海洋タウンミーティング [2008年10月29日(水)]
「<与那国島・海洋タウンミーティング2008>の
ポスターができました」と
主催する財団法人都市経済研究所の
上妻 毅 常務理事がわざわざお立寄り下さった。
与那国町との共催で、
日本財団の助成事業である。
日本財団にこの春まで在籍した
山田吉彦東海大学准教授を基調講演者に、
電通、中京大学、フリーアナウンサーなどの皆さんと
地元の方々に混じって、
およばずながら私も席を汚す。
11月9日(日)15〜18時、
お近くの方は是非・・・といっても、
日本の最西端、羽田からは、
那覇、石垣島と2回乗り換えねばならない。
日本で2番目に人口の少ない町とはいえ、
この島、戦略的にも非常に重要。
この島に限らず、辺境の島は「日本の宝物」。
ここがしっかりしてくれなくては、
日本が安穏としていられなくなる。
「海に守られてきた日本」ではあったが、
それとともにこれからは「海を守る日本」
でなくてはならない。
与那国からはいっぱい学んできたい。
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Posted by
吹浦 忠正
at 17:14
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ウクライナの歴史と危機 [2008年10月29日(水)]
ウクライナの国旗。
余談ですが、
北海道野航空会社エア・ドゥとそっくりです
どなたか教えてください。
クリミア半島がソ連時代に
ウクライナの領土になったいきさつを。
オスマン・トルコが
18世紀後半のロシアとの戦いに敗れ、
1783年、半島全域がロシアに併合されました。
その後、英仏両国(イタリア統一を目指すサルディニアも
約2千の将兵を派遣)とロシアとの間で
1853年から56年にかけてクリミア戦争が行われました。
貴族である士官レフ・トルストイは
その体験に基づき、『セバストーポリ』を執筆し、
英国側ではフローレンス・ナイチンゲールが、
ロシア側ではヘレーナ・パブロヴィナが
多くの看護婦を率いて、救護にあたりました。
第二次世界大戦(ソ連では大祖国戦争)で
クリミア半島では激戦が行なわれました。
またしてもセヴァストーポリが中心でした。
すなわち、1941年12月17日から1942年7月4日にかけて、
独ソ戦中でも、
レニングラード、スターリングラードと並ぶ
激しい戦闘がクリミア半島で行なわれたのでした。
これに先立って、周辺のドイツ人やユダヤ人は
中央アジアやシベリアに強制移住させられ、
戦後も故郷に帰還を許されたものは少ないと
いわれています。
現に、ハバロフスクの近郊には
今でもユダヤ人の自治共和国があります。
他方、クリミアに残ったタタール人たちは、
1944年、ソ連を裏切りドイツ軍へ協力したとして
これまた、中央アジアに追い払われました。
ウクライナは今の国旗(青空を表わす青と、
麦畑を表わす黄色の横二色旗)が示すように、
穀倉地帯です。
しかし、1930年代のあいつぐ凶作と、
独ソ戦での破壊で、ウクライナの誠司・経済・社会情勢は戦後も、
かなり不安定でした。
モスクワはウクライナと白ロシア(現在のベラルーシ)を
国連の原加盟国として、
形式的に宥和政策を採り、
歴史の教科書は、
1955年、戦勝10周年の機会に、
ウクライナに対する融和策の一環として
クリミア半島をウクライナの領土とすることを
ソ連共産党中央委員会が決定したことになっています。
1991年末、そのソ連が崩壊しました。
クリミア半島はそのまま、
独立したウクライナ共和国の一部となりました。
ウクライナ国内の一部の強硬派は、
1992年5月5日、クリミア半島の独立を宣言しましたが、
結局、クリミア半島は、
ウクライナ共和国内の自治区となり、
ウクライナは今日の形になりました。
ソ連、ついでロシアの黒海艦隊は
2017年までセヴァストーポリの軍港を借用できることに
なっています。
このときが近づくにしたがって、
ウクライナとロシアとの関係、
さらにはNATOとロシアの関係が、
もしかしたら危機的状況になるやも知れません。
その場合ロシアとNATOとの関係は、
今回のグルジア問題よりも決定的で深刻な対立になるでしょう。
さて、私が聞きたいのは、
このクリミア半島がどのようにして
ウクライナのものになったかなのです。
クリミア半島は旧ソ連領内で、
めったに零度以下の気温にはならないという
すばらしい場所です。
私は一度は空路で、もう一度は、
ナポリから、ピラエウス(アテネの外港)、
イスタンブール、ヴァルナ(ブルガリア)、
オデッサ(ウクライナ)を経ての
船旅でした。セヴァストーポリに行ったのです。
もちろん、保養地ヤルタにも行き、
1945年2月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンが
秘かにドイツ敗退後3ヶ月以内の、
ロシアによる対日参戦を決めたサナトリウムも訪問しました。
教科書にも出ている、
3巨頭記念写真を撮影したあのベンチにも座りました。
あそこが、今日の日露関係の起点を作ったところです。
それはともかく、クリミア半島がウクライナ領になったのは、
フルシチョフが、
ウクライナ出身の夫人の誕生日に
これをウクライナにプレゼントしたという話を
時々、聞くのです。
その真偽、どなたかご存じないでしょうか。
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ロシアにとって日中欧米 [2008年10月29日(水)]
北方領土はどういう要件や展開によって返還されうるか。
当面、問題解決がありえない、我慢大会の機運であるこの際、
少し、客観的に考えてみたい。
基本的に、ロシアが日本を
重視しなくてはならなくなった時である。
それは戦略的には、露米関係、露欧関係、露中関係など、
ロシアをめぐる国際環境が厳しくなったときであり、
ロシアが孤立に耐えられなくなった時であろう。
今、ロシアはその前兆にあることは確かだ。
一時、好転していた露米関係ではあったが、
プーチン時代、そして、
プーチン・メドヴェージェフ時代になって、
急速に冷え始めた。
南オセチア、アブハジアを巡って
グルジアをバックアップするアメリカ(NATO)と
ロシアの関係は、対立構造となった。
ここで、日本がどう立ち回るか、
一味違うところをどう出せるか、
思案のしどころである。
露欧関係は、
ウクライナとグルジアのNATO加盟を巡り、
今後さらに難しくなってゆく可能性は高い。
そうした中にあって、
規模を小さくし、時期を遅らせてでも実施した
日露合同「海軍」救命訓練など、
目立たないが評価していい。
日中関係も当然、日露関係に影響する。
シベリアでの自らの人口減と
中国からの人口圧を感じているロシア、
武器市場としての中国(但し、第1級の武器は中国には輸出しない)、
雑貨輸入国としてのロシア、
エネルギーを供給できるロシアは中国と
一応の「戦略的パートナー」ということになってはいるが、
互いに信頼しあう関係ではないし、
今回の2つの“国”の独立を中国は承認できない。
両国の関係は2005年がピークで、
いまは結構厳しくなりつつあるというのが、
一般的な見方だ。
ロシアにとって日本はなんだろう。
大方のロシア人は
日本と日本人をちっぽけな国と見くびっている。
ずるがしこい国という人もいよう。
ロシアの国会議員たちに、
「ロシアの人口を100とすると日本の人口は?」
と聞くと、たいていの人の答えは、
10分の1、20分の1、よくて半分である。
実際は、90%以上といっていい。
どうもそのあたりのことがわかっていない。
日本が、世界屈指の
技術と資本を持ち、
高い市場価値を有し、
市場経済を維持した民主国家であることを、
ロシアの広範な人々に理解させることが、
北方領土問題を解決し、
日露関係をを抜本的に改善する正道だと私は思う。
日本の経営や技術水準の高さを知らせることを含む
広範な広報啓発、
ハイレベルの文化交流、
マンガアニメの浸透、
観光を含む人的交流の拡大・・・
そうしたソフトパワーに日本がどれだけ力を入れるかが、
今後の両国関係を決めてゆく大きな要素になると確信する。
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