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ロシア外相の来日 [2008年10月31日(Fri)]










 外務省は31日、ロシアのラブロフ外相が
4日から2日間の日程で来日すると発表した。

 わがユーラシア21研究所は
曲がりなりにも
日露関係を中心に研究しているところであるので、
この来日については事前に熟知していたが、
両国関係は未だ機熟さず、
特段に大きな期待を寄せていない。

中曽根弘文外相らと会談し、
北方領土問題やシベリアでのエネルギー協力などを巡って
協議することにおなろうが、
ロシアの外交政策決定にラブロフ外相が
決定的役割を担っているとさえ、
必ずしも思っていない。

最高指導者・プーチン首相来日の
地ならしを進めるという声もあるが、
それさえ、こちらから懇請すべきことではない。

ロシア側から「是非、訪日したい」と言わせることが
肝要で、こちらから尻尾を振る話ではない。

グルジア問題を抱えつつ、
その日に米大統領選挙というタイミングでは、
ヘタをすると対米関係さえ損ねかねない。

むしろ、グルジア問題、世界的な金融危機への対応、
北朝鮮の核開発問題、国連改革、露中関係、環境問題など
広範な分野で意思疎通を図るべきであり、
高く出ていい。

ロシアがそう遠くないうちに、
日本を重視しなくてはならない時期が必ず来ると、
私は確信している。

そのときを待つだけの忍耐力が、
日本のあらゆる分野において必要である。

政治家は目先の功名心に駆られてはならない。
共産党と人民 [2008年10月31日(Fri)]






  日本共産党の党章。
  労働者を表わす歯車と
  農民を表わす稲穂が、
  共産主義の象徴である
  赤旗の上に描かれている。







 
 戦前は「国民」が普通で、時には「臣民」とも言われた。

 小学校は「国民学校」といわれた時代もあった。

 戦後は、みんな「国民」になり、
「人民」はほとんど共産党しか使わなかった。

 その後、民社党や社会党が「市民」を使い出した。
「市民団体」へのゴマすりかとさえ思った。

「自覚ある生活者」などと解説する人がいたが、
みな生活の大変なことに自覚しているし、
義務教育の徹底している日本では、
「国民」のほとんどが「市民」に決まっている。

1946(昭和21)年6月29日、日本共産党は
「日本人民共和国憲法草案」を発表した。

大日本帝国憲法を改正して、
この憲法にせよという提案である。

この憲法草案には
@ 日本国憲法第9条のような軍隊の不保持などの規定はないが、
侵略戦争への不支持と不参加、

A 憲法改正が国会の3分の2以上の賛成で可能、

B 憲法改正によっても、共和制を破棄することはできない、

C 国会の3分2で改正でき、国民投票は不要。
といった内容を骨子とするものである。

 自分たちが独自の憲法草案を発表して、
「日本国憲法」には反対していた日本共産党は、
いつから、なぜ、「護憲勢力」になったのか。

 それはともかく、例えば、きょうの「しんぶん赤旗」の記事、
「日本共産党の志位和夫委員長は30日、
国会内での定例の記者会見のなかで、
政府・与党の「追加経済対策」について、
政治の責任で誰を応援するのかが問われていると強調し、
<三つの大きな問題点>を明らかにしました」とし、
「第一は、景気悪化から国民の暮らしを
本気で守る姿勢がまったくないということです」とあり、
もはや「人民」とは言わないのである。

 かつての「日本人民共和国憲法草案」とは大違い、
イデオロギーが変ったのか、
共産党の右への移行か、すりよりか、
それとも、
われら「人民」の目先を欺こうとしているだけのか。
生活者という言葉 [2008年10月31日(Fri)]




 




 昨10月30日、麻生首相は、
解散先延ばしと
3年後の消費税率引き上げについて述べた記者会見で、
「100年に1度の暴風雨が荒れている。
何より大事なことは生活者の暮らしの不安を取り除くことだと
確信する」と述べた。

 私は永田町周辺で約37年、
仕事をしているが、
総理が「生活者」という言葉をこういう場合に使ったのは、
あまり記憶がない。

 そこで、
 小学館の『日本国語大辞典』を引いてみた。それによれば、
「生活者」とは、
「生活する人。世の中で日々の暮らしを営む人であり、
『モダンガアルの研究(1927〕』〈片岡鉄兵〉
の中野「モダン・ボーイの研究」で、
「現代の意志を理解して現代を信頼し、
さうして現代的な生活を力強く生きること、
直ちに現代のモオドに従ふ生活者である」
とあり、また、
『「若い人(1933〜37)』〈石坂洋次郎〉の上・一七に
「学者をみよ、芸術家をみよ、彼等は
専門の精神世界からつき離されれば
子供よりも頑是ない生活者であることが
通例だと云ふではないか」
と使用例を紹介している。

 しかし、基本的にこれは、日本共産党がしきりに使って
普及しつつある言葉ではないか。

 そえれが次第に左全体に広まり、
ついにここまで来たかというのが、私の印象だ。

 それとともに、この言葉、辞書の通りだとしても、
「生活する人。世の中で日々の暮らしを営む人」でない人って
いるのだろうか。

 麻生さんは、
「何より大事なことは生活者の暮らしの不安を取り除くことだ」と
いわずに、
「何より大事なことは生活の不安を取り除くことだ」
でよかったのではないか。

 これって、保守の左への横歩き現象の1つではないか。

                 (つづく)
妊産婦「最後の砦」の使命感 [2008年10月31日(Fri)]












総合周産期母子医療センター」って何?
病院たらいまわしにあった挙句、
亡くなった妊産婦の話は、何度思い出してもあまりに悲しい。

総合周産期医療センターは
妊婦と新生児のための救急センターとしての病院。

なのに次々とその患者を断った。あなたたちは、
どんな神経の持ち主なのかと怒りを抑えられない。

その責任感はどうなっているのかと思うと、
本当にハラがたつ。

妊産婦にとって「最後の砦」であるはずのところが、
「最大の敵」になったようなものだ。


国がこのセンターの整備を始めたのは
1996(平成8)年。産科医の集約化を進め、
45都道府県に74施設を設け、
リスクの高いケースへの対応を強化しようとした。

これによって、24時間態勢で母子を受け入れるというのが
総合周産期医療センターであるはずなのに、
これでは怖くて子供を産めないではないか。

 実際には、
@ 医師の総数の不足
A産科・産婦人科医の減少
B1施設当たりの医師数の減少、
C高齢出産などで手のかかる低体重児の割合の増加、
といった医療事情に対応し、
数字で見る限り、この政策は成功したはずだった。

実際、日本の乳児死亡率は、
2006年には千人当たり2.6人と、
世界で最も低い水準になった。

新しく医師になる人の全体数が最盛時、
年間7千人以上に達していたのが、
今では4千人程度。その中で、
産婦人科や産科の医師数は
98年から06年までに約11%減少した。

  その回復は容易ではあるまいが、
中長期的視点に立って、国は、強力に推し進めてほしい。

とりあえずは、個々の医師や病院の使命感と責任感の確立、
病院や救急関係者の連絡網の整備が望まれる。

前回も書いたが、赤十字や済生会といった、
伝統ある医療施設、国公立病院に期待したい。

それぞれの病院が、もっと特徴のある医療施設に
なってもらいたい。
ime
後醍醐天皇の行宮へ [2008年10月30日(Thu)]



















石森章太郎『マンガ 日本の歴史』(中央公論社)より。







 昨日、与那国島について、
日本最西端であると書きましたが、
今般、
奈良県五條市の旧西吉野村賀名生(あのう)
というところに調査に出かけ、
東京からこんなにも遠いところが
関西にあると、驚きました。

品川から新幹線で京都へ、
近鉄で大和八木へ、
また乗り換えて大和高田へ。

そこからいったん、駅の外に出て
8分ほど歩き、
JR和歌山線高田駅へ。
普通列車で五条駅へ。

駅前からタクシーで山間を走り、
2,380円。

道の両側に柿の直売所。
ここ、旧西吉野村は日本一といわれる
柿のさんち。

ようやく目的地の賀名生の集落に着きました。

品川駅からでも4時間半ほどです。

でも、私の目的は橙色の柿ではなく、
後醍醐天皇から下賜されたという、
「日本最古の日の丸」との再会のためなのです。

名門・堀家の門には「皇居」と書いた板が掲げられています。

しかも、それを書いた人は、吉村寅太郎、
そうです、かの天誅組の首謀者の一人です。

首謀者の表現がきつければ、
頭(かしら)、首領、リーダーかな。

この山間僻地、
今でこそ、日本で1、2という柿の産地になっていますが、
往時、南朝の拠点であり、
堀家は後醍醐天皇が行宮として用いたこともあるという、
国の重要文化財。

生来の「イナカッペ」でありながら
もう半世紀近く都会で暮らしてきた私には、
この山間僻地、
納得したり、感心したり、
そして驚くことばかりでした。

なんと言っても、ここまでは
尊氏を中心とする北朝方の武士たちも
簡単には攻め込めなかったことが、
よく分かりました。

そうそう、もうひとつの小さな驚きは、
かの「休職外務事務官」が、一昨年、昨年と2度も
堀家を訪問していることでした。

なにはともあれ、
久々に南北朝時代の歴史を復習し、
宿でも、読み直し、
最後は漫画本まで見て、
後醍醐天皇の皇子たち、
足利尊氏(たかうじ)、直義(ただよし)兄弟、
高師直(もろなお)、師泰(もろやす)兄弟、
楠正成(まさしげ)、正季兄弟、そして、
息子の正行を筆頭に、正時、正儀(まさのり)・・・
『神皇正統記』北畠親房とその一族・・・、
兄弟たちは時に結束し、時に争うなど、
複雑怪奇な動きをしたケースもあり、
若いころから何度か勉強したはずですが、
理解するには一苦労でした。

そうそう、親房が亡くなったのもまた賀名生でした。

とにもかくにも、いろいろ乗り換えた挙句、
朝の9時に家を出て、お約束いただいた午後4時に、
ようやく「皇居」にたどり着くことが出来ました。

山の陽はもうすぐ暮れ行く直前でした。
              (つづく)
法隆寺と柿B [2008年10月30日(Thu)]











 柿食へば・・・の句の作者のいた場所について、
「ブログを見て一言」と、
古い仲間の田中須磨子さんから
久々のメールです。「門前の茶店」説です。

 本職は日赤出身の看護師でいまはどこかの
大病院の副院長さんをしている方です。

また、書では日展に入選したりという実力者でもあります。

 ほかにも、
秋田県横手市でお店を経営している杉本健吾さんからは
「イメージとして法隆寺の山門から歩いて10分以上離れて、
かすかに遠く鐘の音が聞こえてくるあたり」
というお返事がありました。

 また、存じ上げてはいない方ですが、
三重県四日市市の鈴木凸子さん(ペンネーム、
おでこがでているので、自分で凸子と名乗っているそうです)からは、
「奈良では、おそらく同じような時刻に、
あちらこちらの寺院の鐘楼がなるのですから、
お寺の構内か、
すぐ近くでなくてはどこからの鐘の音か
区別がつかなくなるのではないでしょうか」
というメールもいただきました。

 以下は田中さんからのメールです。

  ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

お元気そうで何よりです。
若くないのですから、ご無理はなさらぬように。
ところで、

柿くへば鐘がなるなり法隆寺

この句は、子規が門前の茶店に腰かけて詠んだ句と記憶しています。

子規は柿が大好きだったようで、
「我死にし後は」とし、

柿喰ひの俳句好みしと伝ふべし

と詠んだ句もあるほどです。

また、愚庵より柿を送られて

御仏に供へあまりの柿十五

というのもあります。

余程、柿を食べるのが好きだったのですね。

仏さまにお供えした柿も全部子規が食べたに
違いないと思ってしまいます。

法隆寺の門前の茶店に座って
柿にかじりついている子規の姿が
目に浮かびます。

秋の夕暮れ、法隆寺の鐘の音もきこえてくるような、
・・・一枚の絵になります。
ホトトギス [2008年10月29日(Wed)]






































 われながら、花の名前を知らない。

情けないほどだ。

散歩していて、カメラを向けていたら、
「妙齢の美女」が、
「ホトトギスって斑点が面白いですよね」
と、声をかけてくれた。

 振り向きもせず、
「はぁー」。

 それでも美女であろうと想像できる
(から美女は妙齢であろうとなかろうとトクだ)。

ホトトギス(時鳥草、杜鵑草)は、ユリ科の多年草とある。
 
想像したとおり、斑点が、鳥のホトトギスの胸に似ているから
この名が付いたそうだ。

英語名はJapanese toad lily、すなわち、
「日本ガマガエル百合」の意。これまた面白い。

日本を中心としたアジアに咲いている花だという。

早寝、早起き、早歩きをしたいが、
カメラを持つと、つい、3番目が難しくなる。
海洋タウンミーティング [2008年10月29日(Wed)]






「<与那国島・海洋タウンミーティング2008>の
ポスターができました」と
主催する財団法人都市経済研究所の
上妻 毅 常務理事がわざわざお立寄り下さった。

 与那国町との共催で、
日本財団の助成事業である。

 日本財団にこの春まで在籍した
山田吉彦東海大学准教授を基調講演者に、
電通、中京大学、フリーアナウンサーなどの皆さんと
地元の方々に混じって、
およばずながら私も席を汚す。

 11月9日(日)15〜18時、
お近くの方は是非・・・といっても、
日本の最西端、羽田からは、
那覇、石垣島と2回乗り換えねばならない。

 日本で2番目に人口の少ない町とはいえ、
この島、戦略的にも非常に重要。

この島に限らず、辺境の島は「日本の宝物」。

ここがしっかりしてくれなくては、
日本が安穏としていられなくなる。

「海に守られてきた日本」ではあったが、
それとともにこれからは「海を守る日本」
でなくてはならない。

 与那国からはいっぱい学んできたい。
NGOの責任 [2008年10月29日(Wed)]










春子「きのうの<NHKクローズアップ現代>見た?」

夏子「いいえ、なんだったの?」

春子「カンボジアで日本のNGOが掘った井戸の水から
砒素が検出され、住民の中から
    症状が出て苦しんでいる現状が報告されていました」

夏子「それって大変じゃない!」

春子「善意の行動が返って人を苦しめる結果になるという悲劇です」

夏子「でも、その善意にも問題はなくって?」

春子「?」

夏子「つまり、きちんと責任をとらない善意というのも
    困りものかも」

春子「だからと言って
    支援活動を止める訳にはいきません。
    知恵を出し合い共に苦しみ、
    喜びを見つける日々こそが大事ですよね。」

夏子「そんないいことづくめならいいんですけど、
    簡単じゃないわね。海外協力って。
    砒素って誰かが入れたんじゃないの?」

春子「いいえ、自然界にもあるんですって」

夏子「おおコワ!」

春子「でも、井戸掘った後で
    そのNGOの人たちが水質検査しないのかな?」

夏子「ちょっと飲んでみただけかもしれない」

春子「難民を助ける会は各地で
    随分たくさん井戸掘りをしてたけど、
    検査はどうするの?」

夏子「知ってる、しってる。実際にザンビアやルワンダでやった
    友達にきいたんだけどぉ、
    もちろん自分たちでもするし、
    公的な調査機関があれば委嘱するし、
    それとしばらくその水で一緒に生活して、
    それから委譲してるんですって」

春子「砒素が出てきた井戸を掘ったNGOでは
    水質検査をしっかりしなかったのかな」

夏子「そうかもしれませんね。チョイボラの感があります。
    旅行の途中に井戸掘り体験なんていう
    プランもあるようですから」

春子「何事も体験とはいいますが、
    これじゃきちんとやってる団体にとっては
    迷惑ですよねo(_ _*)o」

夏子「せめて、関わったNGOが
    ここから一つを学び
    さらに力強い支援活動を展開して欲しいですね」

春子「そうよね」・・・
ウクライナの歴史と危機 [2008年10月29日(Wed)]


     



       ウクライナの国旗。
     余談ですが、
     北海道野航空会社エア・ドゥとそっくりです









どなたか教えてください。

クリミア半島がソ連時代に
ウクライナの領土になったいきさつを。

オスマン・トルコが
18世紀後半のロシアとの戦いに敗れ、
1783年、半島全域がロシアに併合されました。

その後、英仏両国(イタリア統一を目指すサルディニアも
約2千の将兵を派遣)とロシアとの間で
1853年から56年にかけてクリミア戦争が行われました。

貴族である士官レフ・トルストイは
その体験に基づき、『セバストーポリ』を執筆し、
英国側ではフローレンス・ナイチンゲールが、
ロシア側ではヘレーナ・パブロヴィナが
多くの看護婦を率いて、救護にあたりました。

第二次世界大戦(ソ連では大祖国戦争)で
クリミア半島では激戦が行なわれました。

またしてもセヴァストーポリが中心でした。

すなわち、1941年12月17日から1942年7月4日にかけて、
独ソ戦中でも、
レニングラード、スターリングラードと並ぶ
激しい戦闘がクリミア半島で行なわれたのでした。

これに先立って、周辺のドイツ人やユダヤ人は
中央アジアやシベリアに強制移住させられ、
戦後も故郷に帰還を許されたものは少ないと
いわれています。

現に、ハバロフスクの近郊には
今でもユダヤ人の自治共和国があります。

他方、クリミアに残ったタタール人たちは、
1944年、ソ連を裏切りドイツ軍へ協力したとして
これまた、中央アジアに追い払われました。

ウクライナは今の国旗(青空を表わす青と、
麦畑を表わす黄色の横二色旗)が示すように、
穀倉地帯です。

しかし、1930年代のあいつぐ凶作と、
独ソ戦での破壊で、ウクライナの誠司・経済・社会情勢は戦後も、
かなり不安定でした。

モスクワはウクライナと白ロシア(現在のベラルーシ)を
国連の原加盟国として、
形式的に宥和政策を採り、
歴史の教科書は、
1955年、戦勝10周年の機会に、
ウクライナに対する融和策の一環として
クリミア半島をウクライナの領土とすることを
ソ連共産党中央委員会が決定したことになっています。

1991年末、そのソ連が崩壊しました。

クリミア半島はそのまま、
独立したウクライナ共和国の一部となりました。

ウクライナ国内の一部の強硬派は、
1992年5月5日、クリミア半島の独立を宣言しましたが、
結局、クリミア半島は、
ウクライナ共和国内の自治区となり、
ウクライナは今日の形になりました。

ソ連、ついでロシアの黒海艦隊は
2017年までセヴァストーポリの軍港を借用できることに
なっています。

このときが近づくにしたがって、
ウクライナとロシアとの関係、
さらにはNATOとロシアの関係が、
もしかしたら危機的状況になるやも知れません。

その場合ロシアとNATOとの関係は、
今回のグルジア問題よりも決定的で深刻な対立になるでしょう。

さて、私が聞きたいのは、
このクリミア半島がどのようにして
ウクライナのものになったかなのです。

クリミア半島は旧ソ連領内で、
めったに零度以下の気温にはならないという
すばらしい場所です。

私は一度は空路で、もう一度は、
ナポリから、ピラエウス(アテネの外港)、
イスタンブール、ヴァルナ(ブルガリア)、
オデッサ(ウクライナ)を経ての
船旅でした。セヴァストーポリに行ったのです。

 もちろん、保養地ヤルタにも行き、
1945年2月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンが
秘かにドイツ敗退後3ヶ月以内の、
ロシアによる対日参戦を決めたサナトリウムも訪問しました。

教科書にも出ている、
3巨頭記念写真を撮影したあのベンチにも座りました。

あそこが、今日の日露関係の起点を作ったところです。

それはともかく、クリミア半島がウクライナ領になったのは、
フルシチョフが、
ウクライナ出身の夫人の誕生日に
これをウクライナにプレゼントしたという話を
時々、聞くのです。

その真偽、どなたかご存じないでしょうか。
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