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デュナンとトルストイ‐23 [2011年01月05日(Wed)]

  

有賀長雄
(1860〜1921)



 万国平和会議主唱国との戦い──日露戦争
 赤十字の創設者であり、
ジュネーブ条約の推進者である
アンリ・デュナンと
文豪レフ・トルストイについて、
考察する上で、
日露戦争における日本の態度と
万国平和会議との関係についても
触れておきたい。

 開戦にあたって日本は2月11日、
「凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ」
一切の手段を尽くし、
遺算なからしむることを期せよ、
との開戦の詔勅を発し、
国際法の遵守には大いに心を配った。

「此ノ戦争ハ海牙(ハーグ)平和会議ニ於テ
議定シタル陸戦ノ法規ニ関スル規則中
捕虜ニ関スル条項ヲ
始メテ大規模ニ於テ実施スベキ場合ニテ、
然モ敵タル露西亜ハ
歴史上是等ノ条項ノ主唱者トシテ見ルベキ
アレクサンドル二世ノ
君治セラレタル国ナルガ故ニ、
我ガ当局者ハ開戦ノ初メヨリ
特ニ捕虜ノ取扱ニ注意シタリ。」

 これは、当時、陸・海大の教授で
日赤顧問(国際法担当)であった
有賀長雄博士の
『日露陸戦国際法論』(1907年)の
一節(第4章「捕虜」の冒頭)である。

有賀は日清戦争、日露戦争には
法律顧問として従軍し、
ハーグでの万国平和会議には
日本代表として出席している。

ところでブラッセル会議(1874年)の主催者である
アレクサンドル二世の統治するロシアは、
トルストイが
いかにその側近や関係者を痛罵しようとも、
当時、戦時国際法の分野では
世界をリードする、
最も進んだ国であったといえよう。

有賀博士が万国平和会議の
主唱者であるニコライ二世の名前を
ここで挙げなかったのは、
万国平和会議で採択された『陸戦条約』の
多くの部分がアレクサンドル二世の主唱で
開かれたブラッセル会議でまとめられた
『ブラッセル宣言』に拠るもの
であることもあろうが、やはり、
干戈を交えたばかりの敵国の皇帝の事蹟を
直接には讃えにくいものが
あったからではなかろうか。
                  (つづく)
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