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ベートーベンの本邦初演 @ [2006年08月29日(Tue)]



  久留米俘虜収容所


 映画「バルトの楽園」で、徳島県の板東俘虜収容所が一躍(というか、またまた)有名になったが、さきにも述べたように、福岡県・久留米市の収容所はそれにまさるとも劣らない数々の文化交流、技術移転が行なわれているので、ご注目いただきたい。

 以下は、久留米市教育委員会が刊行した「久留米市文化財調査報告書第153集」を引用したものである。この報告書は捕虜の研究者にとっては重要なものであるが、音楽研究者を始め、音楽愛好者にとっても重要なものであろうかと思い、あえて、小欄でご紹介したい。

 貴重な史実を、少しでも多くの史家や音楽愛好者に知ってもらいたいものである。

  ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

 ベートーベンは、久留米俘虜収容所でもっとも好まれた作曲者のひとりである。現在確認している145回の収容所での音楽会で、ベートーベンの曲が演奏されたのは31回にもなり、約5回に1回はベートーベンの曲が聴かれたことになる。

 収容所では、収容所楽団(Lager Kapelle、オッヨー・レーマン指揮)とシンフォニー・オーケストラ(Sinfonie Orchester、カール・フォクト指揮)の二つのオーケストラのほか、シンフォニー・オーケストラに付属した形の室内楽団(Kammer Musik)が、それぞれの得意分野を生かし、名曲の数々を幅広くカバーしている。

大正4(1915)年7月21日の第2回目の音楽会では、早くもレーマンのバイオリンとウィルのピアノで「協奏曲ロマンス」が演奏され、以後、オーケストラの体制が整うにしたがって、劇音楽や交響曲の大作も演目に加えられるようになった。

中でも交響曲はほとんどが日本でも初演である。

 べートーベンの交響曲が収容所で最初に演奏されたのは、大正5年2月25日、「第8交響曲」である。これは、日本初演といわれていた東京音楽学校管弦楽団の大正11年12月より、6年9ヶ月早い。「第8交響曲」はべートーベンの交響曲としては規模も小さく、軽快なことから「小交響曲」とも呼ばれる。シンフォニー・オーケストラとして本格的な活動が始まる同年4月9日の音楽会以前のことでもあり、比較的小規模のものが最初の演奏曲に選ばれたのであろう。

大正6年3月4日には「ベートーベンの夕べ」が持たれ、「第5交響曲」が演奏された。これも日本での初演である。    
     (以下は次回に)


8月28日といえば [2006年08月29日(Tue)]




  「国後島」の挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 8月28日といえば、北方領土返還運動関係者にとっては、忘れられない日である。

 61年前のきょう、ソ連軍が択捉島に上陸した日なのだ。8月28日13時15分、ソ連の掃海艇589、590の両艦が択捉島留別の海岸から1.5キロ地点に投錨、日本軍の自走艀を取り込んだ。樺太の大泊(現コルサコフ)を出発した部隊だ。

 この時、日本軍の軍使が現れ、小川権之丞中将麾下の将兵13,500が降伏する用意がある旨、伝えた。

 以後、国後島、色丹島を次々に占領、9月5日19時までに歯舞群島での日本軍将兵を捕虜とし、その武器を引き取った。

 ボリス・スラヴィンスキーの『千島占領―1945年夏』(加藤幸廣訳、共同通信社)によれば、「南千島諸島(この場合は、択捉以南の島々を指すとおもわれる。現在の行政区分では国後以南)全体で約2万人の日本軍将兵が捕虜にされた。千島列島における捕虜の総数は5万442にのぼった」とされる。

 この占領は、当時、ソ連軍太平洋艦隊司令部の意を受けた、樺太にいた一部の佐官級指揮官の、ほとんど独断に近い「蛮勇」によってなされたものである。それ以前に、カムチャツカ半島からやってきた部隊は、択捉島の北隣・得撫(ウルップ)島まで来て、退き返している。

 本来、日本固有の領土である北方4島は、北海道と同様、米軍が占領すべき地域であった。1945年12月、根室の安藤石典(いしすけ)町長らは、悪条件の中を上京し、GHQ(連合軍最高司令部)に、その旨を陳情している。これが、北方領土返還要求運動の濫觴とされる。

 明朝、私は学者、専門家、国会議員、同時通訳者(3名)とともに、ユジノサハリンスク(旧・豊原)に向かう。

 ロシアが真に民主主義国家であり、法と正義に価値を置く国であるならば、「北方4島の占領? あれは、スターリンが犯したいくつかの誤りのうちのごく小さな1つだよ」と気付くはずだ。

 それが少々時間がかかっているとはいえ、まだ、冷戦が終わってほんの15年、領土問題の解決にとっては、短い時間に過ぎない。あせってはいけないのだ。30余年、これに取り組んでいる者としては、「解決済み」「そういう問題はない」と言い張っていた国が、ずいぶん、変わって来たものだというのが実感である。

赤十字看護婦に感動して [2006年08月29日(Tue)]
 尊敬する先輩・太田成美氏から残暑見舞いのおはがきをいただいた。日本赤十字社の外事部に長く務められ、その後、日赤中央女子短大に移られた方である。

「暫くです。貴兄はお元気に決まっているとは思いますが」という書き出しに、昏倒以来、体調不良の私は「元気」という文字で固まってしまったのであるが・・・。

     ☆―――・・・・・・  ☆―――・・・・・・

 『従軍看護婦たちの大東亜戦争』(祥伝社)を一冊の本にまとめて刊行してくださり、ありがとうございます。  戦地での日赤ナースの方の活動振りに感動したのが原因で、復員した翌年から日赤入りした者には尊い本です。大切にします。

  ☆―――・・・・・・  ☆―――・・・・・・

 太田氏は、立教出身の敬虔なクリスチャンで、青年将校だった戦時中、中支の戦線で負傷し、上海の病院で従軍看護婦と出会ったのが、その後の人生を決めたと伺っている。

 この本は、25年前に『ほづつのあとに』の題で3部作(アンリー・デュナン教育研究所)と写真集(メヂカルフレンド社)として刊行されたもので、今回、それを、圧縮し、時代の流れにそって整理しなおし、畏友・近衞忠W日赤社長がすばらしい序文を書いてくれたものである。出版社と関係者の努力で定価を千円以下にすることが出来たのも、普及版としては嬉しい。

 過ぐる大戦を、別の視点から洞察する上で、私はこの本を多くの若者に読んで欲しいと念じている。


■資料リンク
従軍看護婦たちの大東亜戦争―私たちは何を見たか
従軍看護婦たちの大東亜戦争―私たちは何を見たか
サハリンは北の隣人 [2006年08月28日(Mon)]



実りの秋近し?



  サハリンはこの季節、急速に気温が下降する。数年前には、9月16日に吹雪に出会ったこともあった。

 1990年代にサハリン(樺太)が外国人に公開されてから、私はおそらく20回近く同地を訪問しているかと思う。今般、30日から行くのは、「サハリン・フォーラム2006」に参加するためである。

  故・末次一郎が主宰してきた安全保障問題研究会は1973年以来の日露(ソ)専門家会議(今春で24回目)とは別に、97年10月以来、ロシア連邦サハリン州行政府とともに「サハリン・フォーラム」を共同開催してきた。

  この「サハリン・フォーラム」は、

@ サハリン州の行政幹部、学者、専門家をはじめとする有識者に日ロ関係改善に建設的な姿勢で正面から取り組むべく、理解の促進を図る 
A サハリン州の日本研究者や日ロ関係研究者に機会や情報を提供し、研究促進のインセンティブとする 
B 北方領土の返還を実現して日ロ平和条約を締結するという、わが国官民挙げての悲願ともいうべき外交課題の達成に、学者・専門家として役割を果たすことを目的とし、ひいては日本とロシアの懸案の問題である北方領土を管轄下に置くサハリン州の頑なな態度を緩和させる可能性を探り、領土問題解決による日ロ平和条約締結への一助となることを目指している。

  第9回目となる今回のフォーラムは、下記の要領にてサハリン州のユジノ・サハリンスクにて開催する。

  と き:2006年8月31日(木)、9月1日(金)
  ところ:ユジノ・サハリンスク市、サヒンセンター内会議室
  主 催:安全保障問題研究会
       ロシア連邦サハリン州行政府
  テーマ:日本とサハリン州 ― 協力の展望
  第1セッション = 日本とサハリン州の間の経済関係の現状と展望
  第2セッション = 日本とサハリン州の間の友好関係の深化
  第3セッション = 日ロ平和条約締結の問題と展望

【日本側参加者】   順不同・敬称略
吹浦 忠正  団長、東京財団常務理事
木村  汎  安全保障問題研究会座長、
   拓殖大学教授
袴田 茂樹 同上、青山学院大学教授
西原   正   前防大校長、
   平和・安全保障研究所理事長
渥美 正洋  財団法人世界平和研究所
   客員研究員
兵藤 長雄  東京経済大学教授、
   元ベルギー大使
松村 英二  北海道サハリン事務所長
原田 義昭  衆議院議員、
   自民党、外務委員長
篠原 孝    衆議院議員、民主党

【サハリン側参加者】
ヴァジム A.ロコトフ サハリン州国際・対外
   経済・地域間関係委員長
セルゲイ A.カルペンコ 州経済委員会
   副委員長
ニコライ M.ゾトフ 地域団体『サハリン・
   日本』議長
ヴィクトル K.ミトローヒン ユジノ・サハリン
   スク経済・法律・情報大学法科助教授
ユーリイ N.ベルジューギン 独立サハリン・
   クリルコサック協会 隊長・中佐
イーゴリ V.アンドレーエフ サハリン地域
   社会運動『アジア太平洋協力発展を
   めざすサハリンフォーラム』会議議長、
   政党『統一ロシア』サハリン支部地域
   管理・監査委員会委員長
ヴャチェスラフ V.ヴラーソフ  コンサルティ
   ング会社ARCG分析グループ主任
セルゲイ A.ポノマリョフ 州議会議員、
   超党派議連『ロシアのクリルの
   ために!』コーディネーター
ボリス R.ミシコフ 州議会議員、
   サハリン国立大学学長
アレクサンドル I.マリソフ 地域社会団体
   『ロシア東部国境保全のために』議長
ゲンナージイ V.グレバ サハリン国立大学
   東洋文学・文化学部助教授
ナターリヤ I.ボンダレヴァ 『今日のユジノ・
   サハリンスク』紙編集長

この他、在ユジノ・サハリンスク日本国総領事館より、オブザーバーとして数名参加していただく予定。

先般の銃撃事件、北朝鮮をめぐる一連の問題、露中、米中問題が話し合われるのは当然であるが、懸案の「北方領土問題」について、いつもながら熱い議論が交わされるのは必至である。

ジェンダーは困りますが [2006年08月28日(Mon)]





「夏の盛り」なのかな、それとも「終わりの始まった夏」かな。


   
 神様は「オトコに子供を産め」とはおっしゃらなかったのですが、昨今はなぜか、男女の「役割分担」と言うだけでも、ジェンダーなんですってさ。「男は男らしく、女は女らしく」なんていう言葉は間違っても使ってはいけないそうです。

「ジェンダーフリー」は基本的には結構なんでしょうが、女の子が「ボク」と言ったり、男の子が「あたし」なんていう社会は、私は嫌いです。

「雛祭り」や「鯉幟」も男女の区別をするからいけないんですってさ。『桃太郎』の話を女の子にしたり、『シンデレラ』を男の話にするなんて、考えてみるだけでも悪寒が走る。しかし、そのあたりが、実はややこしいんです。

 神奈川県の県・市町村連絡会と県の男女共同参画室が作成した『ジェンダーにとらわれない社会づくりに取り組もう!』によれば、「父兄」を「父母」や「保護者」に置き換える、「主人」を「夫」「つれあい」と言いかえるあたりは納得するとしても、manのつく言葉、
chairmanをchairpersonと言い換えるのは国際的にもそうなったやに思えるのですが、「サラリーマン」を「勤め人」に、「カメラマン」を「フォトグラファー」にしなくちゃいけないというのは、いかがなものでしょうか。

「内助の功」を「協力」に、「女房役」を「補佐役」に置き換え、「師弟」という言葉は使わないようにというのです。

 その方針は、@男女の対語のない表現は避けましょう。A家父長制度に基づいた表現は避けましょう、B女性を男性より下とみなす表現は避けましょう、というのだ。

 神奈川県ドノ、日本文化をひん曲げないでください。私は多摩川の東に住んでいてホントに良かった!

 産婦人科という表現の問題のようで、女性科と言うべしという声のあるのも知ってます。婦人団体が女性団体だというのも聞くことがあります。全国地域婦人団体連絡協議会の都道府県組織は、依然として「婦人」のままのところもあれば、「女性」に変更したところもあります。

 しかし、ご自分から、「○○産婦人科」「女医△△」と看板を出している「女性の医師」が大勢、いらっしゃるじゃないですか。

 waiterやwaitressは、神奈川県ではどう呼んでいるんでしょう。まさか、「給仕」とか、「おニイさん」や「お姐ちゃん」に戻すのではないでしょうね。

念のため申し上げますが、私は少なくとも自称・フェミニスト。あれっ、この言葉もダメなのかな? 少なくとも、ジェンダーはいけないとこをよく心得ているつもりです。
久留米から始まった [2006年08月28日(Mon)]




夏の名残りです。




 第1次世界大戦時の捕虜というと、なにかにつけて徳島県の板東俘虜収容所が有名であるが、実は、久留米収容所の果たした役割はあらゆる意味で、板東を凌駕するものである。

 久留米は最初に開設された収容所であり、最大時、1315名の捕虜を収容し、音楽、スポーツ、科学技術などの分野における日本人との交流や、その後の影響において、大阪、板東、習志野、などをはるかに超えていた。

 特に、優れたオーケストラと指導者がいたため、ベートーベンの交響曲第5番「運命」をはじめとする一連の曲の本邦初演はこの収容所でであったし、ブリヂストンが「世界の道」を知るに至ったのは、その中の1捕虜が指導したからに他ならない。以上は、15年ほど前、拙著『捕虜の文明史』(新潮選書)で書いた。

 本日(2006年8月26日)、久留米市から、同市がまとめた「久留米市文化財調査報告書」(3部)をご送付いただいたので、かねての研究調査と合わせて、今後、何度かに分けてご報告したい。

 まずは、久留米と捕虜の基本的なデータをご紹介しよう。

 もともと、青島(チンタオ)戦の日本軍の主力は、久留米の第18師団を中心に編成された独立第18師団であった。

 師団長・神尾光臣中将麾下の各部隊は、1914年(大正3)年8月25日から久留米、佐賀、大村などの駐屯地を発ち、準備を重ね、10月31日、青島攻撃を開始、予想以上の苦戦の末、11月7日にこれを陥落せしめた。

 獲得した捕虜は4,791名の将兵、内、4,679名を内地に送った。久留米には10月6日に俘虜収容所設置が告示され、早々に、最初の捕虜が来着、11月15日には446名が久留米駅に到着した。

 初代の収容所長は樫村弘道少佐ということになっているが、樫村は半年ほどで真崎甚三郎中佐と交代、真崎は1年半在勤して、林銑十郎中佐が継ぎ、その後、高島巳作中佐がわずか1ヵ月半、その任にあったが、渡辺保治大佐が最後の1年半を務めた。

 真崎は後に陸軍大将、教育総監を務めたが、「2.26事件」では皇道派の首領と目されて起訴されたが無罪となった人物、また、林は同じく陸軍大将、教育総監を務め、陸相、首相にもなった。

 1920年1月26日に最後の捕虜118名を送り出した後、久留米俘虜収容所が閉鎖されたのは、3月12日であった。
神様が「休め」と [2006年08月28日(Mon)]





「収穫の秋」近し。「ツガル」はジュースに最適。いま盛んに出ています。




  19日に天城山中で昏倒、21日から「ならし運転」のつもりで少しずつ仕事をしてみましたが、むち打ち症的な症状と、皮膚病とが重なり、24日から今朝まで山間僻地に篭り、ひたすら静養しました。PCの不調という、思わぬ「災難」も重なり、ブログも書けず、自分で自分を世間から隔離した形になっておりました。

 幸い、今朝、虎ノ門病院で事故以来9日目のCT再検査を行い、無罪放免。但し、「風呂は○、酒は×」ということで、しばらくは黙って下を向いています。あとは、口の周りのできものを治療するだけで、とにかく生命には別状がないことがはっきりしました。

 それでもあさって早朝からは1997年10月以来継続している、「サハリン・フォーラム」のためユジノサハリンスク(旧・豊原)に行き、3日の午後、帰京。その日は、オペラシティで難民を助ける会の「天満敦子チャリティ・コンサート」に出、翌朝、今度はソウルに参ります。

 先月の台湾、5月の硫黄島と合わせて「大日本帝国一巡り」と冷やかす「妙齢のブオトコ」もいますが、もとより、そんなつもりで周っているのではなく、サハリンでは日ロ関係や北方領土問題、さらには今回の銃撃事件についても話し合ってきます。ソウルでは、日本、台湾、韓国、米国の軍事専門家たちとのシンポジウムです。歳のせいか、ともに団長という役をおおせつかり、健康上の理由で逃れることも出来ず、なんとか頑張ってきます。

 みなさまにはほんとうにご迷惑をおかけし、またご心配をおかけしています。NY、北京、モスクワをはじめとする世界各地の方々や、札幌、秋田、舞鶴、鳥取などからお見舞メールをいただきました。ほんとうにありがとうございます。

 神様が「しばらく休め」と言ったのだと思い、ブログもたぶん少々、怠けますので、ご寛恕下さい。本格的な再開は、9月9日以降かと思います。
カラ元気 [2006年08月25日(Fri)]






 昏倒以来、思いもよらぬさまざまな余病がでて、病院めぐりをし、昨日もそのまま自宅静養、きょうも同様ということになってしまいました。とにかく眠いのです。寝てばかりいます。30日から、9回目のサハリン行政府との国際会議に出席しなくてはならず、他に打つ手なしという、あわれな状況です。

 そんな昨日、家を出たところで、ご近所の「妙齢の美女」にバッタリ。
「いかがですか?」
「はい、これから病院に行くところです」
「でも、思ったよりお元気そうでなによりですね」
「はい、カラ元気なんですよ」
「そりゃ、ようございました」
「?」

 ご本人は、ご厚意でおっしゃったのでしょうし、世の中の挨拶程度の会話に目くじらを立てるのはおかしいかもしれませんが、このやりとり、なんか変ですよね。

「どうぞお大事に」
とでも言うべきところかな、と愚考します。

 このあと、病院に行き、処方箋をいただき、さらに院外薬局から出るときです。「妙齢の美女」たる薬剤師が、
「ありがとうございました。またお越しください」。

 そういえば、この薬局、以前、「くすり祭り 大感謝祭」というのをやっていました。

 頭を打って私がしっかりした言語感覚を持っていないのでしょうか? 心配になってきました。
ヨルダン皇太子の講演 [2006年08月24日(Thu)]


  ヨルダン・ハシュミテ王国の国旗。左は七稜星。国旗の詳しい説明は、小欄末をご参照ください。





        
    講演されるハッサン・ビン・タラール殿下
  

 ヨルダン・ハシュミテ王国のハッサン・ビン・タラール殿下(預言者ムハンマドの42世、1947年3月、アンマン生まれ)が、日本財団・笹川平和財団主催の会合で、英語で講演された。昨8月23日、日本財団ビルで行なわれた講演会には内外の100余名の方々が参加され、同殿下は約50分間講演され、4人の質問に答えられた。

 講演はきわめてスケールの大きな、かつ深い思索と経験に基づいた高邁な内容であり、私の如きは必ずしも十分、理解できない箇所もあったが、いくつかについて、あらためて確認させていた事実や、印象に残るお話があったので、それだけでも書き綴っておきたい。

◎ 王子というのは、内省的でなければいけないという義務があるが、私は35年間公務にあり、今はNGOの代表と考えてほしい。

◎ 昔は、金と鉄を巡って国と国が対立した。今は、エネルギーと水だ。

◎ 中東イスラム地域には残念ながら、さまざまな問題が山積し、かつ、多くの民が困難な局面に立っている。イランで44%もの人々が極貧状態にあり、麻薬常習者が200万人もいる。アフガニスタンも同じ状況だ。

◎ アラブ諸国はその周辺に、トルコ、クルド、ペルシャ、ユダヤといった強力な異民族と接しているということを忘れるわけには行かない。

◎ アラブ地域にはしっかりした経済圏というものが確立されていないという、未発達ともいうべき状況がある。

◎ 中東地域にはまた、宗教を民営化し、憎しみの産業にしてしまう者たちもいる。

◎ 少数派の意見や人権を尊重しなくてはいけないことは言うまでもない。しかし、現実は、majorityが沈黙しがちであるという傾向がある。

◎ 日本に望むのは、人類のために日本は何をするのかということを明確に示してほしいということだ。日本は過去60余年培ってきた平和の文化をどのように世界に推進しようとしているのか。

  そして最後に、「トロツキーには毀誉褒貶はあろうが」前置きし、「平和に無関心であってはならないと同様、戦争に無関心であってはならない」と結んだ。

  これを受けて、茂田宏元駐イスラエル大使(日本財団特別顧問)が、イスラエルとヒズボラの対立をめぐる諸問題について、また、私が「アラブ統一の理想と現実」について質問した後、駐日パキスタン大使、藤田幸久前衆議院議員が質問し、予定を超えて、それぞれについて懇切丁寧にお答え下さった。

 警備の都合などで、公開できなかったようだが、こうした機会はこれからも是非、設けていただきたいものである。





ヨルダン・ハシュミテ王国国旗の説明 

 イスラムの色とされる緑が下段にあるというのは珍しい。
 フセイン王政下のヘジャス(現在のサウジアラビアの西部)の旗であったものに、1926年、フセインの王子であるアブドラが白い7稜星をつけ加えてヨルダンの国旗とした。

 7稜星は『コーラン』冒頭の一番重要な聖句「アラーのほかに神はなし。ムハンマドはアラーの預言者なり」が7つの単語であることを表わす。
 
 黒はアッバス朝(750〜1258)、白はウマイア朝(661〜1171)、赤は1917年の大アラブ革命を象徴している。憲法で国旗を詳細に規定している。

 なお、パレスチナの国旗は、この旗の7稜星を取り除いたデザインであり、西サハラ(世界の50各国が承認済み)の国旗は白のオビの中央に赤い三日月と星をつけたものである。
大学の廃校 [2006年08月24日(Thu)]




   残暑お見舞い申し上げます、甲斐駒ケ岳。



 毎日新聞が次の記事を配信している。「大学が潰れる」という現象はこれからも続くし、時に潰してほしいと思うことさえある。まずは、8月24日10時34分の配信記事をご紹介したい。

 ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

 工学部単科の東和大(福岡市南区)を運営する学校法人・福田学園は来年度の募集停止を正式に決め、文部科学省に報告していたことが分かった。東和大は在校生が卒業する09年度末をもって事実上廃校となる。理由は「学生募集に向け改善のめどが立たない」などとしており、同省によると、経営上の問題で4年制大学が廃校になるのは極めて異例という。
 文科省などによると、同学園の福田庸之助理事長らが22日夕、同省を訪れ、来年度の工学部の募集停止を伝えるとともに、書面を提出した。福田理事長は理由について「学生が集まらず、改善のめどが立たない。大学経営が悪化すると、併設の短大にまで影響が出かねない」と話した。既に法人理事会や評議員会、教授会に経緯を説明し了解を得たという。
 東和大は1967年創立。今春の新入生は、160人の定員を下回る約140人だった。57年創立で併設の純真女子短大(同)の知名度が高いことから、今春以降、名称を「純真」に変更し、新たに文系学部などを設置する方向で準備を進めていた。しかし、準備不足などから学部新設の認可申請を断念していた。既存の工学部だけでは今後も十分な学生数確保は困難と判断したらしい。
 同省によると、同学園が新学部を設ける場合、大学新設の認可が必要。廃校を巡っては、広島県の立志舘大学が04年1月、同省に「閉学届」を出している。
 理事の一人は「経営に関することであり、コメントするのはなかなか難しい」と話した。

 ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

 関東地区でも、大学経営者からの悲鳴はすごい。「定員600人のところ302人しかとれなかった。あと3人欠けると、半数割れで国の補助金が停まってしまう」という、K大(もちろん慶応義塾大学にあらず)。

「教授はなるべくテレビに出演せよ。さもなくば、歩くセールスマンとして高校を回るべし」は公立大学を含め、ほとんど軒並みのお達し。

 早稲田、慶応はなんといってもブランド校らしく、「受験料だけで48億入った」と豪語する理事までいる。

 しかし、世の中には、どう考えても大学教育には不向きな少年・少女もいる。

「ボク、ホストクラブで働いてるんです。十分生活できますので、大学辞めさせてください。授業もぜんぜん出ていませんから、授業料返してください」。付き添ってきた「母親」と称する「ミズ」くさい女性は、どうみても年齢が合わないが、「ねぇ、先生。聴かなかった授業のお金をとるってひどいんじゃありません?」と、香水を振りまきながら迫る。これまた関東地区の別のK大学のP教授から先月、聞いた話。

 少子化でこれからの各大学は、運営が大変だろうとは思う。しかし、それは十分予想されたこと。無理して存続を図るより、資産を叩き売ってでも、勇気ある転進が国家と社会のためになるのではないか。

立志舘大学(広島)に続く、東和大学の廃校、あたたかい拍手でいいのではないか。
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