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大曲の花火で大曲が?! [2010年11月08日(Mon)]










 カンタータ「大いなる秋田」は
演奏に30分以上もの時間を要する
「大曲(たいきょく)」である。

 これが、
秋田県旧大曲(おおまがり)市で行われる
「全国花火競技大会、いわゆる
「大曲の花火」の
テーマソングになっている。

 渡辺裕『歌う国民』(中公新書)は、
このことについても触れている。

    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 ついでにもう一つ付け加えておけば、
この《秋田県民歌》が復活し、
大きな広がりをみせてゆく上で
さらに決定的な役割を果たしたのが、
旧大曲市(現大仙市)で
古くから行われている全国花火競技大会
(大曲の花火)でした。

90年以上の歴史をもち、
全国的にも知られているこの花火大会は、
毎年8月末に開かれるのですが、
この大会のフィナーレに《秋田県民歌》が
使われるようになったのです。

正確に言えば、
大会の最後を飾る主催者提供の花火
(大会全体は、名前の通り、
全国からの参加者による競技大会です)の
バックに使われるシンガーソングライター
津雲優【(ぐもゆう)の《いざないの街》という曲の
後半部分に《秋田県民歌》が使われており、
結果的に大会全体が《秋田県民歌》によって
結ばれるようになっているということなのですが、
このような使われ方をすることによって、
《秋田県民歌》は
また新たな生命を獲得したのです。

大曲の花火はそれ自体有名な行事で、
2008年のデータによれば
全国から65万人くらいの見物客が訪れた
といいますから(旧大曲市の人口は4万人弱)、
毎年夏の終わりに行われる
この行事の「定番」曲になったことの
アピール効果は大変なもので、
《秋田県民歌》はこの地域で
夏の終わりを告げる風物詩のような存在に
なりました。

《いざないの街》の歌詞は
「短い夏を惜しむように竿燈(かんとう)の灯りが揺れる」
と始まる、夏の終わりを印象づける内容のものに
なっており、そのことによって
《秋田県民歌》ももともとこの曲に
具わっていたわけではない
そのようなイメージとともに受容されるようになったと
みることができるでしょう。

今では多くの県民が、
この曲をきくと夏の終わりを感じると
いうような印象をもっているようです。

《秋田県民歌》という古い歌が、
単に復活しただけでなく、
様々なコンテクストをまとわされて、
新しい意味を担うようになってくる、
そんな歴史のおもしろさを感じさせてくれます。
 
 石井歓の《大いなる秋田》に始まる
この《秋田県民歌》の復活劇は、
県歌をこえて、
日本の戦後文化を考えるための
非常に興味深い材料を提供してくれているように
思います。

象徴的なのは、《大いなる秋田》が、
1968年の明治百年を記念して行われた
「青少年の祭典」という行事のために作られた
という事実です。

この明治百年という年は、
今になって考えてみると、
戦後の日本文化の潮目が大きく変化する機会になった
といっても過言ではなく、
《秋田県民歌》の復活劇は
分水嶺ともいうべきこの時代の状況を
見事に映し出しているように思われるからです。
前原外相の答弁を記憶する [2010年11月08日(Mon)]







4島はかつて一度も違う地位だったことがない。日本固有の領土である。





「4島の帰属を決めて平和条約を締結する」
今日の衆議院予算委員会で、
平沢勝栄議員の北方領土問題に関する質問に
前原外相はこのようにきちんと応えた。

平沢議員の質問は鳩山前首相が「2+α」と言った
ことを政府の見解かと質したのであった。

この答弁はきちんと記憶しておきたい。

つまり、「歯舞・色丹の返還で平和条約を締結、
国後・択捉を継続協議」などということは
ありえないと言うことである。

近く前原外相と会うことになっているので、
このあたりはさらに念を押して置くことにしたい。
秋田県民歌の復活 [2010年11月08日(Mon)]





       剪画は石田良介画伯の特段のご厚意で
      掲載させていただいております。禁無断転載。





 渡辺裕『歌う国民』(中公新書)に紹介されている
カンタータ(合唱組曲)「大いなる秋田」についての抜粋です。
この新書を私も精読しましたが、他の部分の分析もすばらしく、
日本の歌に関心のあるみなさまに是非お読みくださるよう、
お勧めします。

      ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

このカンタータの中で、
二つの県民歌はどちらも、
ベートーヴェンの《第九》よろしく、
混沌の中から突如湧き上がり
高らかに歌いあげられるという、
とても印象的な存在になっています。

とりわけ第三楽章に出てくる
成田為三作曲の戦前の《秋田県民歌》の方は、
「秀麗無比なる鳥海山よ」という、
あの格調高い歌詞と相俟って、
圧倒的な迫力をもって迫ってきます。

これ以後、忘れられていた
《秋田県民歌》が復活を果たし、
再び歌われるようになってゆくわけですが、
このカンタータは単にそのための
きっかけになったという以上の
意味を持っていたように思われます。

このカンタータの中に置かれることによって、
《秋田県民歌》は、
単独の曲では決して得られなかったであろうような
壮大なイメージを獲得し、
今では単独の曲で歌われる際にも
そのイメージが付着していると思われるからです。

 石井の編曲も絶妙でした。

 1930年に最初に公された《秋田県民歌》の楽譜は、
作曲者の成田為三自身の手によるピアノ伴奏譜ですが、
現在県のウェブサイトなどに掲載されて、
今日一般化しているピアノ伴奏譜と比較してみると、
和声づけなども微妙に異なっています。

ウェブサイト掲載のものは
秋田大学で教鞭をとる作曲家、四反田素幸の編曲
という記載がありますが、
和声づけなどは基本的に石井のものを踏襲し、
《大いなる秋田》を彷彿とさせるものになっており、
これと比較すると当初のものは
何となくぎこちない感じがしてしまいます。

もちろん、どちらも同じ曲には違いないのでいが、
表象というレベルで考える限り、極端に言うと、
石井の《大いなる秋田》を境に別の曲になった
という捉え方をした方が正しいのかもしれません。

 1980(昭和55)年には、
成田為三の郷里である
北秋田郡森吉町(現北秋田市)で
「成田為三顕彰の集い」という行事が催されました。

成田為三の墓所に450名の人が集まり、
最後は県民歌の大合唱で締めくくられた
と記録されています。

この行事には知事も出席しており、
この翌年から「県民手帳」には一度消えていた
《秋田県民歌》が掲載されるようになったとのことです。
                     (つづく)
相馬会長3回忌に谷川真理さんが [2010年11月08日(Mon)]





芦田敬二さんと谷川真理さん。
お二人とも難民を助ける会に
多年、大きな貢献をしておられます。






 きょう11月8日は難民を助ける会の創立者で
一昨年、96歳で逝去されるまで現役の会長だった
相馬雪香先生の3回忌。

 謹んで合掌し、ご冥福を祈ります。

 この日に合わせて、同会理事の谷川真理さんと鷲田マリさんが
舞鶴市で、チャリティ行事をたくらみました。

 以下は鷲田さんからの昨夜のメールです。

 ☆☆ ★ ★ ☆ ☆ ★★ ☆ ★ ★ 

やっと、やっと実現です! 

明日、谷川真理さんの講演と
ジョギング教室を舞鶴朝来小学校で開催。

谷川真理さんと同様に
舞鶴の芦田敬二さんは15年間、舞鶴で
チャリティーマラソンを主催し
難民を助ける会の活動支援をしてくださっています。

お二人が逢って頂くという私の夢が現実に!

有言実行の2ショットです。

奇しくも11月8日、相馬先生の三回忌。

相馬先生が私の夢を叶えて下さいました。合掌
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