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ブログ70万のアクセスに感謝 [2009年01月02日(Fri)]






  著者近影(にあらず!)






初夢か、
おかげさまで、1月2日、小欄のアクセス数が
700,000を超えました。

みなさま、ご愛読ありがとうございます。

今年4月1日に、
岡山市が18番目の政令指定都市になります。

その全人口と同じアクセス数なのです。

「政令指定ブログ」などというものは
もちろん存在しませんが、
私が内々、目標にしていた数字が達成され、
あとは、悠々自適、否、
いよいよ書き綴らねばならないと
張り切っています。

みなさまの
さらなるご愛読、ご叱正をお願い申し上げます。

末筆ながら、3年前、
小生にブログというものの存在を教え、
執筆を強くお勧めくださった
日本財団の笹川陽平会長、
今でもしょっちゅうお世話になっている
寺内昇さんをはじめとする
canpan事務局のいなさまに
厚くそして熱く、御礼申し上げます。

引き続きご指導ください。
石田良介ご夫妻の温かい柿 [2009年01月02日(Fri)]















  1個ずつ証印が押されているこの権威!








  はるか忘れてきた時を包みこんだ
 吊るし柿の影はあったか〜いネ







   包み紙もいいし、このウサギのシールが可愛い!







 世に、「ホーコ柿」なる、
美味にして芸術の香りする
特製の干し柿が存在する。

 年に一度、この至福の味を堪能できるのは、
もって生まれた幸せ一杯になる運命と、
特段のグルメになる素質を持ち、
かつ、日ごろの行いにおいて他に比べ、
とりわけ、製造者に比して
なんら遜色なしという、
特別の星の下に生を受けた(私のような?)者
のみである。

 けさほど、その「ホーコ柿」を、
小欄でおなじみの石田良介画伯ご夫妻から、
賜与された。

 石田秀夫子(ほうこ)夫人が丹精込めて
育成した柿から収穫し、皮をむき、吊るし、干し、
取り入れた上に、一個ずつ和紙で包み、
良介画伯のこの説明書とともに
箱に入れられたものである。

 あま〜い石田ご夫妻の味がするし、
どこかになんともいえない(苦味走った私?の)
深みがあるのだ。

 さっそく、ご先祖様にささげ、
満天の星の夜空を眺めながら
やや渋めのお茶とともにいただいた。

 極楽、極楽・・・。
めでたし、めでたし。
日露戦争でも捕虜虐殺 [2009年01月02日(Fri)]














南サハリンにあったロシア軍は日本軍に一蹴され、
そのあと5つのパルチザン部隊に再編された。

しかし、
これまた次々に日本軍に撃破されて降伏、
8月末までに第5部隊(隊長=ワシリー・ブイコフ大尉)は
間宮(アムール)海峡を渡って
大陸東岸のニコライエフスクへの潰走(かいそう)に成功、
わずかにダイールスキー2等大尉指揮下の
第4部隊(兵184名)だけが組織的抵抗を続けた。

この部隊は北西部のアレクサンドロフへの撤退を目指して、
西海岸を北上していた。

しかし、
ホルムスク(日本時代の真岡)の北約50キロ地点で
日本の巡洋艦に発見され、
川伝いに山岳地帯に入り込んだ。

そして8月23日、ナイバ川に達し、
丘陵地帯に踏み入った。

このさきは湿地帯化して
しばしば歩行の困難な中央部に続く。

他の自軍部隊との連絡も途絶えた
このロシアの第4部隊は
「防御工事を施し、副防御物として
急造の鹿柴(ろくさい)を設け
森林深き此陣地に
於て身を全ふせんことを決心」(伊藤貞助『樺太戦史』)
したのであった。

30日、ついに、オトラドノエ(日本時代の川北)村で
日本軍と衝突、
『樺太戦史』では、同部隊は
「日本軍に多大の損害を与へ」たが、
「其後数刻を経るや優勢なる日本軍」が
「包囲し、猛烈なる射撃を加」えたため、
「損害益々大なるのみならず
全滅も亦免(またまぬがるる)る能(あた)はさるの
状況に陥り、
余儀なく指揮官以下降伏して俘虜となれり」。

同戦史は日露戦争後、日本領となった
豊原の住人である著者が
20年後に上梓したものである。

しかし、
他の部分の記述が詳細を極めている
にもかからず、
この戦闘についてはここで筆を置いている。

全滅を免れようとして日本軍に降って
俘虜となった百数十名の運命には
ほうかむりしているのである。

ところがこのとき、
日本軍は恥ずべき蛮行を行なったのだ。

日露戦争中、最悪の
捕虜虐殺がなされたのである。
                (つづく)
コルサコフ(旧・大泊) [2009年01月02日(Fri)]






 コルサコフから南西を臨む。この先に稚内がある。









   コルサコフの住宅街(マイクロバスから撮影)












  コルサコフ港。サハリン州との貿易の中心。










     旧・北海道拓殖銀行大泊支店。ユジノサハリンスクの
    支店(旧・豊原支店)も立派に残っている。








 国民派の作曲家リムスキー・コルサコフ、
精神医学のセルゲイ・コルサコフなど、
コルサコフという名前は、ロシアでは
そう珍しい名前ではない。 

ただ、私にはなぜ、旧・大泊がいま、
コルサコフという地名になったのか、
どのコルサコフにゆらいしているのか、
わからない。

どなたかご存知の方、教えてほしい。

ところで、サハリンのコルサコフは同州随一の港湾都市。

 稚内との間には片道7時間の定期航路がある。

 戦前も、稚泊(ちはく)として、両方の港がにぎわった。

 今でも稚内港はサハリンと貨物や漁獲物で、コルサコフと
太い絆で結ばれており、
稚内市には「サハリン課」があり、
ユジノサハリンスクには稚内市の事務所もある。

 大泊中学はかつての名門校。

 東京都生涯学習審議会の委員どうしで親しくなった
元文化庁長官の鈴木勲氏(現・日本弘道会会長、私は会員)は
そこのご卒業。

 10年ほど前に、
「大泊中学の跡を調べてきてほしい」と依頼され、
訪問したことがある。

 いまは海軍の宿舎になっていたが、現存していた。

 稚内からの船旅については、以下に詳しい。


http://www.linkclub.or.jp/~kiki/sakhalin/wak.html
サハリンに上陸した日本軍 [2009年01月02日(Fri)]
















  かつて40キロ北上した日本軍の通過道は、
 今や、州都ユジノサハリンスクと港町コルサコフ
 さらに石油積出港プリゴロドノエを結ぶサハリン
 きっての幹線道路となった。2008年12月14日撮影。













    コルサコフ港。ここから稚内港にフェリーが運航されているが、
    往復3万8千円の船賃が高すぎると不評である。







捕虜を虐殺した日本軍
日露戦争に応召した新屋新宅という兵について
みてみたい。

新屋は、
第1軍(司令官:黒木為禎=ためとも大将)に属する
近衛歩兵第三連隊(東京)の補充兵であった。

ちなみにこの連隊本部のあった場所が
いまの六本木・ミッドタウンである。

しかし、前年10月の沙河の会戦で負傷し、
半年近くの入院で回復し、
第49連隊(甲府)に転属した。

7月5日、新屋が所属する第2大隊
第7中隊(中隊長=大多和勝介大尉)は、
サハリン南部の港町コルサコフ(後の大泊)付近
プリゴロドノエ海岸に上陸し、
地雷原を越え、わずか2日で、
コルサコフを占領した。

ロシア軍は集落に火を放って逃走し、
勢いに乗った日本軍は約40`北上し、
ウラジイロフカ村(戸数約三〇〇)まで追撃、
わけなくこれを占領して、
晴気(はるげ)と改名した。

占領した第2大隊長晴気市三少佐
(第11期士官生徒、1905年4月19日付で少佐)の
姓に拠る。

その後、日本時代には豊原(とよはら)と命名され、
そこに樺太庁が置かれた。

この地での圧勝により、
日本軍は16名の将校以下、
700余名のロシア人捕虜を獲得した。

その新屋の所属する第7中隊が、
ナイバ川(日本側の呼称は内淵川=ないふちがわ)
上流付近で、捕虜の大虐殺を行ったのであった。
          (つづく)
駅伝、東洋、早稲田頑張れ! [2009年01月02日(Fri)]





   日本第二の高峰・北岳(南アルプス)







 見事な東洋大の走りだった。

往路での初優勝、お目でとう。

箱根の山上りで“怪物1年生”柏原が、
9位(早稲田との4分58秒差)から
一挙に7人を抜いてトップの早稲田に迫り、
19キロ過ぎで早大の三輪と並走、
抜きつ抜かれつの力走のあと、トップでゴールした。

柏原はまた、
“山の神”といわれた今井(順天大卒=現・トヨタ九州)の持つ
の大記録を47秒も縮める
1時間17分17秒の区間新を樹立した。


区間記録を驚異的なタイムをマーク。


足の筋肉の美しい回転ぶりに、
思わず見とれるほどの魅力的な走りだった。

山上りでの1年生の区間賞は、
東洋大にとって69年ぶりの快挙。

 早稲田は、1区でこれまた1年生の矢澤が区間賞、
3区で北京五輪代表だったエース竹澤が2位まで追い上げ、
さらに4区で三田が、いずれも区間新を樹立するなど
賞賛すべき活躍をしたが、(残念ながら)2位に終わった。

 驚いたのは山梨学院大のモグス。2区で自身の持つ
区間記録を19秒縮める1時間6分4秒の新記録を達成した。

また、日大のダニエルが大会新となる20人抜きを達成、
先の出雲での大学駅伝につぐ快走を賞賛したい。
さらに、東海大の佐藤は13人抜き、
中央学院大の木原が8人抜きをするなど、
快挙が続いた。

明日の復路が楽しみだ。
これがゴールしないと正月が開けないくらい
気が入る。東洋、早稲田ともに頑張れ!
民主主義は欠陥商品 [2009年01月02日(Fri)]






   甲斐駒ケ岳。左の白い山は北岳。








 はっきりしているのは、
民主主義はもとより理想的な政治原則ではなく、
bestのものかも疑わしいということだ。

 せいぜい、betterなものと
学校では習ったという程度のことだ。

 まして日本では
マッカーサーに与えられた民主主義に過ぎない。

非効率は当然としても、
時に回復しがたい政治的混乱を持ち込む。

有権者は投票した後のことには責任を持たず、
ただ、所かまわず、愚痴り、批判し、ののしり、
いかんと憤る。

 いまの日本がまさにそうだ。

 2007夏の参議院選挙で、
民主党が一挙に第一党になったのはよしとしても、
これが過半数を取ったわけではないので、

仮に今年の衆院選で民主党が過半数をとったとしても、
参議院のことを考えれば、
いやでも連立を組まなくてはいけない。

 その場合、現状では
@ 自民党との部分的な政策協定、
A 自民党を割って出る一部議員との連携またはその吸収
B その他のミニ政党
(社民、国民新、新党日本、新党大地)との連立
といった政治構造が考えられる。

 自民党もしかりである。公明党が
キャステイング・ヴォウトを握る状況が
事実上いまもそうだし、これからも続くだろう。

 このさき、自民、民主どちらにとっても、
ミニ政党や今後、生まれるかもしれない地域政党が
重い存在になり、
日本の政治の根幹に関わる問題を
左右しかねない状況になろう。

 そして、そのつど行き詰まった時の首相が
政権を投げ出しては、
第3共和制当時のフランスとかわらないことになろう。

世界に尊敬され、信頼される国には到底、
なり得ない。

先のインド洋からの海上自衛隊の
一時的な撤退など、国辱ものである。

 先の参議院選挙の際、
そんな先のことや民主主義の問題点などは
ほとんどの人が考えなかったに違いない。

 この上、来年夏にはまた参議院選挙がおこなわれる。
そこで安定した政権ができなければ、
国政はさらなる大混乱に陥るであろう。

 場合によっては、参議院不要論、政治不信、
ミニ政党だらけの合従連衡(一貫した国政が行ない得ない)
といった時代に突入するかもしれない。

 そのことは、日本の地盤沈下、劣化そのものに直結する。

 そこに民主主義の致命的欠陥があることを、
今年、そしてこれからは、しかと自覚したいものだ。
政局展望2009 [2009年01月02日(Fri)]





   群雄割拠?




2009年の主要な政治日程は次の通り。

1月5日 第171通常国会召集(6月3日までの150日間)
1月11日 麻生首相、韓国ソウルを訪問(〜12日)
2月下旬か プーチン露首相来日
5月21日 裁判員制度スタート
5月25日 ASEM(アジア欧州会議)ハノイで
6月下旬から7月中旬 東京都議会議員選挙
7月8日  G8首脳会議、伊マッダレーナ島で
9月10日 衆議院議員任期満了

 この中で、
@解散総選挙はどうなるか。

 A政界再編はいつ、どのような形で行われるか。

 B安定した政権ができうるのか。

 元旦の各紙はさまざまな分析をし、
シミュレーションをしてくれているが、
「予定は未定にして決定にあらず」で、
占星術師くらいしか、半年後のことさえわからない。

 要は、麻生さんが「キレ」手政権を放り出さない限り、
また、4月頃までにかなりの数、
少なくとも衆院で3分の2を維持できなくなる
17人以上の自民党議員が離党するようなことがない限り、
都議選との同日選挙を嫌う公明党の強い希望もあり、
任期ぎりぎりの9月末や9月の解散総選挙も
なしとしないということだろう。   (つづく)
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