小笠原の領有と開発 [2010年07月19日(Mon)]
ペリー提督が書いた『日本遠征記』が 批准書交換のため訪米した一行に渡され、 小笠原島に欧米人が定住していることが明らかになり、 幕府は大騒ぎとなった。 急遽、1861年に外国奉行水野忠徳を咸臨丸で 小笠原に派遣、調査にあたらせ、 八丈島から38人を移住させたが、 国内事情や外国との関係が不安定になったため、 わずか10ヵ月ほどで幕府の役人も島民は引き揚げた。 この間、父島の旗立山(旭山)に わが国最初の「日の丸」を立てて、 日本の領土であることを示したとも伝えられている。 その後、アメリカから帰ったジョン万次郎が 近海で捕鯨を指導したりということもあった。 日本が本格的に小笠原を経営し始めたのは 明治9(1876)年から。同15年になって、 欧米系の島民にも全て日本国籍を与え、 列強も日本の領土であることを確認している。 爾来70年、綿花、サトウキビ、サンゴ、漁業など、 それぞれの時代の主産業は変わったが、 次第に人口が増え、 太平洋戦争時には、7,000の住民を数えるに至った。 戦前は、南極探検の折、白瀬中尉の一行が立寄ったり、 北原白秋が保養のため9ヵ月滞在したり、 15歳のサトウハチローが父・紅緑の勘気に触れて ここに“島流し”にさせられ、初めて詩作に取り組んだり、 『李陵』の中島敦がパラオに向かう途中、 父島を訪問するということもあった。 (つづく) |