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「すべての武器を楽器に」 [2006年11月30日(Thu)]





 かつて、岡倉天心(1862〜1913)は「アジアは一つなり」と喝破したが、如何せん、依然、「アジアは一つひとつなり」である。政治、経済、社会制度、宗教、言語…いずれも通貨統合を行い、加盟国数をどんどん増やし、政治統合も進みつつあるEUのヨーロッパとは大きく異なる。

 しかし、きわめてゆっくりした歩みであろうが、21世紀のどこかできっとアジアの連帯性は大きく進むに違いないと私は思う。

 21世紀が「アジアの時代」になるかは簡単には言えないことだ。しかし、アジアに住む人々が、世界の平和、安定、発展に従来ない重要な役割を担って行くことは確実である。

 それだけに、日本、中国、インドの責任はさらに重くなるであろう。

 喜納昌吉のこの歌『花』がアジアの人々の心を大きく包み、定着して行ったことを思うと、他の曲も含めて音楽がアジアの相互理解の促進、友好・協力、一体化の推進に一つのきっかけを作ってくれるよう期待する気持ちになる。

 昨今、韓流の映画やドラマが日本側をはじめ各地で大いに人気を博している。日本文化がマンガ、アニメだけではない、こういうポピュラー・ソングを通じてでも、広くアジアの人々に受け入れられてゆくことを期待したい。


 ところで、地球上には今、5億丁ともいわれる小型武器(小火器、small arms)が蔓延しているといわれている。小銃やライフルなど一人で持ち運べ、操作できる武器のこと。

 これがさまざまな武力紛争の原因になっており、その削減は人類が挙げて取り組むべき喫緊の課題である。わが国は堂ノ脇元軍縮大使(紛争予防センター理事長)を中心に、この分野で世界をリードする役割を担いつつある。国連に小型武器会議の創設を提唱し、2002年10月には、その議長に猪口邦子軍縮会議代表部大使(現・衆議院議員)が就任した。

 今、参議院議員となっている喜納昌吉は「すべての武器を楽器に」というPMN(Peace Makers Network)運動に力を入れている。運動そのものの詳細な部分についてはいろいろ言いたいこともなしとしないが、武器をなくすことには大賛成だ。私自身、対人地雷の廃絶には、多少の役割を果たしてきたつもりだ。

 喜納昌吉の祈りにも似た平和への願いと活動を大いに評価したい。


日本の歌の国際化 [2006年11月30日(Thu)]





「今、中国ではやっている日本の曲の大ヒットは、F4という4人組が歌う『流星雨』という曲。これは平井堅が歌う『GAINING THROUGH LOSING』のこと。

 このぶんだと同じ平井堅の『大きな古時計』も、日本同様、もしかしたらヒットするかもしれない。

「それ以外で比較的聞くのが、KIROROの『長い間』、ちゃげあす(チャゲ&飛鳥)の『男と女』ってところでしょうか」
「中国で日本の曲だと認識されているのは『北国の春』くらいで、『花』をはじめ、そのほかの日本の歌は中国語の歌詞で歌われ、しばしば内容も変わっているので、たぶん中国人は中国の曲だと思っていると思います」
「『花』は最近あまり聴きません」と、協力隊員として四川省で活動しているとAさんがメールで知らせてくれた。

『花心』についていくつかの楽譜をみたところ、「沖縄現代曲」「日本沖縄民謡」というのや「喜納作曲」となっていた。

 中国には「沖縄」が何か、どこかわからない人もいるだろうし、あるいは、沖縄を中国の一部であるとでも誤解している人たちがいるということか。また、「喜納」だけでは日本人か中国人か判らないのではなかろうか。

 歌詞が原曲と違うことについては、周自身が『喜納昌吉 流れるままに』の中で、「<陽気なハッピーマン>というイメージの私が喜納昌吉と同じ歌詞で歌っても真実味がない。

 喜納の歌う人生の儚さ、寂しさ、激しさを私は表現できない。そこで、<春は来る、花は咲く、ともに生きていこう、夢を願おう>と歌った」という趣旨を述べている。

 音楽の国際化というべきかグローバリゼーションというのか、私など、名前も聴いたことのない日本の歌が、世界を飛び交っているらしい。

『花』は、モンゴルではウヨンタナが、
ベトナムではトゥアン・ダット、イーリン、キムチーが、
カンボジアではソッマーチが、
インドネシアではデディ・クルニアとワルジーナが、
さらには
マダガスカルでタリカサミが、
アルゼンチンではかのグラスエラ・スサーナが日本語で、
そしてアメリカでは黒人女性グループA.S.A.Pが『HANA』の題でアルバムを出し、
スーザン・オズボーンが歌い、
リチャード・クレーダーマンがピアノで演奏している。

 喜納昌吉は印税制度のしっかりしていないアジアから広がって世界で歌われていることに喜びを示し、「お金は入ってこなかったけれど、人々の心が私のところにやってきたと思う」と、この、「お金には換算できない財産」について語っている。これはすばらしいことと評価し、賞賛したい。
台湾・中国ではラブソング [2006年11月30日(Thu)]




 喜納昌吉の『花』は、次いで、エミール・チョウの名で親しまれている台湾のトップ歌手・周華健が『花心(ファンシン)』の題で翻案・翻訳し、台湾で吹きこみヒット、同じく人気歌手も歌った。

 93年には北京でも受け入れられ、一気に中国全土に知られる大ヒット作となった。

 2002年11月、私は台湾三軍の最高幹部との宴席に着いたが、見るからに立派な将軍たちが、セミナーをした昼の生真面目な顔とは大違い、全員が知っている『花』の話題に頬をゆるめていた。

 また、2004年11月、橋本龍太郎元首相らと北京の人民大会堂で国家副主席や国防大臣にお目にかかる機会があったが、その宴会でも私のテーブルでご一緒した人たちは、みんな良く知っていて口ずさんでいた。

 ただ、『花心』の歌詞の意味は大分違う。

  花的心臓在蕊中 空把花期都錯過
  你的心忘季節
  従不軽易譲人慬
  為何不牽我的手
  共聴日月唱首歌 黒夜又白昼 黒夜又白昼
  人生為歓有幾何 春去春会来 花謝花会再開
  只要你願意
  只要你願意
  譲夢划向你心海

(システム上の都合上、中国語の歌詞が文字化けしてしまいますので、正確な歌詞のファイルを添付させていただきます。)

kashi.doc


  
  花の中心は花蕊の中 花は咲く時を逃し
  あなたの心も季節を忘れる
  心の内をわかってもらうのは容易ではないから 私の手を引いてはもらえない
  日々ともに歌を聴き 歌を歌う
  夜が来、そしてまた昼が来る 夜が来、そしてまた昼が来る
  人生にはいろいろ歓びがある 春が去ってもまた翌年、春が来る
  花は散ってもまた咲くことができる ただあなたの望みでさえあれば
  あなたの心の海に向かって船を漕ぐ夢を見させて
                             (天野さおり仮訳)

 原曲は広く人類の希望や愛を描いた歌詞のように思うが、これでは単なるラブソングの類か。



内外の有名歌手がカバー [2006年11月29日(Wed)]






『花』が喜納昌吉自身のレパートリーであり、「紅白」で自らこれを歌ったことはいうまでもないが、「21世紀の子供たちに伝えるスタンダード・ナンバー」と『喜納昌吉 流れるままに』に寄稿し、同じく「紅白」でも歌った由紀さおり・安田祥子の姉妹を始め、おおたか清流、ジュディ・オング、都はるみ、石川さゆり、ペギー葉山、美輪明宏、森進一、松平健、松方弘樹、河内屋菊水丸、新井英一といったさまざまなジャンルの歌手にカバーされ、アジアを中心に各国で受け入れられた。

 私は何人かの聴き比べをしたが、喜納自身よりもこれまた「紅白」でこの曲を歌った、そして盲目・混血のテナー歌手・新垣勉の美声もいいし、思い入れたっぷりで最後に絶唱する美輪明宏の歌い方もたまらなく好きだ。

  美輪は最近のCDの最後に必ずこの曲を入れ、「花を咲かそうよ」の「咲か」をはっきり強調して歌う。また、「いついつまでも 花をつかもうよ」のいささか意味不明な歌詞で終わりとせず、最後にもう一度、今度は1オクターブ高く、「花を咲かそうよ」と付けて終わりにするなど工夫を凝らしている。

 外国では、まず85年にタイのカラワンのバンドリーダーであるスラチャイがこの歌をタイに持ちこみ、『ドクマイ・ハイクーン(あなたに花を)』となり、さらに子供たちのグループであるマリ・バンド、ダヌポン・ケオカン、スナリー・ラジャシマといったタイ屈指のアイドル的アーティストたちによって、完全に定着した。
天から降ってきた言葉 [2006年11月29日(Wed)]




 挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




「泣きなさい、笑いなさい」という歌詞は、この東京オリンピック閉会式の様子が喜納昌吉の心にインプットされ、それが14年の「歳月とともに発酵されて生まれたフレーズだった」(『すべての人の心に花を』)のだ。

 この14年の間には、麻薬不法所持で一年半服役するということも経験した。72年5月の、沖縄の祖国復帰も楚辺(そべ)刑務所の獄中でのことだったが、喜納は「模範囚としてその間を過ごし、その後、新しい境地と人生を開き」、今日に至っている。

 1978(昭和53)年秋、喜納昌吉30歳。沖縄の祖国復帰5年目にあたる前年、自作の『ハイサイおじさん』で本土での歌手デビューを果たしていた。

 今、社民党の衆議院議員となっている保坂展人(「元気印」という流行語を考案した人)と渋谷・公園通りの東武ホテルでお茶を飲んでいた。西武デパート、パルコを経て渋谷公会堂、NHKへと向かう途中にこのホテルはある。渋谷公会堂は東京五輪の直前に出来、三宅兄弟やジャボチンスキーが活躍したウエイトリフティングの会場だったところ。今このあたりは日本で一番ファッショナブルな場所かもしれない。

 そのとき、「突然、僕のところに歌詞が降りてきた。本当にそれは、どこかから降りてきた、という感覚だった」と『花』の歌詞誕生の時のことを、喜納はよく覚えている

 紙ナプキンに急いでペンを走らせた。そして「あのときの感動のフレーズが甦ってきた。<泣きなさい、笑いなさい…>。16歳の僕が、平和の祭典オリンピックのフィナーレに涙したあの日から、14年の歳月を経て、無意識に心の中で発酵させてきたあのフレーズが、その瞬間激流となって流れ出てきた」という。

 春名尚子の『花ものがたり』(エイト社『喜納昌吉』所載)によれば、「昌吉はこの曲のことを<自分が創ったとは思っていない。これは預かったものだ>という。しかし、この曲を預かることが出来るのは、喜納昌吉その人以外にはあり得なかったであろう。

 それはこの曲が内包するメッセージのように、昌吉自身がすべての人の心に虹の橋を架け、花を咲かせるために、全生命をかけ行動しつづけているからである」。

 だから、まるで啓示を受けたかのようにして出来た歌だけあって、「泣きなさい、笑いなさい」と偉そうに命令形で言われても、抵抗がほとんどないというファンもいる。

 この曲をリサイタルのステージで毎回のように絶唱する美輪明宏も「これは天から授かった歌、天からの励ましのメッセージ」であると解説する。

「いろんな解釈がありますが、最初に詞を読んだ時、輪廻転生の歌だと思いました。雨が降り地面に沁み込み、湧き水となってやがて川となる。川は流れて滝壷に落ちたり,岩にぶつかったり様々なことを経て、やがて海に流れる。そして蒸発して雲となり、また雨となる。その繰り返しです。人の世も同じこと。何度もなんども生まれ変わり、さまざまな人間になる・・・」。

 美輪はステージからこの歌の哲学や宗教を語りかける。


巧まざる演出で感動 [2006年11月29日(Wed)]




 喜納は自著『すべての人の心に花を』(双葉社)で、「16歳(高校三年生)だった僕が、大好きなカツ丼を食べるのを忘れて、食い入るように見つめた東京オリンピック閉会式の映像。平和の象徴である祭典に導かれ、僕はここまで歩いてきたのかもしれない」と書いている。

 1964(昭和39)年10月10日の開会式からの2週間が夢のように過ぎた。その間、中国が初の核実験を行い、東京五輪を侮辱したことを私は忘れない。

 あの日、10月24日、東京オリンピックの閉会式が代々木の国立競技場で行われた。既にあたりは暗くなっていた。まず、『公式報告書』で、閉会式について確かめよう。
 
 天皇陛下がロイヤルボックスにご臨席になり、君が代が演奏された。午後5時、参加各国の旗手がプラカードに従って入場し、フィールド中央に整列した。続いて競技を終了した開放感と大会に参加した喜びに満ちあふれた各国選手は洪水のようないきおいで、しかも無邪気になごやかな雰囲気のうちに入場、チームの区別なく入り混じって整列を終わった。

 閉会式の入場行進については関係の記述がこれしかないことに、私は正直、唖然とした。この記述では「あの感動」はほとんど伝わってこない。

 当時、私は早稲田の学生だったが、日本では数少ない国旗の専門家として組織委式典課に迎えられていた。その後も長野五輪やサッカーW杯でも国旗づくりに大きく関わったが、話を戻すと、これは42年前、1964(昭和39)年の話。

 開会式同様、閉会式でも万一に備え、予備の国旗を全部揃えて、メインスタンドの前にいた。国名を書いたプラカードと国旗とが間違いないかを確認するわけだが、とりわけ、アルファベット順で最後に入場するザンビアが、開会式とは違った旗で入場するのをこの目で確かめることに神経を集中していた。

 その日の早朝、選手村のザンビア選手団の宿舎に「独立おめでとう」と言いながら新国旗を届けたことも脳裏によぎった。

 そのザンビアのプラカードと旗手が入場し、最後に開催国日本の旗手・小野喬(体操。小野清子現参議院議員の夫)が入場した直後、各国の選手たちが一丸となって入り混じり、互いに手を握り、肩を叩き、抱き合い、踊りながら入場してきた。そして、早速、日本とザンビアの旗手を肩車にして担ぎ上げた。

 開会式では秒単位の狂いも起きないよう、進行表をにらみつつ懸命な指揮を務めた松戸節三式典課長以下だったが、閉会式では、対立する米ソ両大国をはじめ選手たちが交じり合うだろうか、日本の選手たちは生真面目に手を振るだけの行進になりはしまいかなどと不安だった。

 ところが、この巧まざる和合と親善の効果に嬉し涙が止まらず、まさに、「泣きなさい 笑いなさい」の心境で肩の荷を下ろしたのであった。

 喜納昌吉は『すべての人の心に花を』で書いている。

  カクテル光線に浮かび上がる万国旗。国立競技場を埋め尽くす満員の観衆の前で、さまざまな国の選手が平和の祭典の成功を喜び、ある者は抱き合って感動に涙し、ある者は肩を組んで笑顔を見せている。国境を超え、人種を超えた人々が、平和の祭典のオリンピックのフィナーレにふさわしく、大きな渦となってスタジアムの空気を完全に震わせていた。アナウンサーが叫ぶ。「泣いています…。笑っています…」。その場面を見て僕の目から涙がほとばしり出た。…この感動は僕の心にダイレクトに突き刺さってきた。

 中国や東南アジアを始め、世界的に愛唱されている『花』の誕生物語の始まりである。
五輪閉会式からのひらめき [2006年11月29日(Wed)]


 ザンビアは東京オリンピック閉会式の日に独立し、選手は新国旗で入場し、万雷の拍手で讃えられた。




  今、このパソコンのすぐ脇に『第十八回オリンピック競技会公式報告書』(オリンピック東京大会組織委員会発行)が立っている。

 2分冊で厚さ10センチにもなる報告書で、箱入りであるから、まさに立っているという感じだ。もちろん、普段置いてあるわけではない。

 さきほど、日本テレビの人が見せてほしいといってきたので、そのままにしてあるまでのこと。

 私は同組織委員会の最年少職員(国旗担当専門職員)だったので、「プロジェクトX」など東京オリンピックとなると、なにかと訊きに来る人が多い。しかし、あのときの多くの人が鬼籍に入ったとは想像もできないくらい、当時、組織委は燃えていた。なにしろ、敗戦から19年目、起死回生のナショナル・プロジェクトだったのだから。

 1996(平成8)年、喜納昌吉はアトランタ五輪のイベントに招待された。有森裕子らが活躍した、近代オリンピック100周年を記念しての夏季大会である。五輪の公式文化イベントとして開催された「Celebrate the Rings」、このイベントで、喜納昌吉&チャンプルーズはアジア大陸代表として招待を受け、喜納は100名を超える「エイサー隊」を率いて公演を行った。

 まさに晴れの舞台となったアトランタ行きであったが、同時に様々な疑問点も残し、あまり満足のゆく公演とは言えなかったようだ。アトランタでの模様については、喜納の『すべての武器を楽器に』(冒険社)で詳しく述べられているので省きたい。

 しかし、喜納とオリンピックは切っても切り離せないものがある。

 喜納は自著『すべての人の心に花を』(双葉社)で、「16歳(高校三年生)だった僕が、大好きなカツ丼を食べるのを忘れて、食い入るように見つめた東京オリンピック閉会式の映像。平和の象徴である祭典に導かれ、僕はここまで歩いてきたのかもしれない」と書いている。
世界一知られた音楽家 [2006年11月29日(Wed)]






『花〜すべての人の心に花を〜』

一、 川は流れて どこどこ行くの
 人も流れてどこどこ行くの
   そんな流れが つくころには 
花として花として 咲かせてあげたい
   泣きなさい 笑いなさい 
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

二、 涙流れて どこどこ行くの 
愛も流れて どこどこ行くの
   そんな流れを このむね(うち)に 
花として 花として むかえてあげたい
   泣きなさい 笑いなさい いつの日か
 いつの日か 花を咲かそうよ

三、 花は花として 笑いもできる
 人は人として 涙も流す
   それが自然の うたなのさ 
心の中に 心の中に 花を咲かそうよ
   泣きなさい 笑いなさい
いついつまでも いついつまでも 花をつかもうよ

『花〜すべての人の心に花を〜』の作詞・作曲者・喜納昌吉(1948〜)といっても、聴けばあの歌かと思い出すかもしれないが、60代以上の人には必ずしも知名度が高いとはいえないのではないだろうか。もちろん、そんなことをいうと一部のファンには怒鳴られるに違いないことを覚悟の上で、あえてそう断った。
 
 もっとも、2年前の参議院議員選挙で民主党全国区候補者として見事に当選を果たした「先生」として、ご記憶にあるかもしれない。正直なところ、その政治家としての活躍ぶりはいっこうに聞えてこないのが残念だ。

 しかし、今や作曲者、演奏家を含め、日本の音楽家では世界で最も知られている人ないし曲ではないだろうか。瀧廉太郎、山田耕筰、武満徹、美空ひばりといった故人はもとより、小澤征爾、中村紘子…の比ではないのではないか。『花〜すべての人の心に花を〜』(以下、『花』)は世界の大勢の人々に愛され、大切に受け継がれている日本の歌である。

  5年前に私が実施した愛唱歌の調査では「ベスト30」以内に入ったが、40〜50代の人が中心のアンケートではおそらくベスト「10入り」したのではないかと思われる。何しろ、1999年8月に成立した「国旗国歌法案」が審議されていたころ、『君が代』に替わるべき国歌の案として巷間、名前が挙がったほど広く日本中で親しまれている曲だ。

『さくら』『故郷』とともにこの『花』を国歌にという話があったほどである。

 もちろん、長年にわたり定着した『君が代』に替わるには至らなかったし、私も、『花』がそうなっては新たに広範な国民に覚えさせるという強制がともなうし、詞は国語として、また、詞と曲とのアクセントなど問題がない歌ではないので、この曲の大ファンでありながら、『さくら』『故郷』ともども、国歌にするには反対である。

 現に私は、99年6月に行われた衆議院内閣委員会主催「国旗国歌法」に関する公聴会において自民党推薦の公述人として、「日の丸」を国旗に、『君が代』を国歌として法制化することに賛成した。

 あらたな国歌を、という声がわからないわけではない。ただ、よしんばそれが選定されたら、それこそ大変な指導や場合によっては新たな強制が必要になるから私はそれでいいとおもう。

 その時に、民主党から推薦されて公述人になったのが作曲界の大御所でいらした中田喜直先生。国旗のことは何もおっしゃらずに、「君が代は音楽的に見て実にすばらしい曲だ」と礼賛仕切りであった。先生の最晩年での出会いだった。
EDWINの兄弟 [2006年11月29日(Wed)]



 EDWINはジーンズ業界のトップメーカーである。

 その社長は長らくわが親友・常見喜一くんであった。

 1960年代はじめ、EDWINのJEANSは生まれた。

 60年代に入るまで、日本にはジーンズメーカーはなかった。1957年にEDWINの前身であるK.K.TSUNEMIが、はじめて中古ジーンズを輸入し市場に卸したのが濫觴。擦り切れていたり、よごれたりしている中古ジーンズを補修し、洗濯して卸したのである。

 59年、始めて日本市場に新品のジーンズが輸入されるようになった。しかし、当時の新品の輸入ジーンズは縮んだり、ゴワゴワしたり、はきづらいものだったし、おまけに高価だった。

このため同社は1961年、優れたDENIM生地、丈夫な縫製、体型にフィットするパターン、そしてWASHによる仕上げまでを独自に開発することに着手した。

 JEANSの生地DENIMの5文字を自由に並べ換えてEDWINという5文字を創ったと伝えられておる。こうした新しい発想、自由な発想で、ジーンズの可能性を切り開いていくスピリットがEDWINの名に込められているのだそうだ。

  1970年だったか、喜一、修二の兄弟が中心になって、EDWINは三軒茶屋でわずか6人で立ち上がりました。ほどなく六本木に進出、さらに池之端、日暮里と発展し、秋田や青森に数千人規模の従業員を抱える工場を創った。

 だが、働きすぎがわざわいしたのか、喜一くんは50代で健康を損ない、伊豆で静養暮らしをつつけている。社長の座は次弟の修二くんが継いだ。これがまたアニキに輪をかけたような働き者。そして何よりも愛煙家。そこで修二くんの健康も、実は私には心配のタネだった。

 それが、先週発売の週刊新潮(11月30日号)で喫煙をかくも誇るかと言わんばかりの大きな記事をのせ、みずから煙をくゆらせている写真を掲げているのだ。曰く、


   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 私の場合、タバコは楽しくて吸うんじゃないんです。どちらかというと、自分を鞭打っている感じ。タバコを吸うと脳が刺激を受け、何かを考え始める。インスピレーションが湧きます。だから私はタバコを吸わない社員には、頭使っていないんじゃないか、と言っています。会社はもちろんどこでも喫煙OK.その代わり、空調設備は普通の建物の2倍です。風邪だってニコチンのおかげで引かないと思っています。  
 そもそも日本は世界に冠たる長寿国なのに、健康のためと称してなぜタバコを目のカタキにするのか、私にはわからない。

  ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 この開き直りは見事である。最後がさらに極めつけ。「経営者として最大限の力を発揮しなければならない私にとって、タバコとジーンズは必要不可欠なものです」。

 この兄弟、実に仲がいい。

 喜一くんとは学生時代からの付き合い、修二くんは同じ早稲田の政経学部の少し後輩なのでこれまた学生時代からよく知っている。しかも、2人とも日赤語学奉仕団のメンバーで、お互いに橋本祐子(さちこ)先生の弟子である。

 この奉仕団は、1964年に東京オリンピックが開催されたとき、付随的に東京で開催されたパラリンピックに合わせて、わが師が、「日本で通訳がいなければ、諸外国からの選手はさらに言語障害をうけるも同様」と、前年に14ヶ国語200人というボランティアを集め、自宅を開放するなどして特訓して対応したものである。

 喜一くんはその団長、国旗の製作で、オリンピック終了後、すなわちパラリンピック本番直前に借り出された私は、コーディネータないし橋本先生の秘書的に加わったのであった。

 さて、修二くん、週刊誌によれば毎日、6箱のハイライトを吸っているとのこと。「高額納税者」であることには感謝しなくてはならないし、社内の排煙機能も完璧というから、あるいはそれほど迷惑ではないのかもしれない。

 実際、東京財団のお向かいにあるJT(日本たばこ)ビルは全館喫煙、生来のタバコ嫌いの私でも、いつもそこのATMを利用しに行ったり、館内の飲食店を利用させてもらっている。別に煙で困ることもない。

 しかし、いまやEDWINは「天下の」と枕詞が着くほどの大企業、修二くん、キミの後ろには従業員と家族、関連会社を入れたら膨大な数の人々がいることを忘れてはいけない。

 この2,3日、喜一、修二兄弟と数通のメールのやり取りをして、兄の健康回復を切に祈り、弟の健康管理への努力を、多少の人生の先輩として、ご忠告申し上げたい。もう、私以外にそんな説教を気楽に出来る先輩は多くないはずなので。 
「赤水の瀧」の絵を追加 [2006年11月29日(Wed)]








   挿画「赤水の瀧」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 前回の鷺の写真、どうしても小さくなりませんでした。そうこうしているうちに、午前零時を回りそうでしたので、あわてて送信してしまいました。

 そのためせっかく石田画伯から「赤水の瀧」の絵をおおくりいただいたと書いたにかかわらず、肝腎の絵を掲載できませんでした。

 というのは、もし、あと数分過ぎると、11月28日は更新ゼロになるところでしたので、こんな不始末になりました。

 お詫びとともに、石田先生の絵を掲載させていただきます。
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