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腹がたったり、腰がすわったり [2006年05月31日(Wed)]



挿画「八ヶ岳 夏」(一部)は、作者・石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載





「日本語は世界で一番難しい言葉だ」と言う人は少なくないが、先に小欄で紹介した私の教え子で18ヶ国語を話す女性に言わせても、「簡単な言葉なんてないわよ」である。

 尊敬する井川一久元朝日新聞ハノイ支局長に言わせれば、ベトナム語は6〜7つの平仄があるのだそうだ。私もしばらく滞在したので、初歩の授業を受けたが、「バ」だけで、平仄を換えれば「お婆さん」「葉っぱ」「2」・・・といった意味になると聞いただけで諦めたし、ドイツ語は活用の数がいくつあるかわからないと言われて、わが乏しき記憶力の限界を知る者として、身を引いた。

 韓国語やベンガル語も少しかじったが、こっちは文法が日本語にちかいこともあって、ある程度のところまでは行けた。今後、時間が出来たらリベンジしたい。ただし、ほぼ同じ時期にやってしまったものだから、時々、単語がごちゃ混ぜになり、相手を面食らわせることなしない。
 ベンガル語には「月 moon」を表す言葉が32もあると聞いて、限りない興味を感じつつ、これまたそれ以上の学習威容が萎えた。

文化が熟成すると言葉が難しくなる。

 日本語の特徴は、「目からうろこ」が落ちたり、「目から火が出る」思いをしたり・・・という具合に、身体のパーツを使った表現が多い

かつて、難民を助ける会は毎年「インドシナ難民日本語コンテスト」を開催していた。ある年のこと、ベトナムからの若い女性が、「日本語で一番難しいのは体の部位を使った表現が多いことです」と具体的な例をたくさん挙げて優勝したことがあった。擬声語、擬態語などと並んで、「眉を顰める」「目頭が熱くなる」「鼻白む」「腹黒い」[ケツが割れる]「背筋が寒くなる」「首を長くして待つ」…確かに日本語の難しさの一つだと、審査に当たった日本語教師たちが教えられた。
「腹がたったり」「腰がすわったり」「目がすわったり」もする。

 まだまだいくらでもある。「顔がでかい」と「でかい面」、「いい人」と「人がいい」・・・やはり日本語は難しいというほかなさそうだ。

「1ポン、2ホン、3ボン」なのにどうして「1プン、2フン、3プン」なのだろう。論理的な説明は不可能なのではないか。

難しいのはまだまだある。名詞に「は」や「が」付くと主語になる。ならば「象は鼻が長い」「あなたは目がきれいだ」は、こんなに短いセンテンスなのに、主語が2つあるということか。 
日本語教師に友人は多いが、これを説明できるというだけでも、専門職業人として、私は絶大なる敬意を感じる。

ほん少しの言葉使いの違いで、意味がまったく違うことは、日常的によくあることだ。「手足になる」と「足手まとい」、「手が早い」と「手早い」…。

「手っ取り早」くいえば、「手が早い」のはドウボウ、カッパライの特技、「手早い」のは職人さん。「手足になる」のは「助っ人」、「足手まとい」になるのは能力のない自称「助っ人」。

「足が速い」には単に「早く走れる」だけではなく「腐り易い」の意味があり、「足が出る」には、寸足らずの布団から「足が出る」こともあれば、「予定価格を上回る」の意味の場合もある。
 こうなると、外国人に説明するにも、「手も足も出ない」。

 明日から3日間、イギリス人の「妙齢の美女」我が家にやってくる。素人比較言語学をやってみよう。

共同経済活動の難しさ [2006年05月31日(Wed)]


わが師・末次一郎がプリマコフ元首相におくった「般若心経」と同じ、末次自筆の色紙。



 プリマコフ氏はもともとアラブ・中東問題の専門家で、若いころはベイルートやカイロにも特派員としての駐在した経験を持つ。湾岸戦争の時もイラク戦争の時も、ロシアからバグダッドに向かい、サダム・フセインへの説得を行なったことでも知られる。

 湾岸戦争と直前にバグダッドに行った時はモスクワからテヘランに飛び、そこから米国が空爆しているさなかのイラクに自動車で入った。もちろん、さすがの米国もプリマコフ特使のイラク入りに際しては、爆撃を停止した。

 同じ道を帰って、モスクワに5時間滞在し、ゴルバチョフ大統領(当時)に報告し、そのまま日本に向かったという情報が入った。

 日本では郵政省主催のシンポジウムに参加という話があったが、それは郵政省と私が話し合って、キャンセルし、たまたま別件で来日していたゲオルギー・アルバノフ米国カナダ研究所長に代わってもらい、前日に終わっていた。

 急に来日するというからには、何か私どもが知らないことでもあるのだろうか。イラク和平のためにロシアと日本が協力できる分野をいろいろ思い巡らせたりもした。しかし、想像はあちこちで壁にぶっつかる。

 ま、夕方にでもホテルに行ってみようということになって、末次と早めの昼食をとっていた。好物のウドン(そのころは近くの長寿庵のウドンが何ともうまかった)を食べ始めた瞬間だった。「今、成田についた。2時間後にホテルで会おう。昼食をいっしょに」と本人から自動車電話。ウドンを諦め、しばらくして東京プリンスで、再会した。

 バグダッドで内密の話があったことはあったが、何はともあれシンポジウムの責任を果たしたいと言う。結局、郵政省の幹部130人ほどを集めて講演をしてもらい、あとは要人との会談を重ねた。私はまるで、東京での秘書か副官であるかのように、そのすべてに同席し、9回だったか、食事を全部ともにした。口外できない話は、私は全部「忘れた」。

 今年の3月にモスクワでお会いしたときも、プリマコフ氏の日露関係改善に関する考えは変わらなかった。「北方領土で共同経済活動を始めよう。それが問題の解決を導く」。

 逆に、われわれも末次の遺志を曲げてはいない。「共同経済活動をするには、どちらの法律、どちらの主権のもとでということが重要だ」。

 自動車の通行(道路交通法)から始まって、商法、税法、衛生関連の法令・・・全部違うのである。

 今回の来日でも、プリマコフ氏は小泉首相、安倍官房長官、麻生外相、森元首相らとお会いしたが、北方領土問題が日露両国間で、少なくとも冷静に話し合われているうちは、解決への希望がある。

 絶望するなかれ、である。私たちのように、1973年からソ連・ロシアと公式にだけでも24回、非公式には何百回と話し合ってきたものにしてみれば、この15年、日露関係・北方領土問題はずいぶん進捗しているのである。

 あとは、基本線にのっとった形で、いかに上手に解決するかだ。佐瀬昌盛、袴田茂樹、そして木村汎拓殖大学教授らと、9月にはサハリンで、1月には東京で、末次とプリマコフ氏が開いた通算25回目の専門家対話を続けようと思う。
プリマコフ氏が師の墓参り [2006年05月31日(Wed)]



故人自筆による 「留魂」の2文字が彫られただけの墓に詣でるロシアのプリマコフ元首相と頭を垂れるロシュコフ駐日ロシア大使。早稲田の龍善寺境内にて。



 エフゲニー・プリマコフ元ロシア首相を、わが師・末次一郎のお墓参りに案内した。

 日本商工会議所の招聘により5月27日から来日している同元首相は、31日、早稲田の龍善寺を訪問した。ロシュコフ駐日大使ほか8名がロシア側から、同行し、日本側からは袴田茂樹青山学院大学教授ほかがごいっしょし、墓前では末次清子未亡人や長女らが佐瀬昌盛東京財団日ロ関係改善研究プロジェクト・リーダー(安全保障問題研究会会長)とともにお迎えした。

 末次とプリマコフ氏はまさに肝胆相照らす仲であった。

1974年、プリマコフは未だロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所(IMEMO)の副所長であったが、イノゼムツェフ所長の特命を受けて、ジュールキン米国研究所副所長(後の欧州研究所長)とともに末次の招きで初来日した。

 その後、ソ連時代に東洋学研究所長、IMEMO所長、党政治局員候補、最高会議議長を歴任、ロシアになってからも外相、首相の任にあった。現在は、ロシア商工会議所会頭である。

 プリマコフ氏は80年代に、一人息子を事故で亡くし、90年代に令夫人を喪った。末次は、その都度、「般若心経」を書き送った。2枚が額装されて、プリマコフ邸の玄関にある。

 末次は、年に3,4回モスクワを訪問していたが、たとえマイナス20度以下の厳冬でも、モスクワに行ったら必ず二人の墓前に参った。イノゼムツェフ氏や他の人たちの墓前にも同様、ぬかづいた。ロシア側で立ち会った人はいないが、なぜか、ロシアではそのことはすぐ有名になった。

 プリマコフ氏も来日すれば大きな花束を持って、必ず、末次のお墓参りをしてくれる。

「末次さんと私は、立場や意見は違うかもしれないが、同じ愛国者同士、末次さんは国士だ。私とは気持が通じ合っていた。ここに来るのは私の義務だ」。

 立場の違いは、政府の中に入った人と、終生、「在野の人」だったこと、意見の違いは、「四島でまず共同経済活動をしよう。それがうまく行ったら、問題は解決する」というプリマコフ氏に対し、末次は、「まず返還を認めなさい。そしたら4島に限らず経済協力でもなんでもする」というものである。いわゆる「出口論」「入口論」である。

 清子未亡人の手にキスをしながら、心をこめて優しく哀悼の言葉を述べていた。
夏はほととぎす [2006年05月31日(Wed)]
挿画は「夏の八ヶ岳」、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。


  東京は久しぶりの「五月晴れ」、今朝は早くから、ロシアのプリマコフ元首相をわが師・末次一郎の墓参にご案内しました。詳しくは、今夜までに写真とともにおつたえします。

  それはそうと、明日から季節は夏。私のような無粋なものでも、こんないい天気となると、時には、古典を日もどき、和歌を読みなおしてみたくなります。


「古今集」には夏の歌が34首あります。そのうち28首に「時鳥(ほととぎす)」が詠われていることをご存知ですか? まるで時鳥が夏の代名詞のようではありませんか。

  題知らず      読み人知らず
わがやどの池の藤波咲きにけり山時鳥いつか来鳴かむ
    この歌、ある人いはく、柿本人麻呂がなり。

  寛平御時の后宮の歌合の歌  紀友則
五月雨にもの思ひをれば時鳥夜ふかく鳴きていづち行くらむ

  時鳥の鳴くを聞きてよめる  紀貫之
五月雨に空もとどろに時鳥なにを憂しとか夜ただ鳴くらむ
ピアノとピアノフォルテ [2006年05月30日(Tue)]




   田村宏のピアノ演奏のことを書いたところ、早速、「ピアノって、本当はピアノフォルテというんじゃにの?」という言ってきた「妙齢の美女」いる。
  では、では・・・

「ピアノ」は本来、イタリア語で「弱い」「ゆっくり」といった意味。

 ケニアの動物公園で、イタリア人女性とサファリツァーに行った時、あまりに乱暴な運転ぶりにそのイタリア女性が「ピアーノ! ピアーノ!」と叫んでいた。「もっとゆっくり運転して!」といった意味である。

「フォルテ」は「強く」「大きく」の意。

  1709年、イタリア人クリストフォリが発明して以来、この楽器はピアノフォルテ(弱強)と呼ばれていた。
  
  つまり、「強弱が容易に引き分けられる楽器」というこの新しい楽器の特徴をとらえた呼称で、今でも略号はpfである。ピアノはいわばその略称。

  ピアノという楽器にはほかにも、@すべての楽器の中で最も音域が広い、A和音が容易に演奏できる、B一度出した音を修正できない…などいくつかの際立った特徴がある。

  今度はいつ、田村宏の演奏を聴くことが出来るだろうか。




挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
明治の人は偉かった [2006年05月30日(Tue)]




 今ではピアノソナタといえば、ピアノの独奏であることは常識であるが、昔はカタカナに全部、日本語訳をつけたものだ。

 シンフォニー  交響曲・・・さて、以下は如何なる邦訳か。明治の人たちを尊敬したくなるほどうまい。そしてその多くが、日本語から中国語になったということだ。

  ソナタ
  コンチェルト
  ノクターン
  ワルツ
  プレリュード
  ラプソディ
  オペラ
  レクイエム
  バイオリン・ソロ・ソナタ
  トリオ
  クァルテット
  クィンテット
  レコード
  バイオリン
  ピアノ
  アコーディオン



挿画「阿弥陀山」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
天満敦子と田村宏 [2006年05月30日(Tue)]




  挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。本文とは特に関係はありません。



  昨夜(5月29日)は、「妙齢の美女」お二人を伴って(否、伴われて)紀尾井町ホールに「天満敦子のバイオリンを聞きに行った」はずでした。

  アッコ(本人が私を「アニキィ」と呼ぶ関係なのでそう表記します。)が主役で、ベートーベンの「スプリング」「アレキサンダー」「クロイツェル」の3つのそなた、そして、お得意の「ボーバラ」こと「望郷のバラード」というプログラム。日程調整でもたもたしていたら、「二階2列目1番」という、アッコの背中しか見えない座席しか取れませんでした。

 ところが、人間、どこに幸せがあるか分からないもの。共演者の田村宏の指から楽譜まで見えるのです。

 田村宏ってご存知でしょうか。戦後日本の音楽会を支えたピアノの名手なのです。

 音楽プロデューサーの中野雄(たけし)先生によれば、「いまから60年前、敗戦で打ちひしがれ、希望を失いかけた日本の楽壇に、男・女それぞれ3人のピアニストが彗星のごとく登場して、音楽愛好家の心に灯りを点した」のです。その6人とは、「安川加寿子、原知恵子、井上園子、田村宏、梶原完、園田高弘」なのです。

 中野先生は「戦火の時期に青春を送りながら、よくあれだけの演奏技術を」と「奇跡のように思い」、「この“若手・新鋭”の獅子奮迅の活躍が、今日の日本クラシック界隆盛の原動力となったことだけは、長く記憶されていい」と述べています。

 田村宏は、プログラムには「1923年の生まれ」とあるから、今82,3歳にはなるはずです。アッコにとっては師匠にあたる。実際、「数多くの田村先生との共演で、私はどんなに貴重な幸せな経験をさせていただいたでしょう」とアッコは書き、終演と同時に、壇上で恩師に深々と頭を下げた。練習の時も「リハーサルというよりレッスンに近いこともありました」。

 私が初めて田村宏の演奏を聞いたのは1960年代、確か共立講堂ではなかったか。当時既に超一流、わが国を代表するピアニストでした。

 アッコはもちろんその後に東京藝術大學で学び、江藤俊哉に認められ、海野義雄に師事したのでした。そして田村との協演でソナタの演奏に磨きがかかったのです。

  アッコのことも少しは褒めないわけには行かないでしょう。3つの著名なバイオリンソナタを感動的に引いてくれました。そして、「きょうは母の命日です。でも私は亡くなった日もバイオリンを弾いていましたし、お葬式の日にもそうでした。ですから、きょうも弾きます。でも、きょうは亡き母に捧げます」とマイクを持って挨拶してからの「ボーバラ」でした。

  私はこういうセリフにはなんとも弱く、何十回と聞いたアッコの演奏ですが、つい、涙ぐんでしまいました。

  しかし、されど、それはそれとして・・・昨日の演奏会は田村宏が圧巻でした。
  
  会場でもアッコの手を握って分かれたら、また、近くのレストランで会ってしまった。

「アニキィ、どうだった?」
「田村先生って、すごいねぇ」
 お世辞が言えない関係なんです。いや、協演の年期か年輪を感じさせる名演奏会でした。

 そうそう、もう一つ良かったのは、「譜めくりさん」を紹介したこと。いつもアッコと協演している吉武雅子が、なんと田村先生の楽譜をめくっていました。これだけでもすごい。私からはこれまた、美しい髪と背中しか見えなかったけど。
山村での経験1年間 [2006年05月30日(Tue)]


挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。絵と文面は何の関係もありません。裕華さんは「妙齢の美女」、「イモネエチャン」の意味ではありません。それにしてもこのイモ、立派でしょう。




 毎週開催している、東京財団の虎ノ門DOJO(道場)、きょうは第233回目。登壇者の最年少記録が破られた。大内裕華(ゆうか)さん、22歳。静岡大学で林業を勉強している3年生だ。

裕華さんはこの3月末まで1年間休学し、埼玉県秩父地域の大滝村(この4月1日からは秩父市に統合)で、実際に森林の伐採、育成にあたった。派遣したのはNPO法人地球緑化センター、虎ノ門DOJOの常連参加者である高橋成雄さんが理事長を務める。

このNPOは、1993年創立され、これまでに約350人を山村に派遣し、さまざまな地域活動を体験させている。

裕華さんが滞在した大滝村は、いまでも人間よりサルが多く、若者はどんどん都会に出て行ってしまい、「近い将来、サルだけの村になる」のではと村人が自嘲的にいうほどの僻地。

「その村で、魅力ある大人にいろいろお会いして、元気をもらいました。私も素直になって、年齢を考えずに、60、70のオジサンやオジイサン世代の方々と思いっきり対話できました。一所懸命働くと、家に誘われて食事をご馳走になったり、差し入れをくれたりで、月5万円の生活費で十分でした。清流での魚、鹿狩りで獲った肉がおいしかったです。野菜はみなさんが自家菜園でつくって余剰分をくれました。コンビニも信号もない生活で、夜になると真っ暗でした」。

「今、都会に戻って小さな自然を見て、大滝村の大きな自然に思いを馳せています。そういう心を得ました。村では人間も自然の一部です。市町村合併で、生活の重心が市の中心街に移ってしまい、一層、さびしくなるかもしれません。そんな村で生活して、むしろ政治や経済の動きに、私は敏感になったんです」。

 緑化センターは今年も山村で1年間働こうという50人の青年男女(40歳まで)を募集している。聞けば、結構、引きこもりやニートと呼ばれている若者の人生を変えたそうだ。問い合わせは、03−3241−6450まで。
大東亜戦争と太平洋戦争 [2006年05月30日(Tue)]





      挿画「南アルプスの春霞」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





 私の父は終生、日本が敗れた過ぐる世界大戦を「大東亜戦争」と呼んでいた。

 戦後教育で育った私は、何とはなしに「太平洋戦争」と呼んできたが、これでは、太平洋の島嶼戦が主体で大陸での大きな犠牲を無視し、そこで亡くなった将兵の英霊も浮かばれないのではないか、と長じて思うようになった。

 米国にとってはあくまでも「太平洋戦争」に違いないが、敗れたからといって、自らの歴史的な呼称まで変えなくてはいけないものなのか。

 1941(昭和16)年12月8日、日本はハワイの真珠湾で米軍を、また、マレー半島北部で英軍を攻撃し、米英両国と戦闘状態に入った。良し悪しは別として、大東亜戦争の開始である。

「大東亜戦争」という言葉について『国語大辞典』は、「太平洋戦争の日本側の呼称」とし、同月12日、政府は、「対米英戦をそれまでの支那事変を含めてこう呼ぶことに決定した」と記述している。

 その後、この呼称について政府が公式に変更を決定したことはない。したがって、『広辞苑』が「大東亜戦争」を「当時の公称」としているが、それはいかがなものか。

 それ以前の中国との戦争は「支那事変」と呼ばれたが、これについて『広辞苑』は「日中戦争に対する当時の日本側の呼称」としている。これにも頭を傾げたくなる。

 南京での虐殺事件(1937年)は「支那事変」で生起した、中国側の「30万人以上の虐殺」はとんでもない言い方ではあるが、一人でも不法に殺害したら、皇軍の失態でもある。それはともかく、「太平洋戦争における南京事件は・・・」はありえない表現だ。

「太平洋戦争」は米国がヨーロッパ戦線と区別して使った、日本との戦争に対する呼称。これをそのまま使うというのはなんとも「対米追随主義」ではないか。

 日ごろ、何かにつけて「対米追随主義」を批判する人に限って、太平洋戦争と言いたがるのは私には解せない。せめて、「第2次世界大戦」と言ってはいかがなものか。
米原万里さん逝く [2006年05月29日(Mon)]



  米原万里さんの訃報が流れている。卵巣がんで25日に、まだ56歳の若さで亡くなった。葬儀は親族で済ませたのだそうだ。喪主をつとめたのは、妹の井上ユリさん。作家・井上ひさしさんの今の奥さんだ。

  子供のころ、父親・米原昶(いたる。昔の東京1区で何度か当選した元日本共産党所属衆議院議員。現職中に海水浴をしていて溺死)についてチェコスロバキアにわたり、プラハのソビエト学校で学んだ。83年ごろからロシア語の通訳者として活躍。

  その後、エッセイストに転じ、95年、同時通訳の舞台裏を描いた「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」で読売文学賞(随筆・紀行賞)を受賞。その後も、「魔女の1ダース」で講談社エッセイ賞、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で大宅壮一ノンフィクション賞、「オリガ・モリソヴナの反語法」でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞するなどした。最近は、サンデー毎日でエッセー「発明マニア」を連載中だった。

  私はとても親しくしていた。もともとは1973年から続いている「日ソ専門家会議」1980年代からの同時通訳者と、それを主催した安全保障問題研究会の事務局長という関係だったが、ほかにもいろいろ思い出がある。

  一番印象に残っているのは、全国抑留者補償協議会(全抑協)が1991年に東京で開いた「シベリア抑留に関する日ソ会議」の時のことだ。

  私はその8ヶ月ほど前、『捕虜の文明史』(新潮選書)を上梓した。たまたまそれを読んだ全抑協の斎藤六郎会長(それまでは面識なし)が、ソ連から専門家を数名招いてシベリア抑留問題についてシンポジウムを開くので、議長をせよ、と申し出てきた。

  多少ソ連のことを知っていて、捕虜問題がわかる、声の大きい奴ということでの依頼だったのだろう。

  当日の通訳は、米原さん―ここでは生前そう呼んでいたように「マリさん」にしよう―ほか1名。

  会議は最初、いや始まる前から騒然たる雰囲気だった。参加者のほとんどは、苦難の抑留経験者。人生をめちゃめちゃにされた人たちだ。約40年ぶりで会うソ連人に、直截な憎しみを向けていた。

 私にはいろんな師匠がいるが、こういう場面では、「ハシ先生ならどうするだろう?」と考える。橋本祐子(さちこ)先生は、日本赤十字社の青少年課長として、私たち(昔の)青年にどんなに大きな影響を与えたかわからない、偉大な指導者である。皇后さまの「心の師」の一人と、もれ承っている。

「議長が黙ることよ。それもニッコリ微笑んでね」。どこかからそんな声が聞こえる思いがした。

 その通りにしていたら、「早く始めろ!」という罵声が飛んできた。ようやく立って両手で騒ぎを制した。

 1日半、実に充実したシンポジウムであった。ソ連側から出席したのは、東洋学研究所でこの問題に取り組んできたキリチェンコ博士をはじめ、国際法学者、ソ連赤十字の幹部などであった。日本側からは、全抑協の幹部と下斗米伸夫法政大学教授、和田春樹東京大学教授ら。

 なんとか終わって斎藤会長に挨拶に行くと、「ちょっと待っててくれ」。カバンを開けて大金を数えておられた。100万円ずつ4袋に入れ分けていた。

 私とマリさんが、ほとんど同時だった。
「会長、それってキリチェンコさんたちへの謝金ですか?!」
「そうだよ。どうかしたかな?」
「止めてください。そんなことをしたら日ソ交流が今後難しくなります」。

 シンポジウムへの出席謝金がそんなに多額であっては、他の団体が同じようなことをする場合も、そうしなくてはならなくなるのだ(実際、その後、その危惧は当たった)。

「あんたたちはね、ソ連のことや我々の心情を一番よく知っててくれると思って協力をお願いしたんだが、見損なったようだ。われわれはこれまでの思いのたけを思いっきりぶつけることができた。お金というのはこういう風に使うものだよ」。

 マリさんと私は納得できなかった。色白のマリさんが真っ赤になって食い下がった。
「最初からソ連の連中をお金で釣ったんでしょう。そうじゃないと言ったって、きっとそう思われるわよ」。

 あの元気だったマリさん、その後はロシア語の通訳の仕事を大幅に減らして、エリツィン元ロシア大統領来日時などに限定した。それでも、エッセイストに転じてからも、95〜97年には推されて、ロシア語通訳協会会長でもあった。

  最後に会ったのは、もう発病してからだった。「私は勝手に通訳を引退してしまったけど、若い人があんまり育ってないわね。私たちの責任かしら」。

  そうですよ、マリさん。
  9月には8回目の「サハリン・フォーラム」、来年の1月には25回目の「日露専門家対話(旧・日ソ専門家会議)」があるんです。天国で休んでなんかいないで、ブースに入ってよ。



挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
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