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サクラ咲く、開花宣言! [2009年03月19日(Thu)]








        後ろは外務省


























 今朝、ロシア代表団を引率して、
石破茂農林水産大臣を表敬しました。

 そしたら、その真向かい、外務省の庭で、
もう、白いサクラが
「どうだ、オレが一番だろう」
という顔をして、咲いていました。


 管理している大臣官房会計課に電話して聞いたところ、
「伊東市から寄贈されたイトウザクラです」
とのこと。

 外務省の前庭は霞ヶ関随一のサクラの名所です。

 ついでに言うなら永田町では憲政記念館。

 暖かさにつられて散歩してみませんか。
永井陽之助先生のこと [2009年03月19日(Thu)]




 


  永井陽之助先生







昨日の朝の各紙に国際政治学者・永井陽之助先生が
昨年12月30日に亡くなられていたことが
分かったと一斉に掲載された。享年84歳。

まずもってお悔み申し上げたい。

近年、学会や論壇では勝手に
いろいろな噂が流れていることもうすうす耳に入っていた。

曰く、アルツハイマー、完ボケ・・・

だから、今回も新聞に死因が記載されていないことから、
自殺?と疑った向きさえある。

 マスメディアとも離れ、
ここ数年、群馬県にひきこもっておられたので、
そんな噂も流れたのだろう。

 頭脳明晰のまま、心筋梗塞で亡くなられたのだった。

 実は私はその前日に、あるルートでこのことを知った。

 そこで、たまたまわがユーラシア21研究所が主催している
「日露専門家対話」でご一緒していた
朝日新聞のN前政治部長に相談した。

 そして、日ごろ親しい幹部のいる
中央公論、文藝春秋、新潮社にお知らせした。

 中央公論のH元編集長は、即、「親会社」である読売に知らせた。

 若干の他紙にも出たのは、朝日や読売の「早や版」を見ての
追い記事だったに違いない。

 永井先生は、キューバ危機直後、
未だ北海道大学助教授時代に
『中央公論』1965年5月号に発表した
「米国の戦争観と毛沢東の挑戦」で論壇にデビューした人だ。
少し早く論壇で注目されていた
東大の衛藤瀋吉、
大阪市立大学から慶応義塾大学に移った神谷不二の両教授、
さらには、防衛研修所の教官だった若泉敬先生、
そして同じ時期に論壇に登場した
京都大学の市村真一教授、
高坂正堯、矢野暢両助教授
といった方々と永井先生は、
現実主義の立場から日本の政治、
とりわけ、外交のあり方を鋭く論じ、
一世を風靡した。

私事で恐縮だが、1965年夏に
初めての海外旅行として韓国を訪れた時、
韓国の論壇や大学院生たちとの意見交換において、
日本人で最も引用され、注目されている学者が
永井先生であることを知って、正直、驚いたほどだ。

その後、ここの名前を挙げた人々は、
末次一郎の主宰する安全保障問題研究会(私は事務局長)の
中堅メンバーとして結集し、
1968年の「アジアの平和―日米京都会議」、
72年の「同―13カ国京都会議」などで活躍されていた。

その上の世代には、
久住忠男、
猪木正道、
佐伯喜一、
小谷秀二郎(のち豪冶郎)、
毎日新聞論説副主幹だった三好修先生、
朝日新聞論説委員長だった岸田純之助先生など、
まさに綺羅星のごときこの研究会に結集していた。

きょうまでのロシアとの会議は、
実に1973(昭和48)年から
36年間に27回開いたことになる。

これだけの人々とほぼ毎月、おめにかかり、
何度も外国にご一緒でき
公私にわたりかわいがられ、ご指導いただいたことは
わが人生最大の幸せの一つであり、
心から感謝している。

それが、
先月には神谷不二先生、そしてこの永井陽之助先生の訃報。

今やご健在なのは
猪木正道、岸田純之助、そして市村真一の三先生のみとなられた。
さらなるご健勝を切に祈る。

私は、末次が日頃、私に教えていたこと
「こうした人たちが為したことを学ぶのではなく、
その人が目指したものを学べ」を
いつも振り返って心を引き締めるのである。

そしてこの研究会を継ぎ、
一心同体のユーラシア21研究所を主宰するものとして
先人の偉業に恥じないよう献身することを誓うのである。
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