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捕虜第1号 G [2007年10月31日(Wed)]











―― 収容所内での病気や戦地から続いての負傷者の例などはどんな様子でしたか。
酒巻 マラリアはもちろん熱帯病や伝染病の人はたくさんいました。負傷した人、大怪我の人、いろいろいますが、米軍側が適切に治療し、入院もさせました。
 肺結核になって、ニューメキシコのキャンプのほうの結核療養所のようなところへ行った者が10人余りいます。

―― 米軍側とのトラブルはいかがでしたか。
酒巻 「掃除をやれ」というわれたときの態度が悪いといって番兵と口論になり、撃ち殺された例がありました。あとは私を含め営倉入りはたくさんありました。

〔注〕「ここが汚れておるじゃないか」と、番兵からいわれる。ほうきを投げ出して「そこを掃け」。そのいい方が気に食わん。日本人に対する侮辱だ、日本軍人に対する侮辱だということで、それやっちまえ、でなぐりかかったわけですよね。そうしたら向こうはパパーンと射ってくる、殺されちゃった。こういう類のことがある。
<小野田寛郎・酒巻和男対談集『遥かに祖国を語る』時事通信社、117頁>

―― 自殺を企てた者はいないですか。
酒巻 そういうことを起こしがちだったので、われわれが努力して起こらないようにしたんです。幸い私が直接管轄しているところでは全然ありませんでした。ただ私のところから離れていったところに、今の番兵と口論して死んだということがあったのです。
 私は、つまらない死に方をするな、もっと大きい目標をねらわなくちゃいけない。大儀に生きた死に方をしてくれ。大石良雄はあざけり笑われても辛抱して、大目標、大儀に生きた。われわれが生きているのは天から生かされているのだ。つまらない死に方をするな、とこれが私の説得の論旨です。これを兵隊たちに教えました。それで無事みんな帰りまして、復興に尽くしたのですが、ともすれば目の前の小さな事がらのため興奮してしまう。

―― 捕虜どうしの仲違いやトラブルもいろいろあったようですね。
酒巻 サイパンだったか、スマトラだったのか・・・・・・降服勧告があったとき、「勝手に手を挙げて出て行ったじゃないか」「そのときおまえがうしろで銃を撃ったじゃないか」というトラブルもありました。その撃った者も、またその翌々日に出て来たのですね。「何だ、同じことじゃなか」。けれどそういうことから仲違いをし大げんかになりました。「帰国したら、おまえをやっつけてやる」なんて最後までいっていました。それも個人的なつまらないことです。けれどもね、本人にしてみれば生命賭けの話です。

―― それはキャンプ内のことですか。
酒巻 キャンプ内のことです。私のところにいる間はそのようなことがないように努めていました。しかし、私から離れてから脱走を試みたのですね。いたたまれなくなったのでしょう。

―― どちらですか。撃ったほうですか。先に逃げたほうですか。
酒巻 先に逃げて撃たれたほうです。どちらかというと、捕虜観においてアメリカナイズされた考え方の人間ですね。日本的な思考が好きな者の考え方ではない。収容所内の捕虜はほとんど全員日本式な考え方ですから、皆にいわれていたたまれなくなったのでしょう。それで労働作業中に、みんなの間をくぐって逃亡しようとしたんです。逃亡したからとて自分が思うところに行きつくということはできないんです。
 だから、そういう馬鹿な事は考えるな、馬鹿げた企てをするな、といっていたのです。ただ、そうはいっても、いたたまれないで逃げ出す。しかし、結局、米軍側の管理事務所に戻ってきた。「助けてくれ」といってね。

―― それは兵ですか。
酒巻 兵です。兵どうしのトラブルです。

―― しかし、本人にしてみれば深刻な話ですね。
酒巻 殺すか、殺されるか、ですからね、今でいうリンチです。いうならば簡単なリンチで生きるか死ぬかという事態になるわけです。
 のちに将校と下士官が遠方のケネディ収容所(テキサス州)に移されてからは兵のみとなり、統率にかなり問題があったようでした。われわれがマッコイ(ウィスコンシン州)にいた時はとにかく日本人として恥しくない態度をとらせましたが・・・・・・。

―― 私もベトナム戦争や印パ戦争で国際赤十字の代表として捕虜の管理、保護をやったのですが、そのとき感じたことは、とにかく捕虜の組織を大事にし、捕虜代表のいうことを最大限尊重する以外に、捕虜をまとめていくことは至難だということです。生活習慣、文化、宗教、言語の違う者が自分の物差しで管理することには大きな無理があります。その収容所の捕虜代表にいい人がいる場合は本当に助かりました。
酒巻 そうでしょうね。あの当時の日本人捕虜の場合やはり統率する者がしっかりしていなければダメでした。
ハワイの花景色 A [2007年10月31日(Wed)]
 ハワイで出会った花です。こういうのが、庭先や軒先で
咲いているんですから、散歩が楽しかったです。



























チャリティ行事の出演料 [2007年10月31日(Wed)]






 寛仁親王(ともひとしんのう。三笠宮家のご長男。宮号なし)が
会長を務められる柏朋会主催第31回
「愛のコンサート・現代一流のプロと天才少年ドラム奏者の夕べ」
に参加した。

 寛仁親王が直接関わっているもので
最も力を入れている1つである。宮様の理念がいい。

「さまざまな会合に出て違和感を感じる」というのが原点とか。
それは、
@ 主催者、
A 寄付先の人々、
B 聴衆
に「何のつながりも感じることができなかった」と
感じていたから、自らがはじめた
とおっしゃるのだ。

めざすは「三権分立」ではなく「三権融合」なのだとか。

 つまり、出演者が福祉を理解しているのか、
聴衆は楽しみだけで来ているのではないか、
といった心配があったとお書きになっている。

 100回近く同様のチャリティ行事に関わってきた者として
これには多少異存なしとしないが、
全面的に否定するわけでもない。

 そこからの宮様のエネルギーがすごい。

「そこでわれわれは」と主語を置き
(「われわれ」とは、司会者である神津善行さんらとのことか?)、
「秘密裏にステージを見に行き、技術を確かめ」
「我が家にお招きして徹底的に私が説得し」たというのだ。

「年に1度くらいはノーギャラで」と説得し
「快くOK」した方のみ、出演していただいたのだという。

出演してくださる方のギャラの問題は実に難しい場合がある。
難民を助ける会の場合、古くは石井好子さん、森進一さん、
小澤征爾さん、ロストロポービッチさん・・・
最近では中村紘子さん、天満敦子さん・・・などは
ノーギャラだが、
事務所が介在し、関係者がいろいろありといった場合は、
楽器の運送費(実費)とか、
(特に名を秘すが)「お化粧代」が必要な場合もある。
出演後、ボソボソと「無料出演のはずでしたが、
諸事情がありまして・・・」と請求してくる、呆れた人もいた。

 柏朋会では、入場券の販売についても、
宣伝せず、プレイガイドに頼まずというやり方で、
つまり口コミだけで、
芝公園の「ゆうぽうと」を超満員にしている。
大変な組織力であり、積み重ねの賜物であると感心する。

 私は毎年のように出かけているが、
今回はプログラムも知らないまま、
「30代の美女」二人に誘われて出かけた。

ところが、出演したのは、
日野皓正(トランペット)、
山下洋輔(ピアノ)、
渡辺香津美(ギター)
のトップスター3人に、
邦楽から藤舎名生(笛)、中川秀亮(太鼓)の父子。

そして圧巻は、
和丸(16歳)、石若 駿(15歳)、鬼束大我(9歳)の3少年の
ドラムの競演。前日は遅くまで論文を書いたりしていたので、
詰まらなかったら寝るか帰るかくらいのつもりで行ったのが、
これで「目が覚めた」。

 それにしても宮様の健康が心配だ。
8回もの手術をされ、ご自分の歯は1本だけとやらで、
お声もふだんとは随分ちがっていた。
体重も随分減ったようにお見受けした。
それでもこの催しには特段の力を注がれている。

  ご自身でもまだ5分の回復だとおっしゃっておられた。
ご全快と再発なきを祈念する。

  日野皓正さんと宮様となると、
私は、6,7年前のわが大失敗を思い出して赤面する。

  難民を助ける会が主催した
日野さんと航空自衛隊音楽隊とのコンサートが
昭和女子大で開かれたときのことだ。中間の休憩時に、
私との昔話が盛り上がり、
2部に完全に遅れてしまい、
暗い中を手探りで入場したのだった。

 日本各地で、
もっともっとチャリティの文化が栄えることを
願っている。

 皇室がそうした傾向に先鞭を付けてくださっていることに
感謝したい。
ワイキキの浜辺 [2007年10月30日(Tue)]
































 きょうは私にしては珍しく、公私ともつきについていました。

 それでお調子に乗ったのか、
いささか過激な写真をブログに掲載しました。
多少、忸怩たるものを感じています。

 そんなわけで、
先日、撮影してきたワイキキの浜辺の写真を3枚掲載して
みなさまとともに、少し目の保養をしたいと思います。


真珠湾攻撃の報道 [2007年10月30日(Tue)]














 真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り、
捕虜になった酒巻和男海軍少尉とのインタビューを連載するのに、
軍艦旗を出したところ、
少々、やりすぎとのご注意をいただいた。

 この旗にまるで、ナチスのハーケンクロイツ(鍵十字)のような
嫌悪感を感じる人もいるようなので、以後は少し気を付けたい。

 しかし、修正や撤去をする気はしはしない。

 歴史的事実を大事にしたいからだ。

 酒巻さんは、もちろん死命を賭して攻撃したのだが、
オートジャイロの故障で企図を達成できないまま、
同乗者は溺死し、
同じ使命を帯びた他の4艇はいずれも沈められて、
9人が、「軍神」として称えられた。

 二人乗りの艇で9人というのは、
当時の人々も疑問に思ったようだ。

 ここで、ハワイで手に入れた、真珠湾攻撃を伝える
ハワイ側の新聞をご紹介したい。

 そのハワイで酒巻さんはしばらく捕らわれてから、米国の本土に
送還され、終戦の翌年、日本にもどったのであった。
捕虜第1号 F [2007年10月30日(Tue)]




  帝国海軍軍艦旗は、今、
 海上自衛隊旗として受け継がれている。





 真珠湾攻撃で捕虜になった、特殊潜航艇の乗組員・酒巻和男海軍少尉へのインタビューを拙著『聞書き 日本人捕虜』(図書出版社)から転載する。連載7回目。


   ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜


  ―― しかし、酒巻さんは将校手当は少しはあったでしょうが、労働収入は非常に少なかったでしょう。
酒巻 労働収入はないですね。けれども将校にはある程度の給与みたいなのが出るし、兵隊の労働収入にしても、同じ日本人捕虜の仲間で働いているわけですから、その収入を適当に配分して、実際働いて収入を得たものは割増しにしてという感じで再配分しました。そういう枠組みを僕がつくったんです。

―― マッコイにいたある日本人捕虜の元兵士は、「とにかく酒巻さんという人は偉い人なんだ」「何でも一人で全部するんだ」といっていました。それは話ができるということもあったと思いますが、捕虜の先輩で、捕虜とはいえアメリカ生活が長く、将校だったということもあるかも知れません。「ともかく大変怖かった。怖くてたまらなかった。収容所側よりも、もっと怖かった」といっておりました。
酒巻 (笑) それくらいにしないと、内部分裂の恐れや暴発の恐れがありました。将校同士で話合い、新米の捕虜にどう訓示するかを充分検討しましたから、今でもどんなことをいったか、はっきり覚えています。


〔注〕「・・・・・・大日本帝国国民たるの本分を自覚すると共に、被収容者たるの現状に鑑み、常に恥づかしからざる言行を旨とし、紀律厳正、協力一致、明朗快活なる生活を拓き、以って優秀なる団体生活を他に垂範するの覚悟なるべし」
<酒巻『俘虜生活4ヶ年の回顧』84頁(新来の捕虜に対し、黒板に右のように書き、心得を説いたという)>

 (昭和19年11月にはマッコイの収容所はいっそうふくれ上がり)日本軍の秩序はさらに強化されて、またしても上級の者がいばりなどし、リンチをほしいままにした。
 真珠湾攻撃のとき特殊潜航艇で参加して“捕虜第1号”になった酒巻和男少尉が世話係をしていたが、この人は温和な性格で、大学生をしのばせる理知的な風貌をしていた。わたしは、こんな青年将校に従っていこう、と決めていた。
 しかし、ファシズムにしがみつく連中は、ことあるごとに収容所の番兵とトラブルをおこし、あるときは1個中隊の米兵から銃剣でつきまくられる事件のきっかけをつくる。
<森義富(陸軍伍長、昭和18年2月、ガ島で捕われ、ニューカレドニアを経て、米本土へ。マッコイで酒巻氏らと過ごす)「ガダルカナル島の捕虜日記」(「新評」昭和47年8月号)144頁>



捕虜の指導に苦労

―― (空母飛龍の機関将校だった)萬代さんも「酒巻さんや私は本当に苦労した」ということをいっていました。とくにサイパンで捕虜になった兵隊は今とまるで違い「小学校しか出ていないような者ばかりだった」とか「ぶん殴ってやらなければいうことをきかない、しつけもしっかりしていない連中」が大勢いたとのことでした。「こわくなって、話合いとか説教とか民主主義なんて考えていたら間違いだよ」ともいっていました。
酒巻 そういうことですね。そんなことだけではおさまらないですね。全く裸と裸で体を張ってつきあわなければならなかったですね。

―― そのあたりの暴力団か何かわからないような人間もいっぱいいたらしいですね。酒巻さんらは海軍で、向こうは大部分陸軍という違いもありましたでしょうし、学校出の職業軍人もいればろくろく訓練も受けずに捕虜になったというのもいたりで、全体をまとめていくには苦労が断えなかったのでは・・・・・・。
酒巻 その通りです。皆やけっぱちになっています。背景も違うし、いろいろな状態で捕虜になったわけですからよほど厳しくしなければならなかったのです。

―― 殴ったりもしたのですか。
酒巻 殴りはしませんでした。

―― 萬代さんは多少は殴ったといってらっしゃいました。
酒巻 彼のほうが気が短いですからね。

―― 酒巻さんより3歳くらいお若いんじゃないですか。
酒巻 そんなものでしょう。ですから、そういうことはあり得るけれども、暴力はいけないですね。人間というのは、殴ったからいうことをきくというというような性質のものではないですね。ですから、そういう方法でなく、たとえ相手がどうであれ、導いて行くというのが望ましい姿ではありますね。


〔注〕歪みきった心は或る程度以上元へ戻らないのである。約束のない自由は放縦に変り、醜い自我は互いに衝突した。

 古い者と新しい者、陸軍と海軍、階級固守者と打破者。武士道死守者と打破者。不規則な斯うした対立の中で、自我の欲求を忠実に求め、個人個人が勝手な事を言ひ勝手な事を行ひ、果は勝手な徒党を作らうとしたのである。

 然し私達には、正当な制裁権も警察権もなかった。そこでただ出来るのは、不穏状態を未然に嗅ぎ出し、説教する位な事であろう。

<酒巻『捕虜第一号』138頁>
守屋氏巡る人間模様 [2007年10月30日(Tue)]








   「日の丸」が泣いている。






 後味の悪い証人喚問だった。
守屋武昌前防衛事務次官が11年間で200回以上の
ゴルフ接待を受け、
北海道や九州までゴルフ旅行に連れて行ってもらい、
ゴルフセットその他の提供を受けたとは、
相手が出入り業者でなくても、
これにはあきれるほかない。

 今後の焦点は、
@ ゴルフ接待が贈収賄事件に発展するか否か、
A 歴代の防衛相(長官)など政治家への波及はないのか、
B 速やかに退職金を返納するか、
C 他に防衛利権に絡んで同様のことが行なわれていないのか、
D 肝腎のテロ特措法の審議にどう影響するか、
といった点であろう。

 守屋氏と山田洋行の専務だった宮崎元伸氏との会食の場に、
防衛庁長官経験者が同席したことまでは認めた。

 しかし、その名前を明らかにしないまま、
久間章生元大臣は急遽入院するという。

 このほか、石破茂現大臣(防衛庁長官経験者)、
中谷元(げん)元長官、
額賀福志郎元長官といった
私が熟知し、昵懇にしている人たちは
いずれも「同席」を否定したと各紙に出ている。

 小池百合子前防衛相はどうかって?
在職していた55日間は、参議院選挙への対応で追われ、
私など「あなたは国の防衛大臣ではなく、自民党防衛大臣だ」と
冷やかしていたくらいであり、
守屋事務次官とはご承知のような関係である。
守屋・宮崎両氏との会食どころか、宮崎氏とは面識もないはずだ。

 実は私は守屋氏とは面識がある。
防衛政策課長時代からだ。
特に、玉沢徳一郎防衛庁長官時代、
ルワンダの救援活動で、
難民を助ける会が19トンもある井戸掘削機を
どうしても現地に空輸する必要があり、
私は2度にわたり、玉沢長官と長官室で怒鳴りあった。

「自衛隊のチャーター機の隅に、これを積んでほしい」
という私に、
「NGOの世話なんぞしている余裕はない。先例もない。
キミは日本通運と自衛隊を取り違えている。帰れ!」

「物理的に積めるスペースがあるときでいいから
工夫してもらいたい」

「できないことはできん。何か勘違いしていないか。
われわれは国の仕事としてゴマに向うんだ!」

「自衛隊は3オケまで運んでるじゃないか。
フロオケはまだしも、カラオケにカンオケだ。
そんなものより井戸の掘削機が大事に決まってる」

「そんなことはない。必要があってることだ」

「たった3ヶ月の滞在に何でそんなに大掛かりな荷物が必要か。
どっちが正論か記者クラブで議論しましょう」。

 これが、2度目の怒鳴りあいの雰囲気だった。
前もってあちらこちらに根回ししていたはずが、
大臣の態度が全然、「改善」されていない。
さてはて困った。
 
 空輸するには、一番安い航空会社でも3700万円と
見積もってきていた。

 そのときに、
事務官の席にひとりぽつんと座っていた守屋氏が、
何やら大臣に耳打ち。
「ふむふむ。なるほど・・・」と大臣。

「よし、判った。この際、特段の政治的配慮で、
アキがあったら再考するとしよう。約束はせんぞ、わしは」。

 かくして、千歳空港から世界最大の輸送機アントノフに
難民を助ける会の井戸掘削機は積み込まれ、
コンゴのゴマまで空輸、
そこからは陸送してルワンダに運び込んだ。
数十本の井戸を掘削して、
虐殺で荒れた同国の人々の役に立っていることは言うまでもない。

 その後、自衛隊とNGOとの関係は決定的に改善され、
ゴマとナイロビ(ケニアの首都)との間では、
自衛隊の輸送機がピストン輸送をし、
各国のNGO要員を自由に乗せてくれるなどし、
大いに頼りになった。

 そうそう私には山田洋行の幹部にも極めて親しい人がいる。

 ご夫婦で我が家に泊まっていただいたこともあるし、
一緒に海外の学会に参加したことは何度もある。
「残念ながら」ゴルフにも連れてってくれないし、
焼肉もご馳走してもらったことはない。

 この人は、心底、日本の安全保障を考え、
研究し、発言している尊敬すべき人である。
山田洋行だったか内田洋行だったかの幹部であることは
今回の事件まで私も忘れていたほどだ。

 防衛省(庁)や自衛隊のOBにはすばらしい人が
たくさんいるのに、
最高幹部が守屋氏のようなことをしていたんでは、
全体に対して著しい不信感がおきかねない。

 国際的な責務の遂行にも差し障りかねないし、
日本の官僚に対する信頼感は大きく揺らいだ。

 守屋氏は要するに、心優しい(気の弱い)
「やり手」なのであろう。

 その裏面で、かくも違法ないし酷い規律違反をしていたのは、
なんとも腹が立つ。

 その意味で、関係者の多くを知る者として
さまざまな人間模様を見た気がする。
特殊潜航艇 [2007年10月30日(Tue)]







 真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り組み、
ただ一人捕虜になった酒巻和男氏へのインタビューを
拙著『聞書き 日本人捕虜』から転載しています。

 昨日、、
江田島に展示されている同じ艇の写真を掲載したところ、
千葉県在住の大橋さんという方から質問がありましたので、
特殊潜航艇の概要について、
海上自衛隊のHPから転載させていただきます。

 いただいたメールによると
中国との戦争で大変ご苦労されたとのことで
文面から察するに、80歳代後半とお見受けしました。
こえておられるように思います。「孫のお嫁さん」がパソコンで
私に質問してくれたようですが、
詳しいことは、そのお嫁さんに、「特殊潜航艇」について、
「インターネットで他の説明も調べてくれ」と頼んでみてください。

 いろんな話や写真が出てきますから。


    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

<特殊潜航艇の仕様>
排水量 46トン
全長 23.9メートル
内殻直径 1.85メートル
電動機馬力 600馬力
速力 水中19ノット
航続力 6ノット80マイル 19ノット16マイル
兵装 魚雷発射管2門 魚雷2本
乗員 2名

本艇は、太平洋戦争の開始直前それぞれ
伊号第16.18.20.22.24.潜水艦に搭載され、
昭和16年11月20日呉軍港を出航し、
同年12月8日未明特別攻撃隊としてハワイ真珠湾に在泊中の
米国太平洋艦隊の攻撃に参加した
5隻の特殊潜航艇の1隻である。

昭和35年6月13日真珠湾港外約1マイルの地点で
米海軍により発見引揚げられ
昭和36年6月20日真珠湾に寄港した
揚陸艦「しれとこ」に搭載されて、
7月10日約20年振りに横須賀に持ち帰られ 
7月28日本校に到着した。

艇体頭部は受領当時切断されていたが
昭和37年2月株式会社呉造船所により新製され、
ここに艇体の原型が復元された。


 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 なお、特殊潜航艇による攻撃は、
1942年5月31日にシドニー港内でも行なわれ、
オーストラリア側に19目の死者を出すということもあった。

捕虜第1号 E [2007年10月29日(Mon)]






 広島県江田島の海上自衛隊幹部学校に展示されている
特殊潜航艇(二人乗り)。米側から返還されたもの。








 真珠湾攻撃で捕虜になった酒巻和男氏へのインタビューの記録を連載している。

 注が多く、読みづらい点は勘弁してほしい。


    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★


インタニーの世話になる

―― ドゥリットル中佐らの空母「ホーネット」発艦直前にこれを発見した監視船「長渡丸」の5人がくる(これらの人々については吉村昭の『背中の勲章』に詳しい)まで、酒巻さんは唯一人で捕虜生活を送られたわけですね。ジュネーブからの通知にはインタニー(日系人被収容者)数十人と羅列して名前が出てますが・・・・・・。

酒巻 ホノルル郊外のキャンプに私一人いたんです。別個の区画に一人いて、その周囲に日系人が収容されていました。本土に行ってからも、寝泊りは別でしたが、昼間は番兵つきで・・・・・・、私には番兵がたえず尾行しているわけです。それでも自由に往き来できるようにしてくれました。


―― 品物の授受とか食事はどうなさいましたか。

酒巻 品物もいろいろ貰いましたし、弁当の買出しを一緒にしてくれましたが、食事は別です。別々といっても中味は同じものです。結局、インタニーの人たちが作ったものを持って来てくれるわけです。私がお世話になった訳です。だから食事は一緒にした場合もございます。


〔注〕(酒巻少尉は)無論全然他と交通を絶たれ、食事なども事務局主任のS少尉自身がガードと共に三度とも運んでゐた。後には酒巻少尉の為に、我等の間より従卒1名を募り、裏オアフの重国愛輔氏が志願して之に応じたが、談話は一切許されなかったのである。――時折り、日本軍の素晴しい戦果が、遅れ馳せながら、新来のインタニーなどから伝はって来る。それを酒巻少尉に知らせたいのは山々であるが、どうする手蔓も無い。柵外への奉仕勤労に赴く連中のうちに、その通り道にある酒巻少尉の小舎の前で、わざと軍歌を歌う風で、戦報の大略を放送したやうな勇敢なものも居て、私達を冷々さしたやうなこともあった。
 酒巻少尉の時は何もなかったが、後に来た捕虜に対しては、当局が種々仕事を言ひ付けやうとすると、ガード等に反抗して手古ずらせたり、夕刻の国旗引き降ろしの際、直立不動の姿勢を執っているのが嫌さに、喇叭を吹き初めるとすぐ、打ち連れてバラックの中へ、駆け込むやうなことは、幾度もあった。

<相賀(そうが)渓芳(安太郎、ハワイでインタニー)『鉄柵生活』(1946年1月から7月まで「布哇(ハワイ)タイムズ」に掲載したものをまとめたもの)、54頁>



―― 米軍の兵隊や将校と同じものを食べたというよりも、日本的なものを食べたということになりますね。
酒巻 私のあと半年ぐらいして、(ミッドウェーの捕虜である)萬代(久男、海軍少尉、空母『飛龍』機関科員、ミッドウェー海戦後漂流15日で捕わる。戦後は、海上自衛隊に入り、江田島幹部学校長などを歴任、将補で退任)君らが来てからも、私らは自分たちで材料を受け取って食事を作りました。


――材料といいましてもあの時代のアメリカですから醤油なんかはなかったですね。
酒巻 もちろんそんなものはありませんでした。ただ、ハワイはもちろん米本土でも日本人や中国系の人がたくさんいたわけですから、醤油は生産されており、私らがひとつの作業をやって金が入った時など、その給与で買うのです。また、アメリカ赤十字から緑茶が配られたこともありました。



〔注〕交換船で故国から日本茶と理研のビタミン錠が送られてきた。抑留邦人宛に送られたものであったが、米国赤十字社の方で其の一部を我々の方にも頒けて送って来たものである。皆母国の人々に感謝した。茶は祖国を偲ぶ飲物として有難いものだった。戦傷者用として、又変態的生活をしている我々にとっても、ビタミンは渇求の物であった。実によく解った贈物として総員感謝していただいた。
<酒巻『俘虜生活4ヶ年の回顧』46頁>


 相賀氏の前掲書にも、サンタ・フエのキャンプ・ボリチックの1,900幾人かのインタニーに対し、1943年12月7日(開戦記念日)に、日赤からのインタニーへの慰問品である「緑茶」が全員に配られ、さらに、同27日には、日赤から慰問品として、醤油3,294樽(キッコーマンの大樽)、味噌158樽、薬品23箱、楽器5箱、邦文書籍5箱が着き、正月を前に全員に配布されたとある。米国赤十字社は人道的見地に立ってこうしたインタニー宛の物を捕虜にも回したようだし、インタニーの方でも配布された物からさらに捕虜に分与したようである。

 当時、日赤副社長だった島津忠承現同社名誉社長の話「いろいろ研究して、まず緑茶を送ることにした。日赤としては軍の手前、いきなり日本人捕虜に送ると公言するわけにはいかなかったが、米赤(アメリカ赤十字社)ならきっとそのくらいのことはするだろうという気がしないでもなかったのです。品物を何にするかは慎重に知慧を出して考えたことで、救援物資を連合軍の赤十字と交渉し、昭和18年には私自身、こうした物資やアメリカやオーストラリア軍の捕虜あての家族などからの手紙を持ってシンガポールまで行きました。お茶は気持を鎮め、故国を偲ぶよすがとして本当に喜ばれたようですよ」


〔注〕NHKの連続テレビ「山河燃ゆ」では、日本と米国の2つの祖国を持つ在留邦人の苦難の歴史が浮彫りにされ、多くの人々に多大の感銘を与えた。これら敵性国民として、僻地の収容所に入れられていた在留邦人が、捕虜の日本の兵隊さんへと、米、味噌、書籍、それに衣類などを度々送ってくれたのである。日系人から贈られた貴重な食糧は、祝祭日などに懐かしい祖国の味、寿司やおはぎとなって我々を喜ばせた。
<横山一吉(飛曹長、緒戦で英戦艦「レパルス」を撃沈、海軍中攻機機長として第5次ブーゲンビル沖航空戦中、乗機被弾、着水、漂流中捕わる)「忘れ得ぬ人々(最終回)」『続・大空の絆』所載、自費出版、112頁>


〔注〕米国がドイツに在る俘虜に送る物資の豊富なことに驚いたし、1週間に1個宛与えられるボール箱の中の煙草、下着類から歯磨、楊子にいたるまで羨しいほどであったが、それにも増して感心したのはフランスが送る救恤品であった。フランス人は満足に食べていないのである。それにもかかわらず、異郷で労働に服している家族の身の上を気遣って、莫大なものを赤十字を通じて送っているのである。衣服類は粗末なスフ入りのものである。菓子も昔のチョコレートではない。しかしこの一つのボール箱を受けたフランス人は、どんなに故郷を懐しく偲ぶであろうかと思うと眼に熱いものが感じられた。主任の説明によると、ドイツも俘虜には充分尽くしているそうである。ドイツの分はジュネーブを通らずに直接マルセイユに蓄積され、捌かれて行くのであるが、物資の不足なのにかかわらず、なかなか豊富なものを送っているとのことであった。日本ならば慰問袋というところであるが、外国のは兵隊は給与だけで充分足りるので、むしろ俘虜に慰問袋が行くのである。

<与謝野秀(与謝野氏は戦争中、外交官として主としてスイスに在勤し、国際赤十字との交渉を担当した。戦後は、イタリア大使、東京オリンピック組織委事務総長など。自民党所属衆議院議員与謝野馨氏の父。)『一外交官の思い出』筑摩書房、115頁>
山形由美さんのチャリティ [2007年10月29日(Mon)]






















 山形由美さんは素敵フルーティストである。

 既にデビュー21年というベテランだが、
「全国区」になって、
難民を助ける会主催のチャリティ・コンサートで
サントリーホールに出演してくれたのが、
確か、もう20年近く前である。

 それからさらに留学して
磨きをかけるということをした。

 そうそう、そのころ、
ステージ衣装を何十着も、寄贈して下さり、
ホテル・ニューオータニで開催したバザーで販売したり、
インドシナ難民の花嫁衣裳になったりという思い出もある。

 その山形由美さんのフルートを中心に
「山形由美とヴェネツィアの仲間たち」というコンサートが、
12月3日(月)に横浜みなとみらいホールで開催される。
19時開演。

 同会ではこれまでの28年間に
おそらく100回近い
チャリティ行事を開催したはずだが、
東京以外の場所で行なうのはこれが初めて。

 年間予算6億円を超えるNGOとなったが、
その意味では未だ「全国区」ではない。

 12月は「第9」ときめてかからないで、
忘年会前の優雅なひと時を
横浜で過ごしてみませんか。

 それが難民への救援・支援活動に直結するなら、
うれしいことではありませんか。

 山形さんの特段のご厚意を、
みんなで盛り上げてください。
S席6千円、A席5千円、B席3千5百円。

 お勧めはA席。あそこはそれで十分です。

 ご協力のお申し込みは、
難民を助ける会 電話:03−5423−4511です。
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