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日本が世話になった話B [2007年08月31日(Fri)]



  ララ物資の生みの親・浅野七之助




 「ララ」は終戦の翌年から対日講和条約が発効した1952(昭和27)年までの6年余、日本が一番苦しかった時代に、食料、衣料を中心に約17,000トン、金額は52年当時で400億円を超える援助をしてくれた。

 今のお金に換算したらいくらになるだろうか、見当もつかない。

 52年12月に厚生省が発行した『ララ記念誌』によれば、ララ物資の2割は日系人からとのこと。

 戦時に収容所に強制収容された日系人が、地元に帰還直後に「日本難民」の救援に立ち上がったのだった。

 そのあたりの事情は、浅野七之助が草案を書き、西村正・元牧師夫妻が写筆と謄写版刷りを行った次の「趣意書」に詳しい。

 浅野はサンフランシスコ在住の一世で、新聞記者の出身。日系新聞「日米時事」の創刊者である。
 
 浅野は、『中央公論』(1987年12月号)でノンフィクション作家・上坂冬子女史のインタビューに応え「当時、たまたまニューヨークで湯浅八郎博士(当時の同志社大学総長、後に初代・国際基督教大学学長)が、故国の難民救済の第一声を挙げ、同地の邦字新聞にその意見を公表した。次いで博士の提唱に共鳴して、シカゴの同訪間でも同様の声が挙がったのであった」
と述べている。

『ララ記念誌』は、ララの濫觴は終戦直後も直後、45年9月5日に9人の日系人が呼びかけ、1週間後の14日、ニューヨークのメゾジスト教会に日系人の有志が集まり、湯浅博士を委員長に委員20名からなる「日本救援準備委員会」が発足したことにあるとしている。

 戦艦ミズーリで降伏文書の調印が行われたのが9月2日、すなわち、ララはわずかその3日後に、立ち上がったのである。

 頭が下がるとはこういうときにいうべきことばであろう。
 
 しかし、この運動は戦時中にできたアメリカの「対敵取締法」で規制され、また、大統領直轄の「救済統制委員会」の認可が必要であったため、発足直後から頓挫した。

 同委員会は欧州への救援は認めてもアジアへは認可しなかった。

 46年3月10日、湯浅博士は「時期が来るまで活動を遠慮する」との声明を発して、10月、国際基督教大学の創立準備のため帰国した(同大学は53年4月に開学)。

 朝日新聞の戦後記事で、最初にLARA物資が報じられたのは1947(昭和22)年2月12日。
「ララ物資到着/約380トン」。

「総司令部公共衛生福祉局では11日、米船スコットランド号が食糧、
被服、医療品など約380グロストンの第二回ララ海外救援物資を積んでアメリカから横浜へ到着した旨発表」とあり、物資の内訳が紹介されているだけ。全12行。

 これでは日系人や在外邦人の献身的な努力はまったく伝わりえなかった。



小学生に見せたい収穫B [2007年08月31日(Fri)]




























 今度は山梨県北杜市明野町、
日照時間日本一というところの、
新井農園で撮したリンゴとプルーンです。

 リンゴは「サンツガル」。「サン」はsun、
つまり、袋をかぶせないで太陽光を浴びせたまま
実らせたリンゴなのです。

 なぜ、袋をかけるのとかけないのがあるのか、ですって?

 いい質問です。

 自分で考え、調べてみましょう
(と、このよくわからない「先生」はいうのです。どなたか教えてください)。

大使館が足りない [2007年08月30日(Thu)]








 わが国がブラック・アフリカに大使館の実館を置いているのは、
ウガンダ、エチオピア、ガーナ、ガボン、カメルーン、ギニア、ケニア、ザイール、ザンビア、ジンバブエ、セネガル、コートジボアール、タンザニア、中央アフリカ共和国、ナイジェリア、マダガスカル、南ア、モザンビーク、リベリアの19カ国。

 従来の「スクラップ & ビルド方式」(在外公館の総数を変えないでやりくりする方式)では間に合わないということから2007年度予算で、マラウィ、マリ、ボツワナの3カ国に大使館が新設される(いずれも2008年1月1日開設の予定)。

 逆に、アンゴラ、エリトリア、ベナン、ジブチ、チャド(一時閉鎖中)、ブルキナ・ファソ、マラウイ、マリ、モーリタニア、リベリア、ルワンダ、レソトの11カ国は、日本からの大使館がないにもかかわらず、これらの、決して豊かならざる国々の大使館が東京にある(2007年8月1日現在)。

 また、コンゴ共和国、シエラレオネ、赤道ギニア、ニジェール、ブルンジ、ベナンは中国にあるそれぞれの国の大使館が日本を兼轄し、スワジランドはマレーシアにある大使館が日本を兼轄している。

 いささか情けない話ではあるが、これにはいろいろな事情があろう。

 1つは臨時行政調査会(臨調)路線で外務省が外務公務員の定員を増やせないことによる。

 このため、各省庁や特殊法人、所轄法人、地方自治体、銀行、商社、メーカー等企業からの出向者を増やし、専門調査員という、少壮学者(を中心に、時に邦人の世話ばかりしているようなケースを含む臨時雇い)やより若手の派遣員という臨時雇用者で員数合わせをしているのが実情だ。

 そう、確か1994年だったと思うが、私はパラグアイを訪れた。

 同国のODAは、大ざっぱに言って、日本が70%、ドイツが25%、その他が5%。

 しかし、同国に常駐する外交官はアメリカが113人、日本はわずか9人。さまざまな函数が複合した結果ではあろうが、これでいいものか、一考を要しよう。

 本来、行革とは、不要不急のポストや職務を減らし、必要なものは増やすということでなくてはなるまい。外務省の職員数が国土交通省北海道局(前の北海道開発庁)の3分の2程度というのでは、国際化時代の日本、安保理常任理事国入りを目指す日本としてはいささか頭をかしげたくなるのだが、いかがなものだろうか。
北方領土の歴史 [2007年08月30日(Thu)]


  8月29日夕方、根室市に到着、国後、択捉両島を訪問する。

 私が委員をしている北方島交流推進会議が独立行政法人北方領土問題対策協会の主催行事として実施している「ビザなし訪問団」の一員(専門家)としての参加だ。

 1992年の第1回訪問団以来、北海道東方沖地震の際の救援活動を含め、かれこれ10回目くらいの訪問となろう。

 そんなわけで、小欄はその間、どうなるか、お楽しみに・・・ではなく、そこは「妙齢の美女」のご協力を仰ぎ、滞りなく、いつものように更新される予定なので、引き続きご愛読のほどを。

 そこで、まず、北方地域における日本の領土の変遷を、地図で紹介したい。

 




  1855年、「日魯通好条約」で国交を結ぶ。択捉島と千島の得撫(うるっぷ)島が両国の境界。樺太は日露「雑居の地」。









 1875年、「樺太千島交換条約」で、日本はサハリンを放棄、代わりに全千島を領有。








 1905年、日露戦争に伴う「ポーツマス条約」で、日本は北緯50度線以南の樺太(サハリン)の譲渡を受ける。









 1945年、日本の敗戦直前に侵攻したソ連軍により、北方4島までが軍事占領され、今日に至っている。日本は「サンフランシスコ講和条約で」千島列島(北方4島を除く)と南方樺太を放棄したが、厳密にはその所属先は国際法上、決定されていまい。
青年海外協力隊 [2007年08月30日(Thu)]






 青年海外協力隊は1965年、フィリピン、マレーシア、ラオス、カンボジアの4カ国へ計26人の隊員の派遣でスタートした。

 そのあとすぐケニア、タンザニアに拡がり、今では、78カ国、2491(女性隊員1527、男性隊員964)人に派遣中(2007年7月31日現在)である。

 ただ、少々気になるのは、これを8年前の1999年6月7日現在の派遣とくらべると、当時は、59カ国に2,409名であったということだ。

 つまり、この間に派遣国数は19カ国も増えたに関わらず、隊員数はわずか82人の伸びに過ぎないというわけだ。

 これは、国別の平均派遣隊員数が大幅に減った、つまり、「広く薄く」という方式になったということである。

 累計では、初期のころ派遣数が抜群だったマラウイ(累計1,359人)、フィリピン(1,356人)が依然勝っており、ついで、ケニア(1,290人)、タンザニア(1,215人)、ラオスとなっている。

 現在の隊員最大派遣国はガーナ (98人)、以下、マラウイ(82人)、中国(71人)、パラグアイ(70人)となっており、必ずしもアジア重視ではなくなっている。これはアジア諸国の開発が進み、既に協力隊の技術水準を超えた要請が来ているということとも関係なしとしない。

 しかし、マラウイが累計でもトップ、現在の派遣数でも2位ということに、私は少々、政策的な、または戦略的な疑問を感じている。

 もっと日本にとってさまざまな意味で重要な国が世界にはあるはずではないのか。

 まさか、派遣しやすいからといって安易に派遣してきたというわけではあるまいが、。もう少し、総合的な配慮があってしかるべきだ。同様に、ガーナが今の派遣隊員数で、78カ国の1割以上を占めていることにも説明がほしい。

 これはマラウイにもなんどか訪問し、20年以上前からJICAに伝えてきたことだが、変化の兆しがない。

浅野七之助 [2007年08月29日(Wed)]





   浅野七之助



  ララ物資の生みの親として浅野七之助について紹介したところ、西麻布在住の「妙齢の美女」と元・秋田美人(否、現役です、ハイ)から、もっと詳しくとのお申し付けをいただきました。

 私はこの人は隣の「岩手県出身で、原敬に近い人」ということしか知りませんでした。

 幸い、www.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/senjin/senjin/senjintati/asano.html ウェッブ盛岡に詳しく出ていましたので、こちらをご覧ください。

 それにしても、わが秋田の東となり、岩手県には偉人が多いですね。金田一京助、石川啄木、宮沢賢治といった文学系も多いし、原敬はじめ、総理大臣の排出数は山口についで多い県です。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

浅野七之助:
明治27年(1894)11月29日〜平成5年(1993)3月6日

 盛岡市新穀町にて浅野幸三郎の4男として盛岡に生まれる。

 原敬の書生としてその薫陶を受け,大正6年(1917)に渡米する。

 農場での労働やホテルのボーイの経験をとおして,アメリカの底辺社会や日系人の実情を知り,のちに新聞記者となって日系人の権利獲得のため論陣を張った。

 戦後,母国の惨状を知った浅野は在米日系人らに呼びかけて食料品や衣類,薬品を集め,日本戦災救済運動を開始した。これがのちにLARA(Licensed Agency for Relief in Asia)へと発展し,ララ物資として日本に送られ多くの人々が救われた。

 浅野はその後も国際的なジャーナリストとして,また日米の窓口的な存在として両国の相互理解と親善に努めた。

 昭和62年(1987)5月16日には,“日系人への貢献,ララ物資の送付,日米親善への尽力“などの功績が認められて,サンフランシスコ市長より表彰され,その日が“サンフランシスコ市における浅野七之助デー”と制定された。
小池百合子さん [2007年08月29日(Wed)]







 小池さんのことについては、もう訊かないでほしいというくらい、この10日間ほど、いろいろなメディアに、取材を受けました。

 私は何も知らないし、何もいわないのに、記者さんたちは実によく調べてきてますね。感心です。おかげで逆にいろいろ教えてもらいました。

 みなさんの共通の疑問点が、こんなところです。小池さんにも、少し静かに勉強してもらう時間をあげましょうよ。

 私がいえることはせいぜいこのくらいですから、もう、取材はお互いの時間のムダですし、やめましょうね。
 
 @ほんとうのところなぜ、防衛大臣をやめたのですか。

  私にはわかりません。高度に政治的な配慮でしょう。


 A「一兵卒として党に尽くす」ですって?

 結構なことではないですか。党務を一度もやったことがないんですから。小欄ではかねて、「一度、雑巾がけを経験したら、将来への思いを共通にする仲間を増やすためにも」とは言ってきました。


 Bそれは将来への深謀遠慮になるのですか?

 人間を磨くにはいいし、安倍政権と自民党を少しはなれたところからみるのもいいでしょう。


 Cそれで政治家としての展望は開けるのですか?

 政治家の展望は、経験、実力、勇気。あとは運ではないでしょうか。強運ですよ、あの人。
経験も、実力もあるし、勇気はそんじょそこらの政治家の比じゃないですよね。

 そこで、経験不足で実力のない私も勇気を持って小池さんを占えば、安倍政権危急存亡のときには、麻生さんよりも総理総裁への道が開ける立場になったと思います。党の救世主かジャンヌ・ダルクになりうる、唯一の人ではないでしょうか。 
小学生に見せたい収穫A [2007年08月29日(Wed)]

































 長野県野辺山町は高原野菜の名産地。

 最近、小欄には結構、小中学生がいることがわかり、
こんな写真も時々、掲載することにしました。

 ところで、小中学生ではないみなさま、この4つの野菜、
なんだかお解かりいただけますか?

 写真のデキが悪くてわからない? ヒラにご容赦を・・・
これはなあに? [2007年08月29日(Wed)]






























 残暑お見舞い申し上げます。

 これはなんでしょう。

 1は、先週、金沢市に行ったときに出会った看板。美川憲一の間違いではありません。

 2と3は、昨日、石田良介画伯の「剪画展」(31日まで、丸の内OAZO内丸善ギャラリーで)
に行った時に撮影したもの。

 4は、近所の蕎麦屋でたまたま見かけ、手に取ったもの。


 
フィンランド外相との対話 [2007年08月28日(Tue)]




 中央はフィンランドの国旗、右はEU旗。EU加盟国は同旗を国旗同様に大使館などに必ず掲げている。









 挨拶するイルッカ・カネルヴァ外相。左は江田五月参院議長。








 遅れて小池百合子さんも駆けつけた。



 フィンランド(芬)のイルッカ・カネルヴァ外相が来日し、28日午後7時から、大使館で晩餐会とはいえワーキング?・ディナーのような会合が開かれた。

 日本側からは、選ばれたばかりの江田五月参議院議長をはじめ、自民、公明、民主各党の国会議員5人、下斗米伸夫法政大学教授ら4名の学者・専門家、石垣泰司元フィンランド大使の計10人が招かれた。

 同外相は、今朝、大阪から上京し、着任早々の町村外相と会談し、明朝離日するという強行日程。

 席上、カネルヴァ外相は、日芬両国が、共通の価値観を持ち、政治、経済、外交面できわめて近いものが多く、ロシアという一筋縄ではいかない国の「隣国」という「共通の隣人」に接していると言う地政学的要件を持っていることに触れ、今後、日本が経済と技術の面における「巨人」として、難しい問題を抱えている東アジアのみならず、世界で大いに活躍してほしいと挨拶、その後、話題はもっぱら東アジアの安全保障となった。

 詳細は報告を遠慮するが、中国の軍事力の増強、台湾の針路、朝鮮半島情勢、ロシアの課題などについて、出席者全体(約15人)で積極的に意見が交わされた。

 数時間前まで日本のMinister of Defenseであった小池百合子さんは、ディナー終了後に到着したが、積極的に話題に加わり、大いに座を盛り上げた。

 明日から北方領土訪問の旅に出る私にとっては、以前より、芬露関係から学ぶものがいろいろあり、大使はもちろん、訪日する学者たちとも交流を深めていた。

 ソ連・ロシアを通じ、かの国は一度手にした領土は返さないという「神話」も広大なポルカラ基地の返還で崩れた。同様の例は、ボルンホルム島のデンマークへの返還、旅順・大連の中国への返還、そして最近行われた中露国境河川の中州の多くを中国に譲ったことなどがある。

 きょうのもう一つの印象は、日本の国会議員に英語で国際問題を議論できる人が各党ともずいぶん増えているということだ。

 昔は、きょう国会で追悼演説が行なわれた宮沢喜一元首相、谷川和穂元防衛庁長官、中尾栄一元通産相くらいだったという時期さえあった。

 結構なことである。

 大いに議員外交を展開してほしい。

 学生時代から付き合いのある江田参院議長とは「昔は、この国にはこの人という国会議員が、良くも悪くも必ずいたものだったね」という懐旧談で一致した。
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