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大使館宴会の効用 [2006年10月31日(Tue)]




名物ドルネケバブ。いやなんとも美味しかった。





これがラック。久々の強い酒に、足をとられた。60度だとか。



 トルコ大使主催のレセプションで断然人気なのは、ドルネケバブ。

 香辛料を工夫した牛肉を薄く切って輪の様に積み重ね、回転させたまま焼く。それをそぐように少しずつ切って、白いご飯と一緒にいただく。

 時には羊の肉をまぜるが、これもまた美味しい。居合わせた友人・野村紘一氏(全日空国際線の最高責任者)が大いにすすめるので、ついお替りした。

 飲み物は、世界的にはアルラック(アラビア語)と言い、トルコでは単にラックというのだそうだ。椰子で作った強烈な酒、「椰子酒」という発音が「安酒」に聞えるのは、多分、私が秋田の出身だからか、はたまた安酒しか飲んだことがないからか。結構、足に来る。要注意。

 ペルー大使館襲撃事件で、これまた畏友・青木盛久大使があんなに大勢の人を招いて・・・と非難されて以来、外務省は各国での天皇誕生日の祝宴を自粛するようになった。

 これは間違いである。各国がやっている伝統的な外交行事であり、諸外国の独立記念日などには日本人も大勢お招きをいただいているのだ。他の機会をも活用して、接待外交は大いにやるべしである。これほど人脈をつくり、アポなしでいろいろな人と重要な話が出来る機会はそうはない。

 現に私も昨夜は、エジプト大使には先日の虎ノ門DOJOでの講演のお礼が言えたし、ロバートソンUNHCR駐日代表とは最近の同事務所ナンバー2以下の非礼な態度につききちんと話をし、代表との変わらぬ交流を確認しえたし、宮内庁の某氏(複数)とも、JICAの幹部とも重要な情報交換ができた。国会議員の数人とも旧交をあたためることができた。

 おっと、途中からはトルコのことはすっかり忘れていたかもしれないが、それはトルコ大使館の参事官に勧められたアルラックのオンザロックのせいとご勘弁いただきたい。
トルコと日本を結ぶもの [2006年10月31日(Tue)]





ソルマズ・ユナイドン駐日トルコ大使(右)と筆者




 ソルマズ・ユナイドン大使はため息の出るほど、品がよくお美しい女性大使。その人柄と人気ゆえもあって、昨夜、神宮前の大使公邸で開かれた独立記念日の祝賀宴は庭まで含め、各界の名士で超満員だった。
  
  それとともに、東京の各国大使館をずいぶん訪れたことがあるが、規模の大きさ、近代的で秀麗な建築美、トルコ大使の公邸はおそらく指折りの名建築かと思う。

  トルコ共和国は1923年10月29日のローザンヌ条約で成立、初代大統領にケマル・アタチュルクが就任した。今年は同日が日曜日のため、翌30日に、独立記念日祝宴が開催された。

  日本とトルコの関係は、1890年のエルトゥールル号事件から始まったといっても過言ではない。

  その3年ほど前に小松宮彰仁親王同妃両殿下が欧州訪問の帰途にオスマン帝国を公式訪問したことに対する答礼として、アブデュル・ハミト2世がオスマン提督を特使として日本に派遣した。

  ところが、その帰路、乗艦エルトゥールル号が嵐に遭い、紀州の串本沖で沈没、乗組員581名が死亡するという大事件となった。しかし、官民あげての手厚い救護により、ともかくも69名が救助された。

  さらに、日本側は巡洋艦2隻を派遣してこれらの人々をトルコまで送還したのであった。爾来、両国の歴史的友好関係が今日まで続いている。

  また、1984年3月、イラク・イラン戦争のさなか、バグダッドやテヘランで孤立した邦人を救出するためにトルコ政府が特別機を派遣した出来事も、両国の友好関係を象徴する出来事となった。

  昨年12月、私はユナイドン大使のお招きで、遭難105年追悼祭に参列した。この日も一天俄に掻き曇り、やがて往時を偲ばせる大嵐となった。

  高円宮妃殿下が参列されたが、テントの最前列で、お気の毒な状況になった。関係者はみな、カチンカチンの緊張ぶりでどなたも妃殿下の座を引き下げようとしない。そこで、旧知の私が女官や侍従にお話して、一緒に座席を交代させた。

  昨日の宴席でたまたまある旧皇族の方に伺ったら、「あの追悼祭はいつも天気が悪くなるんだ」。

  いまだ御霊はやすらかではないようだ。

  昨夜は、全日空の幹部をしておられる畏友・野村紘一氏もご夫妻で来ておられた。野村氏は、このエルトゥールル号の引き上げ計画をたて、入念に準備を進めておられる。エルトゥールル号そのものは木造艦であることもあって、かなり破壊されているであろうが、艦内設備や装備は相当海底に沈んでいるのではないか。日土両国の友好・親善のためにも、成功を祈りたい。

  なお、このエルトゥールル号の事件については、中央防災会議が昨年3月『1890 エルトゥールル号事件報告書』というすばらしい記録をまとめている。

  ユナイドン大使は、11月21日(火)12時30分より、東京財団虎ノ門DOJO(道場)で、講演してくださることになっている(入場無料、自由参加)。長い日本での公務をまもなく終えて、帰国すると伺っている。
解答です [2006年10月31日(Tue)]




七味唐辛子の入れ物を真上から撮した写真。
横から見ると、お椀の中央部が突起状に高くなっているものです。








ヨットではありません。建物の屋根です。葛西臨海公園内の水族館の上がプール状になっていて手前はその水がたまっている部分。その向こうの地面から建物が建っていて、さらにその先に東京湾が見えるのです。






最後の2枚は同じものです。同公園の中央にあるつり橋のロープです。









  言いたかったのは、見方を変えよう、視点を変化させて物事に取り組もう、そうすれば別のものが見えてきたり、とんでもない誤解を防げますよという、老婆(爺)心なのです。
台湾との次世代対話 [2006年10月30日(Mon)]




 11月1,2の両日、東京財団を会場に、「日台次世代対話2006」を開催する。これは、東京財団(会長=加藤秀樹)と台湾国際研究学会(会長=許世楷駐日台北経済文化代表処長)の共催になるもので、許会長から提案があったとき、日本の国益上、この「南の隣国」を大切にしようと思う私は、参加者の選考に3条件を付けて引き受け、実現したものである。

@ 45歳以下の学識豊かで将来有望な人。
A 女性を少なくとも3分の1加えること。
B 従来、台湾とあまりご縁のなかった人を日本側から選ぶので、台湾側からもこれまで日本とあまり縁のなかった人を中心にしてほしい。

 条件は、概ね満たされそうだ。

 会議のテーマは、
@ 現下の世界情勢と東アジア。
A 日台関係のありかた。

 日本側からは、吉崎達彦双日研究所副所長(45歳)をトップに、内閣府副大臣の林芳正氏(45歳)が、1参議院議員として基調報告をするのをはじめ、少壮の実力者が勢ぞろいする。台湾の専門家は浅野和生平成国際大学教授くらいのものだ。21人。

 台湾側からは18人が参加する。まだお会いしたことがない人がほとんどだが、わが意図するところを十分汲み取っての人選と見たい。

 ところで、この「次世代」、日本語でも発音を聞いただけではいまいち分かりにくいが、中国語ではこれを「下一代」というのだそうだ。したがって、会議名の翻訳は「日本與台灣下一代對話2006」となる。

 会議は、非公開で行われるが、何らかの報告書を発表する予定だ。
京都より奈良がいい? [2006年10月30日(Mon)]


   正倉院



 京都より奈良がいい、と言い張る友人がいる。もちろん、逆の人もいる。

 私など両方が好きなのだが、そんなことでも言ったら、双方から嫌われるだけなので、我ながらなさけないが、
「なるほど、そうですか」「ふん、ふん」「いやぁ、勉強になりました」
とでも言うほかない。

 奈良では第58回正倉院展が開かれている。聖武天皇の遺品が展示されているという。

 聖武天皇といえば国分寺の総本山である東大寺が思い浮かぶ。あの裏にある丘の道をいつか、続けざまに1ヶ月くらいのうちに「妙齢の美女」とも、ロシアの要人とも歩いたことがあるが、なかなかいい。大仏殿を見下ろすと、私まで超大仏にでもなったような気分がする。

  聖武天皇は743(天平15)年10月、大仏建立を発願した。相次ぐ戦乱に心をいためられ、天然痘などの疫病も蔓延した。ものの本には藤原四兄弟もその6年前年相次いで没したとある。こうしたことを御簾深く憂慮されてのことか。ついには仏門に帰依された聖武天皇の人柄が偲ばれる。

  陸奥の国が大仏鋳造に必要な黄金を献上したことに関連して、天平21(749)年、大仏の前で感謝報告する詔が発せらた(『続日本紀』)。

  黄金は宮城県遠田郡湧谷町黄金迫、黄金山神社の地から出土したものが献上された。この時、大伴家持は越中の国の守の館で「陸奥国より金を出せる詔書を賀ぐ歌」を詠んでいる。

 天皇(すめらぎ)の 御代(みよ)栄えむと 東なる
   陸奥山に 金(くがね)花咲く  (巻18・4097)

 大仏開眼供養は、753(天平勝宝4)年4月9日。現在、正倉院の宝庫には、この開眼供養会に用いた品々が多く保存されているという。今回、奈良に行ったらその品々を見ることが出来るのかな。

  秋は、奈良も京都もいいなぁ、と空を仰ぐ。

    (参考『万葉集を知る事典』桜井満監修 東京堂出版)

  以下は、今年の正倉院展のホームペイジからです。ご参考までに。

  ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

  宝物は、聖武天皇の業績を物語る品や遺愛品が多く含まれる点に特徴があります。聖武天皇が国分寺、国分尼寺を建立したことはよく知られていますが、その関連品として続修正倉院古文書(ぞくしゅうしょうそういんこもんじょ)第一巻、勅書銅板(ちょくしょどうばん)、金光明最勝王経帙(こんこうみょうさいしょうおうきょうのちつ)が出陳され、総国分寺である東大寺の前身寺院に関する記録として続々修正倉院古文書(ぞくぞくしゅうしょうそういんこもんじょ)第二十四帙第五巻が展示されます。

  また、聖武天皇の遺愛品として、七条刺納樹皮色袈裟(しちじょうしのうじゅひしょくのけさ)をはじめ、鳥毛篆書屏風(とりげてんしょのびょうぶ)、紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)、長斑錦御軾(ちょうはんきんのおんしょく)などが出陳されますが、光明皇后が宝物を献納したときの目録である東大寺献物帳(とうだいじけんもつちょう)のうち高名な「国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)」が出陳されることは、特に注目されます。
新庄の涙、再々々論 [2006年10月30日(Mon)]


  さてはて、これは何でしょう。何事も見方で評価が変わることを言いたいというだけです。悪ふざけではありません。



















  尊敬する元(超有名)総合雑誌の名編集長のP氏から、メールで以下のコメントが来ました。

  出版界で私が最も尊敬する人の一人です。こういう方が小欄を読んでいると思うと、1本を10分で書くなどという乱暴はやめて、1時間はかけてでもしっかり書かなくちゃと、ビビッてしまいます。

  ありがとうございます。

  ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

  新庄についてのご意見に、全く同感です。「まだ試合は終わっていないのだぞ」といってやりたいくらいでした。

  中日もだらしない、あんなことをされて、なにもできなかったなんて。せめて一人でも塁に出るくらいの根性はないのか。

  パフォーマンスにしても同意見です。「疲れました」というコメントには同情しますが。

  プロレスと同じ、お客を引き付ければよいということなのでしょう。

  経営が成り立たねば倒産してしまうプロの世界ではこういう道もあるのでしょうが、自分とは違うと考えて感情移入はやめました。

  「夢」を与えたいという心には共感しますが、「夢」の内容がすこし違うのかもしれません。
観艦式も初体験 [2006年10月29日(Sun)]




海上自衛艦旗の向こうには、安倍首相が乗っている観閲艦「くらま」が。






観閲艦「くらま」のあとには、イージス艦「ちょうかい」(2隻目)







著者近影(相模湾の護衛艦「いかづち」後甲板にて)




 またまた初体験、行って来ました。駿河湾での第25回観艦式。

 朝は久々の5時起き、横須賀から先導艦「いかづち(雷)」に乗艦しました。午前中は寒かったのですが、午後からは日も照り出し、顔が真っ赤に日焼けしました。

 「いかづち」は基準排水量4,400t,最新鋭の護衛艦です。最高速度は30kt(55km/h)も出ます。短距離対空ミサイル、高性能20mm機関砲、潜水艦攻撃用の魚雷を遠距離に飛ばすための垂直式アスロック発射装置、62口径76mm速射砲、艦対艦ミサイル発射装置、3連装短魚雷発射管など周辺海域における近代戦に必要な装備を完備しています。

 私にとって何よりなのは、横須賀音楽隊が乗艦して日本の抒情歌メドレーからスーザまで名演奏をたっぷりと聞かせてくれたことです。中学高校とクラリネットを吹き、その後、フルートにも手を出したものとしては、こういう「名手」「名人」たちの演奏を「至近距離で聴く」という興奮は別物です。

 観艦式の濫觴は、なんと1347年なんですってさ。きょうもらった資料にそうありました。英仏戦争の時、英国王エドワード3世が、自ら歓待を率いて出撃する際にその威容を観閲したことに始まるんだそうです。

 日本での歴史も結構古いんですね。なんと、明治元(1868)年、明治天皇を迎えて大阪の天保山沖で実施された観兵式が始まりなのだそうです。6隻、2,453tだったのですが、なにはともあれ「明治の人は偉かった」というべきか。
 
 さらに読み進むと、「観艦式」という言葉は、帝国海軍の第4回目にあたる1900(明治33)年に神戸沖で行なわれた大演習観艦式の時なのだそうです。

 帝国海軍は1940(昭和15)年、紀元2600年を記念して横浜沖で特別観艦式を行ないました。このときは、艦艇98隻、596,000t、航空機527機参加という大規模なものでした。

 きょうはもちろん安倍晋三首相も参加し、式辞を述べました。北朝鮮のミサイル発射実験、核実験を糾弾し、防衛庁を防衛省に昇格させることについて触れ、国民と一体になってその期待に応えてもらいたいと結んでいました。全くその通りだと思います。

 自衛隊員の規律正しさと親切さには各国からの駐在武官たちも感心し、感謝していました。もちろん同感です。

 また、午前中の天候が悪く航空機の参加が大幅に削減されたとはいえ、概ね順調な観艦式であったと思います。威風堂々、その姿は各国の武官にも強い印象を残したようです。数カ国の武官と話してみて、実感しました。

 ただ、欲を言えば、もう少し、平均年齢を下げることは出来ないものかと、正直、実感しました。おそらく私はかなり若い方だったのではないでしょうか。加えて、音響の酷さは、いまどきこれは何だと言い合うくらいでした。ご一考をお願いします。
北方領土十戒 [2006年10月28日(Sat)]





  挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 
 北方領土問題を解決して、日露関係を抜本的に改善するために(より深く検討されるべき点なしとしないが)、これまで、私たちが心がけてきたことはこの通りである。

1. 4島返還は国是。2島先行は大きな2つを永久に失うこと。


2.歯舞、色丹は4島全体の7%、それで妥協するなら50年前に平和条約が出来ていた。


3.4島返還は、日露双方に利益をもたらす、プラスサム・ゲームであることを理解せしめよ。

4. 平和条約がなければ、戦略的パートナーシップも長期や大きな経済協力もない。

5. 両国で真摯な話し合いが出来るうちは第3国をからめるな。

6. 国際司法裁判所で絶対に勝てるなら一案。負けたら、50年、政府も学者もウソつきだったことになる。

7. 返還後にロシア人を追い出してはいけない。共住で世界の領土問題解決の範をたれよ。

8. 領土問題の話し合いが始まってまだ15年、少しずつでも進んでいる。あせりは
禁物。ロシアも真剣に解決策を模索してきていることを知るべし。

9. 官民一体の輿論の後押しが解決の基本。

10.4島周辺地域の振興を常に念頭に置くべし。
観覧車に初めて乗った [2006年10月28日(Sat)]












 精米したての新米を食べたのが先日の初体験、観艦式に参加するのがあすの初体験。このところ、いい歳をしての初体験が続くが、きょうは観覧車の初体験をした。

 場所は、葛西海浜公園。高さ117mという全国にある62の観覧車のうちでも最大級という性能と、スグ隣のディズニーランドはもちろん、房総半島、三浦半島、富士山、筑波山・・・直下は花壇と東京湾というすばらしい眺めである。

 日本で最初の観覧車は1906(明治39)年5月に大阪の「日露戦争戦捷紀念博覧会」の会場に設置されたものであることが、当時の大阪毎日新聞であきらかになった。さらに翌年4月、東京・上野で開催された東京勧業博覧会でも設置され、大評判になった。

 世界的にも、1893年にシカゴで開催されたWorld Columbian Expositionのアトラクションの1つとして建設されたものが最初と言われているから、われらが先人たちはたちまちのうちにこれを自国のものにしたと言ってもいいだろう。このシカゴの観覧車はパリのエッフェル塔に対抗して作られたものであり直径約80m,2160人乗りで、現在の基準からいえば、巨大なものといえまいが、当時としては大変な技術だったようだ。

 1981年には神戸ポートアイランド博覧会で63.5mのものが、1985年にはつくば科学博覧会で85mのものが建設された。そして現在世界最大の観覧車は「ロンドン・アイ」の愛称で親しまれているイギリスのもので、直径は135mもある。
なお、2006年現在日本最大の観覧車は福岡エバーグリーンマリノアの「Sky Dream Fukuoka(120m)」だそうなので、私がきょう乗ったのはおそらくそれに次ぐものであろう。

 観覧車は、もちろんスリルも危険もないし、車椅子で登場する人も大勢いた。ただ、なんとなく夢があり、気分がいい。また搭乗しそうな気がする。

 さてはて、今年は夏に、歌で海外公演をした。もちろん初体験。小欄でも報告したように、また、朝日新聞にも紹介されたように、フィリピンのダバオで1800人もの聴衆を前に、よくぞ歌ったものである。

 これからもわが初体験は続きそうだ。人生は挑戦だと、わが師・末次一郎は述べ、その通りの人生を実践した人だった。




   (文中で一部、ウィキペディアを参照しました。)
新庄選手 続編 [2006年10月28日(Sat)]


撮影は、石田良介画伯。



 新庄選手について、舞鶴の「妙齢の美女」から追加の意見が来ました。

 先生のご意見に近い物も私の小さな頭の右端にはございます。ただ新庄は『人間、新庄剛志』としての役がらを見事に演じているように思います。中田英寿が最後の試合の後芝生に長く横たわったのもスーパースターとしての演出でしょう。あのシーンは中田を思い出すたびに最初に浮かぶ映像です。新庄の『涙の三振』も良いじゃありませかー。私は『そう来るか〜』とプロ野球選手、新庄剛志ではなく新庄剛志の野球の最後を見届けて満足です。なかなかやるなっ!って感じです。人生はドラマ。予想を裏切って行くところにヒーローの存在の価値があるのでは?意見は色々あって良いと思います。今日も『今日の私』を演じて来まーす。皆さんに飽きられないように秋からメークを変えました。コレマタなかなかの評判です。うふっ)^o^(

 また、いかにもプロ野球に詳しいSONICさんからも、次のコメントです。

おやおや。
新庄はプレーでは更に素晴らしいですが・・・。
どうやら仕合を見てないんですね。困ったな。笑

そ れに長島もかっこいいフルスイングの仕方、帽子の飛ばし方、その他いろんなアピールの仕方を練習していたんでしたよねぇ。
私は新庄こそ長島茂雄の真の後継者にして現代のミスタープロ野球と言える選手だったと思います。

でも、こんなことは人夫々の感じ方で構わないことですね。

プロ野球ストライキ以来、日本のプロ野球はどんどん良くなっているのが分かります。
新庄選手は引退だそうですが、北海道の人たちも野球を好きな人たちも幸せそうで良かったなぁと思いました。

 さらに、スポーツ評論家とも言うべき「もろい」氏からも次のメッセージです。

先生に同感です。
彼は赤いシャツを着たり、覆面を被ったりしてファンサービスをしているようですが、プロであればプレーが素晴らしければそれだけでファンをスタジアムに呼べるはずです。
全否定はしませんが、彼の振る舞いはどうしても小手先のパフォーマンスに見えてしまいプロ選手としては甚だ疑問に感じてしまいます。

 そう、私も決して全否定はしないのです。しかし、「やりすぎ」、観衆の目を誤魔化そうとしているという面が、少々気に食わないのです。
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