を築くべきであると判断、
同年5月に視察した
侍従武官長クロパトキン陸相の了解を得た。

アレクサンドロフは間宮(タタール))海峡に臨む
北西海岸の港町、
コルサコフはアニワ湾から
オホーツク海に面している。

 北海道の最北端・宗谷岬から
サハリンの南端クリリオン岬までは43`b、
晴れた日には互いによく見える。

 後に対岸の稚内との間に
稚泊(ちはく)航路が開設され、
戦後これは途絶えたが、
今また復活している。
紅白と箱根駅伝 [2008年12月31日(Wed)]






  甲斐駒ケ岳






 紅白歌合戦と箱根駅伝、最近は、前者の人気が下降し、
後者の人気が上昇しているのではないか。

 紅白はあまりにばかばかしさの積み重ねでうんざりする。

 また、演歌をはじめ歌番組が普段の放送で
昔の半分くらいになっているのに
大晦日だけ、必至に話題づくりしている「NHKのやらせ」に
うんざりだ。

 一方の箱根も今年は少し心配だ。

 早稲田の竹沢、東海大の佐藤という2大エースが故障から
完全には回復していないからだ。

 北京五輪の5千と1万mに代表となったものの、2008年は
さまざまな故障に悩まされ、実力を発揮していない竹沢、

 ふくらはぎをいためて、自己ベストに程遠い1万mの記録だったり、
欠場したりという1年だった佐藤、

 29日の区間エントリーの発表に拠れば、
竹沢は「花の2区」でも箱根の山道でもなく、3区に登録され、
「主将の責任を果たす」と宣言、
佐藤は、当日交代可能な補欠に登録された。

 これが作戦なら、いささか卑怯であり、
がっかりだ。

 昨年区間新記録を出した山梨学院大のモグス、
インカレでそのモグスを破った日大のダニエル(あの走りは見事!)、
そのほか中央学院大の木原、
駒大の宇賀地ら、
注目の選手が沢山いる。

 友人の須貝浩氏は50年前の箱根駅伝出場者で、
長く高校で陸上競技を指導していた人。

 この人の予想は「今年だけは、見当がつかない」。

 紅白よりもずっとたのしみ、早く正月になあれ!
チェーホフとサハリン [2008年12月31日(Wed)]




チェーホフの銅像(サハリン州立美術館前)





























 文豪アントン・チェーホフ(1860〜1904)と
サハリンとの関わりについて
少し書きたい。

 今でも、サハリンにはチェーホフの銅像が建ち、
その名前を冠した国立劇場があり、
西海岸にはその名の町がある。

 もっとも、このチェーホフ町、昔は野田といっていたが、
チェーホフが訪れたこともない。

 戦後のロシア人町長が
チェーホフのファンであったというだけのことで、
そうなっただけである。

『ワーニャ伯父さん』『桜の園』『三人姉妹』などで
広く親しまれているチェーホフは
1890年4月、サハリンに向かった。

 30歳の青年ではあったが、既に胸を病んでいた。

 当時のサハリンは政治犯や一般の囚人を送り込む受
刑の島であった。

 サンクトペテルブルクから、
馬車を乗り継いでデコボコ道を進み、
大河を利用して船旅をして
長距離を行くというこの旅行は、
チェーホフの生涯にとっても特筆すべき一大事である。

 サハリンに滞在すること約3ヵ月、
チェーホフは精力的に多くの炭鉱を訪ね歩き、
囚人と会話し、
約1万枚のカードにこれを整理し、
93年から翌年にかけて、
継続的に報告を書き、
『サハリン島』の著作にまとめた。

 チェーホフは『サハリン島』で、
まるで社会学者の調査報告のように
きわめて具体的に
「1877、78、85、87、88、89年に
1,501名の流刑・労役囚たちが脱走した。

 そのうち、捕らえられたり
自発的に戻ってきた懲役囚は1,010名、
死体となって発見されたり、
追跡の際殺害されたもの40名、
杳(よう)として消息を絶った者451名」

「脱走のとがで懲役囚に加えられる最も軽い刑は、
革鞭40と労働時間の4年間延長、
最も重いのは革鞭100、無期懲役、
一輪車に3年間縛りつけにし、
受刑囚として20年間禁錮である」(中村融訳、岩波文庫)などと
すさまじい報復の刑罰の実態をも記述している。

 また、世界的伝記作家といわれるアンリ・トワイヤは
その著作『チェーホフ伝』〔村上香住子訳〕で
「足枷をはめられ、トロッコに鎖でつながれた一部の受刑者が、
炭鉱の坑内に這いつくばって働かされている様子を見、
残酷な鞭打ち刑執行現場にも立会い、悪夢にうなされた」。

「サハリンというところは、放埓(ほうらつ)と狂暴と虚偽で
固められた王国だと確信するにいたった」
と述べている。

 チェーホフが首都を発ってからちょうど15年。

1904年7月、前年から1年半続いてきた日露戦争、
その最後の場面として、
サハリンで日露両軍が干戈を交えた。
サハリンの美術館で [2008年12月30日(Tue)]



  ロシア式茶道について説明するエレーナ学芸員




































佐瀬団長から仏壇について熱心に説明を聞くエレーナ学芸員。














 今回のサハリン訪問でも、
ロシア式茶会に招かれた。

 州立美術館の展示室で行なわれた。

 前回は「妙齢の美女s」による
ただただ結構な楽しい茶会で、
団長たる私は最後に受けたキスで、
ほおに勲章をつけたまま、
しばらく顔を洗わなかった(?)が、
今回は、
佐瀬正盛団長(防衛大学校名誉教授)が、
その幸せな役を演じてくれた。

 但し、今回はエレーナとアナスターシアという
二人の美人学芸員で、
ロシアにおける喫茶の歴史や
茶にまつわるさまざまなエピソードが面白かった。

 その美術館では2つ驚いたことがあった。

 1つは、
ベーゼンドルファーのペトロフ2.8mという
すばらしいピアノが設置されていたこと。2年前には気かった。

 より大事なのは、日本時代の遺品が
きれいに展示されて、
二人の学芸員がいろいろ説明を求めてきたことだ。

 仏壇、晴れ着、高級な陶器、写真のアルバムなど、
恐らくは、引揚の苦悩の中で、
やむなく置いてゆかざるを得なかった品々で
あっただろうと思うと、涙を禁じえなかった。

 ペトロフのピアノにせよ、
日本時代の遺品の展示にせよ、
サハリンの人々の芸術意識の高さと余裕とを
示すもののように思えた。

 実は、ピアノについては
1998年だったかと思うが、難民を助ける会で
チェチェンからの難民救援資金をつくろうと、
ロストロポービッチのチェロ、
小澤征爾指揮新日フォルという豪華キャストで、
日露両国の外相をお招きして
チャリティ・コンサートを開催したことがある。

 そのときの2600万円の純益について、
ロストロさんからの強い希望により、
サハリンの「チェーホフ名称国立劇場」に、
ヤマハ(特段の協力)のコンサートピアノを贈り、
記念演奏会を開いたことがある。

 当時のサハリンは、ロシアの中でも本当に貧しく、
改革が最も遅れた地域の1つだった。

 そこの美術館に、いまや
ペトロフが置かれているのである。

 私としては驚かざるをえない。
日本でも数台しかないはずの楽器だ。

 そして、その美術館の玄関前には、
チェーホフの大きな銅像が建っているのだ。

 次回はチェーホフとサハリンについて述べたい。
樺太千島交換条約で [2008年12月30日(Tue)]




  ロシアは流刑囚をサハリンに送り、
 奴隷的労働でその開発にあたらせた。

























抵抗したり、規則違反をした囚人には、頭髪を半分だけ剃るという
羞恥罰を付加した。








   鞭打ち刑の様子を表した模型。ユジノサハリンスクの
  郷土史博物館で。以上の写真も同じ。






 サハリンにロシア人が入植し始めたのは、
1851年。

 この地に石炭の鉱床があるという情報が伝わり、
その後の探検で重要な産炭地になりうるとして
注目されてからのこと。

 1858年、ロシアは清国との愛暉(アイグン)条約で、
アムール川(黒龍江)左岸地方を、
2年後の北京条約でウスリー地方(沿海州=プリアモリエ)を獲得し、
極東地区に足場を広げていった。

 同時に、炭鉱開発に目をつけたロシア政府はサハリンを
最果ての流刑地と定め、
政治犯を含む囚人を積極的に送り込み始めた。

 19世紀後半、
これによってサハリンへのロシア人「滞在者」が増えた。

 一方、明治になって、
函館戦争に敗れた榎本武揚(たけあき 1836〜1908)は
東京・丸の内の刑務所に約3年間下獄した後、
北海道開拓使として出仕し、
北海道以北にさらに大きな関心を寄せた。

 その後、初代駐露公使となった榎本は、
サハリンにおいて、ロシア側の勢力が
日本側を凌駕しつつある事態に、
首都サンクトペテルブルクで懸命な外交努力を重ねた。

 その結果、かろうじて、妥協点を見つけ出し、
両国の境界線を変更することができた。

 すなわち、1875(明治7)年の
樺太千島交換条約の締結である。

 これによってロシアはサハリンを完全に領有し、
日本はそれまで択捉島までであった日本の領土を、
その先にある得撫(ウルップ)島以北、
カムチャツカ半島から
わずか17`の占守(シュムシュ)島までの
全千島とすることができた。

 日本では生まれたばかりの唱歌「蛍の光」の4番で
「千島の奥も沖縄も 八洲(やしま)のうちの守りなり」
と歌われた。

 沖縄は1872年に琉球藩となり、
79(明治12)年には日本が軍隊を動かして
廃藩置県を強行、
正式にわが国の領土とした(琉球処分)のであった。
日露国境画定と樺太 [2008年12月30日(Tue)]




 間宮林蔵(1780〜1844)は、松田伝十郎に従って1808年、サハリンを探検。サハリンが島であることを確認後、翌年、海峡を渡り、アムール川を遡った。この肖像画は、松岡映丘の手になるものであり、そのコピーを掲示してある、ユジノサハリンスクの郷土博物館の展示写真を撮影したものである。













   

サハリンには、古来、オロッコ(ウィルタ)、
ニブヒ(ギリヤーク)人、
アイヌ(ウタリ)人などが住み着いていた。






 今から154年前(日露戦争の54年前)、
1855年、日露両国は武力を用いることなしに交渉し、
下田条約(日魯通好条約)を締結した。

これにより、両国の国境は択捉島と得撫島の間とた。

今日の北方領土返還要求運動は、
その根拠の淵源をこの条約に発している。

すなわち、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の
「北方4島」はこの条約で日本の領土とされ、
1945年8月末以降のソ連軍の侵攻で、
はじめてソ連の実効支配に入ったということなのである。

 下田条約で、サハリン(樺太)は両国民雑居の地とした。

 サハリンはまだ荒涼たる地に
草木と野生動物ばかりで、
わずかに日本の漁民が南部の沿岸に、
ロシア人が北西部沿岸地帯に
少しずつ入り込んでいるという状況だった。

 古来、オロッコ(ウィルタ)、
ニブヒ(ギリヤーク)人、
アイヌ(ウタリ)人などが住み着いていたが、
当時に至るも大きな勢力にはなっていなかった。

 このため下田条約でサハリンは
「界を分たす是迄仕来の通りたるへし(第2条)」、
すなわち日露両国民「雑居の地」とされた。

 雑居とは今の言葉で言えば、
混住、共住、あるいは共生の意であろうが、
人口希薄とはいえ、
同じ地域で双方が雑然と居を構え、
やがてそれぞれが
しのぎを削りあっていったというのが
現実である。法律の適用もあいまいであり、
むしろ無法地帯、勝手し放題といってもいい
状況であったとされる。
サハリンの石油と日露戦争 [2008年12月30日(Tue)]































  複数の国々からの技術者や労働者の力を結集して
 完成した石油備蓄工場。工場の完成に伴い、
 その従業員たちの引き上げが急速に進んでいる。











  工場側から見たパイプラインの最後の丘。
  この下を800キロ余り南下してきた最後の
  パイプタインが通っている。








今でこそ、サハリンは人口51万
(2008年1月現在)。

ピークはソ連崩壊直後の1992年の72万人。

ロシアのシベリア、極東、カムチャツカ地方の急激な
人口減少は、この国の大きな問題であるが、
石油・天然ガスの産出で注目されているサハリンでさえ、
この重大課題は解消されていない。

州都ユジノサハリンスク(日本時代の豊原)は
その3分の1の人口(18万人)を擁する都会になり、
北サハリンは石油・天然ガスの開発で注目されている。

北サハリンの鉱区サハリン2からの石油が
コルサコフ(旧・大泊)近郊まで
800キロ余りのパイプラインで運ばれ、
プリゴロドノエの精製工場で加工されて、
日本、韓国、中国などへ運搬される。

12月12日、その第一便「ファルフトジノフ号」が
日本に向って発った。

2年前の9月、私たちは建設中のその工場を視察した。
トルコの企業を受注元として、
トルコ、ネパール、ブラジルなど各国の技術者や労働者など
約7千人が日本人指揮者の下、
工場建設に当たっていた。

そしてその翌日、ロシアは「環境破壊」を口実に、
ロイヤルダッチシェルと、三井物産、三菱商事の
持ち株数を半減させた。

今月、その工場の完成により、その人達が
いっせいに引き上げ始めた、また、
関連のロシア人従業員も大幅削減となった。

余剰労働力が生じ、
まずホテルや遊興場が閑散とし始めた。

オーストリアから輸入したロープウェイのスキー場も
まことに閑散、
サハリンではいま、バブルが崩壊寸前である。

 このブリゴロドノエの浜辺、実は、
1905年、日露戦争の最後の決戦に向けて、
日本軍が上陸した地点である。

石油は、今そこから日本へと運び出されている。
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