フルートの変形版は? [2008年02月29日(Fri)]
これは、コード名「三文楽士」さまに伺うべきことかもしれません。
フルートはどうして、縦笛に出来ないのでしょうか。吹き口はそのままにして、すぐL字型に曲げたほうが、はるかに吹きやすいというか、少なくとも方が凝らないのではないでしょうか。
私は中学1年のときからクラリネットをやり、いまでもときどきフルートを弄るんですが、あの右側に持っての横笛というのがどうにも不自然な姿勢のように思えるのです。
尺八みたいに、正面で吹けたらどんなに楽でしょうか。
サキソフォンの演奏者は独奏や少人数での合奏の場合に、しばしばフルートとの持ち換えをしますね。運指がほとんど同じだから簡単なのかもしれませんが、なんとも、サックスのほうが姿勢の面で吹きやすいそうなのです。
尺八式の発音ではまたいろいろ違ってくるのかもしれませんが、さまざまな手を加えた木管楽器というのはないものなのでしょうか。
管楽器通の「三文楽士」さま、是非、教えてください。
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吹浦 忠正
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クラスター爆弾への見解 [2008年02月29日(Fri)]
米軍が開発したB1ランサー戦略爆撃機で 散布される、クラスター爆弾。 クラスター爆弾。 写真はいずれもウィキペディアから。 ブログネーム「蜜柑」さまより、クラスター爆弾についてどう思うかという質問がございました。
以下、深呼吸してから、一気に書きます。
クラスター爆弾を何とかして規制しなくてはならないという根本については私は異論はありません。
この爆弾は親爆弾のなかに多数の(最高644個)子爆弾を詰め込み、空中で分散させて敵の戦闘能力を一気に破壊するという仕組みのものです。
思えば、日本は第二次世界大戦中、モロトフのパン籠」(→M69集束焼夷弾)と呼ばれた集束焼夷弾による、空襲を受けた国です。これは一種のクラスター爆弾で、40発前後の焼夷弾を上空 700 m付近で爆散させ、逃げ惑う市民を焼き尽くしたのです。
印パ戦争やベトナム戦争では、「ボール爆弾」と呼ばれていました。ウィキペディアによれば、「爆弾本体に野球ボール程度の大きさの子爆弾が300個ほど内蔵され、その子爆弾ひとつにつき600個ほどの金属球が入っており、これが爆発によって飛散する」とありますが、私は実際に戦場でその被害を見、体験したことを、当時の拙著『血と泥と―バングラデシュ独立の悲劇』に書いてあります。
敵の歩兵に対して使用すれば、殺傷効果抜群の能力を持っています。例えば、一昨年夏に、イスラエルが行なった南部レバノンへの攻撃でも明らかです。
しかし、いかんせん、その不発率が10〜40%と言われ、精度が低いのが問題です。
このため多くの不発弾が地上に残り、平時になってから、戦闘員と非戦闘員の区別なく、2次被害を発生しやすいという難点があります。
世界的に多くの国や国際機関がクラスター爆弾の製造、備蓄、使用を禁止しようとしています。ICRC(赤十字国際委員会)は昨年の10月、早急に国際条約で禁止されるべきであるという声明を発表しました。
ただ、基本的な考え方については大枠で一致しても、現実的にどう規制するかについては、その定義からは始まって、なかなかまとまりません。大きな流れが2つあります。
@ CCW(通常兵器使用禁止制限条約)に組み入れようとするもの、 A ノルウエー政府が主導している急進的禁止をめざした「オスロ・プロセス」 の2つです。
@ は、このCCWに加盟している100カ国の全会一致でなくては決定できないという難しさと大量保有国の非協力的態度です。
A は、対人地雷を禁止した「オタワ条約」と同じように、まずできる国からやってゆこうという問題のですが、それでは同条約同様、大量保有国の参加が期待しにくいのです。
日本は今のところ、CCW方式の側に立っており、あわてずに決めてゆこうという方針です。
非人道的兵器への抑制は重要なことですが、軍事的先進国、先進工業国はこうした兵器を保有することで、自国の軍事的優位をはかろうとしているため、なかなかおいそれとは条約に参加できない事情があるのです。
わが国が先鞭を切って主導してゆくというには、その基礎となるべき東アジア情勢が不安定なのが、難しいところです。
また、核兵器の拡散がおきている今日、非核保有国の中には、自国も核を持つべきだという考え方が根強くあり、それを禁じられたままクラスター爆弾の放棄だけが先行することには不安を感じる向きもあるのです。
ですから、他の兵器との関連性、各国の対応、世界の安定、テロの制圧、国際間の協調の推進といった総合的なファクターから判断してゆかねばならない課題であると私は思います。
対人地雷禁止運動の中では、当初、消極的であった日本が大きく舵を切り替えたことが流れを変えました。
私も難民を助ける会の一員として、当時、国会や関係官庁に強く働きかけをして、対人地雷禁止の方向に向かうよう微力を尽くしました。『地雷ではなく花をください』(文・柳瀬房子、絵・葉祥明、私が、監修者)の普及にも力を出しました。
おかげさまでこの本は58万部も出、各国語に翻訳されました。もちろん純益はすべて対人地雷の撤去費用に充てました。
その意味で、各国や関係団体が日本や日本のNGOに期待することはわかりますが、クラスター-爆弾の禁止にあたっては、まだまだ詰めなくてはいけないことがありすぎるように、私は思います。
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吹浦 忠正
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刑務所と島A [2008年02月29日(Fri)]
島根県隠岐町のHPより。 かつての流刑の島の多くは今では観光の名所になっている。1963年、R・ケネディ司法長官により、財政難などを理由に閉鎖されたアルカトラズ島しかり。現在では結構な観光名所だ。対岸のフィッシャーマンズ・ワーフ近くから定期観光船が出ている。
アメリカはカリフォルニア州サンフランシスコ湾内にあるこの島、面積わずか0.076km²の断崖絶壁の小島だ。1934年、この島に連邦刑務所が出来、アル・カポネやロバート・F・ストラウド、アーヴィン・カーピスといった名だたる「名士」がいたこともある。
1850年に建設された最初の軍事施設に、西部開拓民に抵抗したインディアン、南北戦争や米西戦争の捕虜などが連れ込まれた。
ものの本によると、その後、1906年のサンフランシスコ大地震の際、市中の受刑者数百人を移したのが、軍関係以外の囚人の矯正施設になった始まり。累計34人の脱獄騒ぎが発生。しかし、周辺の潮流の激しさもあって、成功したと確実視されている例はない。
射殺7、溺死2、行方不明5で、20人は再逮捕された。5人の行方不明者の中には脱獄成功者がいるかも知れないが、公式記録上は死亡したとみなされている。内、フランク・モリスら3人の脱獄劇は後に『アルカトラズからの脱出』の題で映画化された。これだけの歴史があったら、観光資源にこと欠かない。
流人・遠流の島が観光名所になる例は日本でも同じだ。
佐渡では、722年の穂積朝臣老(ほづみあさおみののおゆ)が最初の流人。爾来、1221年の承久の乱に伴い順徳上皇が、71年には日蓮が配流され、1434年には世阿弥も流されている。
1332年には『徒然草』にも率直な物言いをする人として何度か出てくる日野資朝(すけとも)が処刑された。日野は後醍醐天皇に登用された人物で、権中納言まで上り詰めた。元弘の変にともない、佐渡で処刑された。
源為朝が八丈島に渡ったという伝説は別として、八丈島で有名な流人は、なんといっても1600年、関が原の戦いで敗れた宇喜多秀家(1572〜1655)。
爾来、前田藩の支援を受けながら同島で代々が暮らし、宇喜田家が赦免されたのは維新後の1869年。
最後の流人は近藤富蔵(北方の島々の探検家近藤重蔵の嫡男)。江戸末期から約半世紀、流人生活をし、1880年(明治13年)に明治政府により赦免となった。この間に記した『八丈実記』は諸学の研究者間に高い評価が定着している。
島根半島の北方約50キロの隠岐島もまた古くから遠流の島として知られ、小野篁、伴健岑、源義親、板垣兼信、佐々木広綱、後鳥羽上皇、後醍醐天皇などが流された。
『平家物語』に描かれた俊寛僧都は喜界島に、西郷隆盛は徳之島と沖永良部島に遠流になった。そこで没した者もいれば、赦免されてまた活躍したものもいるのは周知の通り。
内外を問わず、こうした流人の滞在は各地に文化の移転をもたらし、今日でも八丈島には、宇喜多主従以来の影響で、公家言葉や所領であった岡山の方言に通ずるものも少なくないといわれる。また、済州島には、新羅の首都・慶州の言葉が今も残っている。
銅像や記念碑が建ち、博物館や記念館ができているところもある。かつての流刑地に立ち、我と彼の人生の悲哀を重ね合わせてみるのも一興、一度は行ってみたくなるというのが人情か。
(以上は、月刊「りばらるたいむず」に「最涯の考現学」として私が連載しているもののに多少手を加えたものです。)
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吹浦 忠正
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刑務所と島@ [2008年02月29日(Fri)]
サハリンは帝政ロシアの流刑地であった。 当時の囚人の写真。サハリン郷土史博物館で。「矯正統計年報」によれば、2006年度のわが国の1日平均受刑者数は8万335人。
ところが、人口が日本の2倍超であるアメリカの刑務所には200万人以上もが収容されている。これはアメリカの4倍もの人口中国より50万人も多い数だ。
「自由と民主主義の国」の代表とも言うべきアメリカと、一党独裁、人権抑圧が言われる中国とのこの数字は何を意味するのか。
犯罪の多さ、取締りの適正さ、矯正施設の多寡などから来るだけ断じていいのか、もっと文化人類学者社会学的に研究されるべき奥深いものがありそうだ。
日本では、隠岐島、八丈島、佐渡島、喜界が島、奄美大島・・・と聞いただけで、多くの歴史上の人物の遠島・流人としての苦難や復帰を含めた悲喜劇のドラマが思い浮かぶ。
現在、全国に60刑務所、8同支所、8少年刑務所、7拘置所、104拘置支所の矯正施設がある。しかし、ほとんどの矯正施設は内陸部にある。府中、網走、札幌、盛岡、宮城、栃木、名古屋などだ。少なくとも岬やや島嶼部には例外的にしか存在しない。
島にあるのは、沖縄県知念町にある沖縄刑務所のほか、同石垣市にある八重山刑務支所、さらには佐渡、奄美大島、宮古の各拘置支所くらいのものだ。伊豆大島や小笠原諸島には矯正施設はない(法務省矯正局広報担当)。
罪人を島に流すということはもちろん、日本に限ったことではない。
近隣の国でも、「南の隣国」台湾では1970年に、台湾の各刑務所の問題囚を離島に隔離し、厳格に矯正することとし、台東から約33キロの距離にある太平洋上の火山島・緑島に刑務所を創設した。
重罪の者、公安・治安関係の囚人、暴力団の幹部などがこの島に送られた。
日本統治時代の1930年、緑島には鰹節生産工場が建設されて、活気を呈した。他方、刑務所が建設されたころから、鹿の養育事業が始まり、かつては住民よりも鹿の数が多いほどだった。その後、鹿は野生化し、これまた観光資源なっている。
ベトナムのコンダオ島は本土から約180キロの南シナ海洋上にあり、南部の港町カントから船で3時間ほどで行くことができる。
フランス統治時代や南ベトナム(ベトナム共和国)時代には政治犯収容所が設置され、残忍な取り扱いが問題になっていた。昨今は、東南アジア有数の人気リゾート・スポットに変りつつある。
韓国では済州島が流人の行き先だった。軍事境界線以南では最高峰である標高1950mの漢拏山を中心に、卵形をした島。「石と風と女が多い」ことで「三多島」と言われ、「泥棒と乞食と(泥棒を防ぐ)大きな門のない」ので「三無島」とも呼ばれている。
噴火により火成岩が多く、台風と季節風の通り道なので風が多く、漁労のため海に出て遭難するなど男の死亡率が高かったことに由来しているとされる。厳しい条件は逆に、人心を温和にし、共同体意識をはぐくむ。
済州島もまた、今では、さまざまな娯楽・観光施設が設置され、成田・関西・福岡・中部、北京などの空港から頻繁に定期便が飛んでいる。就航している。「済州の火山島と溶岩洞窟群」として2007年に世界遺産に登録された。
オーストラリアがイギリスの、サハリンは帝政ロシアの流刑地であった。
文豪チェホフは、病身をおしてサハリンに赴き、炭坑での政治犯や元囚人の就労状況をつぶさに調査し、『サハリン島』にまとめて発表し、その待遇改善を訴えた。
犯罪者の急増で収容施設が満杯になっている今、島をあずかる自治体では、「わが島に刑務所を!」という働きかけに熱心だ。
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吹浦 忠正
at 14:57 |
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赤十字の普遍化 [2008年02月29日(Fri)]
赤十字旗「紛争下における人道支援と平和構築―普遍的価値の実践をめぐる考察」という、時宜を得たシンポジウムを、東京財団が外務省と日本赤十字社の後援で開催した。
メイン・スピーカーが折から来日中のICRC(赤十字国際委員会)のヤコブ・ケレンベルガー委員長(「総裁」と呼んでいたことは疑問)。
日本側から、緒方貞子JICA(国際協力機構)理事長を中心に、岩沢雄司東大教授、鶴岡公二外務省地球規模課題審議官が出席し、北岡伸一東京財団主任研究員(東大教授)がモデレータを努めた。
ケレンベルガーさんの基調演説は、はっきりいってつまらなかった。ICRCの基本的な情報を提供した以上のものはなかったので、クラスター爆弾についても、「これを禁止する方向で努力している」という程度であり、「赤十字の中立は人道的活動へのアプローチを容易にする手段だ」といった具合で、特記すべき新鮮な内容ではなかった。
むしろ、「日本はもっと資金援助を」というホンネがちらついて面白かったくらいだ。
緒方理事長は81歳というご高齢にも関わらず(といっては失礼か)、まことにタイミングよく、高い内容の発言をしてくれた。
「同じジュネーブに本部を置くUNHCRとICRCは最も協力しあった仲で、連日、各レベルで協議しているが、おのずとの近さと違いがある」
「HCR時代は開発援助の遅さに困惑したが、いまは開発援助の側にまわり、平和の実感が平和構築の基礎であると考えるに至っている」
「JICAは最近、南スーダンのジュバに船着場を造ったが、こうした援助が、人道問題の解決と平和構築、開発の基礎となる」
「南スーダンには日本のNGOが10団体くらい来ているが、こうしたメンバーに活動の場を設定するのもJICAの職務と考える」
「人間の安全保障という考え方はグローバル化時代の価値の再構築ということである」・・・
このほか注目すべき発言は、北岡教授の「紛争後の人道法違反による処罰の厳正化が平和構築の妨げになる可能性について考えてみるべきだ。それによって紛争がむしろ長引く場合がある」であった。
このテーマは別途、慎重に検討され、討議されるべきものと思う。
フロアからの質問者の一人として、概要、私は次のように述べた。
「35年ほど前、1970年代の初めに私は、日本人として初めてICRCの代表を務めていた。当時は、今後、日本人がICRCの活動現場や本部に大いに進出するかと期待していたが、それはあまりに狭い門であった。各パレリストは本日のテーマとの関係で、日本人のジュネーブ進出についてどう思うか。それを妨げている要因はなんであろうか」。
鶴岡氏は、 「ICRCはノーベル平和賞を3回授賞し、創立者アンリ・デュナンの個人受賞を入れると4回も受賞しているが、所詮、スイスの1NGOである。そこが西欧キリスト教文化の価値観で動いていることは、赤十字の標章そのものの経緯からでも明らかだ。そこに日本人が加わってゆくことは、ICRCの価値観の普遍化という文明史的意義がある」と述べ、 北岡教授も概ね、同様のまとめをした。
私がバングラデシュやインドシナで国際赤十字の駐在代表を務めたときでも、日々、西欧キリスト教文化の価値観で動くことが、何より疑問であり、ストレスであり、苦痛であった。
例えば、ヘリコプターをドイツからバングラデシュまで来航させ、救援物資である食糧を空からばら撒き、それに当たって子どもが死んでも、「小の犠牲で大が救われればいい」と平然と言う同僚には、辟易した。
私は、デルタ地帯であったこともあり、200人の現地人ボランティアと協力して、手漕ぎの小船で農村地帯を周ることにした。
ここでは、1つの具体例しか挙げてないが、「ICRCの価値の普遍化」というなら、そういうことから事例研究をたくさんする必要がある。
日本人がもっとこういう意識で、つまり、グローバルな価値の創設という目標を持って、発言してゆく必要があろう。
折から、来年、2009年は、赤十字の創立者アンリ・デュナンが戦時救護を発想したソルフェリーノの戦いから150周年、ICRCがスイスの枠から大きく飛躍して普遍化することを少しは考えていいのではないか。
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吹浦 忠正
at 13:22 |
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ロシアの若者たち [2008年02月29日(Fri)]
「早春賦」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で 掲載させていただいております。禁無断転載。
近着のロシア誌「論拠と事実」第4号中に、「ロシアに麻薬で登録されているもののほか、アル中の少年少女が大勢いる」という記事が出ている。
いわく、 ◎ 15〜17歳の若者のうち、9万1千人が、また10〜14歳の子どもうち、2万人が麻薬局のリストに登録されている。
◎ 2500人以上の未成年者(17歳以下)がアルコール中毒と診断されている。
同誌は、「医者にはかからず、家庭内で抱えているものを含めると、実際はこの5倍はいる」と断じている。
原因の1つは、ビールを法的にアルコール飲料としていないことであるというのだから、「お国柄」の違いには驚く。ビールだって量を飲めば、摂取アルコールの分量はドンドン増えてゆくことは言うまでもない。
また、ロシアでは最近でこそ少し減ったとはいえ、それでも、路上での飲酒がしばしば見られる。若者が缶ビールを飲みながら街頭をふらふら歩いている姿は珍しくはない。
日本より激しい少子化が進んでいるロシアで、この若者を誰が立ち直らせるのであろうか。国の危機という意識がとぼしいのではないか。
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桜をめで続けた日本人 [2008年02月29日(Fri)]
「やっと春が」。挿画は石田良介画伯の特段の ご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。 さらに兼好は、139段で「家にありたき木は松、桜」と、 この時代、桜が松と並んで好んで邸内に植えられる樹木になっていたことを記し、 次のように桜を評している。
花は一重なるよし。八重桜は奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆これ一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたくねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜またすさまじ。虫のつきたるもむつかし。
東京では、弁慶橋を渡りホテルニューオータニと清水川公園(大久保利通遭難の現場。大きな記念碑がある)に八重桜の並木があり、4月後半は名所となっている。
私が歌をご指導いただいている松田トシ先生のレッスン場はまさに、そのど真ん中。今年は4月20日に発表会があり、この歳で「最新人」たる私は、満開の八重桜の並木道を、諸兄姉弟子に迷惑をかける度合いを少しでも少なくすべく、今から励まねばななない。
政府主催の「桜を見る会」はいつも新宿御苑で開催され、何度もお招きをいただいたが、ソメイヨシノの散り果てた時期になることが多く、いささか私の好みではない八重桜で「がまん」するほかない。 左近の桜は 室町時代にはや花見の宴が流行(はや)ったし、続く、秀吉(豊臣、15381〜598)の「醍醐の花見」は有名だ。 いつの時代にも桜を好む日本人 下って、松尾芭蕉(1644〜1694)、 命二つの 中に生きたる 桜哉 さまざまの事 思い出す 桜かな
桜の句がいくつもある。2代目・竹田出雲(1691〜1756)は並木宗輔(1695〜1751)とともに『義経千本桜』を書き、上演した。 吉田松陰(1830〜59)の
いにしへの大和こころを人とへば朝日に匂ふ山桜花
はあまりに有名である。
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吹浦 忠正
at 10:46 |
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混乱をお詫び [2008年02月29日(Fri)]
小さくなってお詫び。 頭の中で、百人一首の百種が混乱していました。
桜の歌は6首、そのように書いていたのを、このボケ老人は、 独り相撲で混乱していました。
再度お詫び申し上げます。
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吹浦 忠正
at 10:31 |
吹浦忠正 |
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百人一首の桜6首 [2008年02月28日(Thu)]
「春爛漫」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で 掲載させていただいております。禁無断転載。 さきほど、『百人一種』に「桜を詠んだ歌は3首」と書き、 帰りの地下鉄の中で、思い出していたら、 6つも浮かんで来ました。
帰宅後、専門書で確認しました。 お詫びして訂正します。
☆//☆///☆/★\\\\☆
まずは、超有名な小野小町の作。
花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに
続いて、『古今集』の紀友則の歌。
ひさかたの光のどけき春の日に 静こころなく花の散るらむ
詞書(ことばがき)に「桜の花の散るを詠める」とある。
もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし
『金葉集』に収録されている前大僧正行尊の歌。 心の寂しさを歌っている。
花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわがみなりけり
『新勅撰集』にある、入道前太政大臣の作。 藤原公経(きんつね)のこと。 承久(じょうきゅう)の乱の後、太政大臣に上り詰めた。 その人のさびしい気持ちを桜の散る姿に合わせて 詠んでいるところに妙味があるというべきか。
いにしへのならの都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな 『詞花集』にある伊勢大輔の歌。 詞書に 「一条院の御時、八重の八重桜を人の奉りけるを、 その折、御前にはべりければ、 その花をたまひて、歌詠めと仰せられければ、詠める」とある。 作者の教養の高さとセンスのよさに脱帽するほかない。
高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ
『後拾遺集』にある権中納言匡房(大江匡房)の スケールの大きい歌。山桜をはるかにのぞむ気分がいい。
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吹浦 忠正
at 23:02 |
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