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聖火リレー秘話 [2007年01月31日(Wed)]





こんな若造(小欄の筆者23歳)をよくぞ信頼して国旗を任せてくれたものと感謝している。1964(昭和39)年10月10日、東京オリンピック開会式の日に、国立競技場で。




  NHKの看板番組「その時歴史は動いた」で昨夜(1月30日)は「東京オリンピック」を取り上げていた。

 私はオリンピック東京大会組織委員会の専門職員として国旗を担当した。組織委最年少職員として式典課に所属していた。だから、となりの席で森西栄一さんが聖火リレーを担当していた関係で、裏も表もよく知っている。

 そんなわけで、昨日の番組でおそらくかなりの数の視聴者の方々が誤解をしたのではないかと思う点だけを、はっきりさせておきたい。

 番組では、「聖火はアジア各国をリレーして東京にたどり着いた」といった内容のことを言っていた。

 これでは、ギリシャのオリンピアで採火されてから、延々と地上をリレーされたと誤解されるおそれがある。

 実際は、少し違う。アテネから主要都市を飛行機で運搬したのだった。これは当時の飛行機の航続距離から言っても当然のことで、各経過都市で、主要な街路を走ったというのが実態だ。

 返還前の那覇空港まででそれは終え、鹿児島からは日本の全都道府県を地上リレーした。

 とりあえず、その点だけははっきりさせておきたい。だからといって、別に悪いことでもなんでもない。私はそれなりの効果は十分あったと思う。ただ、むやみに東京オリンピックを美化して捉えないでほしいだけのことだ。

 当初、組織委はオリンピアから陸路をということを計画し、組織委、朝日新聞社、日産自動車の3者が組んで、麻生某氏を隊長とする調査団を派遣した。調査団は2台の日産車でギリシャからシンガポールまで走破すべくアテネを発った。

 2台の4輪駆動車を運転したのは森西さんと足立さんという日産のドライバーだった。調査隊は人間関係を壊し、かろうじてニューデリーまでたどり着いたが、そこで、雲散霧消。森西、足立両さんだけが地上をシンガポールまで運転して帰国した。

 あれから47年、もう話していいと思って、きょう初めて公開した。

 なお、森西、足立両さんはその後、自動車レースのドライバーとなり、最後は確か1968年だったと思うが、ケニアのサファリ・ラリーに2人で出場した。出場は、レーサーとしての2人の悲願であった。

 みんなで資金集めし、タクシーを改造したレーシングカーで参加した。

 しかし、悲劇がスタートの前日に起こった。砂塵の舞う中で対向車が車線をはみ出してきて、正面衝突。

 一瞬、名ドライバーの森西さんは運転席をトラックに向けて足立さんをかろうじて守った。即死。

 東京カテドラルで行なわれた葬儀には、レース姿で華やかなヘルメットを被ったレーサーたちと東京オリンピックの関係者が参列した。

 そして、森西さんの一人娘「沙波里ちゃん」もいた。思い出すだけで、涙が出てしままう。

 組織委の事務局(開会の前年まで今の迎賓館=赤坂離宮にあった。)で、私は森西さんという人から、「信頼」ということ、「年齢を超えて若者を信頼すること」(当時、わずか20歳の早稲田の学生に過ぎない私を信頼して国旗を任せた)を教わった。ほかにも実に多くを学んだ。「人生の師」である。

 今度はそれが私の番だ。


 
写真の4世代 [2007年01月31日(Wed)]


 剪画はモノクロ写真のような思い出まで感じさせてくれる。剪画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。





 仲良しの「妙齢の美女 in Kyoto」から、こんなメールが来ました。

☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 アルバムの入れ替えをしています。3000枚以上を入れ替えました。『良く遊んだなー』と感心します。

 写メールは凄いと思いますが写真屋さんで現像、プリントしていた時代のほうが
『こころ豊か』であったと思います。自分さえ安く、速くではなくそこに誰かの仕事をいれてあげても良かったのではーと思いながら30年間のアルバム整理です。

 古き良き時代〜なんて言葉を子供の頃、耳にしました。古き良き時代〜と今、自分の写真を見ながら懐かしく思います。

 だんだん良くない時代になっているのでしょう。『欲望』と言う止まらない汽車に乗ってしまったのでしょうね。乗れない人は置いていかれて生きていけない。大変な世の中になってしまいました。

☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃

 早速、私も返事をしました。私とは2世代違うって。モノクロにはモノクロの、そしてセピア色になった写真にはそれなりの懐かしい、または甘酸っぱい思い出があるって。

 デジカメのよさと便利さは大いに活用するとして、プリントにはプリントのありがたさがありますよね。大切にしてゆきたいものです。

 先日の早稲田のクラス会でHくんが言ってました。「東京の街をモノクロで撮しているんだ。でも、もう、モノクロのフィルム自体が簡単に手に入らないんだ」。

 ああいう時代があったな。二眼レフや一眼レフでストロボ搭載といった・・・

 先月亡くなった兄がいろいろ教えてくれたっけ。これはプリントにもなっていない、別の私の思い出だ。

米原万里さんのこと [2007年01月31日(Wed)]




 ソ連の国旗。今でもじっと見ていると心が重くなることがある。




 あと4,5日で、「日露専門家対話」が始まる。1973年にわが師・末次一郎がはじめて、通算25回目となる。14人が来日し、激しい議論を展開することになるだろう。先方の団長は、スターリン時代の有名なモロトフ外相の孫ニコノフ民主政治基金総裁である。

 ロシアとの会議といえば思い出す一人が、米原万里さん。ロシア語通訳者としての万里さんである。2006年(昨年)5月25日に癌により56歳で亡くなった。遺作とも言うべき『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋社)が評判である。

 会議の通訳として何度もお世話になったが、特に思い出すのが、ソ連時代の末期に東京で開催された「全日本強制抑留者協議会」(斉藤六郎会長)主催の「シベリア抑留」に関するシンポジウムのとき。

 私は議長を務めた。会場いっぱいの抑留経験者たちは開会前から怒号だった。むりもない。帰国後、数十年ぶりでソ連人を見たという人たちがほとんどである。

 しかし、招かれたソ連人は、抑留問題の研究者、国際法学者、ソ連赤十字赤新月社の代表といった、この問題に真摯に取り組む人たちだ。ここは冷静に会議を行ない、必要な情報を得、今後の協力を約すべきであった。

 2日間の会議はその意味ではこの問題に対する相互理解を大いに促進する形になってとてもよかった。めったにほめられたことがなかった私だが、そのときだけは「名議長だったね」と、師匠にお褒めいただいた。

 1991年にゴルバチョフ・ソ連大統領がきたときに斉藤会長ほか「抑留3団体」の代表と会い、、94年にエリツィン大統領が来日したときには、少なくとも6回、口頭ではあったがシベリア抑留について謝罪した。その布石になったことは間違いない。

 終了後、楽屋で、斉藤会長から米原さんと私に「謝金」が出た。双方とも15万円だった。ありがたく頂戴して、しかるべく活用させていただいた。

 ところが、ソ連からの人たちへの謝金が、各100万円だった。会長がちょうど現金を数えているところだった。

「これは多すぎます。今後、来日する学者たちに他の団体もこんなに支払わなくてはならなくなります」と私。

「いままでいろんな会議に参加してきましたが、これでは今のロシア人にとってあまりに巨額であり、相場を不当に高くしてしまいます」と万里さん。

 すると突然、斉藤会長は号泣し、
「あなたたたち二人は、われわれの気持ちを一番わかってくれる人ではないか。この日をわれわれはどんなに待ったか考えてみてくれ。われわれの思いを始めて伝えられたんだ」。

 この金額の是非は今もってわからない。しかし、それでも斉藤会長には万里さんも私も終生かわいがられたことは確かだ。今は亡きお二人に合掌。

国連軍縮局が縮小へ [2007年01月31日(Wed)]






 国連の機構「改革」が進行中で、軍縮局が消えてしまう。この局長ポストは日本の大使経験者が抑えてきたのであるが、韓国出身のバンキムン新総長の決断で、近く正式に決定されることにほぼ固まった。

 これについて「軍縮ネットワーク」から次のようなメ−ルが来た。局長は事務次長ポストであっただけではなく、国連の重要な使命であるだけに残念でならない。

 国連の実情をしっかりと理解するために、あえて転載させていただいた。
 

  ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 先週金曜日に、バン事務総長から総会議長に対し、軍縮局とPKO局の機構改革に関する文書が送付されました。29日、そのうちのAdvancing the Disarmament Agendaと題する軍縮問題に関するぺーパーが回って来ましたが、その概要は次のとおりです。

1)軍縮局は、国連事務局内に独自の予算を持つ独立した部(Office)として再編する。
2)事務総長が軍縮問題の処理を直接指揮し、そのために軍縮問題担当の特別代表(Special Representative or High Representative)を軍縮部の長として任命する。
3)軍縮部は引き続き大量破壊兵器、特に核兵器の軍縮、不拡散に関するマルチ外交努力を促進、支援し、また国際平和の維持に資するための軍縮、不拡散分野における加盟国の努力を支援し、さらに小型武器、対人地雷、クラスター弾をはじめとする通常兵器分野における軍縮を促進する。
4)軍縮部は現在の5つの課(Branch)と機能を維持する。軍縮部は引き続き、国連総会、第一委員会、軍縮委員会、軍縮会議、その他の機関を通じて、軍縮分野における規範設定に実質的、ならびに組織的なサポートを提供する。
5)ジュネーブの国連欧州本部の事務局長は、引き続き軍縮会議の事務局長、ならびに同会議への事務総長の個人代表を務め、軍縮会議に関わる報告を直接、事務総長に行う。

 また、新しく任命される軍縮担当事務総長代理は、直接事務総長に報告し、以下の任務を負うこととされています。

1)軍縮部の活動及びその運営の責任を負う。
2)事務総長に軍備管理、軍縮、ならびに関連する安全保障問題について、事務総長に助言および支援を提供し、また必要に応じて事務総長の代行を務める。
3)軍縮、安全保障問題の分野において、政策決定を目的とした信頼ある状況分析を提供する。
4)Senior Management Group, Senior Advisors meetings, Executive Committee on Peace and Security, Policy Committeeといった幹部会に出席し、軍縮部を代表し、また軍縮問題において加盟国と国連事務局の関係の取りまとめ役(focal point)を務める。
5)IAEA、OPCW、CTBTOといった軍縮、不拡散分野の国際機関と国連事務局との間の、またこれらの問題に関し地域機関と国連事務局との間の取りまとめ役を務める。

 最後に、この文書はこれらの提案によって通常予算の純増はないこと、また通常予算によって維持されているポストの数の純増はないとしています。 また、この提案は、2年ごに再度検討され、事務総長は、この再編がマンデートを与えられた活動が完全な実施につながるよう確保するとしています。また、国連プログラムに変更が必要な場合は、事務総長は必要な認可を関係の機関から得るしとています。

 この軍縮局再編案は、今週、加盟国との間で調整されることが期待されますが、この文書の中では明確にされていない軍縮担当事務総長代理のグレート(事務次長から事務次長補に格下げになる見通し)などをめぐり、非同盟諸国を中心として難しい交渉が行われる見通しです。
サッちゃん [2007年01月30日(Tue)]




 ピアニストの「音楽の師」山季布枝(やまき・のぶえ)先生と筆者。



  1月24日に紀尾井ホールでおこなわれた、日本の<あの歌この歌>ガラコンサートで、司会の畑中良輔東京藝術大学名誉教授が実にいいことをいっておられました。

「童謡は日本に特有のものです。高い音楽性があり、それでいながら子どもでも歌え、親も楽しめる」。

 こうした歌が何曲もあることを私たちは誇っていいし、もっとひろまっていい。

 この日は、第3部は「新旧の童謡を楽しもう」というので、「赤い靴」「月の沙漠」「砂山」「里の秋」「みかんの花咲く丘」「めだかの学校」「ぞうさん」「サッちゃん」「アイアイ」が歌われた。

 ところが、ここまでの話を昨夜、「妙齢の美女」たちにいうと、なんとなんと「サッちゃん」(阪田寛夫作曲)を知らない人がいた。しかも、音大の学生だ。

 実は、私も長じるまで知らなかった。

 そこで、調べてみると、なんとこの曲は、1959(昭和34)年に、作曲者・大中恩が、わが師・松田トシ先生に、「NHK歌のおばさん10周年」を記念して献呈されたものの1つなのだそうだ。

「そうですよ、私は10周年じゃなくて、1000回記念だったと覚えていますよ」
「他にはどんな歌があったんですか?」
「めだかの学校(並木滋作詞、中田喜直作曲)もそうですよ。ほかにもありましたね・・・」

ということだ。

 3月26日に紀尾井ホールで私が歌う曲が次第に絞られてきた。こんな経緯のある曲なら、「初恋」や「落葉松」といった抒情歌に交えて、「サッちゃん」も歌わなくちゃと決めた。

 昨夜の山季布枝先生先生のところのレッスンで、少々大胆に編曲し、動作をつけようかということになった。乞うご期待。



 
音楽の「色気」 [2007年01月29日(Mon)]


 東京財団虎ノ門DOJO最終回で歌う筆者。




 札幌では霙(みぞれ)だそうです。友人からのメールです。東京も午前中、一時、雪かと思われる気配でしたが、午後からは温かくなってきました。

 その友人からはこんな難しい内容のメールでした。

***************

「妙齢の美女」がおっしゃる「色気」というのは、まして音楽で表現される「色気」というのは、きっと奥が深いことなのだろうと思います。

私の手がけている月刊誌「しゃりばり」も300号を節目に「色気」を、と粕谷一希さんなどに指摘されるのですが、粕谷さんの創刊された「東京人」を愛読しながらも、その爪の垢さえ取り入れられずにおります。

ブログでの中曽根さんとのヤリトリが公開されていますが、これこそ「情報における色気」が漂う話であるかと思いました。しかし、これが別の方からの情報発信でしたら、臭気に変化してしまうのではないかと思います。

醗酵と腐敗の違いは「色気」という言葉で振り分けられるのかもしれない、などと愚考しました。

畏友でもある気功家は「気品という下敷きのある人は色気を感じさせ、ない人は媚を売っている」ケースが多い‥‥と15年前の連載エッセーで喝破していましたが、とすれば、吹浦様の歌に「色気」は今の蕾から3月末には開花にいたるのではないでしょうか。

  ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 きょうは夕方、山季布枝先生に音楽の「色気」を教わりに参ります。要するに「色気」とは「表現力」ではないでしょうか。

 そのあたりをじっくり勉強して、3月26日(月)の紀尾井ホールでの演奏でがんばりたいと思います。

 そうこうしているうちに、2月8日の昼には、三笠宮崇仁殿下(91歳)の面前で、宮様が大正10年ころ作詞した歌4曲などを歌うことになりました。練習です。気合です。

 だめか、これでは「色気」がでないのか・・・。少年(!?)はそこで悩むのです。
  
 
春よ来い [2007年01月28日(Sun)]




「雪上がり」。挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





 お互いに、毎日何て忙しい時間を過ごしているのでしょう。友人や仲間ともども、入り込む余地などないような息苦しささえ感じますが、「忙中閑有」といいます。せめて週末くらいはゆっくり物事を考える時間を持ちたいものです。

 昨日は、東洋英和女学院大学大学院の今年最後の講義を終え、そのまま数名の院生とともに、三遊亭金八師匠の独演会を聞きに池袋演芸場まで行ってきました。みなさん、ナマで落語を聞くのは初めてということもあり、終演後に居酒屋で師匠を囲んだときは、少々興奮気味に見えました。

 92席の会場は超満員でしたが、算数が苦手な私でも、高座の維持は容易なことではないように思えました。

 それにしてもあたたかい陽気でした。東京は冬なのかそれとも春なのか、よくわからないこの頃です。喜んでいいのかどうかさえ判断に苦しみます。異常気象がこの先、何を予告しようとしているのかと考えてしまうのは私だけでしょうか。

 金八師匠の独演会では、二つ目の講釈師、神田織音(おりね)さんが間垣平九郎が家光の前で愛宕山の男坂を騎馬で登る講談を読みました。海抜36メートル、当時、江戸ではひときわ高い山であった愛宕山。これを馬で駆け上がるのは至難のことだったようですが、家光はその「頂きにある梅の花一枝を所望す。騎馬にて採って参る者はおらぬか」というので、大騒ぎ、3人が落馬して死亡した後の成功物語である。

 織音はこの「業界」にはめずらしい?「妙齢の美女」、それでも「コウダンシ」!(おわかりですかな?)

 ところで、梅の歌を読み直す前に、今年は咲き終えてしまいそうです。愛宕山でもすでに梅の花が咲き、山頂のNHK放送文化センターに問い合わせたところ、最早見ごろとなっているとのことです。

 さてそこで、「古今集」。
 梅の花をよんだ歌は19首あります。

   春のはじめによめる  藤原言直
春やとき 花や遅きと聞きわかむ
  鶯だにも 鳴かずもあるかな

                大江千里
鶯の谷よりいづるこゑなくは
  春くることを誰かしらまし

               よみ人しらず
  梅が枝に来ゐる鶯春かけて
鳴けどもいまだ雪は降りつつ

                  紀 友則
 君ならで 誰にか見せむ梅の花
 いろをも香をも 知る人ぞ知る

 月夜に「梅の花を折りて」と
人のいひければ、折るとてよめる  躬恒
  月夜にはそれとも見えず梅の花
香をたづねてぞ知るべかりける

 週明けは東京にも雪が降るかもしれないとの予報もありますが、この陽気が変わるのでしょうか?

 愛宕山はユーラシア21研究所からは歩いても行ける距離。もし、晴れていたら、間垣平九郎は馬で上ったが、せめて私は歩いて登ってみよう。「鶯の谷よりいづるこゑなく」とも春を感じることが出来そうだ。梅の枝は手折らずに帰ってこよう。
「千の風になって」 [2007年01月28日(Sun)]





「千の風になって」という歌は、ここ数年で大きく広まり、ほとんどの方がご存知だと思います。原作の詞はアメリカにあり、それを新井満が翻訳し、作曲したものが多く歌われています。念のため、まず新井満の訳詞をご紹介します。


   私のお墓の前で 泣かないで下さい
   そこに私はいません
眠ってなんかいません
   千の風に 千の風になって
   あの大きな空を 吹き渡っています

   秋には光になって 畑にふりそそぐ
   冬はダイヤのように きらめく雪になる
   朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
   夜は星になって あなたを見守る 

   私のお墓の前で 泣かないで下さい
   そこに私はいません
 死んでなんかいません
   千の風に 千の風になって
   あの大きな空を 吹き渡っています

 
 旅立って行ってしまった人からのメッセージとして聞くには、残された者には癒やされる一曲です。

 ところが、これを選挙で使う候補者がいるというのです。

「ワシントンDCでは9.11事件の追悼会で使い、日本では阪神大震災の追悼に使われた曲を、自分の選挙の決起集会で流すのは変だと私は感じました」「名曲をすごく自分勝手に使うことに侮辱された思いさえしました」。

 舞鶴市在住の2人の友人からそんなメールが来ました。

 政治家が庶民の神経を逆なでするのはおやめいただきたい。これは世界中の人の心の優しさに働きかける歌なのです。

 たまたま私は一昨日、松田トシ先生のレッスンで取り上げてもらいましたが、それは、旧臘19日、実兄を失った私としては、事情があってあれ以来の初レッスンだったこともあり、この際しっかり歌えるようになろうという思いでご指導いただきました。

 まだ胸がきゅんとするような歌です。あのときも、友人や仲間での歌を寄せてくれた人もいました。みんなで大事にしてゆきたい名曲ではないでしょうか。

 舞鶴の市長候補さん、このあたりをしっかりと心得てくださいね。

中曽根元首相と安倍首相 [2007年01月28日(Sun)]


 中曽根康弘元首相




 今週お目にかかったご高齢者の最後は、中曽根康弘元首相。2つのお願いと1つの提言のため砂防会館の事務所に参上した。

 1918(大正7)年5月27日のお生まれなので、米寿を過ぎている。第71〜73代内閣総理大臣(在任:1982年11月27日 - 1987年11月6日)で、衆議院議員連続20回当選(1947年〜2003年)、大勲位という大物政治家であることはいまさらいうまでもない。

 私としては、いまだ学部の学生だった1962(昭和37)年以来、ご指導いただいている関係なので、「オヤジ」にあっている気分だ。

 それだけにこの日は「甘え」に行った。2つのお願いはムリに聞いてもらったのかもしれない。

 1つは、2月6日にロシアから「日露専門家対話2007」に参加する一行の表敬を受けてほしいこと、他の1つは、2月19日に行う、わが「ユーラシア21研究所」のオープニング・レセプションで祝辞を述べていただきたいことだ。

 懇談中に「施政方針演説」を終えた直後の安倍首相からの電話が入った。中曽根首相がどう評価したかは、申し訳ないがここでは書かないことにしたい。

 1つの提言は、本来、その安倍首相ほか安倍内閣の外交・安全保障担当の大臣諸氏への提案である。これをどう伝えたらいいかという相談をしたのだった。

 中曽根元首相は即座に、電話で安倍首相を呼び出し、私のある提案を「これは決定的に重要なことだ」と直接伝えてくれた。これまた申し訳ないが、極秘にしなくてはならないことだ。

 88歳とはいえ、もちろん矍鑠なんてものじゃないほど元気に、国の進路に誤りなきかを見定めておられる。一度も恩返ししていないのに、私は45年間もお世話になりっぱなしだ。深謝するほかない。
「サッちゃん」は松田先生の歌 [2007年01月27日(Sat)]
 



「松の実会」の前座で歌う筆者。2006年11月、松田ホールで。





 この一週間でおめにかかったご高齢の方はまだまだいる。

 昨日(1月26日)は松田トシ先生(元NHK歌のおばさん)の歌のレッスンを受けた。93歳。
 
 先生にまた言われた。

「吹浦さん、あなたは声もいいし、リズム感もそこそこなんだけど、やはり歌に色気がないのよ」。

 はい、その通りです、根がマジメな性格なもんで・・・などととぼけている場合ではない。これは一大事であり、「ライフワーク」かもしれない。

 それでも「色気」の意味が少しずつ理解できるようになり、3月26日の紀尾井ホール出演までになんとか磨きをかけたいものだ。

 昨日のレッスンは「白月(しろつき)」「千の風になって」「初恋」そして「サッちゃん」。

 阪田寛夫作詞、大中恩作曲の「サッちゃん」は、1959(昭和34)年に、「歌のおばさん10周年」か、1000回記念かで松田先生に献呈された一連の歌の1つ。他には「メダカの学校」がある。いずれも日本中でしらない人はいないというほど普及した。

 ところが当時高校生だった私は、恥かしながら「サッちゃん」を正確には知らなかった。楽譜を見ながら、結構音程やリズムにも苦労した。ま、「色気」より「稚気」が大事なような曲なので、次回まで、しっかり勉強しておきたい。

「1,2,3番がそれぞれ思いが違うこと、子どもの気分で歌うこと、少しリズムや音程を崩してもいいこと」を教えていただき、「あとはそのときの気分で、動作をつけるなり、セリフのようにするなり、思うようにやることね」と励ましてもらった。
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