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韓国NGOの国際活動 [2009年05月05日(Tue)]







韓国に国際NGOの職員処遇の調査に訪れた。

韓国では、プロテスタントは、さまざまな宗派に分かれているが
全体で約30%、
カトリックは各地区に1つずつの教会を建て20~25%、
仏教が30~40%くらいだろうか、推定されているようだ。あるいは、
もう少し仏教徒が多いか。

韓国動乱で世界の各国から軍事的経済的支援を受けたことが、
韓国人の世界に目を向ける基礎となっている。
現在ではさまざまな形で各国へ関心を持つ韓国人は多く、
また、積極的に進出しているのも事実だ。

特に、国際協力や救援活動では
宗教団体の実施しているものが目立つ。

2007年7月、センシル教会の会員18人が
アフガニスタンでタリバン拉致され、
殺害された人も出るという事件があったのは、記憶に新しい。

但し、これらは布教活動であり、
基本的に、人道的な活動や教育・文化活動を布教のための
手段として実施しているに過ぎない。仏教団体を含め、
いずれの宗教団体も内外で慈善活動を実によく行っている。

しかし、繰り返すが、
これはNGOの活動とはまったく異なるものである。

政治や宗教に中立なNGOも
近年ようやく韓国で積極的に活動し始め、
海外救援や国際協力へ参加しようという若者も増えてきている。

但し、目下のところ、
高い志や使命感に燃える青年男女が薄給にめげず
頑張っているというのが、現状であることがわかった。
ロシアの窮状とプーチンの来日 [2009年05月05日(Tue)]





  軽々にこの首相のご機嫌を取る必要はない。





「ロシアの自動車産業が“瀕死” 低品質に無力」という
産経新聞遠藤良介モスクワ支局長の記事(5月4日付)は
とても説得力がある。

「ソ連崩壊後も生き長らえてきたロシアの国産自動車産業が
いよいよ瀕死(ひんし)の状態に陥った」というのだ。

ロシアでも、自動車産業は多くの下請け工場の上に
成り立っているだけに、自動車業界の行方が
政治・経済・社会情勢に大きな影響を与えると見ていい。


 遠藤記者の指摘が面白い。
「おおざっぱにみて、ロシアでは国土の
東半分で右ハンドルの日本製中古車、
西半分で左ハンドルの外車が主流だ」。

 これは確か。ウラジオストクやハバロフスク、そしてサハリンでは
車両を左側通行にしたほうがいいと、マジに思うほどだ。

そんな中で、外国車と
ロシア国内で組み立てられる外国メーカーの自動車が
急速に販売台数を増やし、国産各社は従前の3〜4割にまで
生産台数を減らし、経営難に立ち至っている。
 
  当然、そこで働く何百万人もが生活の危機に直面するのだ。

 ロシアの工業製品で国際市場に出せるのは
「武器とマトリョーシカしかない」、つまり、
日本が魅力を感じるのは
石油・天然ガス、その他鉱物資源や材木くらいのもので、
焦ることは何もない。極東のこうした資源は、
ロシアにとって、日本が最大の「お客さん」なのだ。

  11日、約24時間、
ロシア政治のナンバー1であるプーチン首相が
来日する。われわれの要請を断り
、経団連幹部との会合をまっさきに
設定し、12日の夕刻、麻生首相と会談する。

 今は北方領土の返還を実現して日露平和条約をという私も
あらぬ期待はかけないし、ここは総理も総論だけでいい。

 ロシアが日本に関係改善を求めているのだ。提案を待つべし。
功をあせってはならない。熟柿を待つくらいでいい。

「谷内発言」で馬脚を現わした麻生政権、
定額給付金、高速道路料金の値下げ、
補正予算、海賊への対応・・・
もうこれでいい。外交を政権浮上の手段にするような
おろかなことは絶対にやめるべし。

 私は週刊文春に、
かねて尊敬してきた畏友「谷内正太郎前外務事務次官を
政府代表から解任すべし」と書いたが、
その気持ちを変わっていない。

 間違えたメッセージを送ることはゆるされないからだ。

 解任しないならば、われわれは一層、麻生政権に
警戒心を抱かざるをえない。

 25日にあるテレビ局でこの関係の1時間番組を収録する。
それまでに麻生さんがきちんと「谷内発言」に対処しないならば、
モデレータを務める私は、モデレータではなくアジテータに
ならざるを得ない。

 そんなことはないでしょうね、麻生さん!
サクランボの実る上海 [2009年05月05日(Tue)]






上海在住の菅沼ご夫妻から、季節のたよりが送られてきました。

    ☆ ――――――――― ★

 上海は春を通り越して、汗ばむ日が続いております。
いつも先生のブログの写真を通じて、
日本の季節を満喫しております、ありがとうございます。

 我が家のマンション敷地内にも、真っ赤な桜が咲いたので
写真を送らねばと思っているうちに
サクランボに変わってしまいました。

 花より何とかのようで申し訳ないのですが、
上海から初夏のご挨拶ということでお許しください。

     ☆ ――――――――― ★

 私はサクランボがなっている様子を見たことがありませんので、
ちょっとびっくりです。

 この木はきっとサクラではなくサクランボなのでしょうね。

 思わず、また上海に行ってみたくなりました。それもこの季節に。
韓国人の北朝鮮意識 [2009年05月05日(Tue)]










 韓国には30回くらい行ったはずだ。最初は1965年、
日韓基本条約の直前に大学院生5人と
学部生一人(現在の山本武彦早稲田大学教授)の6人で
釜山、ソウル、慶州などをまわったときだ。

 以後、60年代から72年までに10回ほど訪問しているので、
そのころの印象が特に強い。

「漢江の奇跡」を経、
国際的に大きな影響力を持つ国の1つとなった今と当時とは
さまざまな意味で雲泥の差であるのは言うまでもない。

最近では、2年前に行っている。そのときと比べても
さまざまな点で韓国は変化し、進化している。

 どんなところが変わったか、まずは、往時と今、
北朝鮮との関係について、私の意見も含め、
幾人かと率直な意見を交わした感想を述べてみたい。

@ 北朝鮮に対する意識が多様化した。昔は
反共のバリバリという人が
ほとんどであった。そんな40年前とは違い、
今では落ち着いて世界情勢、北朝鮮に関する情報を分析し、
それぞれの方が自分の意見を持つようになった。

A 北朝鮮を訪問した経験者が
社会的リーダーの中には少なくなく、
それぞれの方が現実的に「北」について
把握しておられるように思われる。

B 北朝鮮との統一は理想であっても、早急な進捗には
拒否感が大きい。
東西ドイツの統合で西ドイツが経済的に困窮したことから
大いに学んだという。当時の東ドイツは東側の最優等生だった。
にもかかわらず、その後のドイツでは深刻な社会的、経済的混乱が
見られた。

C 朝鮮半島の場合は、一人あたりGDPが南北で数十倍違う。
今の暮らしを昔の困窮状態に戻すことは真っ平であり、
現実的に不可能だ。

D ならば、北朝鮮が崩壊したとき、
国連の傘下で世界中が援助して民主化と市場経済化を進め、
 それからゆっくり朝鮮民族の統一を図ることでいい。
 米、日、中が中心になって支えるか、あるいは、
それまでは中国が事実上、北朝鮮を単独で支えるのでも可。

D 統一した韓国は、場合によっては永世中立国になるという
選択肢もあるのではないか。それを統一の条件とするのは
如何とは思うが、それまでの南北対立と米中関係などを
考えると、一案ではありうるのではないか。

E 韓国と北朝鮮ではいまや文化も価値観も、
言語も大きく異なってきた。今の韓国語には外来語が沢山入っているが、
北の人たちの会話には、めったにそういう単語が入らない。なにか、
大昔の人の話を聞いているような気分にさえなる。こういうことは、
小さいことかもしれないが、共住する上では結構、シリアスなことに
なりうる。
 
こどもの日 [2009年05月05日(Tue)]

































 きょうは「こどもの日」。

 タイミングよく桑名のTご夫妻が新茶を、
横浜のNご夫妻がちまきと笹団子をおくってくださった。

 おかげで、元少年は元気いっぱい!

 韓国出張の報告書製作三昧。いい出会い沢山会ったので、
これまた幸せな気分である。

 持つべきものはよき友なり。以前、静岡のKさんからいただいた
お茶も水を得て、PCの脇から湯飲みが消えない状況が続いている。
ピュリツァー賞写真家の孤独 [2009年05月05日(Tue)]














 カメラマン・長尾靖さんが、
人知れず
静岡県南伊豆町の自宅で亡くなられた。

報道によると知人が発見したのは死後4,5日経ってからであり、
その人たちが親族を探しているとのことである。

 忘れもしない1960年10月12日、日比谷公会堂で行われた、
自民党総裁の池田勇人首相、
日本社会党の浅沼稲次郎委員長、
そして民社党の西尾末広委員長との3党首演説会。

トップバッターの西尾委員長の演説のときから
場内は異常な騒乱状態だった。

そして2番手として登壇した浅沼委員長が演説しているさなかに
17歳の少年に2度突き刺されて殺された。

その決定的瞬間を
長尾さんは撮影し(写真はPCの画像でご覧下さい)、
たまたま私は最前列でそれを見ていた。

 その後、私は
求めてこの人とお会いしたことがある。1967年、2年前に
毎日新聞を辞めた「国際事件記者」大森実氏の紹介によるものだ。

 私が聞きたかったのは、
きちんと焦点を合わせて写真を撮影したことについて、どう思うか、
人命救助の点から非難されたことはないかという点であった。

私自身は手に持っていた数冊の本をなぜ投げつけなかったのか、
なぜ、大声で危険を知らせなかったのかと
慙愧の念にもかられ、周囲から批判もされていたからである。
当時の朝日新聞にもそのことは書いた。

撮影できたのが長尾さん一人だった。
世間はこれを大特ダネ写真というのかもしれない。
あの日、毎日新聞だけが印刷機を止め、
夕刊最終版に写真と記事を掲載した。

 長尾さんはこの一枚の写真で
日本初のピュリツァー賞を授与され、
世界報道写真大賞などかずかずの賞を与えられた。

 もちろん、私とは比較にならない強い非難を浴び、
自責の念にも駆られていたようだ。

翌年、所属していた毎日新聞を退社し、
フリーになったことにも
そのあたりの事情がからんでいたのではあるまいか。

 私は時々あの日の出来事を振り返ってみる。
そして19歳の私が
今の言葉でいう「固まってしまっ」ていたことを
告白せざるを得ない。もしかしたら、
居並ぶ各社のカメラマンも同じような状況だったのかもしれない。

 私は今一度、長尾さんに会いたかったが、探せずにいた。
そして一昨日、韓国からの機中で手にした新聞で、
長尾さんの孤独な死を報じる小さな記事に出会った。

ご冥福を祈るほかない。合掌。
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