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日ソ共同宣言の功罪 [2007年02月28日(Wed)]


「日ソ共同宣言」を締結した鳩山一郎首相(当時)の銅像除幕式が2月28日、東京・音羽の鳩山会館庭園で行なわれた。






 前列右から、海部、中曽根の両元首相、麻生外相、鳩山安子未亡人(一郎の長男・威一郎元外相夫人)、安倍首相、フリステンコ首相。



 日露間の最大の懸案である北方領土問題では、プーチン大統領の意見は「1956年の日ソ共同宣言で約束したように、平和条約が締結されれば歯舞・色丹(4島面積の7%)の両島は日本に引き渡す」というものである。

 その日ソ共同宣言を締結したのが鳩山一郎首相(当時)である。病躯をおして車椅子まで使ってのモスクワ行きである。少年だった私はそのニュース映画を今でもはっきり覚えている。

 長男を長年シベリアに抑留されたわが父は、戦前からのソ連嫌いが徹底していた。かの松岡洋祐外相が日ソ中立条約の締結のため、秋田の港からウラジオストクに向かうとき、地元の市会議員として、見送りに行ったのであった。そして「港でソ連に騙されるな」と忠告したのが自慢だった。しかし、その結果が、同条約有効期限内におけるソ連の対日参戦であり、自分の長男の抑留であった。

 だから後年、私が100回もロシアに行くようになるとは思いもよらなかったに違いない。1968年に初めて私が訪ソした時の報告を聞いて、わが子ながら毅然としてソ連と話し合っていることに、めったに褒めたことのない父親は満足げだったが、その数年後に亡くなった。

 閑話休題。

 きょう除幕された鳩山一郎の銅像は、ロシア側からの贈り物である。

 製作したのは、ロシア美術アカデミーのズラブ・K・ツェリテリ総裁。ソ連時代から押しもおされもせぬ彫刻の大家であり、世界各地にその作品が残されている。

 昨年、すなわち日ソ共同宣言で両国が国交を回復して50周年になったことを記念して、ロシア側から日ロ協会(鳩山由紀夫会長)に贈られたのが、きょう除幕した銅像である。昨年の50周年はモスクワでのみ祝賀行事が行なわれ、日本側では行なわなかったのは懸命である。

 にもかかわらず、鳩山由紀夫民主党幹事長以下、河野太郎自民党所属衆議院議員などを含む100余の民間人がモスクワ詣でをし、「鳩山一郎さん、河野一郎さんの孫、それに岸信介さんの孫(安倍首相)で北方領土問題の解決を!」などと、ヘンな盛り上がりをしていたと伝えられている。そんな安易な話ではないというのにだ。

 ところで、この共同宣言は、領土問題が解決されなかったら平和「条約」とはならず、「宣言」に留まり、その後の条約締結交渉がそこで約束されたのであった。しかし、それでも交渉はその後の50年、満足に行なわれたことは、いわば数回しかないといっても過言ではない。もし、共同宣言で「2島返還」が謳われていなかったら、交渉はもっとスムーズだったに違いない。共同宣言が問題をより複雑にしてしまっているのだ。

 その締結者である鳩山首相にフットライトをあて、今、ロシアは「2島返還論」をプレイアップしようとしているのだ。下心なく、誰がこんなことをするものだろうか。きょうの参列者たちのどのくらいの数の人が、そのあたりをしっかりと理解して臨んでいるのだろうかと、少々、不安になった。

 もちろん鳩山首相は共同宣言の締結で、日ソの国交を回復し、日本の国連加盟を実現し、瀬島龍三元関東軍参謀など千数百名の抑留者を11年ぶりに帰国させたという功績はある。

 しかし、領土問題に関して言えば決して、合格点ではないのだ。

 私たちは、「4島返還」を実現してこその平和条約であることを、さまざまなレベルでロシア側にはしかと伝えなくてはならない。序幕式で思いを新たにしなくてはいけないのはそのことであるに関わらず、私の周辺にいた「安物の」国会議員たちは単純に、「鳩山首相は立派だった」「由紀夫さんや邦夫さんも総理にならなくちゃね」などと見え透いたお世辞を大声でしゃべっているのだった。

 国内の啓発と政官民の連携強化の必要性を再確認したのだった。

鳩山一郎銅像除幕式 [2007年02月28日(Wed)]




 前列右から、鳩山邦夫衆院議員、安倍首相、フラトコフ首相。後列右端がロシュコフ前駐日大使。





 今は亡き末次一郎先生



 きょう(2月28日)は、朝の7時35分に成田空港に戻りました。ラオスへの2泊4日の旅でした。南国から来るとやはり寒いです。でも、風は強かったのですが、どこかに「春」を感じさせるものがありました。

 身体はへとへとでした。バンコクからの6時間、3時間は眠れるはずでしたが、前の席になんとも「可愛い」ベンガル人の赤ちゃんがいて、この子がずっと夜泣きなんです。おかげで、ほとんど眠ることが出来ませんでした。

 そんなときはすぐ怠け心がわき、12時半からの「鳩山一郎銅像除幕式」をさぼろうか、ユーラシア21研究所に顔を出すのをやめようか・・・と後ろ向きになりがちです。

 こんな場合に、わが師匠・末次一郎が脳裏に現れるのです。「末次先生ならどうするだろうか」。

 結論は見えています。無理して両方に行き、一寝してからは吉岡明子常務理事から言われていた、研究報告書の要約というのを完成しました。「ほっ」という気分です。

「鳩山一郎銅像除幕式」は12時半から鳩山会館の庭で行なわれました。由紀夫、邦夫兄弟が応接し、安倍首相とロシアのフラトコフ首相が出席、中曽根、海部両元首相をはじめ、閣僚や国会議員も多数参列していました。

 旧知の方々が大勢いましたし、先週のユーラシア21研究所開所レセプションに起こし下さった方々も多数ご出席でしたので、ほんとに出かけてよかったです。研究所の開所式の翌日、中曽根事務所にはご挨拶に行きましたが、不在でしたので、約一週間目に、直接、お礼をいうことも出来ました。ロシュコフ前駐日大使(現在、外務次官で「6者協議」のロシア側代表)とも約1年ぶりに言葉を交わすことが出来ました。

 ただ、私はこの除幕式中、頭がすっきりせず、いや、疲労のためではありません。この派手な除幕式、ロシア側に乗せられてはいないかという危惧なのです。次回、続けます。

「自由の女神」 [2007年02月28日(Wed)]


        




 石田良介画伯からのNYでの3つ目の水彩画、「自由の女神・遠望」です。

 ヨーロッパからの移民たちが角度は違うでしょうが、この、「自由の女神」を遠望したときは、どんな気持ちだったのでしょう。

 いうまでもなくこの「自由の女神」像は1886年、アメリカの独立100周年を記念してフランスが贈ったもので、独立からおよそ200年目の1984年には、世界遺産に登録されました。


 テロ防止のため諸対策が講じられています。写真は、ウィキベディアから。
ハドソン川の流氷 [2007年02月28日(Wed)]








 同じく石田良介画伯のスケッチその2を2お届けします。「ハドソン川の流氷」です。

 画才のない私は、せめてと思い、ラオスでせっせと花の写真を撮ってきましたので、今夜でも少しご紹介します。
水彩画の国連本部 [2007年02月28日(Wed)]







 ラオスへの2泊4日の訪問を終え、たった今、帰国しました。

 このあとすぐ、鳩山一郎元首相の胸像の除幕式に参りますので、不在中のメールのみ整理しています。

 小欄でおなじみの石田良介画伯から、自ら率いるNPO法人日本剪画協会が、NYの国連ビルで剪画展を開催、これまた大成功だったとのメールがありました。おめでとうございます。みなさまも、次回の国内での展覧会をご覧ください。小欄で必ずご案内しますから。

 そのメールに石田画伯の描く国連ビルとハドソン川の流氷の絵が付いていました。

 水彩画の国連ビルはまた別の趣で、このビル内でも魑魅魍魎のかけひきなど、忘れるくらいいいものですね。
やたがらす考 F [2007年02月28日(Wed)]



 星を用いた旗はいろいろあります。これはどこの旗かご存知ですか?
 答えは末尾に。




  平野浩氏の「やたがらす」についての論考は、興味津々のまままだまだ続くのです。

 
  ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆



 昨日、「加茂家」という表現を使いましたが、これは「賀茂家」が正しいのです。お詫びして訂正させていただきます。

 陰陽道自体の陽と陰――すなわち、表の陰陽道と裏の陰陽道があるという話をしました。この表の陰陽道の使い手が陰陽師です。彼らには陰陽寮という役所に仕える役人のような存在の陰陽師と在野の陰陽師があります。有名な安倍晴明は正式な陰陽師、すなわち陰陽寮に仕える陰陽師です。
 
 ところが裏の陰陽道というものがあります。この裏の陰陽道のことを「迦波羅」(カッバーラ)といい、カッバーラの使い手を「漢波羅」というのです。まとめておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     陰陽師 ・・・・・ 表の陰陽道の使い手
     漢波羅 ・・・・・ 裏の陰陽道の使い手
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 日本では、「カッバーラ」ではなく、「カバラ」という名称で次のようなものが伝えられています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     カバラ・タロット     カバラ占い
     カバラ数秘術       カバラ占星術
     カバラ魔術        カバラ恋愛術
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらは本物のカッバーラではなく、カッバーラから派生した枝葉末節の呪術に過ぎないのです。専門家によると、この手のもの――とくにタロットなどは、興味本位でもてあそぶのは危険であると警告しています。何かの拍子に魔界に入ってしまう恐れがあるからです。「コックリさん」という遊びをやっていて、そうなってしまった人が実際にいるからです。

 ちなみに、イスラエルでは「カッバーラ」は「領収書」のことであり、あくまでも相手から差し出され、受け取るものをいうのです。これを人間と神の存在におきかえると、カッバーラとは神から人間に与えられる知識(叡智)であり、それなりの修行をし勉強してはじめて手にすることができるものとされます。そして神からカッバーラの奥義を授けられた者が「預言者」といわれるのです。預言者とは「神の言葉を預かる者」という意味です。この「神の言葉」こそカッバーラなのです。

 カッバーラは、預言者の間でのみ口頭伝承されてきており、イエス・キリストからその弟子に伝えられ、現在まで継承されてきています。中でもイエス直系の教えを受けているとされるのが、エルサレム教団であるといわれます。

 日本には、神道というかたちでカッパーラが根付いていますが問題はそれがどこから、誰からもたらされたものかということです。表面上神道は日本古来のものであるとされていますが、渡来人が日本に持ち込んだものという説が有力なのです。そして、その渡来人は「秦氏」という一族であり、そのルーツは、歴史の舞台から姿を消したエルサレム教団――失われたイスラエルの十二支族にたどりつくといわれているのです。

 それはさておき、神道には表と裏があるように、神社にも表と裏があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      表神道の頂点 ・・・・・ 伊勢神宮
      裏神道の頂点 ・・・・・ 賀茂神社
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 神社の総本山はよく知られているように、伊勢神宮ということになっています。これが表神道の頂点ということになります。これに対して、裏神道の頂点は京都の賀茂神社です。いい換えると賀茂神社は、裏神道の呪術、「迦波羅」(カッバーラ)の使い手の本拠地ということになります。既に述べたように、カッバーラの使い手を漢波羅というのですが、漢波羅はすべて賀茂氏なのです。その賀茂氏が崇拝する神社の中枢が賀茂神社なのです。

 伊勢神宮の本殿は、「内宮」と「外宮」があり、その周りに数多くの別宮や摂社、末社が配置されています。賀茂神社についても本殿は次の2つがあり、境内には数多くの摂社があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.下 鴨神社
  2.上賀茂神社
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 これら2つの本殿は、「下上賀茂神社」(げじょうかも神社)というのですが、下鴨神社が「下賀茂神社」ではないというのは興味深いものがあります。

 本来、賀茂氏の「カモ」は、「加茂」、「迦毛」、「加茂」、「可毛」などと表記しますが、その真に意味するところは「鴨」――つまり、鳥であるということです。神道祭祀にかかわる氏族は、何らかのかたちでシンボルとして「鳥」とかかわってくるのです。それは、鳥が天と地を行き来できる存在であり、神と人との間を取りもつ象徴として意義があるからです。

 繰り返しますが、重要なことは、伊勢神宮と賀茂神社が表裏一体の関係にあるということです。表の神道において全国の神社の頂点に立つのは伊勢神宮ですが、裏神道において事実上全国の神社の頂点に立ち、実質的な権限を握っているのは賀茂神社なのです。いわば、神道界の総元締め的存在が賀茂神社といえます。

 なぜなら、天皇が天皇になるためにもっとも重要な儀式といわれる「大嘗祭」を主催し、そのすべてを取り仕切っているのは、宮内庁でも伊勢神宮でもなく、京都の賀茂神社――それも、天皇の儀式のいっさいを執り行うのは下鴨神社なのです。


     ☆━━━━…‥・   ☆━━━━…‥・

 旗の答えは、米国の「アラスカ州旗」。
長島昭久衆院議員の挨拶 [2007年02月27日(Tue)]


 中締めをしてくれた長島昭久衆議院議員


 2月19日に行なわれた、わがユーラシア21研究所のオープニング行事の中締めは、民主党所属衆議院議員で、会場内の最も若い政治家である、長島昭久氏にお願いした。

 お話の中に出てくる新樹会は末次一郎を代表幹事に、全国にネットワークを持つ「ひとづくり、まちづくり、国づくり」をめざす政策研究と国民運動の連携を図る組織で、中央本部は解散したが、未だ全国各地の組織が健在で、活発に活動している地域もある。

 長島昭久議員は概略次のようにスピーチした。

☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 皆様こんばんは。
 ご紹介いただきました衆議院議員の長島昭久でございます。諸先輩方がいらっしゃいますのに大変僭越ではございますが、私は吹浦理事長には学生の時代から、つまり吹浦先生が末次先生のもとで事務局長をしておられた新樹会の時代から大変お世話になっていた関係もございます。また、国会に挑戦する前に東京財団で研究員をさせていただき、吹浦門下生の一人でございます。

 このユーラシア21研究所がこうして立ち上がったことは、本当によろこばしいことです。まさに今、日本は日米関係とかいろいろありますが、ユーラシアに対する政策が一番遅れていると思うのです。

 橋本政権のときに一度ユーラシア戦略というのが発表されましたが、その後のフォローが全くないのです。昔マッキンダーという地政学者がおりましたが、「ハートランドを制する者は世界を制する」といっています。そういう意味ではロシアをはじめとするユーラシアとの関係が私たち日本の生命線だと思っております。

 こういう提言をこれから官民挙げてやっていかなければならない、その中心にこのユーラシア21研究所がなると思います。私も吹浦門下生として恥じぬような活動をこれから国会でさせていただくことをお約束し、またご参会の皆様のご多幸、ご健勝、そして吹浦先生のこの研究所がますます発展されますことを心から祈念申し上げまして、締めのご挨拶とさせていただきます。

 本日は誠におめでとうございました。


枝村大使のお祝辞 [2007年02月26日(Mon)]


   

 枝村純郎大使には、大使がまだ香港総領事だった頃から親しくご指導いただいている。その後、インドネシア、スペインの各大使を経て、駐ソ大使としてソ連崩壊に立会い、引き続き駐露大使となられた。ゴルチョフの回想録には、大使と大統領という関係を超えた親しさのなかで、大使がいろいろ奮闘している様子が描かれている。
 ユーラシア21研究所では去る1月10日の「日露関係徹底討論」にも終日ご参加いただき、お世話になった。





 2月19日に行なわれたユーラシア21研究所のオープニングには大使経験者が15人ほどお越しくださいましたが、代表して、元駐露大使である枝村純郎氏に乾杯のご発声をお願いしました。

 以下は、枝村純郎元駐ソ・駐露大使による乾杯のご発声前のスピーチです。


 ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆


 皆様驚かれたと思います。中曽根さんという怪物、笹川さんというような、今の日本社会において亭々とそそり立つような大人物の後に、私のような普通の人間が乾杯の発声をするということは、本来あるべきことではないと思うのです。

 そんなわけで、私も吹浦さんにこれは場違いじゃないか、どなたかもっと立派な方が、たとえば塩川正十郎元財務大臣がお出でですし、そういう方にお願いすべきではないかと言ったのです。けれども、吹浦さんのお答えは「あなたは末次と一番長いつきあいがある、そのために乾杯を頼むんだ」とこうおっしゃいました。

 ですから申し訳ないのですけれども、おそらく司会の方は早く乾杯してほしいと思っているでしょうけれども、一言末次さんのことをお話したいのです。特に今日は奥様もお出でですから。

 末次さんと私は沖縄返還を一緒にやりました。一緒にといっても手を携えてではないのです。平行してやったのです。彼は民の立場で常に我々官の立場にある人間を批判しながら、しかし同じ方向に向かっていたということに確信を持っています。

 私は、末次という人はごろつきではないか、中野学校出の右翼ではないかと思っていましたが、そのうちつきあってみると、この人は大変な知識人であり、教養人であることがわかりました。ですから私は非常に彼に対して敬意を払っています。

 彼は趣味も豊かで、モスクワに行くと上からクレムリンの風景をスケッチしたのです。そのように芸術的な趣味もあったのです。やはり日本に今欠けているものは何かというと、これは教養であり、知識人です。今の内閣を見ていると、ひょっとしたら教養と哲学が足りないのではないか、私はそのことが一番心配です。

 そういうものを持ちながら国士であった末次、この存在は非常に大きかったと思っています。たとえば沖縄返還のときでも、枠組みを作るということが大切だったのです。その枠組み作りのために我々は必死に努力をしたのです。

 そしてやっと1969年の「佐藤・ニクソン合意」、これができたのです。皆様あれは「沖縄の本土並み復帰」と思っているかもしれませんが、「本土の沖縄並み」でもあったわけです。そういう枠組みができたから、後の返還交渉がうまくできたわけです。

 外国交渉のプロというのは、枠組みを作ることに誠心誠意、命をかけて努力するべきなのです。

 その前にちょこちょこと、奇をてらい、俗論に受けるために、学者だとか政治家がいろいろなことを言います。沖縄返還のときもそうでした。基地分離返還、教育権分離返還、そんなつまらない議論がありました。そんなものを佐藤さんが大津発言で一言のもとに退けられたのです。それで沖縄返還が実現したのです。

 このような枠組みを作ろうという努力を我々がやった結果が1993年の細川首相とエリツィン大統領による「東京宣言」なのです。このことを皆様性根に据えて、もう一度承知していただきたいのです。

 今また俗論がはびこっています。2島先行返還論でいいかげん我々は苦労しました。その後に今フィフティフィフティ論というのがあります。こんなものに論壇賞をやるという新聞があるということ、これは非常に悲しむべきです。中ロと日ロとは違うのです。

 これは外交のプロとして私は繰り返し申し上げますが、先ほど申し上げたように沖縄返還がどうしてできたのか、これは佐藤・ニクソン合意が1969年にできたからなのです。そういう基本的な合意の枠組みを作ることが大切なのです。

 それが日露間では「東京宣言」で、これは「佐藤・ニクソン合意」ほど完全なものではありませんが、その兆しができたのです。

 中ロの間には基本的な原則、枠組みがあります。何かといえば国際法の原則なのです。河川国境というものは、大きな流れの中央で決める、2つに流れが分かれていれば主要行路の真ん中で決める、という主要行路原則というものがあるのです。流れがはっきりしていないなら、あとは、ハバロフスク近郊のヘイシャーズ島であろうと、フィフティフィフティでわけようとそれでいいのです。これは技術的な解決の範疇なんだということをぜひわかってほしいのです。

 それを1993年の「東京宣言」でやっと法と正義の原則に基づいて、今まで日本とソ連、日本とロシアとの間にあった諸合意に基づいて、そして歴史と法的事実に立脚して解決しようとしているときに、中ロの関係と日ロの関係は違うときちっと言えるのは末次だったのです。

 末次は上にも阿らなかったけれど、下にも媚びなかったのです。今のとうとうたるポピュリズムとセンセイショナリズムの流れのなかにあって、これに抗する勢力こそ結集しなければならないのです。ひとりの命は大切だ、そのために命をささげた人は大切だ、立派だ、偉い。しかし、1億2千万の国民全体のことを考えるのが官邸だと私は思っています。

 ポピュリズムとセンセイショナリズムの大きな流れに抗する、そのことこそ今政治の責任であり、それを支えるのが知識層の責任なのです。インテリゲンチャとはそういうものなのです。そのひとつの拠点として、笹川会長のお気持ちで今回、吹浦さんをトップにユーラシア21研究所が発足されたのです。

 末次は本当の知識人でして、律せられている国士であるというのが皆様が思っていることかもしれませんが、私が尊敬している彼は知識人であり、教養人であったのです。だから相手も彼を尊敬し、信頼したのです。

 知識人はときどき趣味をもつのです。モスクワ河畔から描いたクレムリンでのスケッチもすばらしいものでした。

 吹浦さんは芸術面では師匠を越え、紀尾井町ホールで3月26日にバリトンの歌手としてお金をとるんですよ、プロの歌手としてデビューするのです。趣味人としても師を越えようとしているのです。

 この吹浦さんがユーラシア21研究所を始められて、このことの意義は非常に大きいと思います。乾杯の辞を超えて大変余計なことを申しましたが、では乾杯しましょう。

 それでは、吹浦さんの知識人、教養人のパイオニアとしてのご活動をお祈りし、その拠点、城として笹川会長がくださったこのユーラシア21研究所を皆様でサポートしてまいりましょう。そういう気持ちを込めて乾杯しましょう。ご唱和ください。乾杯!
笹川会長からのお祝辞 [2007年02月25日(Sun)]



日本財団笹川陽平会長。
わがユーラシア21研究所の最大の恩人。
同会長のブログから写真を転載しました。




 2月19日に行なわれたユーラシア21研究所の内覧と記念レセプションの席上、中曽根康弘元首相に続いてご登壇いただいた笹川陽平日本財団会長スピーチを、感謝と共に、ご紹介させていただきます。

  ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃

 ご紹介を受けました日本財団の笹川でございます。大先生が挨拶をなさった後でまさに蛇足の部類になるわけでございますが、ご指名を賜りまして大変光栄でございますし、吹浦さんの熱い情熱を実現するため少しでもお手伝いができますことを喜んでおります。

 中曽根先生からお話がございましたように、わが日本の国士でいらっしゃった末次一郎先生、今日は未亡人もお越しでございますが、皆様ご承知のように沖縄返還でも汗をかかれ、そして、ロシアとの間の北方領土に人生の最後をかけてご尽力をいただいたのでございました。しかし、思い半ばでご他界なさったというのは、もう皆様がご承知の通りでございます。

 吹浦さんには、日本財団の兄弟財団である東京財団の常務理事として長くお働きいただいていおりました。しかし、昨今の日ロ関係を見ましたときに、鳩山一郎先生から始まって歴代の政治家がついに成し得ないまま今日まで至り、なおかつ展望が開けないのであります。そうしたなかで特に民間の立場からの、問題解決へのサポートというものが、このままでは途切れてしまうのではないかと私はかねて考えて参りました。

 そこで、末次先生のご遺志を実現するためにも、吹浦さんひとつここはあなたの人生の最後をかけて、この日ロ問題の打開のために民間の立場からご尽力をいただきたい、お願いできないだろうかということを申し上げたのでございます。

 吹浦さんからは「承知しました。末次先生の墓前に胸を張って報告できるように、自分の人生をかけたい」というご快諾をいただけたわけでございます。

 したがって、私自身にも責任が生じているわけでございますが、ともすれば日ロ関係の、特に民間の交流が手薄になってきているわけでございます。そうしたなかで、東京財団で吹浦さんは、ロシア語による日本の情報発信を計画されてずっとやってこられました。

 これも今回のユーラシア21研究所の創設により、こちらで引き継いでいただきますが、今やクレムリンの高官の方々もこの吹浦さんのところから発信する情報に注目をして回覧なさっているということも伺っております。

 ユーラシア21研究所は大変小さな組織ではございますけれども、大きな志を持ってこの日本の国益実現のために命をかけたいという吹浦さんに、ぜひ皆様のご声援とお力添えをいただきたいのです。そして、今一度、北方領土問題の解決と同時に戦後残されたロシアとの平和条約の調印というところまでいくように、ぜひご協力を賜りたいと願っております。

 繰り返しになりますが、この研究所は小さな組織ではございますが、あふれるような情熱を持って仕事をしたいという吹浦さんに、ぜひ皆様方のサポートをお願い申し上げたいと思います。ありがとうございました。

  ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 拳拳服膺し、身を引き締めて日露関係の打開に微力をそそぎたいと念じております。引き続き、ご指導・ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

石燈籠の縁から40年 [2007年02月24日(Sat)]










 40年ぶりに再会したH氏邸の石燈籠と筆者





 H邸の梅見にお招きいただいた。主よく、客よく、もちろん梅もよかった。

 H氏は、経済同友会の設立に参画、N社の社長として有名な同社の労働争議を解決し、若くして、財界にこの人ありと注目された。そして後には、NTTの設立委員長、経営者団体連合会(経団連)常任理事、経済同友会代表幹事、東京商工会議所常任顧問、日本経営者団体連盟(日経連)顧問を兼ねた大物で、規模の大きな調整役であった。このため「財界官房長官」「財界幹事長」などと呼ばれた人である。

 他界されて22年、未だその影響力が続き、多くの人に尊敬されている。

 まだ20代だった私は、この方とちょっとしたご縁があった。日韓政経セミナー(大森実国際問題研究所主催)というのに関わっていた私は、H団長の率いる日本側代表団のお世話係りとしてソウルにお供した。確か1967年だったと思う。服部禮次郎(和光)、牛尾治朗(ウシオ電機)、堤清二(西武百貨店)といった当時の少壮財界人もご一緒だった。

 H氏はソウルで、思わず絶句するほどのすばらしい石燈籠と出会った。

「これはすばらしい。キミ何とかならんか」。

 それがこの写真の石燈籠である。別に密輸したわけではない。理を尽くして韓国側と話し合い、しかるべき大金を投じていただき、もちろん税関をきちんと通過した、「血統証付き」の美術品である。

 旧邸の門から入り、大きな玄関の間の盛り土の上に設置されたときには参上して確認した。

 あれから40年、ピアニストの中村紘子さんのコンサートでお嬢様(といっても私より年長の方)とお会いしたのがきっかけで、きょうのお招きとなった。

 以前のお邸は3分の1ほどの広さになり、120本あった梅の木は数も種類もずいぶん少なくなったそうだが、「梅の実はバケツで10杯ほど採れますかしら」というほど、庭一面に香ばしく咲いている。もちろん、ウグイス、メジロ、ツグミなどなどの野鳥が次々とやってきていた。

 H氏が戦後日本の経済を発展の軌道に載せた功績は絶大なものがあったと私は評価する。仏間で線香をともしていると、在りし日の温顔が浮かび、人との縁を大事にする生き方をこの方から学んだことを顧みた。ご冥福を祈って合掌した。
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