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中国が台湾を併合すれば [2006年07月31日(Mon)]

 
  

   国旗は、台湾に掲げられている中華民国の国旗(青天白日満地紅旗)


 池波正太郎の『まぼろしの城』を機内で読もうとしていたのですが、ほんとに「まぼろし」になってしまいました。

 尊敬する先輩で、台湾に精通しておられる宗像隆幸さんから、『存亡の危機に瀕した台湾』(自由社、1470円)が拙宅に送られて来たのです。「これをしっかり読んで行け」という声が聞こえそうです。

 副題にご注目を! 「中国は台湾を併合すれば日本を属国にする」。

 冒頭もドキッ! 「陳水篇政権は、今や死に体である。・・・国民党が政権をとったら、中国は国民党の協力を得て、実質的な台湾の併合を推進するであろう」。

 日本の「南の隣国」がかくも危ういのである。日本が安穏としていて良いわけがありません。わずか、2泊3日の台湾訪問ですが、要人ばかりではなく、さまざなな人との会見を頑張って、しっかりと見極めてきたいと思います。

 宗像さんに感謝しつつ、機内でしっかりと読み、どなたかに進呈してきたいと思います。あしからず
小欄、しばし休載? [2006年07月31日(Mon)]



 
   「天の原ふりさけ見れば春日なる
       三笠の山にいでし月かも」
    の気分かな?

   剪画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





 東京財団「アジアの民主化、自由・人権の拡大と日本の役割についての研究会」では毎回、ショッキングな話が続きます。私はオブザーバーなのですが、いつも、出席させていただいています。

 きょうは、ミャンマーとベトナムの人権抑圧についてそれぞれの専門家が報告してくれました。お伝えしたい話がいっぱいあるのですが、事柄の性質上、しばらくご寛恕下さい。

  いつも大勢の方に小欄をご高覧いただき、光栄です。本当に感謝しています。
 
   明日早朝、私は台湾に向かいます。2泊3日をフルに使いますので、この間、小欄は休載となるかと思います。あしからずご了承下さい。


佐々木研究員に感謝状 [2006年07月31日(Mon)]






 今朝ほど、番匠幸一郎陸将補(元陸上自衛隊サマワ派遣群長)がお見えになり、佐々木良昭東京財団シニア・リサーチフェローに、西部方面総監の林直人陸将からの感謝状を贈呈してくださった。財団の、加藤秀樹会長以下、全役職員が拍手する中で、簡単な授与式が行なわれた。

 佐々木シニア・リサーチフェローは、自らもイスラム教徒であるが、中近東、アラブ、イスラムの専門家。リビア大学に留学したという、元拓殖大学教授。

 小泉首相の中東政策、とりわけサマワへの自衛隊派遣や今年1月のトルコ訪問などには直接的な影響を与えている。

 自衛隊がサマワに派遣されることになって、東京財団では3つのことを行い、これが円滑に実施されることを支援した。

@ 自衛隊顧問として、佐々木シニア・リサーチフェローを2度にわたりサマワに派遣し、現場で助言を与えた。
A 全国から約2万2千枚の毛布を集め、自衛隊員を通じ、サマワ周辺の家庭や病院に配布した。
B サマワ地区から4次にわたり、計25名の男女を招聘し、日本への理解を図った。

 サマワからの自衛隊派遣部隊は完全に撤退したが、イラクの復興はまだ緒についたばかり。今後の治安の向上と発展を祈念しつつ、のべ約6千人に及んだ派遣要員とその支援に当たった方々の労をねぎらいたい。
『蝉しぐれ』 [2006年07月31日(Mon)]





  昨日、蝉の話を少し書いたところ、藤沢周平の代表作『蝉しぐれ』ついて触れてないのはおかしい、と日本文化、とりわけ剣道ををこよなく愛す「妙齢の美女」からお小言を頂戴した。

舞台は、東北の小藩、海坂(うなさか)藩。歴史上、実在しないがそれだけに読者の想像力を掻き立てる。下級武士・牧 文四郎と隣家の娘おふくの純愛物語。

ある日のまだ靄がかった朝、小川のほとりで蛇に咬まれたおふくを文四郎が救う。清らかな川の流れと緑なす木立に囲まれた城下町。少年の日の淡い恋と剣の道を志す若者たちの友情。そして藩の政争にからんだ、文四郎の父の非業の死。微禄を継いだ文四郎。

藤沢周平の名文に私はすっかりはまってしまった。

他方、おふくは藩主の求めで江戸住まい。いまや雲の上の存在となったおふくへの切ない思いを胸に、公私にわたり悲運が続くなかで、文四郎は父の仇を討つべく、心身を鍛えつづける。

そして最後に2人きりで、昔の思いのまま再会する。

昨年は、なぜか急に時代小説に魅かれ、藤沢周平をはじめ、池波正太郎、池宮彰一郎、浅田次郎、北方謙三、山本周五郎を手当たり次第、読んだ。

私の中にそんなDNAがあったのか、と思ったが、そういえば、親父も兄貴も時代小説をよく読んでいたし、いるなと思い出した。

なぜか、新幹線に乗るときや外国に行くときなどの機内には、時代小説が似合う。仙台での講演の帰り、キヨスクでポルノ(まがい)ではない唯一の文庫本だった『蝉しぐれ』を手に取ったのが、時代小説にはまったきっかけだ。

 明日から2泊3日で台湾に向かうが、今度は池波正太郎を1冊、かばんに入れた。


真っ赤なキノコは如何? [2006年07月31日(Mon)]















   真っ赤なキノコって、食べたことがありますか? 実は、おいしいんですよ。

  毒キノコの代表ベニテングダケ。小欄でおなじみの石田良介画伯は、ほんの少しだけですが、さる「仙人」に図られて?それを召し上がったことがあるんですってさ。目から火花が散り、ホーホーノテイで家に戻ったのだとか。
 
 その石田先生から昨日、送られてきたのが、この絵。正式には、テングタケ科のタマゴタケ、学名:Amanita hemibapha subsp. Hemibaphaです。ちょっと偉そうな名前ですよね。専門家によると、日本、中国、セイロン、そして遠くは北アメリカ(特に東部)に分布するとのことで、生えたてのころは白いの外皮膜に覆われた卵形で地面に現れ、次第に膜の上部が破れて赤ないし燈赤色の傘があらわれる、のだそうです。

  夏から秋にかけて、シイ、コナラ、ブナ、モミなどの樹下を好んで生えるかなり大きなキノコです。カサの表面は鮮紅色で周りには条線があり、ひだは黄色、柄は赤と黄色のまだら模様になっていますから、最初は少々、ドキッとしますが、是非、お試しあれ。

 臆病な私は石田画伯が食べてから2年、親戚のおばさまが食べて1年を経て、おっかなびっくり、ようやくウドンに入れて食べました。美味しかったですよ。

 毒キノコが多いテングタケ科における、数少ない食用キノコです。バター炒め、スープにという人が多いですが、石田先生に聞いてみましょう。

 石田「うどんの汁に入れて食べたら最高に美味しいです」
 吹浦「みなさん、召しあがるのですか?」
 石田「地元の人は<夏きのこ>と言って余り食べませんが、一般の方は知らない方が有難いです」
 吹浦「ブログに書いちゃまずいですよね。間違えて食べちゃったら・・・」
 石田「気を付けてください。でもこれは所詮、絵に描いたキノコですから、安全です(*^。^*)」
丸の内ってどこ? [2006年07月31日(Mon)]
  


  挿画「夏」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。



 7月28日付朝日新聞の夕刊を見ていて少々疑問を感じた。好評の「ニッポン人脈記」ハワイの風Cで、「東京・丸の内の日劇で」と出ている。

 ちょっと待ってよ。あそこを書くなら「数寄屋橋の」か「有楽町の」ではないのかな。今の有楽町マリオンのところにあった。旧朝日新聞とは隣り合わせのビルだったから、朝日が築地に移ってからも、マリオンの6回には朝日新聞記念講堂がある。

 今の表示でも、中央区有楽町2−6である。感覚的に丸の内というのは、東京駅丸の内口の周辺といって言いのではないか。4年前に改築された丸ビルはその中心である。周辺企業の協賛で「日の丸リムジン」が運航している丸の内シャトルバスも、丸ビルから、北は産経会館、読売新聞、お堀端を通って日比谷の交差点から晴海通りに入り、有楽町電気ビルのところから丸の内仲通りを通過、丸ビルに戻るというコース(逆もあり)である。

 日劇は戦前から「帝都」の舞台芸能の中心の1つだった。戦時中は、「ニッポン人脈記」にもあるように、「風船爆弾」の製造工場に変身した。戦後は、再び劇場に戻り、ラインダンスの名所であり、付属する(日劇)ミュージックホールは、外国人や女性を伴って見に行ってもなんの問題もない、品のいいストリップ劇場だった。私はさすがに女性といった記憶はないが、外国人とは要人を含めてなんどか足を運んだことがある。

 記事を書いた林美子さんは「妙齢の美女」であろうから、日劇にはなんの覚えもないのだろうが、朝日新聞としては「記憶にございません」という場所ではないはず。それとも、「丸の内」といいたい事情でもあるのだろうか。

 先週、私は映画「バルトの楽園」を「丸の内Toei(東映)」で観賞した。第一次世界大戦の捕虜についてはかなり精通しているつもりだったが、バルトがbart(ヒゲ)であり、「楽園」は「がくえん」と読むのであるとは、見るまでわからなかった。立派なヒゲを蓄えた、松平健扮する松江豊寿板東俘虜収容所長が収容所を音楽の園にした(おそらくは「らくえん」を兼ねたネーミング)にした話だ。

 それはさておき、この「丸の内Toei」は銀座3−2−17にある。プランタンのすぐ近くといったほうが解り易いかもしれない。この映画館に行くたびにへんだなと思っていたが、さきほど電話して聞いてみた。「昔からそういっていた」というほかには知らないという答えだった。

 おそらく「丸の内」の範囲が変わったのか、「丸の内」で働く人たちを客としてよびたいご町内意識か、そういった事情があるかもしれないので、これ以上は詮索しないが、一般客の一人としてはいささか迷惑な話である。「丸の内」だからといって、丸ビル周辺でタクシーを降りたなんていう人が、「私以外にも」結構、いるんじゃないのかな。
「バルトの楽園」の参考のために [2006年07月30日(Sun)]

 




 私はこれでも捕虜の専門家を自負している。これまでにも、『聞き書き 日本人捕虜』(図書出版社)、『捕虜の文明史』(新潮選書)そして昨年は、『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)と『戦陣訓の呪縛−捕虜たちの太平洋戦争』(監訳、中央公論新社)を出した。

 第一次世界大戦時に徳島県坂東(現在の鳴門市)にあったドイツ軍の捕虜収容所を舞台にした「バルトの楽園」の数々の名場面には思いっきり泣いたが、逆に、映画を見ながら、これはなんだという場面もいくつかあった。しかし、せっかくみなさんが捕虜に関心をもってくれたのだから、細かいことにケチをつけるのはやめにして、この機会に、少し、第一次世界大戦時の捕虜について書いてみたい。

 1914(大正3)年8月23日、日本はドイツに宣戦した。9月14日、神尾光臣中将(作家・有島武夫の岳父)麾下の青島(チンタオ)攻囲軍の主力3万は、竜口に上陸、天津にいた英国軍1千とともにドイツの租借地・青島への攻撃の緒を切った。

 守るドイツ軍はメイエル・ワルデック総督以下約4千。大半が中国や東南アジア、中には日本からはせ参じた義勇兵もいた。圧倒的な劣勢にもかかわらずドイツ軍はよく奮戦し、戦闘は77日にも及び、11月7日、降伏した。

 カイゼル・ウィルヘルム2世からは「朕は青島の義勇なる奮戦に感謝す。而してワルデック大佐に贈るに鉄第十字一等勲章をもってし、なお、守備隊将兵には朕みずからその勲功を定めん。死傷軽微を聞きこれを欣ぶ」との電報が同総督宛に発せられた。

 神尾中将はワ総督との会見で「・・・閣下とその部下が孤立無援の要塞により勇敢に戦われたことに本官は深く敬服す。されど、今や戦いは終焉す。閣下、日本に到りてしばらく静養せらるべし。日本国民は閣下に同情するにやぶさかならざるべし」と述べた。

 青島で降伏したドイツ軍将兵は3906名であったが、あと少しで4千の大台に乗るということもあって、若干の青島在住ドイツ市民が加えられ、捕虜の総数は4169名となった。

“追加組”の中にカール・ユーハイムがいた。青島で欧風菓子屋を開いており戦争には直接関係はなかったが、翌年9月になって捕虜として狩り出された。

 青島攻防戦の日本軍には戦死に加えてチフスによる戦病死が多く、それに比してドイツ軍の損害が少なすぎるということから、ドイツ系市民の捕虜への転化が行なわれたのであった。

 映画「バルトの楽園」では他の収容所ではいかにも虐待まがいのことが行なわれたかのような印象を与えかねないシーンもあったが、日本によるこの時のドイツ軍捕虜の取扱いは、古今東西の歴史に稀なくらいすばらしいものであった。     (つづく)
映画「哀愁」の主題歌に [2006年07月30日(Sun)]



   ヴィヴィアン・リー


 
 映画で『蛍の光』といえば、何と言ってもMGM映画『哀愁(Waterloo Bridge)。バレリーナのマイラ(ヴィヴィアン・リー)との出会いを回想するロイ・クローニン大佐(ロバート・テイラー)。

 若い人のために付け加えるなら、ヴィヴィアン・リーは『風とともに去りぬ』」『欲望というなの電車』の主演女優としても有名だった。

 二人の愛は、その映画のシーンの24年前、第1次世界大戦時、空襲下のロンドンはウォータールー橋での出会いから始まった。

 初めてのデートはキャンドルライトゆらめくあるナイトクラブ。そこで流れる曲が『別れのワルツ』、これが『蛍の光』を3拍子に編曲したもの。甘美とはこの曲のためにできた言葉かというほど甘く切なく、ムードたっぷり。

 1940年の制作だが、日本で公開されたのはもちろん戦後。恋とはかくなるものかと少年期の私はあこがれたし、世の大人たちにはいっぺんで社交ダンスブームが起こった。だからこの時期に青年だった政治家、例えば、中曽根康弘、宮沢喜一といった人たちは、驚くなかれ、素人にしては立派にダンスを踊る。

 ストーリーはこのあとロイがフランス戦線に出撃、マイラは生活苦から夜の女へ。戦死したはずのロイの生還と、わが身を恥じて自殺するまでの悲恋、悲劇。

 ヴィヴィアン・リーの実生活での孤独な死(1967年)と重ね合わせ、忘れがたい名曲としていまでも語られる映画である。

『旧韓国国歌』と『別れのワルツ』は、もちろん、24曲を連ねたキングレコードのCD『蛍の光のすべて』に収録されている。これは聴く価値のあるアルバムとして推奨したい。
韓国では抗日運動の主題歌 [2006年07月30日(Sun)]





 日本統治時代(1910〜45)には、「内地」同様、朝鮮半島でも『蛍の光』は送別・惜別の歌として歌われたが、1919(大正10)年、上海に創設された大韓民国臨時政府(初代首班は李承晩=後に初代大韓民国大統領、イ スンマン)はこのメロディを「国歌」に制定した。

 しかも、それは現在の韓国国歌の原曲となり、今の国歌の詞は、往時、『蛍の光』に付けた歌詞のままである。

 その歌詞に作曲家の安益泰(アニテ)が曲を付け直したもの。安(アン)は1920年代にスペインに亡命し、『コリアン・ファンタジア』の作曲で知られており、この『コリアン・ファンタジア』の最後に、現在の国歌のメロディが登場する。

 尊敬する友人である康仁徳(カン インドク)元韓国統一部長官によれば、歌詞は、独立協会の指導的メンバーの一人である尹致昊(ユン チホ)の作詞かといわれているとのこと。

 尹は1905(明治38)年(日露戦争に勝った日本が伊藤博文を初代韓国統監として送った年)、この歌を第14番の讃美歌とする『讃美歌』集を編纂した人。

 ほかにも、日本の取り調べに対し、「メシを食うのも寝るのも大韓民国独立のため」と答えたという話の伝わっている愛国・独立運動の志士・安昌浩(アン チャンホ)の作詞だという説などあって、作詞者は必ずしも確定していないようだ(安田 寛『日韓唱歌の源流』)。

 私はあまり見たことがないので、よくわからないが、韓国映画は最近日本でもなかなか好評の様子。

 そうした中で現代史を扱ったものでは、この『蛍の光』のメロディがしばしば抗日闘争映画のクライマックスの場面で演奏される。それはこのような経緯があるからだ。
韓国歌は「蛍の光」だった [2006年07月30日(Sun)]





 ところで、さきに紹介した『蛍の光』のCDには、中国語、モルディブ語もあれば、和楽器の演奏、バグパイプ、パチンコ屋さんの3拍子、軍楽隊のマーチ、讃美歌『めざめよわが霊』の合唱などなど古今東西の演奏スタイルが続く。

 夕食後に全部を聴くと曲の残響・残像がいつまでも消えず、安眠妨害この上ない。それでも何度でも聴きたくなるほどこのCDは面白い。

 中でも、襟を正して聴かねばならないのが、韓国の「国歌」としてこのメロディが使われたことを示す合唱だ。

 日清戦争終戦の翌年、1896(明治29)年11月、漢城(ハンスン 現在のソウル)で、亡命先のアメリカから戻った徐戴弼(ソ ジアピル)が中心になり独立協会が創設された。同協会の会員たちは、清国からの使者を迎えるために西大門の外に建っていた迎恩門を壊して、あらたに独立門を建設、その定礎式で、この曲を愛国歌として最初に歌ったという。

 指揮は米国人宣教師バンカード。当時、漢城の培材学堂(ベチェ ハクド 現・培材大学)の教師であった。今の韓国国歌と同じ、以下の大意の歌詞で歌われた(CDの解説書より)。

  東海の水が涸れ 白頭山がすりへろうとも
  天がお守りくださる わが国万歳
  無窮花三千里 華麗なる山河
  大韓人よ 大韓よ 永遠なれ

  南山のあの松の木 鉄甲のめぐるごと
  風雪にも変わらぬは わが気質
  秋の空は果てしなく 澄んで雲なく
  こうこうたる月は わが真情

「東海(トンヘ)」は「日本海」の韓国が主張する呼称。最近は世界に向けて、この呼び名の併記を従来にない強気の態度で主張しは始めた。これこそ「歴史を歪曲」するものであり、韓国とその国民を愛するがゆえに私は残念でならない。方角で示すなら世界中が東海、西海・・・になってしまう。

「白頭山(ベクトサン)」(別名:長白山=チャンバイサン、2,744m)は中朝国境に聳える朝鮮半島の最高峰。「無窮花(ムグンフア)」は「むくげ」、韓国では、かつては抗日の象徴、今は国花として扱われている。

「南山(ナムサン)」(243m)は1960年代までは北の北岳山(ベクグックサン)と対比するかのような文字通りソウル市街の南の小山だった。日本統治時代には朝鮮神社の本宮が置かれ、強制的に参拝させられたものだと今でも古老たちは語る。

 ソウルはその後、南郊に発展し、今では首都全体の中心部となった形であり、トンネルも出来ている。が、その山頂には高さ236mのソウル・タワー(テレビ塔)が建ち、かつて韓国統監・伊藤博文(1841〜1909)以来、歴代の朝鮮総督官舎のあったところに、安重根(アン チュングン1879〜1910)の記念館や独立運動の指導者・金九(キム グ 大韓民国臨時政府主席、18??〜1949)の銅像が建っている。安重根は訪露の途時の伊藤をハルビン駅頭で暗殺した韓国の「義士」、その行動は独立運動を大いに鼓舞した。

 8小節目の、「わが国万歳(ウリナラ マンセ)」が印象的だ。「ナラ」は「国」。だから「奈良は渡来人が開いた証拠」とはよく聞く話。真偽のほどは判らない。



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