カレン族難民の受け入れを [2006年02月28日(Tue)]
日本は積極的にカレン族難民の日本定住を図るべきではないでしょうか。
ビルマ(現政権の呼称はミャンマー)にはかねて民族問題がありました。イギリス統治時代に、カレン族を優遇してキリスト教化したこともあり、独立後、カレン族はビルマ族など他民族に圧迫されました。とりわけ、1991年の軍事政権成立以降、そうした傾向はさらに強まり、現在、約14万人が国境を越えてタイに逃げ込み、9ヵ所に分散して難民暮らしをしています。 しかし、タイは国境地帯から領内各地に浸透してくることを阻止し、帰国するか、最近では、できれば外国に出て行ってほしいという政策を採っています。5年前、そこに緒方貞子UNHCR(国連難民高等弁務官)が訪問、劣悪な条件の改善と外国の受け入れを進めるようになりました。 このほどカレン族の難民キャンプのあるタムヒンを福川正浩アジア福祉教育財団難民事業本部長が視察し、今夕、東京財団で行なわれた「難民受け入れに関する研究プロジェクト」(代表:山田寛嘉悦大学教授)で、少し報告してくださいました。 それによると、同難民キャンプでは雇用の機会も教育もままならず、最近行なわれた調査では9千人のうち、クリスチャンを中心に89%の人がアメリカに移住したいと意思表示(残りは仏教徒が大半)し、アメリカは全員を受け入れると発表したとのこと。中には、1984年に難民キャンプで生まれて以来、20年以上もそこしか知らないままという人もいるそうです。 日本は、軍事政権に気兼ねして、特段のことを何もしていません。わずかに、NGOシャンティ・ボランティア会が図書館活動をやっているのみだそうです。 30年前、ベトナム戦争が終わったとき、インドシナ3国から大勢の人が国から離れました。ベトナムからはボートピープルとして小船で海上に、カンボジアからは徒歩で道なき道を踏み越えてタイに、ラオスからはメコン川を渡って、これまたタイに逃れました。いずれも大変な危険をともない、多くの人命が失われました。詳しくは、拙著『難民−世界と日本』(日本教育新聞社。絶版)をご覧ください。 ベトナム戦争が終わったのは1975年4月30日、2週間もしないうちに、最初のボートピープルが、日本にやってきました。日本政府は3年間、そうした人たちを受け入れず、同盟国アメリカや旧宗主国フランスに引き取ってもらいました。タイの難民キャンプには数十万人がおり、諸外国からの救援物資はしばしばmade in Japanで、運ぶ自動車は日本車でした。しかし、日本人ボランティアは誰もいませんでした。 山田教授は、当時、読売新聞のサイゴン、ついでバンコク支局で健筆を振るい、日本がインドシナ難民の定住を認めるよう、逸早くプレス・キャンペーンをした人です。私とは、私が1973年にサイゴンで国際赤十字の仕事をしていたとき以来の、古い仲です。 30年を経た今、カレン族と日本との関係はこの時と同じではないでしょうか。 日本はせめてアジアにおいて「人道大国」でありたいものです。数千人を単位とする、バーデンシャアリングをすることは、アジア諸国の信頼、日米関係、そして日本の国連安保理常任理事国入りにも、必ずや貢献することでしょう。 折から、きょう、品川の国際救援センター閉所式の案内状が難民事業本部から届きました。この施設は、中曽根政権のとき、予備費20億円を注いで政治決定された、インドシナ難民受け入れのための施設でした。開設には多少かかわりましたので、私は開所式にも参加しました。三原山が噴火したときには、全島民の避難場所としても活用されました。 日本が世界に信頼されるということは、単にODAをばら撒けばいいというものではないはずです。「いざ」というときに頼りになる日本でありたいものです。 |