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東京財団虎ノ門DOJO [2006年01月31日(Tue)]
東京財団でが、原則、火曜日の昼に虎ノ門DOJO(道場)を開催しています。300人を超える方々が、毎週やってこられます。どなたでも参加でき、入場無料です。

きょうの会合が218回目。95%くらいは私が司会をしています。きょは、「独立行政法人化の次は民営化か解体」と題して、水野清元衆議院議員(元自民党総務会長、元総務庁長官)が登壇してくれました。御トシ・80歳。意気軒昂、まさに現役そのものです。一時間話をして15分質疑応答というのが通常なのですが、2時まで1時間30分、しゃべりっぱなしでした。

  次回は2月7日、在日米海軍司令官の講演(同時通訳付)です。今後の予定は4月ごろまで決まっていますので、東京財団のホームぺイジでご覧ください。来週は残念ながら、私は出席出来ません。「北方領土の日」で、毎年、九段会館で行なわれる「北方領土返還要求全国大会」があり、式典の前に行なわれるシンポジウムの司会などをしなくてはいけないからです。

 この虎ノ門DOJO、時々、地方で出張出前講座を行なったり、スタディ・ツアーをしたりします。旭川、札幌、蒲郡などで出張出前講座を開催しましたし、昨年は浜松で航空自衛隊浜松基地、浜岡原発を見学し、競艇場でレースを体験しました。私はまったくあたりませんでしたが、大当たりをした人が何人かいました。次回は4月14日に横須賀で米第7艦隊の旗艦ブルーリッジと空母キティホークに乗り、防衛大学校を見学する予定です。有料なのに、申込者は80人を越えました。今、米軍側と交渉中で、参加者の枠を60人にしてほしいと迫ってます。無理な場合は抽選と致します。

 みなさまから自薦他薦の弁士やテーマを募っています。また、毎週のDOJOに参加ご希望の方は、東京財団のホームペイジからアクセスしてメールアドレスを書いて申し込んでください。
 
神様、しっかりしてください [2006年01月31日(Tue)]
NHKの前・某総局長A氏からコメントがありました。「最近、白血病患者が増えているのではないか」と。A氏のかつての上司であるB元報道局長(理事)は、私の兄の直前に、同じ病気で造血幹細胞移植をした。国立がんセンターでこの最先端医療を受けた患者は、B氏が21人目、わが兄が22人目である。
私にはCという三重県在住の親友がいる。同じ年なのに孫に恵まれ、もう8人もいる。猪口大臣、こういう人を表彰してほしい。それはともかく、孫の一人で11歳のDちゃんが8ヶ月ほど前、突然、白血病と診断され、爾来、名古屋日赤に入院している。病院には教師がいて、なんとか進学もかないそうだと聞く。私が国立がんセンターにドナーとして入院していたときにも完全に脱毛した子供たちが大勢いた。エレベーターの中で、泣き崩れる若い母親とも出会った。
幸い、Dちゃんは順調に回復に向かい、2月には退院できそうだという朗報が入った。しかし、以前にも、同じ19歳のお嬢さんを亡くした2人の先輩がいた。突然、病魔に襲われる白血病、神様、もっとしっかりしてください。私たちも協力の環を拡げますから。
骨髄移植にあなたも登録を [2006年01月31日(Tue)]
島崎たか子さんという、尊敬する若い友人がいます。国立がんセンター東病院の看護師であり、昨年春、東洋英和女学院大学大学院で「骨髄移植のドナーに関する研究」の修士論文を書いた人です。不思議なご縁のある人で、同じ秋田で生まれ、日赤看護大学で私の授業を受け、10年後に今度は東洋英和でまた授業に来ていました。
骨髄異成型症候群という難しい名前の病気があります。白血病の1つです。15年ほど前から日本でも骨髄移植がさかんに行なわれ、もう、7500例ぐらいはあるでしょう。骨盤のところに100箇所以上、注射針を刺して骨髄液を採取し、患者に移植するのです。
2年前、私の兄が発病して、私が国立がんセンター中央病院で造血幹細胞移植というのをしました。事前に投薬で白血球をふやしておき、約100リットルもの血液を採取し、そこから白血球を取り込み、他は戻すという方法です。約2時間、大好きな「釣りバカ日記」の14巻を見ている2時間ほどで終りました。もっともこれは最先端医療で、私の場合は「高齢者から高齢者への移植」ということで、医療スタッフはかなり緊張していたようです。
島崎さんは、3年ほど前、骨髄バンクを通じて骨髄移植をしました。もちろん、見も知らぬ相手であり、同バンクを通じ、一度、匿名の手紙をもらっただけです。私の場合は実兄ですから、4分の1の確率でHLA(骨髄の型)が合うのですが、兄弟以外では場合によっては数万人にひとりしか合わないといわれています。
ですから、今、約23万人いるドナー登録者を30万人にすること、職場や家族など社会的理解を得るための啓蒙活動が重要とされています。実際、登録はしたけれど、仕事の都合や家族の反対で骨髄の提供をおと割る人も多いのです。ドナーのほうも、いつ、なんどき声がかかるかと思うと、時には骨髄移植の記事を注意深く読んだり、また、自分の健康管理に一層努めるようになってほしいものです。
島崎さんとのご縁はもう一つありました。国立がんセンターの同じ部屋に入院して、ドナーになったのです。そんなことから、近く、「ドナーの喜び」(仮題)という本を協同執筆しようとしています。3月10日えお締め切りに、2人とも8割は書き上げています。
ただ、それでも移植後3年の存命率は、3割強です。兄もさまざまな余病に苦しんでいます。しかし、とにかく3ヶ月という余命をつないでいます。
あなたもドナー登録をしませんか。電話は、0120−445−445.骨髄移植推進財団です。メールででもできますよ。
いいのかな、これで・・・ [2006年01月30日(Mon)]
週末、埼玉県立大学時代のゼミ生たち4人(女性三人、男性一人)と横浜で再会した。卒業して3年経っているが、ときどき5人で会っては、積もる話をする。老元教授は、みな元気に、それぞれに懸命に働き、人生を送っているのがうれしい。

JRの桜木町駅までの車中は、全員が座れるくらいすいていた。大森駅で80歳くらいの女性が乗ってきた。昔からの習慣のようなもので、私は当然のごとく、席を譲った。

  しばらく本を読んでいて、ふと気がついた。見回したところ、車内では私がその女性に次いで高齢であることが、一目瞭然だった。いいのかなこれで。
惜しまれる人材の死 [2006年01月30日(Mon)]
小学校から高校までの同級生が年末に亡くなっていました。そうとは知らずに年賀状をだしていたところ、寒中見舞いの形で、妹さんから知らせが来ました。合掌。
妹さんに、以下のような返信を出しました。
☆★☆
ご尊兄・Sくんの突然の訃報に接し、謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。

 あなたからのはがきは短い文章でしたが、私は何度も何度も読み返し、行間にあなたの悔しさが滲み出て、涙を抑えられませんでした。おそらく秋田のご家族はどんなにご苦労をされたことかと拝察します。あなたの寂しさ、虚しさは想像に余りあります。本人もさぞ、いろいろ辛かったのでしょうね。
 数年前、奥様とお嬢様が私のところに見えられたことがあり、また、お手紙も頂戴しました。ですから、事情はある程度、理解していました。非力な私としては何も出来ず、お慰めするしかありませんでした。

 端的に言って、私は病気を恨みますし、在職しておられた新聞社を憎んでいます。貴重な人材を亡くしてしまった責任の一端は、会社にもありました。昼間から飲酒を認めていたというではありませんか。

 いまさらそんな恨み言を言っても間に合いませんが、人間、お互いに誰でも弱いものです。そこをうまく支援し、善導するのが、組織ではないでしょうか。貴重な人材をこうして失ってしまうのはあまりに残念です。

 私にとって一番懐かしい思い出は、S君が中学時代にたった一人でサッカー部をやっていた、ゴール前の姿です。秋田でのサッカーの先駆者の一人でしょうね。部員ではない仲間を募って、教えていました。私にもオフサイドとは何かを教えてくれました。孤高の人という印象です。

 東大に進み、大新聞社で記者をしていたSくんは、われわれ同期生の自慢でした。なんとも辛いことです。

 お墓はどこですか? 機会を作ってお参りしたいと念じています。  合掌
落語の「寝床」と同じです [2006年01月29日(Sun)]
 昨年の4月以来、私は松田トシ先生に声楽を習っています。女性の年齢を紹介するのはいくつになられたもある種のためらいを感じますが、ずばり92歳です。上野の音楽学校(現・東京藝術大學音楽学部)を卒業され、歌手として戦前から活躍しておられましたが、なんといっても、松田先生を世間に知らしめたのは、毎朝8時45分からの「NHKうたのおばさん」というラジオ番組でした。後に参議院議員になった安西愛子さんとともに続けられた長寿番組で、当時の子供である私の世代から団塊の世代の人たちは、夢中になってこの番組に耳を傾けたものでした。
 松田先生に弟子入りを勧めてくれたのは畏友・河合弘之弁護士です。東京財団の虎ノ門DOJO(道場)でも「弁護士という職業」という題でお話していただいたことがあります。また、千人を超える中国残留孤児の日本国籍取得に献身し、いままた、戦前にフィリピンに渡った人やその家族の国籍確認のボランティア活動を、文字通り、寝食を忘れてやっておられます。
 先日行なわれた松田門下生による「松の実会発表会」で、新人門下生である私はもちろん最初に登壇。皮切りは大変だろうということで、河合さんは「被告に付き添う弁護士の如く」、一緒に「浜辺の歌」を歌ってくれました。結果は、ふたりともカチンカチンのコチンコチン。私に至っては、手足の震えが止まりませんでした。
  それでも,「自称・人気者」は悦に入ってました。親切なことに、慈愛あふれる、10代から50代までの“ガールフレンド”8人が、一本ずつバラを下さいました。持つべきものはよき友です。
  そして、一人おいて今度はソロで「初恋」と「落葉松」を歌わせていただいたところ、やさしい松田先生から、身に余るお言葉を頂戴しました。かくして、うぬぼれ易いわれら二人は、5月に、迷惑を省みず、友人を総動員して「デュオ」をします。(本当のことをいうと、これが3回目。前回は「お耳直し」として「松の実」トップの右京万里さんにアリアをうたっていただき、寿司やのオヤジに出張してもらい、「お口なおし」もしていただきました。)それでも、当然ながら入場無料で全費用を負担したところ、オヒネリが50万円超。難民を助ける会に寄付させていただきました。似たような話がありましたね。落語の「寝床」の世界です。おのおのがた、気を悪くなさらないでください。
三笠宮さまの曲です [2006年01月29日(Sun)]
 大正10(1921)年、三笠宮さまが小学校入学前に作詞し、本居長世が作曲した歌が、いくつかあります。たとえば、以下の4曲です。上3曲は7、5調、4番目は短歌です。
「金 魚」 金魚は赤く美しく お池の中を 泳いでる
「月と雁」 月夜の空を雁飛びて 宮くん 御殿で それ見てる
「馬」   馬はたいそう賢くて 鞭をあてれば じき はねる
「町の灯」 宮くんが宮くんが 御所から急ぎ帰る時 町に電灯つきにけるかな

 宮様は昨年12月2日に満90歳になられ、長世の3女若葉さんが宮様の誕生会で歌われました。本居長世(1886〜1945)は 『七つの子』『青い目の人形』『赤い靴』『めえめえ小山羊』などの作曲者であり、国学者・宣長の6代目です。
  みどり、貴美子、若葉の本居家の三姉妹は童謡歌手の先駆者として、大正末から昭和にかけて活躍された方々です。関東大震災被災者救援のお礼使節として、長世が上の二人を連れて渡米し、人気を博したことは有名です。
  ひょんなことから、これらの曲を、近く、宮様と約百人の“淑女”を前に、なんとこの私が、歌うことになったのです。関係者から送られてきたのはテープだけ。
  以前は結構知られていたようで、先日の大原教授など、さすがによくご存知でした。ただ、何度テープを聞いても歌詞が判然としないのです。『馬』に至っては「ブタは最初は賢くてウチを開ければすぐ帰る」としか聞こえません。諦めかけていたところ、ようやく楽譜を入手。昨日は長距離ドライブをしましたので、車内で繰り返し練習できました。これでなんとか形が出来てきましたが、本番でどうなることか、まったく自信がありません。
 それにしても可愛らしい歌詞ではないですか。4曲歌っても2,3分でしょうが、私は2,3週間、これにはまっています。いよいよあと数日後です。その間、海外出張もあり練習時間はあまりありません。カラオケのノリで安請け合いをしてしまい、いささか責任を感じています。
  でも、こういう歌がもっと広まるといいですね。長世は「童心、神の如し」と、よく言っていたと、若葉さんが話しておられます。

「政局」にしてはならない皇室問題 [2006年01月28日(Sat)]
拙速でしてもらっては困る最大のものの1つが、皇室典範の改定です。1月27日の東京財団政策フォーラム(虎ノ門DOJOの講師経験者と国会議員の政策勉強・情報交換の場)では、皇室研究の泰斗・國學院大學の大原康男教授の基調報告をもとに30人を超える人々で、きわめて熱心に意見を交換しました。否、闘わせました。毎回、私が司会をするのですが、口を挟む時間がないほどでした。大原教授はこれまでの学術研究に加え、皇室関係者をふくむ、広範な関係者に意見を求めておられました
大方が一致したのは、@このままでは、皇位継承は10年以内に大きな問題となり、A30年以内に危機を迎える、Aだからといって、専門家との協議が不十分だったり、短時間の検討や、強行採決といった拙速はまずい、B一度提出した改正案は修正が難しい、C国会では満場一致での決定が望ましい、D何らかの形で皇族の意見を反映させるべきだ、Eそのためには皇室会議の改正から始めるのが順当だ・・・といったところでしょうか。いずれにもせよ、この問題を「政局」にしてはならないという、政治評論家花岡信昭氏の発言については、全員これを危惧し、そうした事態は絶対に避けなくてはならないということで一致しました。
微妙な問題ですので、これ以上の詳述は止めにします。
け、け、け [2006年01月28日(Sat)]
秋田弁では、「け」は、「け」は、「来い」であり、「食え」であり、「かゆい」です。それが鹿児島弁ですと、「け、け、け」で、「貝、買って、来い」になるんだそうです。こうなると同じ日本とはいえ、コミュニケーションは容易なことではありません。
それが、あるとき、それも非常時に両者が出会ったのです。時は、1868年、戊辰戦争のときです。わが秋田藩は、奥羽越32列藩同盟を単独で裏切り、官軍についたのです。周辺は全部、会津以下、幕府軍にしたがっていたさなかですから、またたくまに、南部、津軽両藩などの侵入を許しました。秋田は佐竹義尭率いる精強(とでも書かなくてはご先祖様に申し訳ない!)でしたが、いかんせん、多勢に無勢、城外まで敵はやってきました。
そこに、薩摩の援軍が、船で来着。さあ、そこからが一大事。「け」と言ったって、容易に食えるものではなかったに違いありません。
結局、謡曲の節にしたり、漢文で筆談したりだったと、伝わっています。いささかできすぎの感なしとしませんが、この話、戦前の国定教科書にも載っています。
ですから、標準語をつくり、普及しなくては国家としてやってゆけないということだったのです。
江戸時代、薩摩藩では、藩外からの密偵が活動できにくいよう、薩摩弁を特に墨守したそうですから、なおのこと秋田藩とでは連携が難しかったのでしょうね。
21世紀の今、中国で同じようなことをやっているようです。もともと北京、上海、広東、潮州などさまざまな中国語あるわけで、それを統一することは至難のようです。ですから、まず、4時間あった時差を一つにし(無茶なことです)、放送を次第に北京官話(マンダリン)優先にし、学校教育でも全国で北京と同じ言葉を教えようとしているのです。
それでも多くの少数民族がおり、それぞれ古来の文化と伝統を有しているわけですから、いかに一党独裁の政治権力をもってしても、これは至難であり、すべきことではないように私には思えるのですが、いかがでしょう。
時差のことでも、かつて英国は、今のEUに入ろうとして、フランスやドイツとの1時間の時差をなくしていたことがあります。その結果、暗いうちから小学生が学校に通うことになり、事故が相次ぎました。政治が無理をすればこんなことにもなるのです。いつまでも何もしない政治も困りますが、国の根幹にかかわることで、拙速は困ります。
そうそう、秋田藩、結局、薩摩藩との協議に時間がとられているうちに、城下まで攻め込まれ、かなりの被害も受けました。維新後、東北で佐竹家のみ早々に「候爵」の爵位を授けられました。
相馬会長、94歳の気迫 [2006年01月26日(Thu)]
きょう1月26日は、認定NPO法人難民を助ける会の相馬雪香(そうまゆきか)会長94歳の誕生日です。私は60歳までその副会長や副理事長をしていましたので、いろいろご指導いただきました。明治生まれの女性です。90歳の時には、ホテルオークラで日野原重明先生とご一緒に、90歳の誕生日をお祝いし、加藤タキさん(現在、難民を助ける会副理事長)がすばらしい司会をされました。
相馬先生は、毎朝、まず「The Japan Times」から読まれます。「ボケ防止よ」というのです。会議の時のメモも多くは英語でとっておられます。これも「ボケ防止」の手段のようです。
しかし、最近、私がつくづく感心するのは、1979年、67歳のときに、資金も人でも事務所もないまま、難民を助ける会を立ち上げたことです。「難民に冷たい日本人」という非難の言葉を書いた手紙をカナダ人の友人から受け取ったとき、これではならじと創めたその気迫に、30代の私は魅かれました。いまでもその気迫は不変でいらっしゃいます。
夕方、私は経済産業省系の研究機関で、久々に、「インドシナ難民受け入れの30年」について講演をさせられました。外国人との秩序ある共生社会のありかたについて研究しているお歴々の前で、手塚千葉大学教授の名司会におだてられ、久しぶりにこのテーマでお話しました。相馬会長の誕生日との因縁を感じます。未だ67歳には若干の間のあるものとして、せめて気迫だけは奮い立たせようと思った1月26日でした。
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