ブログがつまらないと苦情 [2007年05月31日(Thu)]
プーチン大統領 きょうから始まったわがユーラシア21研究所の虎ノ門フォーラムは、記録は作らないということで自由に発言していただいているが、そこでは、私のブログがつまらない、というクレームが早速、来た。
なるほど、そういうものかとも思い、きょうの木村汎教授の話のさわりをホンの1つだけ、「こっそり」ご紹介しよう。
木村先生は、来年3月で任期の切れるロシアのプーチン大統領の後任を、メドヴェージェフ現第1副首相であろうと、大胆に予想した。
いくつかの理由の中で会場の人々の興味を誘ったのは、身長が低いこと。私も決して大きくないほうなので解るが、案外、世の中、そういう要素が心理的に働くのかも。
もっとも、エリツィンのあとがプーチン大統領などとは、誰も予想しなかったわけで、これまでまったく名前の挙がらなかった人がポッと出てくる可能性は捨てきれないと、「逃げ?」も打っておられた。
早晩、絞られてくるかと思うが、さて、その人が4年やって、またプーチンが大統領に復帰して8年やる? そんなことができるほど、いくらなんでもありのロシアでも簡単ではないだろう。
ただ、木村教授が言うように、日露関係の改善にとっては、大統領を中心にどんな政権ができるかというのは、国内的要因、国際情勢という要因、そして日本側の対応と並んで、決定的な要素となるだけに、暫く目を離せないことであるのは確かである。
来年7月に北方領土に近い洞爺湖で拓かれる「G8サミット」には、おそらく就任直後の新大統領が来るというタイミングでもあることを忘れてはなるまい。
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虎ノ門フォーラムはじまる [2007年05月31日(Thu)]
わがユーラシア21研究所では、きょう5月31日、第1回目の虎ノ門フォーラムを開催した。これは過去5年間、毎週1回のペースで計260回開催した、東京財団虎ノ門DOJO(道場)の参加者たちが、ぜひ、これを再開せよと、再三、私に迫ってきていたこともあり、試行錯誤的にはじめたものである。
とりあえずは毎月1回の頻度でと考えているが、きょう回収したアンケートを尊重し、多少の会費もいただきながら、内容のあるものにしてゆきたいと考えている。
きょうは、木村汎北海道大学名誉教授が「プーチン・ロシアの今後―日本のしかるべき対応」と題して約1時間講演、袴田茂樹青山学院大学教授がコメンテーターとして、講評しつつ、新たな視点で補完した。私は司会を務めた。参加者は約160人、学者・専門家のほか国会議員、大物財界人、メディアの幹部、元大使、企業人、学生などが複数で出席してくれ、活発に意見を交換した。
ホンネで語り合うことを目標に、原則的に中身を公開しないことにしているので、報告はお許しいただきたい。
シンクタンクはこうした広範な人々との議論をしばしば敬遠し、机上の研究成果を表に出すという傾向があるように思うが、ユーラシア21研究所では、大いに議論を重ねた上で共通の理解を積み上げ、政策提言なり、意見発表をしてゆきたいと念じている。
次回は6月27日(水)、趣向を変え、午後6時から8時近くまでを予定し、今回は政治問題であったので、次回は経済問題ということで、「ロシアのエネルギー―現状と今後」と題し、十市(といち)勉氏(日本エネルギー経済研究所専務理事)にお話をいただく。
また、7月は24日(火)同じく6時から、「最近のロシアの軍事情勢」と題し、岡本智博氏(元統幕事務局長、空将、駐ロ武官)にご登壇いただく予定である。奮ってご参加ください。
ただ、慎重に検討するが、3回目以降は、ユーラシア21研究所の会員へのサービスとして行うため、やむなく有料制(1回につき千〜2千円。年間1.5〜2万円程度)になる方向で準備していることをお伝えしなければならないことをお断りする。
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日露戦争と捕虜(31) [2007年05月31日(Thu)]
●厚遇ばかりではなかった
これまで小欄では、拙著『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)から、日露戦争におけるロシア人捕虜に対し、日本は国際的な常識を超えるほどの厚遇を与えてきたことばかりを紹介してきた。
実際、このロシア人捕虜を厚遇したという話を疑わないのが、従来、日本の「常識」であり、通念ともなっていた。
しかし、残念なことだが、厚遇と虐殺と―日本の捕虜取扱いにつきまとうアンビヴァレントなものが日露戦争時にも既にはっきりと見られた。
●称賛には英国による誇張も ―― レーリンク判事
1906年生まれのオランダの法曹、ベルナルト・ヴィクトール・アロイジウス・レーリンクという長い名前にご記憶のある読者は、今や少なくなったのではないか。極東国際軍事裁判(東京裁判)の最年少判事であった。
同裁判の判決で少数意見を出し、特に、唯一人、文官で絞首刑となった広田弘毅(こうき)元首相・外相(1878〜1948)の死刑判決に反対したことで、当時、日本でばかりでなく連合国からも注目された。
そのレーリンクが、1937年、イタリア生まれという、世代の違う国際法学者アントニオ・カッセーゼ博士(フィレンツェ大学と同地にある欧州大学研究所教授、ハーグに設置された国連旧ユーゴスラビア戦争犯罪法廷の所長)の質問に答えたのが『The Tokyo Trial and Beyond』。
カッセーゼにより、1993年に刊行された(邦訳は、小菅信子『レーリンク判事の東京裁判−歴史的証言と展望』)。
原著の73頁(邦訳は119頁)でレーリンクは「日露戦争のときの日本の行動はまったく違っていました。
その当時、日本は紳士的な戦闘ぶりと法の遵守を称賛されました」とは言いつつも、「たぶんその称賛はイギリスによって多少誇張はされてはいたでしょうが(Perhaps that praise was a bit exaggerated by the British)」と推測している。
そしてその理由をレーリンクは「日本を〔文明国〕の仲間入りさせたのはイギリスでしたし、それにイギリスは日本がそのグループの仲間入りをする資格があることを世界に認めさせたかったのですから。イギリス流にいえば、紳士的に戦うことが〔文明国〕の証でした」(小菅訳)と「状況証拠」で推測し、判断する。
こうした推測はしばしば過ちを犯すが、しかし、日露戦争末期のサハリンでの戦いでは、はなはだ遺憾ながら一部の日本軍が約130人のロシア人捕虜を殺害するという失態を起こしていることもまた事実だ。
近年、大江志乃夫茨城大学教授(当時)が日本軍兵士・新屋新宅発信の手紙から事実発見の端緒を開き、原てるゆき暉之北海道大学教授がロシアの古文書館からその事実を証明する公文書を見つけ出した。
こうした研究で一部の日本軍将兵によるロシア軍捕虜約130人へ残酷な殺害が明らかになったのである。
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吹浦 忠正
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台湾側の報道ぶり [2007年05月30日(Wed)]
与那国で撮影したハイビスカス 与那国と花蓮はわずか111キロ(都心と御殿場の距離)しかはなれていない。町長の一行は、<与那国→那覇→台北→花蓮>と1100キロも飛んで、現地入りした。 日本の最西端・与那国島(与那国町)と台湾の花蓮市とが姉妹都市を発展させ、ついに与那国側が花蓮に事務所を開設するまでに至ったことについて、台湾側がどうとらえているか、気にしていたところ、関係筋から、台湾中央電臺(台湾中央放送局)が5月29日に放送した内容が入ってきた。これをご紹介したい。
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日本の与那国町長は花蓮を拠点とし、 「琉球王国」の精神を発揮し、国際社会に希望を抱く。
日本の与那国町が花蓮市役所に設立した連絡事務所が、本日正式にオープンした。町長の外間守吉は最近、日本国内で日本の行政管轄から独立し、自主的に当地の経済貿易を発展させたいという類の発言をしたが、本日彼は開所式のなかで花蓮市を「国際経済を開拓する拠点」としたいと強調した。
彼は発言の中で必ず「琉球王国」と述べており、政治味は十分だ。
琉球群島に位置する日本与那国町の町長外間守吉は、中央政府が当地の発展を制限するばかりで、十分な予算配分がないことに耐えられなくなったと見て、花蓮市役所と相互に事務所を開設する機会を利用して、日本国内で独立発展をしたいというような発言を発表し、日本国内で注目されてきた。
彼はまた、事務所の開所式を利用して、翻訳文を通じ、琉球王国精神の理念を発表。花蓮市を拠点とし、国際社会に希望を抱き、花蓮市長蔡啓塔とともに、25年間結んできた兄弟精神を発揮し、何とか与那国が外交ボトルネックを突破して、両地域の産業経済交流を促進したいとのべた。
外間守吉の花連訪問には当地の多くの記者が取材に来た。この政治ニュースを日本国内にフィードバックする意味は、非常に深いものがあるだろう。
☆☆☆ ★★★ ☆☆☆ ★★★
また、花蓮の更生日報は5月30日付で次のように報道している。
☆☆☆ ★★★ ☆☆☆ ★★★
与那国町花連事務所開所
日本と花連の姉妹都市締結25周年に交流を拡大する。 花連市との姉妹都市関係締結が25周年にも及び、友好関係をこれまで維持している日本の与那国町は、昨日町長の外間守吉が5人の議員を率いて花連に到着、新設された連絡事務所の開所式を行い、さらに両市の交流を拡大する。
●6町議員中5名が来訪
与那国町はこの開所式をきわめて重視、町内のわずか6名の議員のうち、昨日来訪したのは5名だった。
議長の崎原孫吉、副議長前西原武三、議員小嶺博泉、糸數健一、嵩西茂則、崎原用孝らが全て特別に花連に到着した。
●町長は気力十分
市長の蔡啓塔によると、花蓮市と与那国町の距離はとても近く、両市の間の距離はわずか110海里であり、逆に与那国と日本の首都東京は2000キロ離れている。
地縁的関係から、両市は姉妹都市関係締結後、各種の交流を頻繁に維持してきており、花蓮市も与那国との交通、経済、産業など各方面の交流を強化して、さらに花蓮の観光やその他の産業が沖縄県に広まり、最後には日本の各大都市に進むことを希望している。
蔡啓塔によれば、彼は外間町長の気力にとても敬服しており、上に対して法律的ボトルネックを突破して、町内の観光や外交について十分な突破を行ったとしている。
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吹浦 忠正
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読売にも出てます [2007年05月30日(Wed)]
4月1日、与那国島で撮影したハイビスカス 与那国は最近、テレビドラマ「コトー診療所」で有名になった。撮影セットは今は重要な観光資源だ。 日本の最西端・与那国町が台湾の花蓮市に事務所を設けた、これは日本の市町村で外国に事務所を設置した最初の例であると紹介しましたが、この記事は、東京新聞に遅れて、昨日の読売新聞にも掲載されていましたので、ご紹介します。
与那国と花蓮はわずか111キロ離れている向かい同士、これからの連携発展が期待されている。
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最西端の与那国町、台湾に連絡事務所…直接交流で発展狙う
【台北=石井利尚】日本最西端の沖縄県与那国町の外間守吉町長は28日、台北で記者会見し、台湾東部の姉妹都市・花蓮市に連絡事務所を29日付けで開設すると発表した。
日台間に外交関係はなく、日本の自治体が台湾に事務所を置くのは沖縄県に次いで2番目。現在、町と台湾を結ぶ直接の交通手段はなく、将来的に高速船での直行や物流ルートの開設、台湾人観光客誘致などを目指す考えだ。
与那国町は、台湾東岸までわずか111キロ・メートル。戦前は台湾本島との自由な往来で栄えた。現在は、那覇や石垣島を経由する必要があり、島の経済は衰退した。町は、台湾に最も近い地の利を生かし、中国と台湾間を往来する船舶寄港や台湾の観光資本などの誘致が可能となるよう、日本政府に規制緩和を求めている。
初代駐在員は、町職員の田里千代基さん(49)に決まった。外間町長は「町は物価高を強いられている。物価が安い台湾との交流で物価が下がってくれれば」と話している。
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吹浦 忠正
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機雷での殉職者に合掌 [2007年05月30日(Wed)]
海上自衛隊の掃海艇「うらが」 わがユーラシア21研究所は虎ノ門の金刀比羅宮(ことひらぐう)の真向かいにある。5月26日、海上交通の安全を守るこのお宮の「本店」である香川県琴平町の金刀比羅宮で「掃海殉職者追悼式」が行われたという。
昨日の読売新聞によれば、 終戦時の残存機雷は、約6600個、 除去した機雷数は、 約6200個、 除去の殉職者数は、 79人、 過去5年間の除去数、 18個
であるという。戦時において、米軍が日本を海上で経済封鎖するために港湾の出口周辺を中心にこのように多数の機雷を蒔いた。このため、戦時のみならず戦後も、食糧難や燃料難をはじめ、日本の経済活動を至難なものにした。
幸い、日本政府が「航路啓開隊」を組織し、船舶が乏しい中で、漁船などをやりくりし、各地で機雷の撤去、掃海を実施し、1952(昭和27)年には、一応の安全宣言を出すことができ、以後は、海上自衛隊がその業務を引き継ぐようになった。
機雷は地雷同様、終戦後も被害をもたらせ続ける。軍艦も客船も区別しない危険な「武器」であり、四六時中、その危険は続く。
海上自衛隊はこの掃海作業の技術水準においては世界一とまでいわれている。それゆえに、湾岸戦争後、世界の期待を集めてペルシャ湾の掃海にもあたった。
この「武器」の軍事的な有効性ゆえに、なかなか禁止というわけには行かないかと思うにつけ、これまで掃海に当ってこられた人々の労苦を偲び、殉職された方々のご冥福を祈りたい。
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吹浦 忠正
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NHKニュースで与那国が [2007年05月30日(Wed)]
NHKテレビから。 5月28日付東京新聞紙面より。
日本の最西端に位置する沖縄県与那国町(人口1700人)が 、日本の市町村で初めて(全国市長会、全国町村会調べ)、 外国に独自の事務所を、正式に開設した。
初代の所長になった、畏友・田里千代里氏の これまでの努力を高く評価し、 すばらしい成果の上がることを祈念する。
昨29日午後7時のNHKニュースで 以下のように報じられたので紹介したい。
また、前日の東京新聞で「あす開設」という 詳しい記事が出ていたので、 このことも合わせて紹介したい。
この「重大」ニュース、 なぜか他のメディアは無視しているようだ。 価値がわからないのかな? 台北特派員のアンテナが低いのかな?
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与那国町の連絡事務所が、 台湾東部の花蓮市の市役所に設けられ、 29日、与那国町の外間守吉町長や 花蓮市の蔡啓塔市長ら双方の関係者が出席し、 事務所の名前が書かれたプレートの除幕式が行われました。
外交関係のない日本の市町村が 台湾に事務所を開くのは与那国町が初めてです。
日本の最も西の端に位置する与那国町は、 人口が最盛期の7分の1にまで落ち込んでおり、 直線距離で110キロと沖縄本島よりも近い花蓮市との 交流を拡大することで 経済を活性化させたいというねらいがあります。
特に、現在、石垣島を経由して 中国と台湾の間を航行している貨物船の一部を 新たに与那国島に寄港させることで 税収の増加を図り、 台湾との間でチャーター便を運行することによって 台湾からの観光客の誘致に力を入れていく方針です。
一方の花蓮市側も、日本に近いという地の利を生かして 与那国町との関係強化をステップに 石垣島や沖縄本島へと交流の輪を拡大したい としています。
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吹浦 忠正
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日露戦争と捕虜(30) [2007年05月30日(Wed)]
日露戦争における日本側の捕虜の処遇が素晴らしかったと、 当時の世界的国際法学者マルテンスから感謝状が寄せられた。
しかも、マルテンスはロシアの俘虜情報局長でもあった。
日本軍の捕虜優遇にはそれなりの戦略的なネライがあった。
日本は国際社会において その秩序や信義を守る国であることを示して、 米英両国をはじめとする欧米諸国の好感と支持を得、 外債の販売促進という 当面の戦争遂行上の利益を求め、かつまた、 有利な講和の仲介にあたってもらおうとしたからであった。
だから、それなりの準備をし、人材を確保して 人目につかぬ最前線は別として、 大旨、国際法を遵守し捕虜に対し丁重な取扱いをしていった。
そして、米英諸国にも 日本が国際社会の一員として 充分やっていける姿を見せることができ、 国力の増強、秀れた外交努力で概ね開戦前までに達成していた 不平等条約の完全撤廃を実現し得たのであった。
また、敵国ロシアも日本の捕虜取扱いに 大いに満足したのであった。
世界の国際法学会の頂点に立つマルテンスは 機会あるごとに日本の捕虜優遇を称讃し、 1906年の「ジュネーブ条約」(1864)改正会議や 1907年にロンドンで開かれた第8回赤十字国際会議で その意を表明したが、 直接的には、1906年11月5日、俘虜情報局長官として 本野一郎駐露公使を訪ね、 「戦役中本邦ニ於ケル露国捕虜ノ取扱方ノ 極メテ懇篤ナリシニ対シ 正式ニ帝国政府ニ感謝ノ意ヲ表シ」 (本野公使より小村外相への公文)たのであった。 日本側の戦時国際法の最高権威であり、 実際にこの戦争にも従軍して、 ロシア軍の降伏や捕虜の収容について 直接指導したた有賀義雄も この件については『日露陸戦国際法論』で 「茲ニ記述スルヲ愉快トスル」として、 日露戦争における捕虜取扱いについて締めくくっている。
その有賀にとってマルテンスは 師事した国法学(staatstrecht)の大家である ウィーン大学ローレンツ・フォン・シュタイン教授 (1815〜90)の兄弟子にあたる人物である。(つづく)
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吹浦 忠正
at 07:58 |
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日露戦争と捕虜(29) [2007年05月29日(Tue)]
●中学生らが清掃
松山のロシア人墓地は 松山市みゆき御幸一丁目小高い丘の中腹、 松山大学御幸キャンパス正門を出たすぐ脇にある。
1960年、松山市が妙見山頂から 直線距離にして100bほど移転したものだ。
6列97基、北西の方向を向いて並んでいる。
帰国を目前にした1905年9月に、 唯一人、将校で亡くなったワシリー・ボイスマン大佐の墓が ひときわ大きい。
ロシア正教の複十字を載せた墓標と 「日露友好のかけ橋」と彫られた石の台に載る 同大佐の胸像から成る。
同大佐の遺骨は持ち帰られたが、 他の下士卒の遺骨も移転の際、 それらしきものが多少出てきたのを一まとめにして 合葬碑の下に埋葬したと伝えられている。
世界的にも捕虜処遇の範とされた松山での収容であった。 そして、その伝統は今に続いている。
墓地の管理にあたっている松山保健所生活衛生課によるとと、 清掃は地元の市立かつやま勝山中学校生徒会により 毎月第2土曜日、20年以上も続いている。 老人クラブも月1回、婦人会は適宜、 献花を続けているということだ。
「でもね、やはり捕虜は捕虜。敵国で生を閉じる無念さは、 筆舌に尽くし難いものがあったでしょう。だから、 墓地は大切に守ってあげたいんです」 とロシア人墓地保存会長の京口和雄さん(71)は 語る(読売新聞 2004年8月28日付)。
この記事を書いた矢沢高太郎記者は 「ロシア本国へも兵士たちの遺族の確認作業を働きかけている。 時代を越えて流れる伊予松山の人情の精華と 呼ぶべきものだろう」と結んでいる。
保存会は同年11月2日には墓地の100年祭を挙行した。
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吹浦 忠正
at 23:29 |
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旧朝香宮邸の花 [2007年05月29日(Tue)]
我が家からの散歩コースの1つに、 旧朝香宮邸、 現在の都立庭園美術館があると、 先日書いた。
邸内での美術品の展覧会もさることながら、 庭園美術館というくらいなので、 庭もなかなかのもの。
日本庭園と西洋庭園が並んでいる。
ここまで書いて思い出したが、 都内の大使館で一番きれいなところは、 私の知る限り、 イタリア大使の公邸であろう。
三田の慶応義塾大学の近くにある。
赤穂浪士たちは討ち入り後、 4つの大名家に預けられた。
その中で、不破数衛門、堀部安兵衛、 大石主税(大石内蔵助の嫡男)ら10人は 松平隠岐守の屋敷へ預けられた。
元禄16年(1703年)2月4日、 幕府より、沙汰を待っていた赤穂浪士へ切腹が命じられ、 10人はそこで、切腹して果てた。
その松平邸が今のイタリア大使公邸のところであり、 その日本庭園には小高い山があって、 10人名を刻んだ追悼碑が建っている。
庭が基本的に当時のままなのかそうかは、 私にはわからない。
そして、このイタリア大使公邸の 広大な庭の半分は西洋式庭園なのである。
それはともかく、旧朝香宮邸も、 それほど完璧な美しさではないが、 様式は似ている。
せめてそこで撮した花でもご紹介したい。
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吹浦 忠正
at 17:14 |
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