CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2007年12月 | Main | 2008年02月»
<< 2008年01月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
追悼の言葉 B [2008年01月31日(Thu)]

英連邦戦没者墓地の墓碑銘について続けたい。




 

  誇りと永遠の愛の記憶の中で









   ご遺族と連絡が取れないのか、いらっしゃらない天涯孤独の人だったのか、
  それとも、あまりに悲しくてご遺族が、その戦没を認めたくないのか・・・
  追悼の言葉のないお墓も少しある。
  
新潟県立大学って? [2008年01月31日(Thu)]




  学長予定者・猪口孝東大名誉教授







    新潟県立大学について説明する県作成のパンフ





 県立新潟女子短期大学が来年4月に、新潟県立大学に生まれ変わる。所在地は新潟市東区海老ヶ瀬471番地の現在地のまま、国際人間学部国際関係学科と人間生活学科の2学科で発足する。
 
 まだ設立認可申請前であるにかかわらず、学長予定者の猪口孝東大名誉教授(というより、いまや猪口邦子衆議院議員の夫として有名? 失礼!)からご挨拶状とパンフレットが送られてきた。

 この学長のネームバリューで、すばらしい教授陣と学生が集まってくるに違いない。ご夫婦と親しいので、諸手を挙げて拍手したいところだが、いや、そうしつつ、ウン、自分に正直でありたい。

 ケチをつけるつもりはさらさらないが、少々面食らっているのだ。

 同教授は、私にくださるメールでもしばしば英語で書いて来てはこちらが戸惑っているから、このくらいのことで面食ってはいけないと、自ら励ましつつ、以下を書き続ける。

 まず、学部名。「国際人間」という人種でもいるのか。
 英語ではなんと言うのか。

 そこに「人間生活学科」とあるが、生活とは人間がするものであり、「犬生活」や「猿生活」とは、通常は言わない。

 そういえば、大学名も、「新潟県立大学」としながら、Niigata International University(NIU)というのだそうだ。

 私は以前、埼玉県立大学教授だったので、覚えているが、あそこは、Saitama Prefectural
Universityといっているはずだ。

新潟にはすでに、国際大学International University of Japan もあれば、国際情報大学もある。

 よほど国際がお好きなようだが、こういう県に限って、えてして「国際」が大好きだと、東京の人には必ずバカにされるだろう(私は秋田のイナカッペなので、決してバカにはいたしません、はい)。

 実際に認可するかどうか、大学審議会や文部科学省のセンスを拝見したいもの。

 これを先に書かなくてはいけなかった。

 構想の中身はすばらしい。このとおりできたら日本1の大学になろうというほどいい。
(1)「キャリア形成型理主モデル」の提供
(2)英語教育の重視
(3)社会人・教養人としての素養習得の重視

 この3つも輝いている。

 国際的に活躍する人材をどんどん輩出してくれそうだ。創設・開学が待ち遠しい。
 
ロシア人の子供 [2008年01月31日(Thu)]








     日本の子供は幸せ?
     記事と写真は関係ありません。



 一昨日、新年賀詞交換会に出席させていただいた日本対外文化協会(松前達郎会長)が発行している「JCAニュースレター」(1月25日付)に、「ロシアの子供100人のうち」という、興味深い記事が出ていたので、紹介したい。「2006年の戸籍資料」からとある。

◇ 法的婚姻関係にある両親から生まれた子供は、32人
◇ 内縁関係で生まれた子供のうち、男性が認知した子供は31人
◇ 出生証明書の父親欄が無記名の子供は37人
◇ 夫婦の52%が離婚
◇ つまり、法的婚姻関係にある両親を持つ子供は15〜17%。

友人・知人を見てもこうした傾向はあるとは思っていたが、ここまでとは知らなかった。

近未来の日本? まさか。悪い冗談は言わないでね。
「美しき天然」は天下の名曲 [2008年01月31日(Thu)]









『美しき天然』は本来、詞も曲もすばらしく、天下の名曲であると私は思う。

 1892(明治25)年、あまざかる鄙にうまれし生まれ
わが雷オヤジ唯一の「持ち歌」で、
晩酌後にご機嫌なときはこれが出るのだった。

 曲馬団(サーカス)のジンタになったことには
かなり腹に据えかねるところがあったらしく、
「本当は格調高いいい歌なのになァ」と嘆くことしきりだった。

 私だけではない。例えば、
2002年に芹洋子が出した愛・夢・懐・憂・癒・望の6部から成るCDでも、
「懐」編の冒頭がこの曲。
『早春賦』『さくら貝の歌』『故郷』『浜辺の歌』などの並ぶ中での
構成である。

『美しき天然』はメイド・イン・ジャパン最初のワルツ。

 おそらくは鹿鳴館華やかしき頃、
ヨハン・シュトラウス父子やイワノヴィッチ、レハールなどによる
ウィーン・ワルツの影響を受けて作られたものではないだろうか。

 ご承知のように、
鹿鳴館は1883(明治16)年に完成、夜な夜な華麗なる円舞が続いたが、
90(同23)年に宮内省から華族会館に移管、
そして94(明治27)年には同会館に払い下げられ
「鹿鳴館時代」は名実ともに終わった。

 その後、6、7年目に『美しき天然』が出来た。

 1900年に創設された長崎県の
佐世保女学校(現・長崎県立佐世保北高校)の校長が
同地の海兵団海軍軍楽隊長の田中穂積(1855〜1905)に
曲を依頼したところ、
田中が武島の詩を選んで曲を付けて完成したものである。

 だから、鹿鳴館で『美しき天然』で「貴婦人」たちが円舞した
ということでははない。

 この曲は軍楽隊の演奏から始まったのだが、
ほどなく楽譜が発売され全国の女学生や愛好家に広まり、
折から活動写真(もちろん当時は無声映画)の上映がスタートし、
その館内伴奏曲として演奏された。

 さらにこれが曲馬団の客寄せの曲となって、
広範な大衆に受け入れられるところとなった。

 金田一春彦は、『日本の唱歌』で、
それによって「一層大衆的となり、
同時に品位が下がったのは残念であった。」

「武島羽衣のものだけあって、辞句の整った高雅なものだったが、
こうなるとそれはまったく忘れられ
、メロディーだけの音楽になってしまったが、
モダンなワルツのリズムの中に、
日本人好みの静かな短音階の旋律が郷愁を呼び起こしたところに、
この曲が歓迎された原因があった」と分析している。
                         (つづく)
日本民謡に3拍子なし [2008年01月31日(Thu)]





 日本の民謡には3拍子はまったくないのではないか。

唯一の例外と思われるのが『五木の子守唄』。それさえ、途中から4拍子か2拍子になるし、はじめから強引に2拍子にしてしまう人がいるほどだ。

唱歌・童謡の分野でも、でも決して多いとは言わないが、明治末から大正期にかけて結構、3拍子の名曲が誕生している。

まず、『庭の千草』(里見作詞)。『The Last Rose of Summer』というアイルランド民謡にバラを白菊に変えた詞を付けたもの。

メロディーの美しさに1884(明治17)年の『小学唱歌集』での発表以来、日本人、特に女性の人気をさらった歌だった。

わが母もよほどこの歌が気に入っていたとみえ、私が中学生になってほどなく、日英両語で練習させられたのを憶えている。わが歌唱力のなさを嘆じるほかない難曲ではあるが。

金田一春彦によれば、ベートーベンはこの曲を、バイロンの詩を用いて『二十のアイルランド歌曲』の第6曲に編曲し、メンデルスゾーンはこれによって『ピアノ幻想曲』を書き、フロートーはこの旋律を主要動機にしてオペラ『マルタ』を書いた、とのこと(『日本の唱歌』)。浅学非才な私はまだこれらの曲を聞いたことがない気がする。

次に登場したのが『港』(旗野十一郎作詞、林柳波作曲)。

日本人が本当に3拍子に親しんだのはこの曲からか。広島県宇品港のめがね橋付近が詞の舞台とされている。

「平和で情緒に充ちながらも、活気ある港風景が表現されている」(長田暁二『日本のうた大全集』)というが、歌詞からみれば夜の光景なのだが、「空も港も夜ははれて」の歌詞も「空も港も世は晴れて」ではないかとずっと誤解していたし、旋律も何となく港の朝の賑わいを歌っているような明るさだ。

その後にできたのが、『美しき天然』(武島羽衣作詞、田中穂積作曲、1900年代)と『青葉の笛(原題は、と)』(大和田建樹作詞、田村虎蔵作曲。1906年)。

 こっちはわが父のほとんど唯一の愛唱歌だった。
左利きのVn.弾き [2008年01月31日(Thu)]









左利きのバイオリニストがいることを、
小欄の読者でいらっしゃる
石井様より、ご教示いただきました。

ルドルフ・コリシュという人で、
1896年、オーストリアで生まれ、1978年にボストンで
亡くなっています。
後半生は主としてアメリカで演奏活動をし、
故国でも演奏しているようです。

ウィーンを中心に活躍し、クァルテットのリーダーを務め、
また、難曲の編曲をしたりもしているようです。

もっと丁寧に調べれば、
左利きによる諸事情も解るかもしれませんが、
このあたりで勘弁してください。

石井様、いつもいろいろ教えてくださり、
ありがとうございました。これでまた1つ、知識を得ました。

英文のウィキペデイアに経歴が出ていましたので、転載します。

Kolisch was born in Klamm, Lower Austria and
raised in Vienna. His father (also named Rudolf Kolisch) was
a prominent physician and a Dozent at the University.

Following service in World War I, Kolisch
attended both the University and the Musikakademie,
where he studied violin with Ottokar Ševčik
, composition with Franz Schreker and
conducting with Franz Schalk,
intending at first to make a career as a conductor.

In 1919 he began studying composition with Arnold Schoenberg,
who soon put Kolisch to work i
n the "Society for Private Musical Performances in Vienna"
(Verein für musikalische Privataufführungen in Wien).

This led to the creation of a string quartet ("Wiener Streichquartett")
which had the purpose of performing Schoenberg's music,
but also performing the classical string quartet repertoire
in a manner which would take into account the principles
of Schoenberg's teaching;

Schoenberg himself directed many rehearsals of this quartet.

By 1927 the ensemble had become known
as the Kolisch Quartet.

Numerous works were written for this ensemble by composers
including Alban Berg, Anton Webern, Schoenberg, and
Béla Bartók.

Stranded in New York by the entrance of the United States
into World War II,
Kolisch at first tried to keep the Quartet together.

When this failed, he took a position on the faculty of
The New School, lecturing on "Musical Performance:

The Realization of Musical Meaning" and
co-founding (with Otto Klemperer) a chamber orchestra
at the school,
with which he gave the first U.S. performances of
Bartók's "Music
for Strings,

Percussion and Celesta," Igor Stravinsky's "l'Histoire du Soldat" and
Schoenberg's Chamber Symphony No. 1.

During this time he prepared the ensemble and
participated in the recording of Schoenberg's "Pierrot lunaire"
conducted by the composer,
and researched and wrote an article

, "Tempo and Character in Beethoven's Music"
which was presented to the New York chapter
of the American Musicological Society and
later published in two installments
in the magazine "Musical Quarterly".

In 1944 Kolisch was invited to the University of
Wisconsi-Madison to become the new leader
of the Pro Arte String Quartet
(apparently the first "Quartet in Residence" at any U.S. university).

He was also granted a full Professorship.

In the 1950s he began to tour in Europe again as a recitalist,
and he became a member of the faculty
at the Internationale Ferienkurse für Neue Musik
in Darmstadt, Germany,
along with his close friends
and long-time associates Eduard Steuermann and Theodor Adorno.

Except for one year (1956) spent in Darmstadt,
he remained active in Madison until
reaching the mandatory retirement
age in 1966.

At that time he was invited by Gunther Schuller
to become head of the Chamber Music department
at the New England Conservatory in Boston,
where he remained on the faculty until the end of his life.

During the summers of 1974 through 1977
he also taught chamber music performance
at the annual Schoenberg Seminars in Mödling,
Austria near Vienna.

Mr. Kolisch was married in the 1930s
to Josefa Rosanska (b. 1904, d. 1986), a concert pianist;
the marriage ended in divorce.

In the early 1940s he married Lorna Freedman
(b. 1917, d. 2006), a professional violinist and violist.

The papers of Rudolf Kolisch are kept in the Manuscript Department
of the Houghton Library at Harvard University.



また、以下のwww.melma.com/backnumber_10318_1817189/ - 65kによれば、
コリシュの編曲したCDも出ているようです。

CD351 \1980
レーガー(ルドルフ・コリシュ編曲) :ヴァイオリン協奏曲イ長調op. 101
エレーナ・デニソワ(Vn)、
アレクセイ・コルニエンコ指揮
コレギウム・ムジクム・カリンティア 2003年4月録音

ヴァイオリン奏者コリシュの編曲による版は
1922年ウィーンで初演されましたが、その後行方不明になり、
1986年コリシュの遺産から発見されました。

作曲者は常に原曲を支持していましたが、
演奏の限界に近いので長い間ほとんど演奏されませんでした。

豊かな表現力でスケールの大きな演奏をしている
デニソワはロシアの優れたヴァイオリン奏者で、
グスタフ・マーラー合奏団を創設しています。
追悼の言葉 A [2008年01月30日(Wed)]





 わが愛する長男パットへの思いを込めて。
あまりに悲しいお別れです。 母











  私たちの大好きな息子に栄光を。そして、
永遠の休息と安らぎを。
追悼の言葉 @ [2008年01月30日(Wed)]


 永遠の休息を与えたまえ。神よ、そして微かな光明をとこしえに
そそぎたまえ。









   平和と正義のためにおのれの命を
  投げうって逝った。
  「汝が思い、達せられし」。






 1月14日、私は横浜に英連邦戦没者墓地を訪ねた。

 その概要についてはすでに小欄でお伝えしたので繰り返さない。

 私は世界の各地で英連邦の戦没者の墓地を始め、お墓参りをしてきた。

 しかし、英連邦戦没者墓地軍人としての階級の別なく
同じ形の墓碑(プレート)であり、
すべての宗教を尊重し、無宗教の人をも尊重した形で、
1つ1つ丁寧に作られ、永遠に見守られているという特徴を持つ。

 これは他の国ではそう簡単にできることではない。

 しかも、それぞれに、家族からの異なるメッセージが
彫り込まれているのだ。

 きょうからしばらく、私は
無作為に撮影したいくつかのプレートに掘り込まれた、
家族の想いの翻訳に挑戦してみようと思う。

 想いを凝縮した、こういう短いものを翻訳することは
私にできるかどうかわからないが、しばし、拙訳に
お付き合いいただきたい。

 そしてみなさんで、加筆訂正していただき、
ご指導していただきたい。
ロシアとの交流 [2008年01月30日(Wed)]





     「日ロ友好」に尽くしている「大女優」栗原小巻さん






      「反戦歌」を朗読中の栗原小巻さん







           美女につられて
       忘れてました。ガルージン公使が
       ご挨拶をしていました。





 北方領土問題が厳然と横たわっているとはいえ、日露の交流は大いに行われるべきだと私は思う。

 昨日は、日本対外文化協会(松前達郎会長)主催の新年賀詞交換会が東海大学交友会館で、きょうは、日ロ交流協会(有馬朗人会長)・駐日ロシア大使館・ロシア国際文化科学協力 センタ−駐日代表部共催の日ロ合同新年会が駐日ロシア大使館で開催され、両方に出席した。

 昨日の会合は参会者のほとんどが男性で、学者、ジャーナリスト、外交官が多く、きょうは、振袖姿の「妙齢の美女」も多く、絵画展なども開かれて、いかにも文化的な香りが高かった。大使館に付設しているロシア人学校生徒の踊り「ロシヤンカ」も梅后流お江戸芸の「かっぽれ」も結構なものと楽しんだ。

 女優の栗原小巻さんも参加して、日ロ交流協会顧問として挨拶していた。

 あの方は、確か、「おろしあ国酔夢譚」など日ソ合同映画に3本出演しており、ロシアでの評判はすこぶる高い。昔から、ソ連(ロシア)大使館の会合ではしょっちゅうお見かけし、われら男性人ばかりか、女性たちからもためいきがもれた。

 世にサユリストやコマキストがいたわけで、それはそれはその都度、目の保養をさせていただいたが、きょうは、挨拶の後で、突如、「それではここで」と与謝野晶子の「君死に給ふことなかれ」の朗読を始めた。

 いうまでもなくこの詩は日露戦争時代の「反戦歌」。おそろしく場違いで、シラケることおびただしい。美女もこれでは台無しである。

 大使館の友人にも感想を聞いたところ、「驚きました。美人はいいですね。みんな我慢するから。私がやったらみんな帰ってしまうでしょうね」と笑っていた。

 私はサユリストでもコマキストでもないが、美人には美人として注目されることに対する責任があるんじゃないのかな。
アリラン、魂を揺さぶる名曲 [2008年01月30日(Wed)]




 シューベルトの『菩提樹』、ブラームスの『子守歌』、ヴェルディの『乾杯の歌』、など、ヨーロッパの歌曲には3拍子の名曲がたくさんある日本の抒情歌には、明治になってから作られた西洋音階の歌の中に、時に3拍子の名曲がある。

 しかし、ここではまず、韓国の3拍子の歌について書くことからはじめたい。

『アリラン』は魂を揺さぶる歌である。

朝鮮半島の人たちがこの歌をどんな思いで聴くか、歌うか、演奏するかについてはいろんな友人・専門家から話を聞いたが、最終的に、「日本人(イルボンサラム)にはわからんと思うよ」といわれてしまう。

東洋でも、朝鮮半島の曲には、日本でもよく知られている『アリラン』や『トラジ』のように3拍子の曲が多い。

同じ3拍子の英国国歌『God, Save Our Gracias King(女王在位の場合はQueen)』も早くからさまざまな替え歌になって、同半島全体で愛唱された。独立回復後の韓国の歌にも「サランヘタンシヌン(愛するあなた)」の歌詞で始まる『愛するマリア』をはじめ、大流行した歌謡曲調のものにも結構、3拍子の曲がある。

『アリラン』はどこの峠を歌ったかは必ずしも明確ではないまま南北分け隔てなく愛唱され、日本にも多くの愛好家がいるし、今ではこの民族の象徴ともいうべき歌となっている。

さらに、全羅道の『珍島(チンド)アリラン』をはじめ各地に、いずれも3拍子ではあるが独自のアリランの歌があって、愛唱され、演奏されている。実際には、朝鮮半島に「アリラン」という名の峠がないというのも、想像力が働いていい。

私が最近読んで感動した本の1つに、赤羽礼子・石井宏共著の『ホタル帰る』(草思社)がある。

2001年には高倉健の主演で映画にもなった。知覧(鹿児島県)の特攻基地の近くで軍の指定食堂を経営する鳥浜トメと出撃を控えた特攻隊員との実の母と息子のようなやりとりを描いたものだ。

トメは「特攻隊員の若者たちを無私の愛と責任感で包み込んだ女性」と山内昌之東大教授は日本経済新聞(2002年8月26日)に書いている。

その第7章は当時の朝鮮人・光山文博(卓庚鉉)少尉のこと。

出撃前夜にこの歌を歌い出した。「光山の調子は、聞いたこともないほど悲痛なものであった。ゆっくりと、しぼりだすように歌っている。

一緒になって歌っているうちに、トメも娘たちも悲しくなって、歌はそっちのけで、わあわあ泣き出してしまった」。

映画ではこの後、『故郷の空』(スコットランド民謡)が、光山の締め付けられた心に昂然と愛郷心を呼び起こすように流れる。

戦後、トメは日本や韓国で光山の遺族を捜し求めたが、1992年に89歳で亡くなった。95年になって韓国のテレビ局が遺族を探し出し、娘である赤羽礼子に知らせ、対面が果たせた。

これが映画のラストシーンとしてさらなる感動の涙を誘う。駐日韓国大使館でも上映され、大使以下の館員も目を潤ませて鑑賞したとのこと。

この映画は日韓両国の新しい関係構築に一役かっているのかもしれない。

『アリラン』の歌は韓国で幾度も聞いたが、いつも感動させられる。

また、歌う人によってかくも違う情感が出せるものかと思うほどの名歌名曲であり、日本人である私も魂を揺さぶられる思いがする。

これからも朝鮮半島全体で歌い継がれることであろう。
| 次へ