近衞会長就任祝い情報 [2010年01月17日(Sun)]
連盟会長就任演説をする近衞忠W日赤社長。 2009年11月19日、ナイロビで。近衞忠W国際赤十字赤新月社連盟会長は16日、成田空港を出発、 ドミニカ共和国経由、陸路でハイチの首都ポルトープランスに 向いました。
現地の状況にもよりますが、約10日間で帰国の予定です。
このため、2月8日におこなわれる、会長就任祝賀会は 予定通り開催されます。
また、このご案内状ご希望の方は、どうぞ、私あて お名前、住所、電話番号、メルアドをお書きくださり、 私あて下記にメールをください。 fukiura@eri-21-jpです。
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吹浦 忠正
at 22:54 |
難民・国際協力 |
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どうした民主党の議員たち [2010年01月17日(Sun)]
民主党は「小型大政翼賛会」とでも 名前をかえられたらどうですか。
国民とともにあるなどというのは、即刻、おやめなさい。
小沢幹事長に心酔しているなら、そう表明したらいいのです。 一蓮托生を覚悟の上で。
そうでないなら、 少しは自分の意見を言えないのか。希望も表明できないのか, なさけなくてしょうがないのです、私は。
また、検察の不正だ、ファッショだと思うのなら、 そう言ってはどうですか。
その点、鈴木宗男という人は立派ですよ。
「検察の行動に2.26事件の青年将校たちの 横暴のようなものを感じる」(産経新聞)、
「検察の暴走はいけない。特捜部が 『おれたちが国家の支配者だ、エリートだ』という 思い上がった考えで権力を行使したらどうなるか。 ぜひともお考えいただきたい」(朝日新聞)。
ただ、この人の発言は論理性に欠けるのが惜しいですね。
青年将校は横暴でああいうことをしたのか、 検察は国家の支配者だと思っているのか、 そこのところをもう少し、説明してほしいですね。
私もこの人にはよく批判されます。 横暴ともファッショともじかくしていないんですがね。
昨年秋だったか、外国人記者クラブでの会見では、 「北方領土が帰ってこないほうが カネが儲かっていいというような人がいる。 吹浦、袴田、児玉だ」(某記者のメモより)と言ったようですが、 これなど最も論理性に欠けた発言でしょうね。
その後何度もあっているにかかわらず、 話題にもしなかったのですが、 袴田茂樹青山学院大学教授も、 児玉泰子北方領土返還要求運動連絡協議会事務局長も、 あきれてものが言えないに違いありません。
そういえば、以前もこの人の著書で、 外務省の現職やOBの方々を一人ひとり名を挙げて誹謗し、 そのあとで、「民間にも悪い奴がいる」とし、 私は最初に名を挙げていただく光栄に預かったことがありました。
それでも、この人のように、何であれ、批判したいものは 批判するというのは、それなりの評価に値します。
それに比べて民主党衆参両院議員のみなさんは どうしたのでしょうか。
「ものいえば 唇寒し」ならまだしも、 「ものいえば 首筋寒し 小寒かな」ではないでしょうね。
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吹浦 忠正
at 22:06 |
政治・社会 |
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アフリカで活躍する朝倉さん [2010年01月17日(Sun)]
コンゴ民主共和国の国旗 数年前の東洋英和女学院大学大学院で教えて 以来の昵懇にしている朝倉恵里子さんは、 その後、難民を助ける会やMSF(国境なき医師団)で 活躍し、今は、JICA(国際協力機構)から コンゴ民主共和国に駐在している。
「水を得た魚のごとし」とはこの人の活躍ぶり。 得意の英語とフランス語を駆使して、 縦横の働きをしてくれている姿が見える。
少し前、久しぶりにメールが来た。
アフリカのような広大な地域で国際協力事業に 挺身している人の様子がよくわかるので、 ご紹介し、安全、健康とさらなる活躍を祈りたい。
☆☆ ★ ★ ☆ ☆ ★★ ☆ ★ ★
もう松も明けてしまいましたが、 今年初めてのメールなので小さな声で 「明けましておめでとうございます」。
そして、新しい新書の発売はきょうでしたね。 そちらもおめでとうございます。
私は年末年始はチュニスにいる友人の家で過ごし、 3日にキンシャサに戻ってからは、 またあわただしい毎日が始まりました。
昨年末に予定していた東部キサンガニ市への出張が MONUCのフライトが取れないまま実現せず、 新年はその準備であたふたしていました。
チュニスは12月27日から1月2日まで 滞在していたのですが、 クリスマスの朝に突然激しい扁桃腺の痛みに襲われ、 そのまま26日から移動したので、 結局、27日から29日の3日間は ベッドで過ごすことになってしまいました。
29日にとうとう耐えられなくなって医者に診てもらい、 抗生物質のおかげでチュニス滞在の後半は 少しは出かけることができました。
アフリカで活動するようになってから、 このような気管支周辺の炎症に見舞われることが多く、 きっと埃に混じっているウィルスが 強烈かつ極悪なのが原因だと思います。
先週は12日から15日まで 東部キサンガニ市に出張してきました。
何度か虐殺が発生した街で、 かつては美しかったと思われる植民地時代の家や建物が、 朽ち果てるままに放置されているような場所です。
昨日は大使館の集まりでシスター中村とお会いしました。 先般、社会貢献財団の表彰を受けられたあの方です。
シスターがおっしゃるには、仲間のシスターも キサンガニで惨殺され、遺体の判別さえできないような 残酷さだったということです。
キサンガニとゴマでは、 今年からコンゴ国家警察の警察官研修プロジェクトを 開始するのですが、 カウンターパートとなる警察幹部の 「たかり」体質には本当に疲れさせられます。
ハイチの地震はキサンガニで知り、 ナイジェリアのポートハコートで一緒に働いた ハイチ人の整形外科医とはとても仲良しだったので 悲痛な気持ちに教われました。
あれだけの大惨事なので最悪の事態も考えていたのですが、 昨日MSF・USAのサイトで その人物が治療を行っている写真が掲載されていたのを見つけ、 一安心しているところです。
難民を助ける会もハイチでの支援を決定したのですね。 きっと現地に入るスタッフにとっては 大変な活動になると思います。
そのような活動をされるスタッフに心から敬意を払い、 無事をお祈りしたいと思います。
先生のブログも相変わらず頻繁な更新で、 おかげさまで読み物と情報には不自由せずにすんでいます。
まだまだ寒い日が続きますので、どうぞお体ご自愛ください。
本年もどうぞよろしくお願いします。
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Posted by
吹浦 忠正
at 19:09 |
難民・国際協力 |
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ハイチに世界が、すぐに [2010年01月17日(Sun)]
ハイチ ドミニカ共和国 1月14日にハイチを襲った地震により亡くなられた方々に 謹んで哀悼の意を表し、 怪我をされた方々、救援を待っている人たちに 世界がすばやく対応することを期待している。
きょう、成田空港から日赤医療班の9人が出発した。 国際赤十字赤新月社連盟(会長=近衞忠W日赤社長)の150人の 国際救援チームに参加するこの医療班は、 隣国ドミニカ共和国から陸路で、ハイチ入りする予定という。
ハイチの首都ポルトプランス(王子の港)の映像を見ていると、 およそ地震の対策をしてこなかったということが、 建築の素人にもわかる。鉄筋も入っていないし、柱もあまりに弱そうだ。
世界最貧国の1つであるとはいえ、ほとんど国家が壊滅してしまうような 悲惨さをどうしようもなかったのか。
被災地のあちらこちらに国旗が掲げられていることも映像で分かった。
ハイチはナポレオンが欧州の戦争にかけている隙をついて、 1804年に独立を達成した、近世世界最初の黒人独立国。
宗主国フランスの三色旗から白人を連想させる白を取り除き、 青と赤の2色にした。青が黒人を、 赤が黒人と白人の混血であるムラートを表す。
中央の紋章は、いかにも戦闘的。ローマの解放奴隷に 由来する「自由の帽子」を載せたダイオウヤシの左右に、 大砲、銃剣、太鼓、ラッパ、斧などを描き、 下のリボンにはフランス語で「団結は力なり」と書いてある。
他方、ハイチと隣合わせでエスパニョール島を2分している ドミニカ共和国はもともとはスペイン領だったが、ハイチニ併合され、 1844年に、そのハイチから分離した国。国旗は、 対称的に平和な紋章だ。
デザインしたのが 三位一体教会の創始者であるフアン・パブロ・デュアルテ。 聖書と十字架の上に、スペイン語で、 「神、統一、自由」とあり、下のリボンには国名が描かれている。
幸いドミニカ共和国側には震災がなかったようだ。
フランスやアメリカそして中国が 大規模な救援隊を派遣している。
日本では最高権力者も首相もカネまみれで他人事に かまっている暇はなさそうだが、 これでは世界に尊敬され、頼れる国になるのは、 遠い先のことになってしまうだろう。
「友愛」を口にしている首相は、所詮は宇宙人か、 地球全体への現実的対応には、あまりご関心がなさそうだ。
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吹浦 忠正
at 15:07 |
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メッテルニヒの死とイタリア [2010年01月17日(Sun)]
メッテルニヒ 1848年2月、またもやフランスに革命が起こった。ルイ・フィリップ王政は崩壊し、革命はベルリン、ウィーンなど各地に飛び火した。
イタリアでは、この年の元旦から市民とオーストリア兵とのトラブルが続いていた。発端は市民による禁煙運動と将兵によるこれ見よがしの街頭喫煙からだった。煙草からの高額税収に抗議してはじまったこの運動に、老将軍ラデツキーがやらせたいやがらせであった。
各地で改革派への抑圧があった。
その中に、フランスでの革命と それがウィーンに飛び火して さしもの宰相メッテルニヒが失脚したとの報せがとどき、 蜂起や反乱が続発した。
「ミラノの5日間」の名で知られる市民蜂起は ラデツキーを窮地に陥れた。
老将軍は卑劣な人質作戦と凄惨な市街戦でこれに耐えたが、 やがて、ミラノから撤退した。
時や至る。人々の期待に応えて、カルロ・アルベルトはついに立った。
3月25日、45,000のサルディニア軍将兵がミンチョ川から ロンバルディアの平原に攻め込んだ。
イタリア各地のみならず、海外にいた亡命者たちも戻って来た。
マッツィーニはフランスから、ガリバルディは南米から馳せ参じた。 しかし、ラデツキーが苦戦したのは緒戦だけだった。やがて、 法王の軍隊や両シチリア王国の軍隊は脱落し、 8月にはミラノがオーストリア軍の方に帰した。
かくして一時休戦状態になった戦闘でもあったが、 やがてプレッシャ、ジェノヴァなどの市民の反乱から、 屈辱的交渉に耐えかねていたサルディニアが翌年3月、 再び戦端を開いた。
12万のサルディニア軍がミラノの西、テチーノ川に陣を構え、 10万のオーストリア軍と対峙し、 ミラノに向かって進撃を開始したが逆襲に会い、退却ののち、 3月23日、ノヴァラの戦いで大敗を喫した。
カルロ・アルベルトはなお戦闘の継続を図ったが、 将軍たちがこれに抗し、 失意のまま 王位を皇太子ヴィットリオ・エマヌエーレ2世(1820〜78)に譲り、 ポルトガルに逃れた。
かくして、サルディニアによる統一への歩みは一時、 完全に途絶えたかに見えた。
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Posted by
吹浦 忠正
at 09:48 |
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