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45倍の面積だけど [2006年03月31日(Fri)]





 ロシア連邦院(上院)のマルゲロフ外交委員長(プーチンに最も近い外交問題専門家)ほか4人の同委員会所属国会議員との懇談の席上、袴田茂樹青山学院大学教授が軽いタッチで訊いた。

「みなさん、日本は初めてだそうですが、ロシアと比べて日本の人口ってどのくらいと思思いますか?」

「う〜ん、そうだね。10分の1くらいかな」

「正解は、日本は1億3千万人弱、ロシアの人口(1億4千万人)よりほんの少し少ないだけですよ」

「えっ! まっさかぁ」

「実はきのうもロシア外務省のネグロフ北米局長とお会いする機会があって同じ質問をしたら、なぜか同じ答えでした。みなさん、日本を正確に理解してくださいね」

 これは冗談か、誰かさんのメールのようなガセネタと思われる方もおられるかもしれませない、今週の火曜日、3月28日、実際に東京であった話とだ。

 外務省が諸外国の有力者を招聘する活動の一環としてこの人たちが来日したのだが、日ごろの広報がなってない、だから招聘した、本人たちに常識がない・・・いろいろ原因は考えられるだろう。

 ロシア全土の面積は日本の45倍。翻って、日本人にウラル山脈から東に住むロシア人の人口はどのくらいか、と訊いたら、きっと、正しく知っている日本人は多くないはずだ。あの広い地域に700万人程度だ。つまり、北海道より少し人口が多い程度。

日露関係の改善のためには、双方が相手国について基礎的な理解を図ることが先決かもしれない。

東京財団では昨年4月からさまざまな情報をロシア語によるHPで紹介している。それを勧めたのがほかならぬマルゲロフ委員長と亡きアレクサンドル・ヤコブレフ元ソ連国家顧問(詳細は、「中央公論」本年1月号の拙文参照)だったのだが。 




挿画「早春」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいています。 

塔の高さは国威発揚? [2006年03月31日(Fri)]

 


 昨夜は、東京・芝公園に新しく出来た「とうふ料亭」でご馳走になる機会があり、ライトアップされた東京タワーの下の夜桜を堪能した。

 今朝、新聞を開くと東京の「墨田・台東エリア」に地上600m級の電波搭が出来るとの記事が目に付いた。NHKと民放5局が使用するデジタル放送用の「新東京タワー」である。2021年までに総工費約500億円の予定とか。

 完成すれば、トロント(カナダ)の「CNタワー」(553m)を抜いて世界一ノッポの電波塔となる予定だ。

 以下、ざっと世界の電波塔の高さを比較すると次のようになる。
   オスタンキノTV塔(モスクワ)    1967年創建 540m
   ジョンハンコック・センター(シカゴ)1970年創建 444m
   マニラKLタワー(マレーシア)    1996年創建 421m
   中央ラジオテレビタワー(北京)  1992年創建 405m
   タシケント・タワー(タシケント)   1985年創建 375m
   ベルリン・タワー(ベルリン)     1969年創建 368m
   シドニーAMPタワー(シドニー)   1981年創建 304m

「たかが」電波塔の高さではあるが、この数字、なかなか「読み応え」がある。たとえば、ニューヨークと張り合ってきた?シカゴの電波塔の高さ444mは、1931年に完成したニューヨークのエンパイアステイトビルよりわずか1mだけ高い。また、冷戦下に東ドイツが建てたベルリン・タワーは、ソ連のオスタンキノTV塔にはもちろん、タシケント・タワーにも敬意?を払っているとは読めないだろうか。

 戦後の日本には何度かエポックメイキングな、国民的慶事(盛り上がり)があった。昭和天皇の全国行幸が最初か。師範学校の2階にあがっていた、このワルガキ?は教師に怒鳴られて地上に降ろされたが、秋田の田舎でも街が興奮していたのを覚えている。

  天皇陛下と一緒にしてはあまりに失礼だが、小学校の頃はインドのネルー首相が愛娘インディラの名をつけた象を日本に贈られ、これまた全国を回った。インドが象なら中国はパンダ、1970年代の日本はパンダブームだった。72年に、日中国交回復を記念して中国から贈られた2頭は日本を席巻したが、このほど台湾に贈られた2頭はそれほどではないようだ。

  そんな戦後の庶民の盛り上がりの中で、1958年12月23日(当時の皇太子殿下=今上陛下の誕生日)に完成した東京タワー(333m)と1964年秋の東京オリンピックは別格だった。東京タワーが出来たとき、私はまだ高校生だった。受験で上京したとき、一目散に東京タワーに向かった。大変な行列。気もそぞろに単語帳を見ながら並んだのを覚えている。

  その後、さきほど紹介したようなより高い電波塔が次々に出来ていった。

  モスクワには何度も行っているので、オスタンキノ電波塔にももちろん登ったことがある。先年、漏電で延焼したことは、ソ連時代の遺産であることを象徴しているような出来事のように思えた。保守管理の劣悪さは、あの国の伝統である。ホテルの電灯でも、飛行機の設備でも、全部が機能しているというのは見たことがない。クレムリンの応接間や廊下さえ、シャンデリアが全部点燈されていたのを見たことがない。

  世界の超高層ビルの高さではどうか。
  第一位は、台北の「国際金融センター」、101階建てで508m。次がクアラルンプールのペトロナス・ツインタワーの88階、452m、3位がシカゴのシアーズ・タワーの110階、442m。

  しかし、2008年にはドバイに170階以上、800mという途方もないビルができる予定である。

「ウルトラスーパー超高層」のビルや塔の建設には、必要上の理由があり、技術的な要請があってのことだろうが、国威発揚、ナショナリズムの昂揚、観光などさまざまな複合効果を狙ってのこともあろう。

  新聞の小さな写真を眺めながら、日本のまだ、私の高校生時代とあまり進化していない面もあるのかな、とふと思った。




「北方花生園」の挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
小池百合子さんの入院 [2006年03月30日(Thu)]
 



 寒いですね。外気は8度を示していた。「花冷え」という言葉あるのですから、昔からこう行く気候があったのでしょうね。それにしても寒い。

そんな日に、小池百合子環境相(沖縄・北方担当特命大臣を兼務)が、「かぜをこじらせて急性肺炎となり」(環境省の発表)、今朝、救急車で都内の病院に入院した。きょうの5時からお会いすることになっていたのが、2,3日前に「体調不良につき」と、電話でキャンセルの知らせがあって、来月の某日夕方に変更になった。

 実は、小池さんは私を「兄貴」と呼ぶ(ちなみにあの人を「小池先生」と呼べば、千円を社会福祉に寄付しなくてはいけないという規則が、初当選以来、ある)。理由は簡単、小池さんのご尊父と私の師匠・末次一郎が40年以上にわたり、とても親しい関係だったからだ。

 ご尊父と末次の二人は今から45,6年前に、一緒にアフリカ各国を周った。今日の青年海外協力隊創設の政策提言を行い、いまでいうところのフィージビリティ・スタディのようなことをするために出かけたのだ。その際、最後にエジプトに立ち寄ったとき、ご尊父が同国をとても気に入り、その後、カイロで和食堂を経営するなど、さまざまなビジネスを展開した。その間に、日本で参議院全国区に立候補したが、政界入りの夢は果たせなかった。

 そういう事情もあって、娘はカイロ大学で学び、「東京12チャンネル」のニュース・キャスターを経て、「親父の夢」を託された形で、英語とアラビア語に堪能な政治家となったのである。娘の立候補を前に、ご尊父はカイロから何度も何度も長時間の電話を末次にかけてきて、相談した。

 昨年、私は、小池さんとご一緒に「ビザなし」訪問断の一員としてで、国後・択捉の両島を訪問した。担当大臣としての識見・態度の素晴らしさに感心した。

 国後島での出来事である。事務方が用意した日程表では、国後島の若い地区長に大臣が「表敬」するとなっていた。秘書官たちが案内しようとした瞬間、私は止めた。

「不法占拠しているロシアの村長に、日本の担当大臣が挨拶に行くというのはいかがなものか」。

 賢明な小池さんは即断した。「止めます。外務省さんもそれでいいですね」。

 随行していた外務省ロシア課のK課長補佐も「ええ、そうしていただきたいです」。

 総選挙での「刺客」騒ぎはそれから一月ほど後のこと。政治家としての判断力を日本中に示し、自民党大勝の原動力となったことは広く知られている。

 先日、首相官邸にも近い某高級官僚がわざわざ訪ねて来られ、「安倍温存、小池首相」案を提示された。いろいろ考えたが、これはまだ伝えていないし、さらなる熟考が必要である。策を弄する問題でもない。

 ただ、私は「小池さん」を高く評価し、その将来に期待している。そのためにはポスト小泉では、党務に励む「雑巾がけ」を一度すべきだと、伝えたい。

 とりあえずは、わが「妹」の早期全快を祈ろう。






       お見舞いのつもりで国後島と越前水仙の絵を掲載します。挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
卍とナチスの徽章 [2006年03月30日(Thu)]



1937年12月、南京とその周辺の戦争で合法であれ、非合法であれ、日本人であれ、中国人であれ、亡くなられた方々の御霊に今一度、黙祷を捧げてから書き始めたい。

「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」での展示によれば、南京事件のときに、以下の団体が多くの遺体を埋葬したという。

「世界紅卍会」  43,123
「中国紅十字会」 22,683
「同 善 会」   7,000
「回  民」      400

 この合計は、  74,206であるが、中国側は、日本軍は遺体を処理して分からなくしたり、川に流した。その数は15万人に及ぶという。真偽はともかく、この「世界紅卍会」が気になる。とは道教に発した、社会福祉団体の一種である。

2005年5月、見事な枝垂桜のつらなる弘前城の庭園を散策していたところ、ミシシッピー州からの中年男性観光客がまなじりを決して私に声をかけてきた。

「どうしてナチスのマークが至るところにあるんですか」
「いやいやこれは逆回り。仏教の徳や吉兆の印です。日本の地図では古くから卍が寺の位置を示すマークにもなっています。ここ弘前は仏教の信仰厚い津軽家が支配していました。その津軽家をいただく津軽藩の紋章として卍は17世紀のはじめから用いられた由緒あるものです。100年以上前から市章になっていました」
「ヒトラーが真似したのかな」
「いやいや、折れ方が逆ですよ。ナチスのハーケンクロイツは西洋でキリスト教の十字架の一種として昔からあるものです」。

 常陸宮妃殿下の実家である津軽家の紋所は「ぎょう杏ようぼたん葉牡丹」、関が原合戦絵巻には津軽藩の紋章である卍の旗印を掲げた武士が描かれている。

 弘前市のホームペイジには、市章として卍(まんじ)、市の花として「サクラ」、市の果物として「リンゴ」が制定されていると書いている。卍の意味は「私心を捨て、社会に尽くす心」を表したものといわれ、「明治三十三年六月、市の徽章(きしょう)に制定されました」とある。

『国語大辞典』によれば、「まんじ」とは「古代インドで吉祥のしるし。ビシュヌ神の胸の旋毛に由来し、仏教では仏の胸や手足に現れる瑞相を表す」という意味の深いしるしだ。




   「福寿草」の 挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
高野・岡野コンビの校歌  [2006年03月29日(Wed)]




  まずもって、筑波大学付属盲学校中等部の間々田和彦先生に感謝したい。

  高野辰之作詞、岡野貞一作曲の校歌についてご教示いただいた。

  先日、私は拙著『歌い継ぎたい日本の心―愛唱歌とっておきの話』(海竜社)から転用し、小欄で次のように書いた。豊田村は長野県北部にある高野の故郷である。

  豊田村教育委員会が1996年に村制40周年を記念して集めた『高野辰之作詞全国校歌集』には25都道府県の70の校歌や応援歌が納められているが、専修大学、青山師範学校(現・東京学芸大学)、徳山中学校(現・山口県立徳山高校)の校歌など実に37曲が信時潔(1887〜1965)の作曲に拠っているのに比べ、岡野が曲を付けたのはわずかに下高井農林学校(現・長野県下高井農林高校)の校歌(1926年作)、鷹巣農林学校(現・秋田県立鷹巣農林高校)の校歌(1928年作)、秩父高等女学校(現・埼玉県立秩父高校)の校歌(1932年作)の3つだけである。

  これについて、間々田先生は名取太郎先生と共同研究を進められ、その結果を「岡野貞一効果一覧 付 岡野氏作曲効果作詞者氏名一覧」としてまとめられ、このたび、そのコピーをご恵贈くださったのだ。

  それによると、岡野・高野のコンビで作られたことが確実なものがほかに以下の5校歌存在するとのことだ。浅学菲才を恥じ、お詫びして訂正したい。( )内は現在の学校名。

  千葉県立千葉高等女学校(千葉県立千葉女子高等学校)
  東京市蒲田区北蒲尋常小学校(東京都大田区立蒲田小学校)
  富山県高岡高等女学校(富山県立高岡西高等学校)
  樺太公立樫保第一尋常高等小学校
  台北第二師範学校

  最後の2校は、既に廃校となっていることはいうまでもない。

  間々田、名取両先生は、さまざまな情報を基礎に、文書で依頼し、校史などの文献で調査したとのこと。頭が下がる。

  ただ、秩父高等女学校(現・埼玉県立秩父高校)については、念のため、私も確認してみたが、両先生がお書きになっておられる、「埼玉県立秩父農工科学高等学校」は。秩父東高校と秩父農工高校の合併したもので、現在の校歌は、藤浦洸作詞、服部正作曲であり、私が引用した「埼玉県立秩父高校」の校歌は、中村慎一郎作詞、入谷義郎作曲とのことであった。統合などのプロセスで、岡野・高野のコンビで作られた校歌も消滅したということであろうか。

  後日、さらなる調査で確認してみたいと考えている。どなたか真相をお分かりになられたらお教え下さい。




      挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
「かみさん」と「妻」 [2006年03月29日(Wed)]






 佐川芳枝さんの『寿司屋のかみさんおいしい話』『寿司屋のかみさんうちあけ話』(講談社)はほんとうに面白い。ただ、これが『寿司屋の奥さん・・・』だったり、『寿司屋の女将・・・』ならピッタシこない。まして『寿司屋のワイフ・・・』じゃお笑いだ。
「ウチのかみさん」は映画で耳になじんだし、「かみさん」というのは何となく親しみがあっていい。

自分の配偶者に呼びかけるのに、「オイ」「おかあさん(または、おばあさん)」「ママ(またはババ、ババさん、ババちゃん)」「キミ」「○○(と呼び捨てや愛称)」などいろいろあるだろう。まさか、「おい、配偶者」とか「おい、妻」はないだろう。

  先日お会いした、既婚の若い女性は私との話中、10分に1回は「夫は・・・」と言い(いいかげんにせいと言いたくもあったが、それはそれとして)、決して「主人は・・・」とはいわない。いかにも自立した雰囲気でなかなか気に入った。

  そこまで書いて、私の教え子の夫婦も、「夫は」「妻は」と、淡々と言うのを思い出した。
こうした呼び方や言い方で、家庭の基本的な関係や本人の自立意識がおよそ推測できる。

  先日、モスクワにごいっしょした江畑謙介さん(軍事評論家)は、結婚14年目だが、まるで新婚のようなおアツアツぶり。互いに夫は妻を「ゆみちゃん」と呼び、妻は夫をなんと「先生」と呼ぶのです。裕美子夫人は、夫に「勝るとも劣らない」と言わせる、軍事問題の専門家。まさに「ゆみちゃん」あっての「先生」なんです。何でも「質問状をいろいろ出しているうち結婚することになっちゃった」のだそうです。人生、一瞬先は明るいこともあるんですね。

「いつまでもあると思うな親とカネ ないと思うな運と災難」と、わが母はいつも言ってました。

 ところで、お宅では、なんと呼び合っていますか? えっ、ウチ? ま、勘弁してください。そんなの、カミさんに聞いてくださいよ。



      「択捉島」のスケッチは、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
日露専門家対話の参加者 [2006年03月29日(Wed)]




 




 去る3月17,18の両日、モスクワ郊外のモロゾフスカヤ保養地で行なわれた「日露専門家対話2006」の参加者についてもう少し説明してほしいという要望があったので、お伝えしたい。
 日本側から参加したのは、以下の方々である。団長の佐瀬昌盛教授のほかは50音順。

1佐瀬 昌盛 (団長) 安全保障問題研究会会長、拓殖大学海外事情研究所教授、国際安全保障学会会長

2.渥美 正洋 (報告者) (財)世界平和研究所主任研究員(東京電力より出向)

3.石破 茂   衆議院議員、元防衛庁長官

4.江畑 謙介 (報告者)  軍事評論家(防衛庁防衛調達審議委員、経済産業省安全保障貿易管理審議会委員、内閣府情報セキュリティ政策会議議員)

5.江畑裕美子        同上秘書

6.柿沢 弘治   元外務大臣

7.河東 哲夫   日本政策投資銀行設備投資研究所上席主任研究員、元駐ロシア大使館特命全権公使、元駐ウズベキスタン特命全権大使

8.木村  汎 (議 長) 安全保障問題研究会座長、拓殖大学海外事情研究所教授、北海道大学名誉教授

9.斎藤 元秀 東京財団「日露平和条約交渉の好手と禁じ手」研究プロジェクトリーダー、杏林大学総合政策学部教授

10.櫻井よしこ(報告者) ジャーナリスト

11.袴田 茂樹 (議 長) 安全保障問題研究会座長、青山学院大学国際政経学部教授、ロシア東欧学会会長

12.吹浦 忠正 (議 長)(報告者) 東京財団研究推進担当常務理事、拓殖大学客員教授

13村井 友秀 (報告者) 防衛大学校人文社会科学群長



 このほか、日本側からは吉岡明子東京財団リサーチアソシエイトと先に紹介した3人の通訳(吉岡ゆき、柴田友子、江口 満)が参加した。

 なお、ロシア側は「統一ロシア」政治基金のニコノフ総裁(スターリン時代のモロトフ外相の孫)を団長に約15人。

 中には、ソ連共産党中央委員会国際部副部長(対日工作や外交の総責任者)であった、かのコワレンコを、「コワレンコ先生」と呼んで尊敬おくあたわざる、最後の弟子コーシキン東洋大学教授、同じく同国際部にいて現在はロシア外務省アジア局次長として、同外務省ジャパン・スクールの現役トップであるサプリン氏などもいた。

 コーシキン教授の現代日本政治史に対する該博な知識は驚嘆に値するが、多くの点で「暴論」ともいうべきものがあり、日ロ関係を論議するセッションの最後に、主に私と櫻井さんがすべてに反論して討議を終えた。いずれ機会を見て報告したい。

 また、日本側参加者の多くは3月28日、午後3時30分から東京財団会議室に、ロシア連邦院(上院)のマルゲロフ外交委員長以下5名の国会議員と随行者5名を迎え、国際情勢、とりわけ、日ロ関係、露中関係などにつき意見を交わし、夕食をともにした。




写真は、向かって右から、村井。江口、斎藤、木村、袴田、佐瀬、江畑、柿沢、渥美、櫻井のみなさんと吹浦。江畑裕美子さん撮影。モロゾフスカヤ正面玄関前で。
「平和」と「和平」 [2006年03月29日(Wed)]





白川 静『字通』(平凡社)に拠れば、【和】は、禾+口から成る。禾(か)は軍門の象(かたち)。口はさい(この文字は、Uのなかに横一を引く)。盟誓など載書といわれる文書を収める器のこと。軍門の前で盟約し、講和を行う意。和平を原義とする字である。

やわらぐ、講和する、友好の関係となる、むつまじい、やすらか、たのしむ、なごむの意。

また、【平】は、于(う)+八。于は、金文の字形は手斧を用いる形。手斧で木を削り平らかにする意。平定する、たいらか、たいらかにする。やすらか。おだやか。

昨日も書いたように、日本語の「平和」を中国語では普通、「和平」という。「和平五原則」「日中和平友好条約」「和平共存」「国連和平維持活動」・・・。

小学館と北京・商務印書館の共同編集による『中日辞典』(1992年)によれば、中国語の「平和」には名詞の用法がないが、「和平」には名詞の用法があり、「戦争のない状態」をさすとのこと。「平和」の使用範囲は狭く、人の性格・言動や薬物の性質にしか使わない、形容詞としての「和平」は使用範囲が広く、それ以外に環境・雰囲気・状況などに広く用いられるという。日中両国語に通じる友人・楊桂香さんは「平和」は単に静かで昂奮しない状況を指す言葉で、あまり使わないと言う。

日本語の「平和」には、狭義には国家間のより長期的、継続的、安定的な状況を表す「peace」や 個人の心の静穏や社会の安定を表す「calm」のニュアンスが大きいの対し、「和平」には国家間や交戦団体間の「交渉の妥結」「和睦」「講和」の意味が強く、それまで戦火を交えていたものが「停戦(ceasefire)」し、仲良くすることをめざすといった一時的であっても1つの決着点や終着点を示すニュアンスが強いのではないか。また、日本語で「平和」は名詞と形容動詞、「和平」は名詞のみの使用であるといえよう。平和は「戦争の不在 absentia belli」、和平は「協定の締結pactum」ではないか、という考え方もある。

日本語の語感から考えると、中国でもっぱら「和平」なのは、古来あまりに戦乱が続き、継続的な「平和」の時期が少なかったからなのか。1つの単語からさまざまな想像が広がって行く。



 CM:拙著『平和の歴史』(光文社新書)をご参照ください。

「実相寺の桜」の挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
文字順が逆の中国語 [2006年03月28日(Tue)]





 日本語には「社会」「階段」「事情」「日本」などのように、文字の順番を間違えると、全く別の意味になる言葉がある。現に、某国立大学教授が、ライフワークの研究成果ともいうべき立派な著作を出版した時、はしがきに「秘書の情事により刊行が2年おくれましたことをお詫び申し上げます」と印刷され、全部を回収したという、ほんとの話があるくらいです。

 日本語には、中国語とは語順が反対の言葉がいろいろあります。意味は同じです。
  静粛=粛静
  平和=和平
  相互=互相
  紹介=介紹
  短縮=縮短
  言語=語言
  講演=演講
  暗黒=黒暗
  階段=段階
  素朴=朴素
  運命=命運

といったところでしょうか。極めつけは、
  良妻賢母=良母賢妻

どなたか、もっとお気づきの方、ご教示下さい。

 せんだって、台湾の友人に「どうしてこうなったのか」と訊いたところ、すごい答えが返ってきた。
「空海が唐で言葉を習っているとき、師と対面して教わったため、文字順がさかさまになったんですよ」。




「ふきのとう」の挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
上総掘りは等身大の協力 [2006年03月28日(Tue)]




 日本が今でも、世界で20数番目の産油国であるってご存知でしたか?
 新潟県中条町や秋田県昭和町などで原油を生産しているのです。

 私は中学時代に軟式テニス部に所属していました。今ではソフトテニスというんですってね。テニスコートのすぐ裏は油田でした。ですから、時々、金網を越えてボールがその中に落ちてしまうんです。それをズボンのすそをめくってとりに行くのが、新入部員の役割です。油田や油井にはそのくらい親しみを感じています。長じてアラブ、イラン、ブルネイなどで、噴油をいかに抑えるかというやり方をしているのを見て、「持たざるもの」の切なさを感じたのでした。いまでも秋田には観光用に何本かの油井がありますが、日がな1日、のんびりとくみ上げています。ブルネイではそれを「sleeping Donkey」というのです。ちなみに、じっと見つめていてごらんなさい。15分もしないうちに、こっちが眠ってしまいます。

 閑話休題。
「上総掘り」って、聞いたことはあるでしょう?
千葉県上総(かずさ)地方を中心に伝わっている、人力だけによる井戸の掘削法なのです。先端に金属をつけた棒で地面を叩いて穴を掘り進むのです。棒の上端に太い竹籤(たけひご)を結び、材木で作った円形の回転やぐらの中を人間が歩き回って、棒を上下させるのです。

  ばかにしちゃいけません。秋田の黒川油田(南秋田郡昭和町)はこの技法で地下800メートルをも掘削、1936年、見事に噴油しました。「上総掘り」はもう150年以上の歴史を持ち、熱海や別府など岩盤の多いところでも、これで温泉を掘っていました。詳しくは、千葉県佐倉の国立民俗博物館やHPでご覧下さい。

「等身大の海外協力」ということで、難民を助ける会では1986年に、数少ない技法継承者の一人、近藤師匠をお招きし、約一ヶ月、国立オリンピック記念青少年総合センターで合宿、10人が技術を習得し、みなさんいずれもザンビアのメヘバ難民定住地に赴き、現地スタッフを指導しつつ、数十本の井戸を掘削しました。

 その一人が、2日前に小欄で「テンサイ少年」を紹介しましたがその父親である菅沼智之くん。早稲田で地質工学を学び、アジアで機械による井戸の掘削などにあたっていました。それが、自己流の「意識改革」で、「上総掘り」に志し、メヘバや首都のルサカで頑張ったのです。しかも、その間、夜は、ローソクの灯で会計学を学び、帰国直後の国家試験で、見事、公認会計士への道を進み、今日、上海で日系企業480社を担当しているという変り種です。当時の日本経済新聞も「変り種の合格者」として紹介していました。

 またまた閑話休題。ルワンダで民族紛争が起こり、多くのフツ族の難民がタンザニアに出てきた時、難民を助ける会は緊急性を考えて、「機械掘り」を選択、19.3トンもの掘削機械を、私が当時の玉沢徳一郎防衛庁長官に2度にわたり長官室でねじ込んで、自衛他のチャーター機で運んでもらいました。

 そのときに現れたのが、新婚ほやほやの大野篤志くんと越後佐知代さん。ともにザンビアで菅沼君同様、頑張りぬいた人です。「タンザニアで上総掘りをやりたい」。
昨日紹介した緒方貞子先生の言葉ではありませんが、「Do what you like!」です。見事に自力でやり遂げました。今ではご夫婦が中心になって、特定非営利活動法人インターナショナル・ウォーター・プロジェク(IWP)を立ち上げて、活動しています。

そして、数年前からケニアに進出、ここでも成功、今回、そうした努力と成果に対し、第4回世界水フォーラム(メキシコ)では、京都世界水大賞(KWWGP)、セミファイナリストの30団体にノミネートを受け、プロジェクトマネージャーの大野比佐代事務局長が水フォーラム事務局からメキシコに招待されました。

 日本からは皇太子殿下も行かれましたので、関心を持たれた方も多いのではないでしょうか。以下は、大野夫人からの報告(抜粋)です。みなさん、是非、ご支援下さい。

国際フォーラムで世界中から人が集まるので仕方がないのですが、日本人からすると「もっと何とか出来ないのか」と思うのです。スペイン語だけの情報に右往左往しながらも、何とか参加者登録が済んだのは昼を過ぎていました。

2日目は皇太子殿下の日本パビリオンご視察が急に入ったため、またまた予定が変更になり、時間を繰り下げて午後から10団体の予選プレゼンテーションが始まりました。審査員もいなければ、観客もおらず、10団体が居るだけのステージでプレゼンが始まりました。IWPの番が来ましたが、いつものキレが無いままにプレゼンが終わってしまいました。
 3日目の18日は、中盤10団体の予選プレゼンが朝から行われていましたが、ちょっと抜け出してメキシコシティーの中心にある「メキシコ国立人類学博物館」を駆け足で見て 周りました。

4日目は、後半の10団体のプレゼンですが、審査しないはずなのに審査員が居るし、進行役も昨日と違いシャッキリしていてまるで違う雰囲気でした。「何か公平性にかけるなぁ」と思いました。夕方、 “ジャパンナイト”の前に、決勝進出のファイナリスト10団体の発表です。ファイナリストの名前が次々と呼ばれ、最後にIWPが呼ばれて思わず「エッ?残っちゃった!でもヤッター!バンザイ」。

世界のベスト10に選ばれました!

 5日目(20日)は、12名の国際審査員の前でグランプリを懸けて、会場のシチズンズハウスで10団体のプレゼンテーションが行われました。またしても予定より30分も遅 れて始まり、会場のプロジェクターの具合が悪くて進行しない上に、この時とばかりに各団体の気合を入れたプレゼンは予定の時間を大幅にオーバーし、5団体が終わった時点でタイムアウトとなってしまいました。6番目の私たちは、翌日、会場を移してやることになりました。

 6日目。本来ならば唯一予定が無い日で、ティオティワカン遺跡に行く予定を立てていたのに、プレゼンとなってしまいました。会場は前日のシチズンズハウスに比べて4分の1程度の日本パビリオンで、予想した通り国際審査員も前日と違って全員揃わず、どうなるんだろうか?と不安なスタートでした。1番目の私たちのプレゼンは、事務局長本来の調子に戻り、いつもの様に完璧と言えるプレゼンが進み、会場の国際審査員からも質問が多数出て、上総掘りをアピールすることが出来ました。

7日目最終日は、閉会式が12時30分からカミノ・レアル・ホテルの大きなホールで
行われるので、ちょっとその前に、タクシーを飛ばして1時間のところにあるティオティワカン遺跡に行って、ピラミッドに登って来ました。良い思い出になりました。閉会式は、開会式同様招待者のみが入場できますが、会場の混雑に紛れて入り込んでしまい大きな体を小さくしながら、京都世界水大賞の発表に立ち会いました。残念ながらグラ ンプリ(大賞)はインドの団体へ渡りましたが、ファイナリスト10団体がそれぞれ素晴らしい活動を称え合い、みんなで記念撮影をして7日間のエンディングを迎えました。

[ 第4回世界水フォーラム(メキシコ)で学んだこと ]
前回の水行動コンテスト、今回の京都世界水大賞と連続ベスト10に入ったことは、「上総掘り」が世界に認められた適正技術であることの証です。京都世界水大賞にノミネートされた30団体には、国連機関や国際機関から大きな資金を受けて活動している.
 NGOが多くあったことが印象に残りました。京都からこの3年間を振り返ると、私たちも大きく成長しました。次回の水フォーラムに向けてIWPは成長し続けます。

 1. 国連や国際援助機関から資金を受けて、世界で活躍する団体へ成長する
 2. 次回世界水フォーラムでは、分科会の開催やブースを出展をするなど、世界の

水不足の人々のもとへ「上総掘り」技術を届けることができるようにアピールしてまいります。みなさま、これからも、応援をよろしくお願いいたしま
す。
第4回世界水フォーラム・メキシコの報告会は4月の中旬に実施する予定です。皆様、是非ご参加ください。




挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。


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