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ホトトギス [2008年10月29日(水)]






































 われながら、花の名前を知らない。

情けないほどだ。

散歩していて、カメラを向けていたら、
「妙齢の美女」が、
「ホトトギスって斑点が面白いですよね」
と、声をかけてくれた。

 振り向きもせず、
「はぁー」。

 それでも美女であろうと想像できる
(から美女は妙齢であろうとなかろうとトクだ)。

ホトトギス(時鳥草、杜鵑草)は、ユリ科の多年草とある。
 
想像したとおり、斑点が、鳥のホトトギスの胸に似ているから
この名が付いたそうだ。

英語名はJapanese toad lily、すなわち、
「日本ガマガエル百合」の意。これまた面白い。

日本を中心としたアジアに咲いている花だという。

早寝、早起き、早歩きをしたいが、
カメラを持つと、つい、3番目が難しくなる。
海洋タウンミーティング [2008年10月29日(水)]






「<与那国島・海洋タウンミーティング2008>の
ポスターができました」と
主催する財団法人都市経済研究所の
上妻 毅 常務理事がわざわざお立寄り下さった。

 与那国町との共催で、
日本財団の助成事業である。

 日本財団にこの春まで在籍した
山田吉彦東海大学准教授を基調講演者に、
電通、中京大学、フリーアナウンサーなどの皆さんと
地元の方々に混じって、
およばずながら私も席を汚す。

 11月9日(日)15〜18時、
お近くの方は是非・・・といっても、
日本の最西端、羽田からは、
那覇、石垣島と2回乗り換えねばならない。

 日本で2番目に人口の少ない町とはいえ、
この島、戦略的にも非常に重要。

この島に限らず、辺境の島は「日本の宝物」。

ここがしっかりしてくれなくては、
日本が安穏としていられなくなる。

「海に守られてきた日本」ではあったが、
それとともにこれからは「海を守る日本」
でなくてはならない。

 与那国からはいっぱい学んできたい。
NGOの責任 [2008年10月29日(水)]










春子「きのうの<NHKクローズアップ現代>見た?」

夏子「いいえ、なんだったの?」

春子「カンボジアで日本のNGOが掘った井戸の水から
砒素が検出され、住民の中から
    症状が出て苦しんでいる現状が報告されていました」

夏子「それって大変じゃない!」

春子「善意の行動が返って人を苦しめる結果になるという悲劇です」

夏子「でも、その善意にも問題はなくって?」

春子「?」

夏子「つまり、きちんと責任をとらない善意というのも
    困りものかも」

春子「だからと言って
    支援活動を止める訳にはいきません。
    知恵を出し合い共に苦しみ、
    喜びを見つける日々こそが大事ですよね。」

夏子「そんないいことづくめならいいんですけど、
    簡単じゃないわね。海外協力って。
    砒素って誰かが入れたんじゃないの?」

春子「いいえ、自然界にもあるんですって」

夏子「おおコワ!」

春子「でも、井戸掘った後で
    そのNGOの人たちが水質検査しないのかな?」

夏子「ちょっと飲んでみただけかもしれない」

春子「難民を助ける会は各地で
    随分たくさん井戸掘りをしてたけど、
    検査はどうするの?」

夏子「知ってる、しってる。実際にザンビアやルワンダでやった
    友達にきいたんだけどぉ、
    もちろん自分たちでもするし、
    公的な調査機関があれば委嘱するし、
    それとしばらくその水で一緒に生活して、
    それから委譲してるんですって」

春子「砒素が出てきた井戸を掘ったNGOでは
    水質検査をしっかりしなかったのかな」

夏子「そうかもしれませんね。チョイボラの感があります。
    旅行の途中に井戸掘り体験なんていう
    プランもあるようですから」

春子「何事も体験とはいいますが、
    これじゃきちんとやってる団体にとっては
    迷惑ですよねo(_ _*)o」

夏子「せめて、関わったNGOが
    ここから一つを学び
    さらに力強い支援活動を展開して欲しいですね」

春子「そうよね」・・・
ウクライナの歴史と危機 [2008年10月29日(水)]


     


       ウクライナの国旗。
     余談ですが、
     北海道野航空会社エア・ドゥとそっくりです









どなたか教えてください。

クリミア半島がソ連時代に
ウクライナの領土になったいきさつを。

オスマン・トルコが
18世紀後半のロシアとの戦いに敗れ、
1783年、半島全域がロシアに併合されました。

その後、英仏両国(イタリア統一を目指すサルディニアも
約2千の将兵を派遣)とロシアとの間で
1853年から56年にかけてクリミア戦争が行われました。

貴族である士官レフ・トルストイは
その体験に基づき、『セバストーポリ』を執筆し、
英国側ではフローレンス・ナイチンゲールが、
ロシア側ではヘレーナ・パブロヴィナが
多くの看護婦を率いて、救護にあたりました。

第二次世界大戦(ソ連では大祖国戦争)で
クリミア半島では激戦が行なわれました。

またしてもセヴァストーポリが中心でした。

すなわち、1941年12月17日から1942年7月4日にかけて、
独ソ戦中でも、
レニングラード、スターリングラードと並ぶ
激しい戦闘がクリミア半島で行なわれたのでした。

これに先立って、周辺のドイツ人やユダヤ人は
中央アジアやシベリアに強制移住させられ、
戦後も故郷に帰還を許されたものは少ないと
いわれています。

現に、ハバロフスクの近郊には
今でもユダヤ人の自治共和国があります。

他方、クリミアに残ったタタール人たちは、
1944年、ソ連を裏切りドイツ軍へ協力したとして
これまた、中央アジアに追い払われました。

ウクライナは今の国旗(青空を表わす青と、
麦畑を表わす黄色の横二色旗)が示すように、
穀倉地帯です。

しかし、1930年代のあいつぐ凶作と、
独ソ戦での破壊で、ウクライナの誠司・経済・社会情勢は戦後も、
かなり不安定でした。

モスクワはウクライナと白ロシア(現在のベラルーシ)を
国連の原加盟国として、
形式的に宥和政策を採り、
歴史の教科書は、
1955年、戦勝10周年の機会に、
ウクライナに対する融和策の一環として
クリミア半島をウクライナの領土とすることを
ソ連共産党中央委員会が決定したことになっています。

1991年末、そのソ連が崩壊しました。

クリミア半島はそのまま、
独立したウクライナ共和国の一部となりました。

ウクライナ国内の一部の強硬派は、
1992年5月5日、クリミア半島の独立を宣言しましたが、
結局、クリミア半島は、
ウクライナ共和国内の自治区となり、
ウクライナは今日の形になりました。

ソ連、ついでロシアの黒海艦隊は
2017年までセヴァストーポリの軍港を借用できることに
なっています。

このときが近づくにしたがって、
ウクライナとロシアとの関係、
さらにはNATOとロシアの関係が、
もしかしたら危機的状況になるやも知れません。

その場合ロシアとNATOとの関係は、
今回のグルジア問題よりも決定的で深刻な対立になるでしょう。

さて、私が聞きたいのは、
このクリミア半島がどのようにして
ウクライナのものになったかなのです。

クリミア半島は旧ソ連領内で、
めったに零度以下の気温にはならないという
すばらしい場所です。

私は一度は空路で、もう一度は、
ナポリから、ピラエウス(アテネの外港)、
イスタンブール、ヴァルナ(ブルガリア)、
オデッサ(ウクライナ)を経ての
船旅でした。セヴァストーポリに行ったのです。

 もちろん、保養地ヤルタにも行き、
1945年2月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンが
秘かにドイツ敗退後3ヶ月以内の、
ロシアによる対日参戦を決めたサナトリウムも訪問しました。

教科書にも出ている、
3巨頭記念写真を撮影したあのベンチにも座りました。

あそこが、今日の日露関係の起点を作ったところです。

それはともかく、クリミア半島がウクライナ領になったのは、
フルシチョフが、
ウクライナ出身の夫人の誕生日に
これをウクライナにプレゼントしたという話を
時々、聞くのです。

その真偽、どなたかご存じないでしょうか。
ロシアにとって日中欧米 [2008年10月29日(水)]












 北方領土はどういう要件や展開によって返還されうるか。

 当面、問題解決がありえない、我慢大会の機運であるこの際、
少し、客観的に考えてみたい。

 基本的に、ロシアが日本を
重視しなくてはならなくなった時である。

 それは戦略的には、露米関係、露欧関係、露中関係など、
ロシアをめぐる国際環境が厳しくなったときであり、
ロシアが孤立に耐えられなくなった時であろう。

 今、ロシアはその前兆にあることは確かだ。

 一時、好転していた露米関係ではあったが、
プーチン時代、そして、
プーチン・メドヴェージェフ時代になって、
急速に冷え始めた。

 南オセチア、アブハジアを巡って
グルジアをバックアップするアメリカ(NATO)と
ロシアの関係は、対立構造となった。

 ここで、日本がどう立ち回るか、
一味違うところをどう出せるか、
思案のしどころである。

 露欧関係は、
ウクライナとグルジアのNATO加盟を巡り、
今後さらに難しくなってゆく可能性は高い。

 そうした中にあって、
規模を小さくし、時期を遅らせてでも実施した
日露合同「海軍」救命訓練など、
目立たないが評価していい。

 日中関係も当然、日露関係に影響する。

 シベリアでの自らの人口減と
中国からの人口圧を感じているロシア、
武器市場としての中国(但し、第1級の武器は中国には輸出しない)、
雑貨輸入国としてのロシア、
エネルギーを供給できるロシアは中国と
一応の「戦略的パートナー」ということになってはいるが、
互いに信頼しあう関係ではないし、
今回の2つの“国”の独立を中国は承認できない。

 両国の関係は2005年がピークで、
いまは結構厳しくなりつつあるというのが、
一般的な見方だ。

 ロシアにとって日本はなんだろう。

 大方のロシア人は
日本と日本人をちっぽけな国と見くびっている。
ずるがしこい国という人もいよう。

 ロシアの国会議員たちに、
「ロシアの人口を100とすると日本の人口は?」
と聞くと、たいていの人の答えは、
10分の1、20分の1、よくて半分である。

 実際は、90%以上といっていい。

 どうもそのあたりのことがわかっていない。

 日本が、世界屈指の
技術と資本を持ち、
高い市場価値を有し、
市場経済を維持した民主国家であることを、
ロシアの広範な人々に理解させることが、
北方領土問題を解決し、
日露関係をを抜本的に改善する正道だと私は思う。

 日本の経営や技術水準の高さを知らせることを含む
広範な広報啓発、
ハイレベルの文化交流、
マンガアニメの浸透、
観光を含む人的交流の拡大・・・
そうしたソフトパワーに日本がどれだけ力を入れるかが、
今後の両国関係を決めてゆく大きな要素になると確信する。
日赤病院の使命 [2008年10月29日(水)]









熊「若くても妊娠中には脳内出血って
  かかることがあるんだってな」

八「そうだよ、こないだも、ほら、
  それで、墨東病院以下7つだか8つだかの病院を
  たらい回しの上、亡くなったんだってね」

熊「地方の医師不足てぇのはきくけど、天下の東京での話だぜ」

八「どっか、おかしいよな」

熊「都立の病院、大学病院、そして日赤医療センターだったよな」

八「そこだよ、それ」

熊「どうして日赤が病院をやってんだろう?」

八「そりゃ、人道的見地に立って、人の命を守ろうってわけだろ?」

熊「守っちゃいないじゃないか」

八「戦争になったら、最前線で看護するんだよ、
  日赤は、昔っから」

熊「そんなの今はちがうだろうが。そうでもいいよ。
  じゃ、ふだんは何してんだい?」

八「普通の病院だよ」

熊「それじゃ困るじゃないか。おれさまだって、
  町内会に年500円取られて日赤の社員なんだぜ」

八「だから?」

熊「イザというとき、頼れるからと思うからじゃないか」

八「甘いみたいだね。現実は厳しいよ」

熊「日赤病院が普通の病院なら、要らないね」

八「看護教育をしてんだよ。大学や大学院をいくつも持って」

熊「大学や大学院をいくつ持ったってこのザマは何なんだい?」

八「確かにそうだ」

熊「オウム真理教事件のときに、幹部が一人刺されたんだよな。
  私はたまたまその教団本部の目の前にある
  日赤医療センターにいたんだけどさ、
  救急車は素通りして、都立広尾病院に向かったんだ。
  そこで死んだんだけどね」

八「日赤、頼りにならずということかい?」

熊「まぁ、そういうことだろな」

八「日赤病院は、漫然と日々の診療にあたるだけではなく、
  国際救援活動、看護師の養成、救急救命活動に徹し、
  地域医療はその練習の場くらいでいいんじゃないか」

熊「いいこというね、たまには。おれもそう思うよ。
  病院は、看護大学の付属病院でいいね」

八「資金は、社資で補填するほかないだろう」

熊「そうでもしなくては、赤十字の看板が泣くね」

八「あの亡くなった妊婦に意識があり、日赤病院の前を
  救急車が素通りしたということを知ったら、
  死んでも死にきれないよな」」

熊「日赤病院は、ほかとは違った特徴を
  示さないなら廃止すべきだよ」

八「医師全体が、今回の事件は猛省すべきだね」

熊「みんなであの人の命を奪ったんだ」

八「あの子を母の顔を知らない子供にしたんだ」。

 日赤のみならず、全医療関係者と行政に
しっかりしてもらいたい。

 官僚主義は人道の敵だ。
戦前の国旗教育 [2008年10月29日(水)]











「戦前の教科書では、日の丸をどう教えていたのか」
という質問を、
横浜の山口久徳さまと金沢の佐伯智也さまから
いただきました。

調べてみると、第4期 尋常小学修身書(巻3)に出ていました。

日本の国旗とともに、当然ですが、
世界の国旗への態度をきちんと教えていることに、
感心しました。

  ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜


 きょうは明治節です。

 どの家にも、日の丸の旗が
朝風にいきおいよくひるがえっています。

 この村には、もと、祝日に日の丸の旗の立たない家も
あったそうです。それが、
今から10年ほど前に、
村中そうだんして、
どの家でも日の丸の旗を作りました。

 そうして、いつもは、しぶ引のふくろに入れ、
ふくろの上に旗を立てる日を書いて、
神棚の下にかけて置くことにしました。

 それからはこの村には、
祝日や祭日に旗の立たない家は、
一けんもなくなったということです。

 どの国にも、その国のしるしの旗があります。

 これを国旗といいます。
 
 日の丸の旗は日本の国旗です。

 我が国の祝日や祭日には、
学校でも、
家々でも、
国旗を立てます。

 これは国民が、祝日には、
おいわいの心持をあらわし、
祭日には、つつしみの心持を
あらわすためです。

 日本の船が外国のみなとにとまる時には、
日の丸の旗を立てます。

 また、国々のうんどうせんしゅが集って、
きょうぎをする時にも、
日本のせんしゅが勝つと
「君が代」の奏楽とともに、
日の丸の旗が高くあげられます。

 こういう時に、勇しい日の丸の旗を見上げると、
日本人の胸は、国を愛する心で一ぱいになり、
思わず涙が出ます。

 日の丸の旗は、日本のしるしですから、
私たち日本人は、だれでもこれを大切にします。

 それと同じように、
外国の人も、自分の国の国旗を大切にします。

 私たちは、外国の国旗にも、
れいぎをうしなわないように心がけましょう。
法隆寺と柿A [2008年10月29日(水)]

































    進行中の近鉄特急から。なんば橋駅近郊で。
   写真がぶれているのはご容赦を。
   各家の庭にも柿を植えているお宅が多いと見た。








 これを考えるといつも眠れなくなるのです。

 私の中学時代以来の難問なんです。

 「柿食へば 鐘がなるなり 法隆寺 (子規)

 このとき作者はどこにいたか。

@ 法隆寺の境内
A 法隆寺の近辺
B 法隆寺の鐘の音が遠くに聞こえるあたり」。

   中学の国語の教師は、@だというのです。
「法隆寺というこの言葉がこの句の決め手だから、
そこでなくてはならないのだ。詩情を解するとはそういうことだ」。

 今も昔も詩心がないせいか、
私にはそうとは思えませんでした。AかBか、
多分Aではないかと思うのです。

 法隆寺の宗教的な雰囲気と伝統の重みなどからして、
境内に柿を売っている売店があるというのもおかしいし、
子規があらかじめ持参してというのも、
なんとなく滑稽に思えたのです。

 作者は、参詣ないし拝観し、
表に出、
そう遠くない茶店にでも立ち寄って、
柿を食べたのではないかと
今でも思っています。

 法隆寺にはその後何度か行く機会がありましたが、
あいにく柿の熟す季節ではなかったので、
今ひとつ、感じをつかめませんでした。

 先般、奈良県を少し回りました。

 またまた
浅学非才、想像力の欠如をさらすようですが、
奈良は柿の名産地なのですね。

「柿の葉寿司」は有名ですが、
葉があることは実もあるわけです。

 ただ、季節が違っていたので、鈍感な私はこんなにも
柿の木があることに気付かなかったのです。

 ちょっと見回すと、今は県内至るところで
と言っていいほど熟柿がなっており、
各家々にも庭に柿の木というのが普通にあり、
道端には、「柿の直売所」が並んでいるのです。

 これで、この句の深みが、
また一段とわかるようになってきたような
気になりました。

 おそらく、柿を食べることが奈良では
きわめて普通のことだったに違いありません。

 ただ、子規は言うまでもなく奈良の人ではなく、
あらかじめ皮をむくためのナイフと柿を
境内に持参してゆくとは考えにくいのです。

 するとやはり、法隆寺を出て、
なんとなく深呼吸でもして、
その思いにふけっているころ、
そう遠くない茶店にでも腰をおろしたところ、
寺の方向から鐘の音が聞こえてきた
というのではないでしょうか。

 諸兄姉の解釈をお聞かせくださり、
私を眠らせてください。