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夏の思い出 [2011年10月01日(Sat)]






































昨年ほどではなかったとはいえ、
節電のこともあって、今年は
かなりこたえた夏だった。

それも「秋入り」となり、ここ数日は
涼しすぎるくらいの過ごしよさ。

季節が確実に過ぎ去ったという
ここ数日だ。

あちらこちらからいろいろ
お誘いのあったきょうだったが、
風邪で体調をこわしたため、終日、
家にこもってしまった。

そこで、久々に写真の整理などしていると、
夏が思い出となって戻ってくる。

特別の年になった2011年、
あと3か月、
大きな天災にみまわれることなく、
今年が終わってくれること、
そして、地震、津波、原発からの復興が
一日も早いことを
祈らずにはいられない。
病気見舞いに感謝 [2011年10月01日(Sat)]







 めったに風邪をひかないタチの
つもりでいたのですが、
今回は結構、来ています。

 かかりつけの診療所で処方してもらった
数種類の薬で強引に抑えているという感じで、
寝て、起きて、読書と執筆という
平穏・単純な1日を送ってしまいました。

みなさまもご自愛ください。

 小欄読者の方々からいろいろ激励のメールやら
コメントをいただき感謝しています。

 茨城県在住の写真愛好家仲間からは
利根川の岸辺あたりで撮したのでしょうか、
こんな藝術的な写真を
送信していただきましたが、
あわててベランダに向かった時には
もう日が暮れていました。

 昔、同級生が世界中の夕日を見るんだと
いいながらずいぶん周ったという
話を聞きました。

 何枚か写真を見せてもらったこともあり、
うっとりと眺め、かつ、圧倒されて
長嘆息したことがあります

でも、きょうは
こんな美しい夕日だったんですね。

ありがとうございます。みなさんに
「おずそわけ」しましょう。

 私は日の出より沈みゆく夕日が大好きです。

 もしかして、こういうのは「日本人離れ」症候群
なのかも。
民主党も自民党も人事だけの政党か [2011年10月01日(Sat)]







 民主党も自民党も
要するに派閥政党であることを露呈した。

 人事が最大の関心で、
国難への対応は二の次の昨今の動きだ。

 民主党は、党内融和、ノーサイドの
美名のもとに、主要閣僚みな素人という
お粗末内閣の政権を作った。

 小沢系に配慮するあまり、側近の、
マルチ商法からの献金で問題になっている
山岡賢次をこともあろうに
警察のトップ(国家公安委員長)に据えた。

 一川保夫などという、防衛関係者も
国際政治の専門家も、国民のほとんど
だれも知らず、適材とははるかに遠い素人を
防衛相に持ってきた。

「素人だからシビリアンコントロール」だ
という間抜け発言は、
「国家機密の漏えい」でさえある。

鉢呂吉雄を経済産業大臣にしたのも
不適材。農水ならまだしも、というより
それ以前の稚拙な振る舞いで就任9日目で
クビ。こういう人でも大臣経験者としての
叙勲で宝石の付いた立派な勲章を
受けるであろうと思うと、
まだまだ国の歳出は切り詰められそうだ

輿石東の幹事長というのも、呆れるほかない。
野田首相とまるで政策上の考えの
違う、日本の教育をダメにした元凶だ。

一方、自民党も自民党。
昨日の党幹部人事はなんだ。

茂木敏充政調会長、塩谷立総務会長。
要するに、額賀派と町村派から出させ、
岸田文雄が国対委員長として古賀派から
就任した。

これに留任した、
山崎派の石原伸晃幹事長の
執行部体制であるからして、
もう、派閥の領袖は久々に
政治をした気分になっているだろう。

これに加えて、参議院自民党の
幹事長人事。これはもう、
醜態をさらしたというほかない。

昨年、中曽根弘文が谷川秀喜と
40対40、抽選で参議院議員会長と
なったのだが、今度は、自ら指名した
鴻池祥肇を幹事長にという案は、
店晒しの末、異例の採決となり、
31対42の大差で否決、
中曽根は面目を失った。

人事は政治に直接かかわる国会議員の
最大の関心事という現実が、
この未曽有の国難にあって、
主要2大政党がこれでは、
国民の政治離れは一層進む。

つまり、「民主党はお粗末だが、
自民党も酷い」「国難を抱えて
政治は崩壊状態だ」というのが、
われら庶民に共通の印象だ。

野田首相には優れたリーダーシップを
期待する向きが多かったが、
就任1か月の安全運転には
評価が低い。何かをやっての政治であり、
安全運転だけでは日本中に
交通渋滞が起こるだけだ。

事業仕訳により、建設途中でやめた
朝霞の公務員住宅の建設現場を
総理が見に行く・・・
現場を見なくてはそんなことも
決められないのか。

パフォーマンス以上のものがない。

      (文中敬称略)

国際事件記者・大森実先生のこと(完) [2011年10月01日(Sat)]











75年にさしものベトナム戦争も停戦になり、
70年代の末には多くの難民が
ラオス、ベトナム、カンボジアの
インドシナ3国から命がけで脱出した。

このときには、
「難民に冷たい日本人」との批判を受けて
立ち上がった相馬雪香さんが中心になって、
79年、今の
認定NPO法人難民を助ける会の創設に加わった。

爾来、私はその中心的メンバーとなり、
同会(現在、私は特別顧問、
「愚妻」・柳瀬房子が会長)は
いまや年間予算20億円超の
わが国NGO活動の代表的な存在の1つにまで
発展し、地雷禁止運動、
数十カ国における救援支援活動、
そして東日本大震災でも
着実な救援・復興支援活動を
展開するまでになっている。

また、その代表幹事として80年には
近衞忠W現日赤社長(当時は外事部次長)を誘って、
カンボジアを訪ねた。

二人の報道人以外、ポル・ポト政権崩壊直後の
初めての日本人ということだったが、
まるで、研究所にいたときのような気分で
プノンペン、シアヌークビル、コンポンチャムなど
PUで周ったこともあるゴーストタウン化した
各地を巡った。

これもまた、大森先生が私の目を
東南アジアに向けてくれたからに他ならない。

私は今、難民を始め、縁あって
日本に滞在する若者たちを支援する
社会福祉法人さぽうと21の理事長の任にも
あるが、アジアの人々と肩を組んで
その自立や就学を支援するというのは、
先生の精神を少しは継いでいるのではと
自負している。

「鉈とカミソリを同時に持つ」といわれた先生、
誰と会っても、位負けするな、
その人の視点に立って考え、接しよ
という教えに、どれだけ
身の震えを止めることが出来たか、
国際赤十字などの仕事で戦場に立っても、
何万人の人を前にしても、
電波を通じても、不要にあがることなく、
自分の意見を言えるようになったのは、
私が鈍感か、ボケたからかもあろうが、
大森実先生という師に、
5年の長きにわたり、
世界を自由に周らせていただき、
特別ご指導をいただいたからに他ならない。
感謝、そして合掌。
                (完)
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