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カレン族難民の受け入れを [2006年02月28日(Tue)]
 日本は積極的にカレン族難民の日本定住を図るべきではないでしょうか。

 ビルマ(現政権の呼称はミャンマー)にはかねて民族問題がありました。イギリス統治時代に、カレン族を優遇してキリスト教化したこともあり、独立後、カレン族はビルマ族など他民族に圧迫されました。とりわけ、1991年の軍事政権成立以降、そうした傾向はさらに強まり、現在、約14万人が国境を越えてタイに逃げ込み、9ヵ所に分散して難民暮らしをしています。

  しかし、タイは国境地帯から領内各地に浸透してくることを阻止し、帰国するか、最近では、できれば外国に出て行ってほしいという政策を採っています。5年前、そこに緒方貞子UNHCR(国連難民高等弁務官)が訪問、劣悪な条件の改善と外国の受け入れを進めるようになりました。

  このほどカレン族の難民キャンプのあるタムヒンを福川正浩アジア福祉教育財団難民事業本部長が視察し、今夕、東京財団で行なわれた「難民受け入れに関する研究プロジェクト」(代表:山田寛嘉悦大学教授)で、少し報告してくださいました。

  それによると、同難民キャンプでは雇用の機会も教育もままならず、最近行なわれた調査では9千人のうち、クリスチャンを中心に89%の人がアメリカに移住したいと意思表示(残りは仏教徒が大半)し、アメリカは全員を受け入れると発表したとのこと。中には、1984年に難民キャンプで生まれて以来、20年以上もそこしか知らないままという人もいるそうです。

  日本は、軍事政権に気兼ねして、特段のことを何もしていません。わずかに、NGOシャンティ・ボランティア会が図書館活動をやっているのみだそうです。

  30年前、ベトナム戦争が終わったとき、インドシナ3国から大勢の人が国から離れました。ベトナムからはボートピープルとして小船で海上に、カンボジアからは徒歩で道なき道を踏み越えてタイに、ラオスからはメコン川を渡って、これまたタイに逃れました。いずれも大変な危険をともない、多くの人命が失われました。詳しくは、拙著『難民−世界と日本』(日本教育新聞社。絶版)をご覧ください。

  ベトナム戦争が終わったのは1975年4月30日、2週間もしないうちに、最初のボートピープルが、日本にやってきました。日本政府は3年間、そうした人たちを受け入れず、同盟国アメリカや旧宗主国フランスに引き取ってもらいました。タイの難民キャンプには数十万人がおり、諸外国からの救援物資はしばしばmade in Japanで、運ぶ自動車は日本車でした。しかし、日本人ボランティアは誰もいませんでした。

  山田教授は、当時、読売新聞のサイゴン、ついでバンコク支局で健筆を振るい、日本がインドシナ難民の定住を認めるよう、逸早くプレス・キャンペーンをした人です。私とは、私が1973年にサイゴンで国際赤十字の仕事をしていたとき以来の、古い仲です。

  30年を経た今、カレン族と日本との関係はこの時と同じではないでしょうか。

  日本はせめてアジアにおいて「人道大国」でありたいものです。数千人を単位とする、バーデンシャアリングをすることは、アジア諸国の信頼、日米関係、そして日本の国連安保理常任理事国入りにも、必ずや貢献することでしょう。

  折から、きょう、品川の国際救援センター閉所式の案内状が難民事業本部から届きました。この施設は、中曽根政権のとき、予備費20億円を注いで政治決定された、インドシナ難民受け入れのための施設でした。開設には多少かかわりましたので、私は開所式にも参加しました。三原山が噴火したときには、全島民の避難場所としても活用されました。

  日本が世界に信頼されるということは、単にODAをばら撒けばいいというものではないはずです。「いざ」というときに頼りになる日本でありたいものです。
台北の天気予報を報道せよ [2006年02月28日(Tue)]
 台湾を訪問する日本人は昨年、100万人を超えた。台湾資料センターにきいたところでは、「日本から台湾への渡航者数」は過去6年間以下のように推移した。

   年度        渡航者数

  2000     916,301

  2001     971,190

  2002     998,497

  2003     657,053

  2004     887,311

  2005   1,127,184


注(1) 2003年の落ち込みは、SARSの影響。
注(2) 台湾週報(2005年11月22日付)では、「日本からの渡航者数は、2002年に991,224人と最高を記録した後、03年にSARSの影響で659,972人に落ち込み、04年は後半から勢いを取り戻したものの、年間で890,444人にとどまっていた」と記載されており、数千人程度の誤差がありえる。

つまり、SARSの影響がなければ、毎年、約100万人が台湾を訪問するということである。日本から海外を訪問する人は、ハワイやグアムを筆頭にアメリカが500万人以上ということでダントツで、以下、韓国、台湾、中国、タイが「トップ5」である。

 ところが、NHKの「世界の天気」では、NHK視聴者コールセンターに問い合わせたところ、午前4時30分と午前5時53分にしか、台北の天気については報道していない。こんな時間にだけということに、あなたもおかしいと思うに違いない。

 ソウル、香港、北京、バンコクをはじめ世界の主要都市の気象情報や天気予報は1日数回、視聴率の高い時間帯を含んで放映される。それなのになぜか、毎年100万人が訪れる台北の気象についてNHKは報じないのか。

 北京への気兼ね? どうして? 台北は都市です。中国が自国の地方都市と思うならそれも結構、台湾が将来の独立国の首都と思うならそれも結構。要は、100万人もの日本人が訪問する都市の天気について、旅行者である日本人の利益、日本の国益を最優先して、われわれはものごとを考え、判断したいものであるということだ。

 私はたぶん100回くらいモスクワを訪問している。3月にも行く。しかし、そこへの日本人訪問者は年間せいぜい、数万人である。それよりもはるかに多い台北の気象に関する報道を、「まっすぐ、真剣に」とコマーシャルを流しているNHKさん、是非、腰を据えて報道してください。
100本目のブログ執筆 [2006年02月27日(Mon)]
 1月20日に始めたブログ、これが100本目です。お勧めくださった日本財団の笹川陽平会長、技術指導をしてくれた寺内昇氏、朝倉恵里子さん、そしてのべ3000人を超える読者の皆様、ありがとうございます。

何もしらないまま、よく考えもせず、徒然なることをものぐるおしく綴っているだけなのに、コメント欄やメールにたくさんの書き込みやお返事をいただきました。ただただ、お目汚しをお詫びし、ご高覧、ご笑覧に深謝します。

 記念すべき100本目ですから、少しスケールの大きな話をしましょう。

 昨日、世界の人口が65億人を超えたようです。米国統計調査局には「人口推計時計」というのがあります。その時計が昨日、推計を65億と発表したのです。

 私が初めて世界の人口数を知ったのは、小学校高学年のとき。30億という数が実感として掴めませんでした。秋田市の当時の人口は20万、通っていた小学校は1学年3クラス、全校生徒が900人たらずでしたから、100万以上は想像もできません。

 私はもうすぐ「人間生活65年」です。でも、今、加藤タキさんが調査に行っているザンビアは平均寿命34歳の国です。15年ほど前、難民キャンプのリーダーであったフェルナンドくんを、青少年育成国民会議のバックアアップで私たち(難民を助ける会)が日本に招聘しました。5週間、各国の代表に混じっての研修と視察を続け、抱き合って別れを惜しみました。

 それから半年もしないうちに、彼は亡くなりました。私の半分も人間をしなかったのです。

「人口推計時計」は2050年の人口を約90億人と推定し、これが「人類の栄華?」の人口上のピークではないかとしています。その頃の日本は逆に人口が今の半分近くに減っているという推計もあります。

 そのときまでの平和、そのときもなおの自然環境の保護、エネルギーの確保と新エネルギーの開発、経済の発展は今の私たちの責任です。私は時々、私の世代は、全人類の歴史でもっとも恵まれているのではないかと、思うことがあります。私は1941年生まれですから、「戦争をしらない子供たち」の第1号であり、親はさぞかし苦労したでしょうが飢えたこともなく、石油はほとんど常に安定して供給されてきました。経済は、概ね右上がりで来ました。

 しかし、世界には飢餓があり、感染症がじわじわと拡大し、環境汚染が拡大し、核も小型武器や地雷といった通常兵器も途方もない数になりました。これもまた私たちの世代に起こっていることの現実です。人類があげて取り組まねばならない諸課題です。

いま享受しているこの幸せをかみしめて、未来の90億の人たちに引き継ぐ義務があるように、私は思います。
中国で腎臓移植したQさん [2006年02月27日(Mon)]
友人のQさんが昨年、中国で腎臓の移植を受けた。以前に比べてホントに元気になったのは、嬉しい限りだ。

 共同通信が昨年12月8日に配信したところによれば、日本移植学会は、海外渡航移植の実態を調査する作業班を2006年4月に発足させると発表した。アジア諸国では、臓器の売買や死刑囚からの提供が指摘されており、倫理的な問題や危険性について検証するのが狙いだという。

報道によれば、「作業班は、学会員や医療機関、製薬会社などを対象にアンケートを実施。海外で移植を受けた患者が国内で免疫抑制剤の処方を求めるケースの有無や、海外の移植施設の実態を可能な限り調べる」ということだが、こうした研究調査は、本来の医学的な側面のほかに、社会科学、とりわけ中国や東南アジアの社会事情に精通した社会学者の協力を仰いでほしいものだ。また、日本独自ではなく、できれば世界保健機関(WHO)や各国政府、各国の医療関係者にも協力を求めるべきではないか。

また、可能な限り実際に海外渡航による臓器移植を受けた人おからの聞き取り調査も重要であろう。「一部の国では、手術や術後の管理が悪いため、移植患者の状態が悪くなるこ
とも多い」ようだ。

他方、2月26日の時事通信は、「手術直後に邦人7人死亡=中国での移植、計180人以上−厚労省研究班が調査」として、北京発の情報を配信している。


それによると「肝臓や腎臓の臓器移植を受けるため最近2年間に中国へ渡った日本人少なくとも7人が、手術直後に上海や遼寧省瀋陽などで死亡していたことが26日、分かった。これまでに中国で移植手術を受けた日本人が、計180人以上いる事実も判明した。中国の臓器移植では、ドナー(臓器提供者)が死刑囚である点など人権上の問題が指摘されている」ということだ。

その一方、では、Qさんは他にどうしたらよかったのか。妻子を抱え、週2,3回の透析通いを続けていたが、正直言って、私は「あいつ、長いことないな」という印象だった。それが今や、生き返ったように激務をこなし、散策を楽しんでいる。彼に臓器を提供する人の事情や実態はいろいろあったようではあるが、この問題、人命、人権に直結するだけに、早急かつ正確な実態調査を行い、医療と道徳の両面から、しっかりした基準を示してもらいたいものだ。
人種差別に思う [2006年02月26日(Sun)]
荒川静香の金メダルは、フィギュアスケートでアジアの選手初のものですって。なるほどそういうことなのですか。1956年、コルチナ・ダンペッツォ(イタリア)での冬季五輪で猪谷千春は、トニー・ザイラーに次ぐ銀メダリストでした。この「日本のアルペンスキー選手の中で唯一のオリンピックメダリスト」という猪谷の栄光のタイトルは、「残念ながら」トリノでも変わりませんでした。

今回は、アルペンの回転競技で皆川選手がわずか0.03秒(100分の3)秒の差で、メダルを逃し、4位になりました。惜しいというほかありません。50キロのクロスカントリーはいつもながらの激戦をイタリアの選手が征し、開催国としては有終の美を飾った思いでしょう。

日本選手は83人が出場した、この最後のレースでも蛯沢が49位に入ったのが最高位で、あとは59位と途中棄権という結果でした。

それでもアジアからの参加は、おそらく日本からだけだったのではないでしょうか。冬季五輪はまさにヨーロッパのスポーツ大会という印象ですが、日本は1972年の札幌、98年の長野と2回、開催国となりました。また、荒川、猪谷、皆川のように、そしてかつて何度か日本中を沸かせたジャンプ競技やスピード・スケートのように、時々、日本の選手が世界を驚かせる活躍をしてくれます。欧米に混じって唯一の黄色人種の国が頭角を現す、そんな近代史を見る思いがするというのは、少々話が飛躍過ぎるでしょうか。

1919年、ヴェルサイユで行なわれた講和会議で、日本の全権代表は、国際会議史上初めて「人種差別反対」を唱えました。これは後世、語り継がれるべきすばらしいことですが、条約や宣言の形で欧米諸国の賛同を得るには至りませんでした。たとえそうであっても私はそのことに誇りを感じます。

1984年、私が初めて南アフリカ共和国を訪問したとき、同国はアパルトヘイト(人種差別政策)の真っ只中でした。経済的な結びつきの強い日本からの来訪者は「名誉白人」ということで、特別待遇と聞いていました。白人専用のホテルでも確かに宿泊できました。しかし、チェックインはいつも最後、レストランでは常に入口かトイレの前…、それこそ屈辱です。それでいながら白人のポーターに少し気張ってチップを渡すと、にわかに慇懃な態度を示すのです。

その後も何度かヨハネスブルクを訪れましたが、いつも、映画『遠い橋』の世界でした。
最初の訪問から5年後、フレデリック・デ・クラークが大統領に就任、91年までにアパルトヘイト関連の法律を廃止して行きました。

94年、ネルソン・マンデラが釈放されました。そして自ら大統領になりました。マン
デラはヒーローとしてノーベル平和賞を授与されましたが、同時に、デ・クラークという人も同じ賞を与えられました。デ・クラークは短期間に容易ならざる決断をし、それをおおむね、円滑に実行したのです。

外国人選挙監視団を招聘して行なわれた南アの国会議員選挙も、大きなトラブルもなく
実施されました。この時にも、難民を助ける会は選挙監視員として菅沼(堀)真理子さんほかを派遣しました。真理子さんは、お土産にYの字を横にしたような「五色旗」を買ってきてくれました。いまもその小旗は私の宝物の一つです。

 その真理子さん、ちょうど今、息子を同伴した加藤タキ難民を助ける会副理事長といっしょに、南ア経由、ザンビアに行き、同会のエイズ罹患者支援の調査にあたっています。ご主人と二人の坊やを上海においての参加です。夫の菅沼智之くんもまた時期は違っていましたが、真理子さん同様、ザンビアの難民キャンプで数年間、活動した人です。その間に、夜、ロウソクの灯で会計学を勉強し、帰国直後の公認会計士試験に合格。現在、上海で約800の日系企業の会計監査をやっている法人の代表になっています。

若い人たちの努力と活躍、リーダーの指導力、こういうものが健在なら日本も世界も大丈夫でしょう。

ところで、あなたは外国で差別を受けたことがありますか?

三遊亭金八と仲間たち [2006年02月26日(Sun)]
三遊亭金八という落語家をご存知ですか? 昨夜、その独演会に出かけました。「スーパー三遊亭金八の会」が池袋演芸館で開かれたのです。

定員93人という小さな演芸場、10分前に到着したのですが、もう最前列しか空いていませんでした。ですから、堂々と、いや、どっかりとその中央に座らせていただきました。

金八師匠は、歯舞群島の1つ・志発(しぼつ)島旧島民の2世です。その縁で、毎年2月7日(北方領土の日)に九段会館で開催される「北方領土返還要求全国大会」の司会をしていただいております。昨年7月には、小池百合子北方担当大臣も参加した、国後・択捉両島への「ビザなし」訪問でもご一緒しました。一昨年は、難民を助ける会が主宰した「日野晧正と航空自衛隊中央音楽隊チャリティ・コンサート」でも司会をしていただきました。

このコンサートのときは、休憩時間中にご来臨いただいた寛仁殿下、彬子さまと私との話が盛り上がってしまい、第2部が始まったのもしらず、真っ暗闇の中を90歳の相馬雪香会長と4人で、客席に忍び込むという大失態をやらかしました。思い出しても赤面しています。

金八さんの出しものは古典落語3つ、「源平盛衰記」「猫の忠信」「らくだ」、中入り前に「五万石」の踊りまで披露してくれました。目前の大力演に私は完全に引き込まれました。私は半月ほど前に「円歌・小さん二人の独演会」に行ったばかりです。円歌は歌奴時代からのファンですし、いまや「落語協会会長」というえら〜い人ですが、昨夜の金八さんは、贔屓目ではなしに、勝るとも劣らないパフォーマンスでした。

心配なのは聴衆です。この日本文化、私などは馬齢は重ねていますが、中学での社会科以降、日本史をまともに勉強したことがないのです。ま、常識程度はあるかもしれませんが、そういう者には「源平盛衰記」や「猫の忠信」の話の基本や背景がしっかりわかっておらず、実は、登場人物の名前の文字さえ怪しいのです。落語を理解するための基礎講座でもあれば早速駆けつけます。歌舞伎や文楽のワークショップには何度か行ったことがありますが、落語も、そういうのがあってもいいなと思います。

終わってからは、同じ船で北方領土に行ったT大使、K外務省中堅幹部、北方領土返還要求運動連絡協議会の児玉泰子事務局長(志発島生まれ)、東洋英和女学院大学大学院生の山元恵理子(北方領土問題で修士論文執筆中)さん夫妻、そして山元のご両親で、金八さんと「甥弟子」にあたる金翔さん(二つ目)を囲んで、ほとんど終電まで盛り上がりました。
金翔さんは長崎の出身で、東京外国語大学出身という珍しい「出自」の人です。はっきりいって、まだまだという31歳ですが、ひょっとしたらこの「出自」がものをいい、新しい落語の境地を拓いてゆく人かもという印象です。

 三遊亭金八、名前からして「師匠」というより「先生」か、ゴールデン・ゲイトではんく、ゴールデン・エイト、皆さん、この名前、覚えておいてくださいね。次回は8月30日です。入場料はなんと2000円。「お買い得」まちがいなし!


そうそう、それと今朝、二日酔いの目をこすってパソコンを開くと、山元さんから午前4時4分送信という大論文がおくられていた。「あやつ」はあれから、修士論文ではない別の研究論文に手をつけていたそうなのです。T大使を座長とする「北方領土ビザなし交流専用船建造に関する研究と提言書」です。T大使も私も完全に熟睡していた時間なのに。感心感心、若いっていいですね。宴席での片言隻句をちゃんとメモしていたんですね。敬服!
  反日包囲網−コメント [2006年02月25日(Sat)]
  著名な?翻訳家のA氏から以下のコメントが来た。どうも私の関係者はコメントの技法を十分マスターしておられぬらしい人が多く、直接、eメールにおくってくださるので、公開していいものやら。ま、今回は以下に勝手にそうさせていただきます。あしからず。

台湾のなかに、第3次国共合作を感じさせるような動きがあるのは残念な
ことです。同じ植民地支配を受けた土地でありながら、中国や韓国には、さほど同調
しない台湾を、戦略的に、反日包囲網にとり込もうとする勢力や、中国の戦略による
ものでしょうか。外交には、大きな戦略と細かい気配りが必要だと感じますが、策略
家であることを良しとしない日本の文化が、外交にも響いてしまうのでしょうか。
台湾の抗日運動 [2006年02月25日(Sat)]
台湾の国民党主席・馬英九氏が、次期総統になる有力な可能性を持っている人として注目されている。同氏は蒋介石の息子・蒋経国の秘書だった。日本と特別深い縁があるわけではない。
平成国際大学の浅野和生教授によれば、昨年の「光復節(10月25日)」にあたり、この馬英九氏が「台湾光復−甲子」という一文を「中国時報」に寄せ、その中で、日本統治時代の台湾における「抗日英雄」にスポットライトをあて、それら先人の精神に学ぶべきだと主唱したという。
これと時期を同じくして、国民党本部ビルの正面に、羅福星と莫那魯道という、二人の「抗日英雄」の巨大なパネルが掲示された。「抗日」がキーワードになって、国民党の主導に中国共産党が呼応する形で、事実上、第3次国共合作のような形に、中台関係が進むことを私はいささか危惧する。
東京財団虎ノ門DOJOにもご登壇いただいたし、当財団の研究プロジェクトでもお世話になっている浅野教授は「日本版台湾関係法の制定」を主張しておられ、先日、私も参加させていただいた「第4回日台対話」ででも、基調報告の中でその論旨を展開しておられた。私も方向性としては同感だが、私たちは当面、もっと早急になすべきことがたくさなるように思う。小欄でも追って、少しずつ述べて行きたい。
今朝の「産経新聞」に「『高砂義勇兵』碑は存続 台湾 残る8基は撤去」との見出しで、台北市郊外にある、台湾の先住民族である高砂族が第2次世界大戦のときに日本軍に加わって戦ったことを記念する碑のうち、「皇民」などの日本語が入った石碑8基を、県当局が撤去したと伝えている。地元住民は「14年前からあった記念碑や石碑が、なぜ今さら問題視されるのか」(簡福原・台北県烏来郷高砂義勇隊記念協会理事長)などと反発、「政治化されるのは納得できない」と存続を求めていたという。与党・民進党もこれを支持、今回は一部を残すという妥協が成立したというのだ。
日清戦争から半世紀に及ぶ日本統治は、朝鮮半島とは違って、比較的円滑に行なわれ、この間、台湾は大いに発展した。「抗日」運動がなかったわけではないが、いま、これをプレイアップして、両国関係にどんなプラスがあるのだろうか。
台湾のみなさんにはいろんな思いがあるかとは想像できるが、お互いに過去から学ぶべきものは学び、詫びるべきは率直に詫び、円満な両国関係を波立たせないようにしたいものだ。
頑張れ、外務省! [2006年02月25日(Sat)]
 外務省の公館増設と定員増についてもさまざまな反応がありました。

「外務省と聞いて思い出すキーワードは、高級ワイン、馬、豪華大使館、パーティ」(京都府・女性・事業主・44歳)、「安保理常任理事国入りの失敗、対中・韓・露外交の行き詰まり、アメリカのいいなりというのでは国民が認めませんよ」(神奈川県・男性・大学教授・61歳)、「鈴木ムネオごときに跳梁されたお粗末さ、田中真紀子、川口順子の不適材人事、麻生さんの無神経。どうかしてんじゃない、外務官僚って」(東京都・男性・理系研究者・55歳)・・・

 それでも私は外務省に乾坤一擲の自助努力を求めるとともに、国民の理解を求める活動をもっと活発にすべきだと申し上げたい。相手国と堂々と渡り合って交渉する職務の人が、ひたすら萎縮して机にだけ向かっているようではダメだ。

 まず、財務当局、行革当局の説得に努められよ。洩れ承るところによると、今年は「青島総領事館」の増設が認められなかった。「scrap and buildでなければ、あらたに公館を開くことは認められない」というのが関係官庁の意向とのことで、「青島総領事館」開設構想は頓挫したというのだ。

 他省庁とはいえ、自国の政府を日本語で口説き落とせなくて、国益の違う外国政府を説得できるか、と私は言いたい。外務省の担当者たちはこの問題でそれなりの努力はしたかとは思うが、まだまだ足りない。世論のバックがあれば、財務・行革当局により強力に説得できたはずではないか。

 財務・行革当局にも言いたい。財政難はわかる。全体として国家公務員を減らさなくてはいけないことも賛成だ。しかし、必要なところを増やし、不要なところを減らすというのがしごとではないか。佐藤内閣のときに「一省一局削減」という乱暴なことが行なわれた。これは合理的判断ではない。ムダをしていたところも、ムダを慎んでいたところも同率・同数というのは、知的判断ではない。

 外務省が関わるべき国の数がぐんと増えた。ソ連、ユーゴスラビアなどの分裂だけで約20の国家が出来た。新たな独立国も続いた。時代の流れ、すなわちグローバリゼーションの進展で外務省の所掌事務はぐんと増えた。早い話が毎年1700万人もの日本人が海外に出かけ、あらゆるトラブルに巻き込まれている。邦人保護で、心身の苦痛を強いられている大使館員や本省の領事寺務担当官がいかに多いことか。また、日本の周辺諸国との緊張を強いられる関係が日々、続いている。経済協力案件も複雑多岐にわたってきている。

 こうした客観情勢の激変を考慮し、予算と定員を加減してゆくのが、財務当局の仕事であり、人事当局の役割ではないか。「scrap and buildでなんとかせよ」というなら、財務や行革などそうした部署こそ不要になるというものだ。私には天にツバしているとしか思えない。

外務省スタッフもちぢこまらないでもらいたい。先日、外務省の職員食堂で、ある中堅幹部からやや古い、ある資料をいただいた。終わってコーヒー代を支払おうとしたら「割り勘にしてくれ」といわれた。「私がお世話になったんだから」といってもきかない。挙句に「私の分だけ領収証を下さい」と、おばさん?にたのんでいた。私は実に嫌な思いをした。こんな人たちに、ほんとに外交が出来るのか、と。頑張れ、外務省!
「鳥のオリンピック」か [2006年02月25日(Sat)]
先日、小欄でNHKのアナウンサーが「トリノ・オリンピック」を発音するのに「鳥のオリンピック」と同であるのは変だ、と書きましたら、「人間のオリンピックはいつ?」「犬のオリンピックは?」と皮肉をこめたコメントが何人かの方から直接、私にメールがきたり、電話が来たりしました。
 そうした中で、日本語教師経験まもなく10年、34歳という女性から以下の指摘がありました。

「鳥のオリンピック」、確かにおかしいですよね。 夫も最初に聞いた日から「何なんだ」って言ってました。でも先生の母校でもある「ワセダ」を発音してみてください。 日本語教師養成の時の話ですから10年近く前?の記憶をたどっての話なんですが。 「ワセダ」も「ダイガク」も一つずつ発音するのと「早稲田大学」というのとでは 異なるんですよ。だからNHKでも「鳥のオリンピック」と皆、言ってるのかなと。

 以下は、それについての私の所感です。
このことについては私も自著で既に書いていますが、「日本国憲法」「内閣総理大臣」「週刊新潮」「トヨタ自動車」「日本語大辞典」・・・個別に発音したものと集合体(連結語)でアクセントが変わるのはいくらでもあります。でも、「トリノオリンピック」で「鳥のオリンピック」を思い起こさせるように、それによって他を連想させる変化は思い当たりません。だからおかしいと思うのです、私は。

  あなたのご主人と一緒の発想なのは嬉しいことです。ほとんど異文化ですごされた?若い人も私と同じように感じるという意味と、健全な感性の持ち主であることなどについて(*^o^*)のです。日本語を大事にしましょうね。NHKのアナウンサーには期待できないようですので。
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