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歌とトークとで混乱 [2006年09月30日(Sat)]


 拙著『歌い継ぐ日本の心―愛唱歌とっておきの話』(海竜社)は、おかげさまで多数の方々にご覧いただきました。但し、私は音楽の愛好家ではあっても、音楽そのものや演奏については全くの素人。どうぞ誤解しないでください。この本には、小欄でおなじみの石田良介先生の剪画が、表紙をはじめ、中にもたくさん出てきます。悪友は口をそろえて、それで売れたんだと申します。そしてそれは、正しい解釈です。

 講演と歌を同日にこなすということが、こんなにも難しいということを、きょうは嫌というほど体感させられました。

 講演のほうは「平和とは何か」という話です。日頃考えていることと、拙著『平和の歴史』(光文社新書)のさわりでもしゃべればなんとかなるだろうと、先週まで、世間に甘え、タカをくくっていたのがそもそもの間違いです。今にして思えば、一昨日、レジュメを送るように主催者から言われて、頭がまとまらないうちに、デキの悪いものを送ってしまったのが躓きの始まりと言えるでしょう。

  加えて、歌のほうは「しぐれに寄する抒情」(佐藤春夫作詞、大中恩作曲)が、今朝になって大ブレイク。なぜかリズムも音程も不安定で、落ち着かないこと夥しい状況に立ち至りました。

 会場への車を運転しながら、松本美和子さんのCDでも聴いて確認しようとしていたのですが、あいにく諸事情から電車で行くことになり、不安はさらに募りました。

 私の基調講演を終えてみなさんがシンポジウムをしている間に、最後列の席でそうっと楽譜をみて勉強しなおしていると、係りの方は非情にも、もっと前に座るようにと「ご親切に」指示してくれるのです。

 気もそぞろな私を、タイミングよく、ピアノのある部屋に誘ってくださった肥田五和子先生の特訓は、直前まで続き、なんとか誤魔化すことが出来ました(?)。

 教訓はいっぱい得ました。実力以上の歌は人前では歌わないこと、自信のない歌は選ばないこと、練習をもっとしっかりやること、そして、講演と歌の二本立てなどということは、ブタが木に登るくらいおだてられても、引き受けないこと・・・

 去年、難民を助ける会のチャリティ・コンサートで、巨匠・中村紘子さんが、前半に、トークと著名な小品の演奏を交えておやりになったときのことです。すべてが終わってから、こうおっしゃっていました。

「演奏は右脳、トークは左脳。両方を電気のスイッチのように切り替えて使うことには無理があります。だから、あんなポピュラーな曲でも、前半は楽譜を見ながら弾いたのです」。

 私は、きょう、ギリギリになってその言葉を思い出し、「しぐれに寄する抒情」は、恥かしながら楽譜を置かせていただきました。

 さてはて、10月15日は午後2時から、松田ホールで、松田トシ先生(元NHKうたのおばさん)門下生の発表会。昨年4月に弟子入りした私は、前座で「出船」「さくら貝の歌」、そして「しぐれに寄する抒情」を歌わねばなりません。今夜から特訓を重ね、前日からは「右脳だけ」で準備し、今度は楽譜なしで挑戦しなくてはならないと、覚悟しています。

 それにしても松田先生のご指導は、弟子のそんな苦労もものかわ、「あなたの歌には色気がない!」。

 卆寿を超えられた先生に、今週は、音楽の「色気」をご指導いただかねばなりません。嗚呼。


■資料リンク

愛唱歌とっておきの話―歌い継ぎたい日本の心

愛唱歌とっておきの話―歌い継ぎたい日本の心
日本軍、サハリンに上陸 [2006年09月30日(Sat)]


 日露戦争の末期、児玉源太郎の提案で行なわれた、「ロシア本土」サハリンへの上陸作戦はこの海岸で行なわれた。いま、このちょうど反対側に、「サハリン2」の天然ガス液化工場が日本企業の下、トルコ、ネパール、フィリピンなどから数千人の技術者や労働者を集めて行なわれている。左端は、上陸記念碑の台座。






 台座だけでもこんなにも大きかった。






 記念碑は倒されて近くに放擲されている。立っているのは筆者。9月2日撮影。






 新屋新宅という兵が日記を遺している。第1軍(司令官=黒木為禎(ためもと)大将)に属する近衛歩兵第三連隊の補充兵であった。しかし、前年10月の沙河の会戦で負傷し、半年近くの入院で回復し、第49連隊に転属した。

 7月5日、新屋が所属する第2大隊第7中隊(中隊長=大多和勝介大尉)は、サハリン南部の港町コルサコフ付近に上陸し、地雷原を越え、わずか2日で、コルサコフを占領した。

 ロシア軍は集落に火を放って逃走し、勢いに乗った日本軍は約40`北上し、ウラジイロフカ村(戸数約三〇〇)まで追撃、わけなくこれを占領して、晴気(はるげ)と改名した。占領した第2大隊長晴気市三少佐(第11期士官生徒、1905年4月19日付で少佐)の姓に拠る。

 その後、日本時代にこの地は豊原となり、樺太庁が置かれた。この圧勝により、日本軍は16名の将校以下、700余名のロシア人捕虜を獲得した。

 その新屋の所属する第7中隊が、ナイバ川(日本側の呼称は内淵川)上流付近で、捕虜の大虐殺を行ったのであった。

 すなわち、南サハリンにあったロシア軍はこのあと5つのパルチザン部隊に再編されたが、次々に日本軍に撃破されて降伏した。

 8月末までに第5部隊(隊長=ワシリー・ブイコフ大尉)は大陸東岸のニコライエフスクへの潰走に成功した。残るはわずかにダイールスキー2等大尉指揮下の第4部隊(兵184名)のみ。

 依然として抵抗を続けつつ、同部隊はアレクサンドロフを目指して、西海岸を北上していた。しかし、ホルムスク(日本時代の真岡)の北約50キロ地点で日本の巡洋艦に発見され、川伝いに山岳地帯に入り込んだ。

 8月23日、ナイバ川に達し、丘陵地帯に踏み入った。このさきは湿地帯化してしばしば歩行の困難な中央部に続く。

 孤立して、他の自軍部隊との連絡も途絶えたロシアの第4部隊は「防御工事を施し、副防御物として急造の鹿柴(ろくさい)を設け森林深き此陣地に於て身を全ふせんことを決心」(伊藤貞助『樺太戦史』)したのであった。

 30日、オトラドノエ(日本時代の川北)村で日本軍と衝突、『樺太戦史』では、同部隊は「日本軍に多大の損害を与へ」たが、「其後数刻を経るや優勢なる日本軍」が「包囲し、猛烈なる射撃を加」えたため、「損害益々大なるのみならず全滅も亦(また)免(まぬがる)る能(あた)はさるの状況に陥り、余儀なく指揮官以下降伏して俘虜となれり」。同戦史はその後日本領となった豊原の住人である著者が20年後に上梓したものである。

 しかし、他の部分の記述が詳細を極めているにもかからず、この戦いについてはここで筆を置いている。

 全滅を免れようとして日本軍に降って俘虜となった百数十名の運命にはほうかむりしているのである。悲劇はこの時に起こった。
児玉源太郎の樺太進攻策 [2006年09月29日(Fri)]
       
  


     軍略・政略に秀でていた児玉源太郎




  話を日露戦争以前に戻す。

  かくして、ロシアはサハリンに歩兵1個大隊、民兵2千、砲兵1ないし2個中隊を配備することになった。開戦目前の1904年1月に、民兵組織の編成が始まり、アレクサンドロフ(間宮海峡に望むサハリン北西部の町)を中心に各200人編成の民兵8部隊、コルサコフ(サハリン南部の港)を中心とする南にも4部隊の設置が始まった。

  これだけの部隊を編成するには刑期を終えて島に定住した人たちや、流刑囚・徒刑囚をも駆り出すほかなかった。

  対する日本軍は満州派遣軍参謀長の児玉源太郎大将が帰京して「ロシア本土である樺太をすみやかに攻略してポーツマスでの交渉を少しでも有利に」と強行に主張し、部隊の派遣が実現したものである。

  攻勢終末点を知っていた児玉の軍事戦略でもあり、軍人・児玉による優れた政略的発想ないしは政軍略の一致による新たな攻撃というべきであろう。

  歴史に「もしも」が禁物であることを承知の上で推察すると、この進攻が行われていなければ、勝ったはずの日本は「無賠償無併合」の講和を余儀なくされていたかもしれなかった。

  そして、もしそういう事態であれば世論が激昂し、場合によっては、無理に戦闘を継続し、最終的に敗戦に至っていたとも考えられる。児玉はその程度のことを重々承知の上、なけなしの将兵を駆り集めてでも一個師団を急造して派遣すべく、動いたのであろう。

  新設されたのは第13師団(師団長=原口兼済(かねなり)中将)。開戦の翌年4月のことである。新設とは言ってもこの師団には、本拠地の兵営もなかった。移動部隊のような形であり、しかもどこかの軍に所属するわけでもない、独立した戦闘集団として戦場に派遣させられた集団といっていい部隊だ。

  大本営は前年9月に第8師団(弘前)を遼陽方面に向かわせた。次いで11月に第7師団(旭川)を旅順に派遣し、これを第3次旅順攻撃の中心部隊とした。しかし、本来ならば両師団はともに最悪の場合に日本の本土を守備し、機を見て、中国東北部とロシア沿海州の国境をなすウスリー河(松花江)付近や他の作戦に投じようとしていた「虎の子」の部隊だった。

  これで、本土には錬度の高い既設師団は1つもなくなってしまった。バルチック艦隊がもし連合艦隊を撃破して日本海の制海権を奪ってでもいれば、本土はたちまちにしてロシア軍に席巻され、日本は大軍を満州に残したまま降伏せざるを得なかったかもしれない。

  その後、1905年1月に旅順は陥落し、陸軍は3月10日の奉天大会戦に勝利し(それゆえにこの日が後に陸軍記念日となった)、海軍は5月27日の日本海海戦に完勝した(それゆえにこの日が後に海軍記念日となった)。

  とはいえ、日本軍は将校、兵員、武器、弾薬などあらゆる面で、攻勢の限界点に達していた。中国の領土である満州を越えたロシア本土へロシア軍を追い払うどころか、満州南部の中心都市奉天以北へ追撃する余力さえなかった。頼るは、ポーツマスでウィッテ、ローゼンと渡り合う小村、高平両全権を中心とする対露外交交渉による、少しでも有利な戦争の終結であった。

  部隊はバルチック艦隊の壊滅を待って陸奥湾岸(青森県)と敦賀(福井県)に終結、6月17日、第13師団傘下の第52(鯖江)連隊が北サハリンへ、第49(甲府)、50(仙台)の両連隊が南サハリンへと向かった。ほかに騎兵、砲兵、工兵、機関砲隊、輜重(しちょう)隊などが従った。

(註) 児玉源太郎(1852〜1906)
  徳山藩士児玉半九郎忠碩の長男。戊辰戦争に藩の献功隊士として参加。のち陸軍に入り、佐賀の乱・神風連の乱・西南戦争に従軍して頭角をあらわした。1887(明治20)年、陸大校長としてドイツの軍制・戦術の移入紹介につとめ、91年、ヨーロッパを視察。 92〜98年、陸軍次官兼軍務局長、日清戦争で大本営参謀、功により男爵。96年、中将に昇進し、長州軍閥の一人として重きをなした。 98年、台湾総督。1900年、第4次伊藤内閣・桂内閣で陸相、一時内相と文相を兼任。 04年、大将に累進して日露戦争に出征し、満州軍総参謀長、戦功により子爵。06年、参謀総長に就任。南満州鉄道株式会社を創立し、委員長となるもほどなく病没。没後、伯爵。墓地は、青山墓地から改葬されて、現在は多磨墓地にある。児玉の経歴は主として『コンサイス日本人名事典』による。
チェ−ホフとサハリン [2006年09月29日(Fri)]


   囚人の刑罰や懲戒には革製の鞭が使用された




   手足を鎖で繋がれた、サハリンの囚人たち




   アントン・チェーエホフ像(在ユジノサハリンスク)




 『ワーニャ伯父さん』『桜の園』『三人姉妹』などで広範に親しまれているアントン・チェーホフ。既に結核に侵されていた身でありながら、馬車を乗り継いでデコボコ道を進み、大河を利用して船旅をしてというこの旅行(一部は鉄道の利用も)は、チェーホフの生涯にとっても特筆すべき一幕である。

 サハリンに滞在すること約3ヵ月、チェーホフは多くの炭鉱を訪ね歩き、囚人と会話し、約1万枚のカードにこれを整理した。日本を経由して帰国する予定だったが、コレラが流行しているという情報があり、香港に向かい、南周りで黒海のオデッサに帰着した。このサハリンへの訪問について、チェーホフは93年から翌年にかけて、継続的にその報告を書き著し、『サハリン島』にまとめた。

  チェーホフは『サハリン島』で具体的に「1877、78、85、87、88、89年に1,501名の流刑・労役囚たちが脱走した。そのうち、捕らえられたり自発的に戻ってきた懲役囚は1,010名、死体となって発見されたり、追跡の際殺害されたもの40名、杳(よう)として消息を絶った者451名」「脱走の咎(とが)で懲役囚に加えられる最も軽い刑は、革鞭40と労働時間の4年間延長、最も重いのは革鞭100、無期懲役、一輪車に3年間縛りつけにし、受刑囚として20年間禁錮である」(中村融訳、岩波文庫)とすさまじい報復の刑罰をも記述している。

 ロシア語やフランス語に通じた日本人のクゼ領事とスギヤマ書記官に出会い、その教育程度の高さと洗練された慇懃さに感服したことも記されている。

 また、世界的伝記作家といわれるアンリ・トワイヤは『チェーホフ伝』〔村上香住子訳〕『足枷をはめられ、トロッコに鎖でつながれた一部の受刑者は、炭鉱の坑内に這いつくばって働かされている様子を見、残酷な鞭打ち刑執行現場にも立会い、悪夢にうなされた』。「サハリンというところは、放埓(ほうらつ)と狂暴と虚偽で固められた王国だと確信するにいたった」と述べている。

 サハリンでの日露両軍の戦は、チェーホフが首都を発ってからちょうど15年。日露戦争当時でもサハリンの全人口は3万人程度だったが、うち、成人男子の多くが出稼ぎの炭鉱労働者、元囚人、そして服役中の囚人であった。

 ロシアとしては、サハリンが30年前に完全に編入されたとはいえ、この遠隔地全体の防衛を全うすることは初めから不可能と考えていた。ロシアの中心部からあまりに遠く、「敵国」日本からは目と鼻の先という地政学的不利を織り込んでいたのである。人員の十分な配置も補給も至難であり、直接的な防衛価値さえ疑問視されていた。

 それでも、1903年、沿海州総督リレーヴィチ中将はサハリンを視察した。

 そして、北サハリンのアレクサンドロフと南サハリンのコルサコフ(日本時代の大泊=おおどまり)を拠点に防衛拠点を築くべきであると判断、同年5月に視察した侍従武官長クロパトキン陸相の了解を得た。アレクサンドロフは間宮(タタール)海峡に臨む北西海岸の港町、コルサコフはアニワ湾からオホーツク海に面している。日露戦争海戦のわずか2年前のことである。

 宗谷岬からサハリンの南端クリリオン岬までは43`b、晴れた日にはよく見える。日本時代には、稚内(わっかない)と大泊の間に稚泊連絡船の定期航路が設置されてにぎわった。終戦とともにもの定期航路は消滅したが、1995年来、フェリーでの通航が復活している。

  チェーホフがサハリンまでやってきたことは、もちろん今のサハリン住民のほとんどが知っている。州都ユジノサハリンスクの中心部にある美術館の前庭には、この著名な作家の銅像がある(写真)。

  また、かつて野田と呼ばれた日本海側の村はロシア人の村長がチェーホフを好きだというだけで、この作家の名前に変更した。チェーホフ自身が訪れてはいない。


日露の辺境・サハリン [2006年09月29日(Fri)]



  サハリンにいたアイヌの酋長(ユジノサハリンスクの郷土史博物館の展示写真より)





   アイヌが遺した衣服や生活用品など(同博物館の展示物)




 今月は、月初めにサハリンを訪問して以来、なんどもサハリンのことを書いたが、その歴史の基本、日露両国の関わり、日露戦争、特に、そのときのサハリンでの捕虜の問題について最後にまとめておきたい。

 サハリンは両国にとって辺境の地であった。したがってその地ではしばしばこぜリあいが起こり易く、また、軍事力を含む政府権力の移動が起こりやすい。

 以下の記述は、基本的に、拙著『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版、2005年9月刊行)による。同書は、この戦争で両国がいかに捕虜を大事に扱ったかということがベースになっているものだが、その片隅で行なわれた残念なできごとをも、隠すことなく記した。

 さて・・・

 今でこそ、サハリンは人口57万1千(2004年1月現在。ピークは1992年の72万人)、州都ユジノサハリンスク(日本時代の豊原)はその3分の1の人口(18万人)を擁する都会になり、北サハリンは石油・天然ガスの開発で注目されている。しかし、今から150年前(日露戦争の50年前)はまだ荒涼たる地に草木と野生動物ばかりで、わずかに日本の漁民が南部の沿岸に、ロシア人が北西部に少しずつ入り込んでいるという状況だった。古来、ニブヒ人、アイヌ人などが住み着いていたが、当時に至るも大きな勢力にはなっていなかった。

 このため1855年の下田条約(日魯通好条約)では「界を分たす是迄仕来の通りたるへし(第2条)」、すなわち日露協国民「雑居の地」とされた。雑居とは今の言葉で言えば、混住ないし共住の意であるが、人口希薄とはいえ、同じ地域で双方が雑然と居を構え、それぞれがしのぎを削っていたというのが現実である。法律の適用もあいまいであり、むしろ無法地帯、勝手し放題といってもいい状況であったとされる。

流刑囚の島サハリン
 サハリンにロシア人が入植し始めたのは、1851年、この地に石炭の鉱床があるという情報が伝わり、その後の探検で重要な産炭地になりうるとして注目されてから。ロシアは1858年の愛暉条約でアムール川(黒龍江)左岸地方を、2年後の北京条約でウスリー地方(沿海州)を獲得し、極東地区に足場を広げていった。

 同時に、炭鉱開発に目をつけたロシア政府はサハリンを最果ての流刑地と定め、政治犯を含む囚人を積極的に送り込み始めた。19世紀後半、これによってサハリンへのロシア人の「滞在者」が増えた。

 一方、明治になって、函館戦争に敗れた榎本武揚(たけあき 1836〜1908)は東京・丸の内の刑務所に約3年間下獄した。

 その後、北海道開拓使として出仕し、北海道以北にさらに大きな関心を寄せた。駐露公使となった榎本は、サハリンにおいて、ロシア側の勢力が日本側を凌駕しつつある事態に、首都サンクトペテルブルクで懸命な外交努力を重ね、かろうじて、妥協点を見つけ出し、両国の境界線を変更することができた。

 すなわち、1875年の樺太千島交換条約の締結である。これによってロシアはサハリンを完全に領有し、日本はそれまで択捉(えとろふ)島までであった日本の領土を、その先にある得撫(うるっぷ)島以北、カムチャツカ半島からわずか17`の占守(しゅむしゅ)島までの全千島とすることができた。

 日本では生まれたばかりの唱歌「蛍の光」の4番で「千島の奥も沖縄も 八洲(しま)のうちの守りなり」と歌われた。沖縄は1872年に琉球藩となり、79年には日本が軍隊を動かして廃藩置県を強行、正式にわが国の領土とした(琉球処分)。


ショウガ健康食私論 [2006年09月28日(Thu)]

  





写真は、独立行政法人農畜産業振興機構のHPから


 8月に昏倒して以来、この一ヶ月ほど、ショウガとハチミツを入れた紅茶にいささか凝っている。この3者、滅法、相性がいい。飽きずに飲めそうだ。

 体質改善といえば大げさだが、心身にいろんないい影響を及ぼしつつあるのではという気がするので、もう少し続けてみようと思う。これまでこの種の「こと」や「もの」に全く関心を示さなかった私であるが、さすがにこの一ヶ月、酒は一滴も飲まず(飲めず)、朝食は、ニンジン2本とリンゴ一個のジュース・・・健康第1に身を慎んでいる。

 ショウガの芳香成分は揮発油でその主成分はジンギベレーン、ジンギベロール等で、辛味成分はショーガオールやジンゲロンであり、これらは消化促進、食欲増進、健胃、発汗、解熱、菌の増殖抑制、体を温めるなどの働きがあるとされる。

 これらの効果は、ここ暫くの体験で確信できる。胃壁をいためないよう、飲みすぎたときはムコスタ錠を合わせて飲むことにしている。

『最新園芸大辞典』によると、ショウガは別名ハジカミ。古名はクレノハジカミであるとか。「生姜」「薑(百邪を強力に防ぐ意)」と書いて「キョウ」と読む。英語のGingerである。「角の形をしたもの」という意味のサンスクリット語に由来。根茎が鹿の枝角に似ているからであろう。漢名の「薑(きょう)」。

 テレビで「新ショウガ(ハウスショウガ)」のことが報じられていたので、ショウガの分類も少し調べてみた。

 ショウガには、大きく分けて「根ショウガ」と「葉ショウガ」がある。根ショウガの中には新ショウガと土ショウガ(ひねショウガ、囲いショウガとも言う)があるのだそうだ。

 新ショウガは主に酢漬に、土ショウガ(囲いショウガ=新ショウガを貯蔵庫で貯蔵した物)はすり下ろして薬味等に利用するというから、寿司屋のガリは根ショウガの中の新ショウガであり、私が紅茶に入れているのは、同じ根ショウガの中の土ショウガということになる。

 ヒネショウガは「陳生姜」と書くと、『日本語大辞典』にある。初めて知った。「じゅうぶん成熟させてから収穫した根しょうが。薬味や香辛料として、料理・菓子・飲料などに用いる」。なるほど「陳」は「陳腐」の陳なのか。

 今では関西のショウガのほとんどすべてのシェアを持っているのが和歌山市とその周辺。和歌山市内でショウガの栽培が始まったのは大正時代と言われ、ハウス栽培が始まったのは1970年頃で、現在では加温ハウス栽培、無加温ハウス栽培、露地栽培を組み合わせ5月から10月まで新ショウガ(根ショウガ)を出荷していると、中洲出荷組合のHPにはある。

 いずれ歴然たる効果があれば詳細を報告したい。別に、生姜屋からもリンゴやニンジンの生産農家から頼まれているわけではないので、公平中立に、わが身で人体実験をしてみたい。


安倍新首相と国旗 [2006年09月28日(Thu)]










 安倍新政権になって、新しい人事が行なわれ、永田町では引継ぎや申し送りのさまざまな行事や業務が行なわれている。

 官邸でも、内閣官房の交代行事が行なわれた。塩崎新官房長官、そして新旧の両副長官が主役。

 その交代の様子を見た、若い友人のジャーナリストS氏からこんなメールをいただいた。

 S氏は、「塩崎長官も、私個人は立派なステイツマンだと思いますが、ホールに集合した官邸スタッフの雰囲気は、昨年の安倍長官の時とは何となく違っていたような感じがありました」とまず書いています。私も同感ですが、さて、すぐ「次」という人ではないように思う。安倍さんとはそこの違いがあるようだ。安倍さんのあの広さ、大きさを人気の秘密だろう。

 続けて、S記者は、会場の国旗について次のように述べている。重要な指摘だと思うので、小欄でご紹介したい。S記者は防衛も担当したことがあり、安全保障には一家言を持っており、私が尊敬するジャーナリストの一人である。


 ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・


 
自衛隊の行事では、このような場合、ほぼ例外なく壇が作られ、背壁に国旗が掲揚されます。
従って、登壇する人は、視野の正面に国旗が入りますので、自然と敬礼する形になります。
官邸や内閣官房の諸行事では、挨拶される方だけのために、1m四方程度のお立ち台が置かれています。

その左斜め後方に国旗が置かれていました。挨拶に立たれた5名の方は、どなたも国旗に敬意を表されることはありませんでした。

新旧官房副長官4名の方々、塩崎新長官には会釈されてから登壇されるものの、国旗の前は素通りなのです。

これでは、東京都の教職員に、起立を強制することなど絵空事ではありませんか。

私は、場の設定上、国旗に対する敬礼(気をつけの姿勢で、30度程度に頭を下げること)をすることはむしろ不自然だと思いました。しかしながら、国旗の前を通る際、「姿勢を正す」ことによって敬意を表することはできたと思います。

私が取材したとき、自衛隊ではいつもそうでしたが、「姿勢を正す」(自衛隊用語では、「不動の姿勢を取る」)ことだけで、立派な「敬礼」です。問題の本質が、「国旗、国歌に対する敬意」の表し方が、あまりにも形式的になっていることにあると感じた次第です。メディアでも、学校の卒業式だけが議論の対象になっています。

他方、内閣官房では、いちばん偉い方々が、国旗の前を素通りしているのです。

国旗・国歌への敬意の表し方は、状況に応じて異なって良いはずです。学校の卒業式で起立することも必要でしょう。しかし、卒業式でなければ、何もしなくても良い、というのはおかしい。挙手の敬礼をすることから黙礼、或いは姿勢を正すのみまで、様々な敬意の表し方があるのでしょうが、その場に応じた最適の行為をするだけで良いと思うのです。「敬意」は、あくまでも「心の中」にあると思うのです。


  ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

 私は、「国旗国歌法」が衆議院で審議されたとき(1999年)、参考人として呼ばれ、「まずこの議場に掲げられよ」と申し上げた。同法成立後、それが実現した。

 明日は新総理の所信表明演説、さて、国旗にどう敬意を表するか、しかと見届けたい。
国旗の覚え方 実検編I [2006年09月28日(Thu)]

   フィリピン


   リベリア


    キューバ


    パナマ


    チ  リ





  アメリカの星条旗の影響で出来た旗も結構あります。歴史的経過は細かくなりますので、省きます。

国旗の覚え方 実検編H [2006年09月28日(Thu)]


    キリバス


   ソロモン諸島


   ツバル


   フィジー


   ナウル



太平洋の島々の国旗はその大部分に、海を表す青系の色が入っている。
パチンコの現状と将来 [2006年09月28日(Thu)]




サミー工業の人気遊戯機種「北斗の拳」。確率論と電子工学の結晶だ。




 人間にとってある程度の射幸心は必要だ。忍耐力、判断力、寛容さ、反省、豊かさの実感、生活の潤いの源泉にもなり、古今東西、何らかのゲームが行なわれ続けてきた。あるいは石を用いたり、カード(かるた)だったり、スポーツや占いに似たものもあったし、それがさまざまな形に発展して、現在に至っている。

 競艇、競馬、競輪・・・人間性を磨くにはもってこいの部分がある。

 パチンコ(法令ではひらがな表記)は日本の代表的な大衆娯楽、D元衆議院議長や作家の松本清張のような著名なパチンコ愛好者もいれば、某公立大学のH教授やアメリカ人ジャーナリストのR氏など、ほとんどはまっているわが友人もいる。

 現在のパチンコは、数学(確率論)と物理学や電子工学(IT)の結晶である。あるグループが研究した結果によれば、1日中、初心者が何も考えずにパチンコをやっても、なくすカネは最大で13万円余なのだそうだ。あとは努力と工夫と忍耐で、たのしくいろんなことができるのだという。

 日本の愛好者は1200万人だとか。10年で客数は半減し、同じ客が何度も足を運ぶ「固定化」を壊すことが業界の課題だとされる。

 ほかにも問題はいろいろある。

 自動車内に幼児を置いて死亡させたという事件まであった。不正に改造された遊技機も時に出回る。景品と交換するはずが「3点方式」とか言って、カゲでこそこそ?換金するシステムが広まっているのは公然の秘密?である。しかし、H教授によれば、この物量豊富な時代にあって、換えたいものがないというのだ。図書券とか旅行券ならいつでも活用できるが、消費財は奥さんがスーパーで買ってくるし、タバコを吸わない限り、品物でもらうのは時代遅れだというのである。

 そこで、このほど有限中間法人遊戯産業健全化推進機構が立ち上げられ、河上和雄同機構理事長(元東京地検特捜部長)の話を聞く機会があった。5,6年前だったと思うが、河上氏を座長に、「パチンコのあり方を検討する有識者会議」が開かれ、なぜか私もその委員の末席に連なった。

 その時に私たちが主張したのが、パチンコ屋さんとスーパーやデパートとが、オンラインでつながる「店外オンラインシステム」と、地元商店街と結ぶ「地域振興券」。また、射幸心をあおることの少ない、「年金で遊べるタイプの手軽で安く楽しめる遊技機の開発・普及」だった。

 河上氏はある先輩の言葉として、高齢者には「キョウーヨー(今日、用事)が必要だ」と笑わせ、これからは「年金で遊べる遊技機が国家的に必要なんだ」と説く。新しく設置された機構は、当面は、不正遊技機防止のための検査体制を確立することが任務だが、将来的にはパチンコ業界のコミッショナーとしての役割を期待されている。

 関連企業の売上の合計が30兆円に近く、ホールだけでも全国に1万5千以上あるという。押しも押されもしない日本文化、大衆娯楽、基幹産業であるだけに、その運営はガラス張り、より透明性を高くする必要がある。

 R氏は、「パチンコというと昔はヤクザと、今は警察と密着している印象だよ。それダメね」と真顔で言う。警察庁によれば、暴力団とのからみは今はないに等しいとのこと。それはいい。「社会との共生」あっての大衆娯楽だ。関係団体の役職員のほとんどが警察出身とも聴くが、これはいかがなものか。

 文部科学省、産業経済省といったところが、もっともっと関係してきていいのではないか。業界も警察庁も、そしてマスメディアも、この日本の産業・文化を正面に据えて、真剣に考えてみる必要があるかと思う。


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