私の8月14,15日 [2011年08月14日(Sun)]
1945(昭和20)年のきょうの23時に、 私は秋田市で空襲を経験?した。 というと、いかにもよく覚えているような 感じだが、4歳の幼児に証言能力はない。 私は河辺郡和田町の 後に衆議院議員や通産大臣になった 佐々木義武さんのお宅に疎開していた。 疎開期間はわずか16日。 それでも、 3つ年長の兄・忠晴と野イチゴを 摘みに行ったこと、 兄の習字の作品が二重丸付きで 和田小学校の教室に貼られていたこと、 岩見山内雪のトロッコの駅を 見に行ったこと、 佐々木家の間取りの一部、 警戒警報がよく鳴っていたこと、 半鐘に登る男が小槌で激しく鉦を 叩いていたことなどを、 覚えている。。 終戦の前夜、秋田は初めて空襲にあった。 すでに同日16時にトルーマン大統領は 攻撃停止を命じていたが、その前に、 200機近いB29の編隊がサイパンを発って いたらしい。 いま、厳しい被災地になっている 岩手県釜石市の日本製鉄釜石工場を 目標に、同市は何度か爆撃され、 破壊されつくしていた。 このため、編隊は目標を秋田の 製油所とその周辺に変更したらしい。 当時の名前では土崎港町という 秋田市の外港にあたる町が空襲された。 民間人ばかり72人が亡くなった。 父・忠治は即刻疎開先から妻子を 呼び戻し、私たちを 母の実家のあった土崎港町に 連れてゆき、筵をめくって、 その真黒になった亡骸を見せた。 この記憶は今も鮮明である。 そしてこの攻撃を卑劣であり、 戦時国際法違反として、 末永く息子たちに伝え、 いつか、アメリカ人に文句を言えと、 毎年8月15日には、その現場に 連れて行かれ、この話を聞かされた。 そんなことで、私はこれまで83カ国を 訪問しているが、アメリカは2001年まで、 アンカレッジの空港とパラグアイへの行き帰りに やむなく1泊したマイアミしか知らなかった。 2001年9月11日、そのアメリカで 数千人の民間人が同時多発テロに殺害された。 私はもう前後のことを考えずに 航空路再開後、最初の便でアメリカに飛んだ。 56年間、ただアメリカを恨んできた 私のアメリカ観は少し変わった。 遅ればせながら、国際政治を 今少し現実主義的にみれるようになった。 きょう、まもなく、その時刻がめぐってくる。 2つの「あの日」に亡くなった人々を追悼し、 日本と国際社会のありかたについて あすはしっかりと考える日にしたい。 |