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皇居勤労奉仕発端の物語D [2011年02月13日(Sun)]









 当時、占領軍の取り締まりがやかましく、ほとんど禁句のように思われて誰も口にすることを遠慮していた、その君が代を誰に相談する出もなく、おのずからの皆の胸の中から、ほとばしり出たのであった。

 ところが意外にも、この君が代の歌声に、陛下はおん歩みを止めさせられ、じっと、これを聞き入っておいでになる。

 一同は、君が代の合唱裡に、陛下をお見送り申し上げようと思ったのであろうが、この雄型を拝して、ご歩行をお止めしては相済まぬ、早く唱い終わってお帰りを願わねば、とあさればあせるほど、その歌声は、とだえがちとなり、はては嗚咽の声に代わってしまった。

 見ると、真っ黒な手拭いを顔に押し当てた面伏しの姿もある。

 万感胸に迫り、悲しくて悲しくて唱えないのだ。何かした言い知れぬ大きな力のこもった悲しさであった。

 今から思えば、この大きな力のこもったこの悲しさこそ、日本復興の大原動力となったのではなかろうか。

 この青年たちとの御対談に、陛下は何かよほどお感じになったことが、おありになったご様子で、お部屋にお帰りになるや、皇后様に、午後、作業現場にゆかるるようにお勧めになり、そのときも、私は再びお供して現場に参ったが、第2回目からは、両陛下お揃いで、奉仕の人々にお会いになることになり、それが今日まで続いているのである。

 前例の全くない、皇居内での陛下と地方青年たちとの御対談を、宮内庁詰めの新聞記者諸君が見のがす筈はない。

 ニュースは、すぐに全国に伝えられた。

 三日間の感激の奉仕を終え、郷里に帰る青年達の汽車の旅は、上京のときとは全く反対で、まことに朗らかな希望に満ちたものであったに違いない。

 無断状況(まま、上京のミスタイプかと)のお詫びを兼ね、知事さんに挨拶のため仙台に途中下車、一同県庁を訪れたところ、折からの開会中の県議会は青年隊無事帰着の報に接し、にわこあに議事を中止し、知事以下議員総出で一同を喜び迎え、大いにその意気と労とをねぎらったとのことである。

 以上語りしるす事柄は、国民対皇室、皇室対国民の間に見られる、あらゆる事象のうちの単なる一こまとして、風の如く来たり、また風の如く空しく過ぎ去ったのであろうか。

 疑いもなく、これは名もなき農村青年男女60人の眇たる一団である。

 だが然し、名誉を思わず、利益を求めず、占領軍の弾圧あらばあれ、ただ一片の哀情やみがたく、やまとごころの一筋に立ち上がった、この一群の間にひらめく正気の光は、決して空しくは消え去らなかった。

 正気は友を呼ぶ。この報、一たび全国に伝わるや、当時、団長の思いに沈んでいた国民の心の琴線は、俄然、高鳴りを始めだしたのである。

 栗原郡からは、第2隊、第3隊、第4隊、第5隊と続々上京してくるし、次には隣の郡、また、その次には隣の県、終には北は北海道、南は九州のはてに到るまで、全国から奉仕の願い出は殺到するばかりであった。

 官辺より何らかの指示勧奨もあるのではない。

 ただ国民至情の赴くところ、しかあらしめるのである。

    ==================

 以上で、「皇居勤労奉仕発端の物語」を終えますが、
実はこの最終回は、
私の自己診断「初期認知症」のせいで、
だいぶ以前に掲載したつもりでおりました。

 それがCまでで止まっていました。
 
 それを、滋賀県安土町の前田郷司学兄兼楽兄
(前田さんはトランペットほかの演奏家でもあります)
に、ご注意いただき、かつ、その文章を
転送していただいたのです。

 前田さんには感謝、みなさまには
お詫びを申し上げます。

鹿児島で見た夕日3題 [2011年02月13日(Sun)]







   

 2月4日、桜島南岸のふるさと観光ホテルの客室から。











    5日、新燃岳火口から南南西5キロの霧島ホテルの客室から。













  7日、鹿児島空港ビルから。








 先週は
北方領土返還要求鹿児島県民集会での
講演のため、
わが人生初めての
鹿児島県を訪問することができました。

 多くの素晴らしい出会いがあり、
いずれ紹介したいと思いつつも
まずは、夕日の美しさに、
連日見とれた喜びを
報告したい思います。
サボテンを描いた国旗メキシコ [2011年02月13日(Sun)]





         

         

         メキシコ国旗の中央にあるの国章








            


    メキシコの国旗。国章を取り除けばイタリアの国旗と同じになる。




 サボテンの語源について昨日、
書きましたところ、
数多くの方からアクセスいただき
ありがとうございました。

 その中に、福岡県の秦野さんと言う方から、
「国旗にサボテンが描かれているのが
あったはずですが、どこでしたっけ?」
という質問がありました。

 答は、メキシコです。

 この国旗、私が出した
『ぬりえせかいのこっき』(学研、ぎょうせい)
ともに、こどもたちの人気の国旗でした。

「ワシがヘビを咥えて
サボテンに停まっている様子を見たら
そこに都を築け」という
アステカの伝説に由来するものです。
アサヒビールの焼酎っていいよ [2011年02月13日(Sun)]













 関東甲信越のNET関連企業グループの
研修会にお招きをいただき、
先日、長野市で、講演に行ってまいりました。

 その時のことです。

話の後の懇親会で出された、
焼酎の美味かったこと、
あれ以来、他の焼酎が
飲めなくなった(というわけではないかも)。

その真偽はともかく、
まずは意外性。

初めは「アサヒビールが焼酎?」
というところから、
恐るおそる口にしたのが真相でした。

プレミアム本格焼酎
『刻(とき)の一滴』の2品種でした。

 聞けば、
33度の芋焼酎と25度の麦焼酎
なのだそうです。何でもフランスの
シャルドネワインの樽と
ノワールワイン樽に貯蔵の2品だとか。

それで、「焼酎と洋酒、ワイン
といった和・洋の文化を融合させた
“和魂洋才”の新・プレミアム焼酎」
というのは
アサヒビールの歌い文句のようですが、
文句なしに美味しいのです。

とにもかくにも「いいものはいい」。

焼酎は、
「紅乙女」「佐藤」「下町のナポレオン」などなど
20年ほど前から割に飲んでいるのですが、
それらをはるかに超えた逸品と思います。

 みなさま、長生きはしてみるもんです!
イタリア統一と赤十字N [2011年02月13日(Sun)]





      サルディニアの宰相カヴール



 フランスの裏切り

 1859年7月8日、フランスは密かに
オーストリアに休戦の打診をした。

  敗戦の続いたオーストリアはこれに応じ、
ナポレオン3世とフランツ・ヨーゼフは11日、
ヴィッラフランカで会見し、
突然の休戦が成立した(ヴィッラフランカの和約)。

 ドイツ連邦軍の指揮権を握ることを条件に
プロイセンがオーストリアを支援するため
ライン河畔に軍隊を集結して
フランスを圧迫しはじめたことや、
ソルフェリーノ戦の犠牲が多かったことから、
ナポレオン3世は
自国の南東に統一国家の成立を望まず、
手を撒くことを決意したのであった。

  この和約の骨子は、
@ロンバルディアの大半をサルディニアに与える、
Aヴェーネト(ヴェネチア)は
  オーストリア皇帝の支配下に置く、
B亡命君主(モデナなど)は復位を認める、
という内容であった。

 ヴィットリオ・エマヌエーレは単独での
戦闘継続に勝算のないことを知る将軍らの
意見をのみ、
「朕自身に関する限り同意する」として、
「和約」に屈従の署名をした。
 
 カヴールは単独での戦闘継続を
主張して容れられず、やむなく辞任した。
 
 翌年1月カヴールは、宰相に復帰、
亡命君主の復位を望まぬ住民の声をうけて、
トスカナ、エミーリア、ロマーニャの3地方を併合した。

 しかし、プロンビエールの密約に従い、
サヴォイとニースをやむなくフランスに割譲した。

 サルディニア王家の本拠地の一角を
フランスに引き渡したこの決断は、
カヴールにとっても王家や国民にとっても、
誠に苦渋に満ちたものであった。
                     (つづく)
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