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「富士山」、どう読む [2008年10月26日(日)]









 神奈川県の富士急ハイランドには、
FUJIYAMAという名の
ギネス級ジェットコースターがある。
最大速度130km/h、
最大落差70m、
最後部高さ79mなど
まさに「king of coasters」と言われるだけある。

 しかし、私はこの「fujiyama」という、
呼び名が気に入らない。

 ほかにも、
土木設計、レコード販売など
「フジヤマ」という会社もあるようだが、
おそらくは2流の会社に違いない。

日本語で富士山は「ふじさん」としか読まないからだ。

 ところが、なぜか「フジヤマ、ゲイシャ」であり、
かの古橋広之進は、「フジヤマのトビウオ」である。

 古橋を知らない? 
なるほど、ご本人はお元気と聞くが、
もはや歴史上の人物なのか。

 1949(昭和24)年に日本は国際水泳連盟への復帰が
認められ、古橋、橋爪ら6選手が
全米選手権に招待されて参加し、大活躍。
古橋は400m自由形で4分33秒3、
800m自由形で9分33秒5、
1500m自由形で18分19秒0という
いずれも世界新記録を樹立し、
「ロサンゼルスタイムズ」が
「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と
絶賛した。

 敗戦から間もない時機にでかしたこの快挙が
日本人にどれだけ、自信と誇りを回復させたか、
「国民栄誉賞」「文化勲章」なんでも差し上げるべき
という出来事だった。

 しかし、当時から私(在秋田市、8歳)の疑問は、
「なしてフジサンがフジヤマなんだべな?」

 長ずるに従い、
外国人は「フジヤマ」と呼び、
日本人は「ふじさん」と呼ぶことを
知った。

 爾来、きっと、最初に外国に伝えられたころ、
地図にでも書いた「富士山」という文字で名前を知らされ、
こうなったのではないか、と解釈してきた。

 日本人は絶対に
「フジヤマ登山」「フジヤマの5合目」などとは言わない。

「絶対に」だった。

 ところが、冒頭のような、
あまり感心しない例外もあるなとは、
うすうす感じていた。

 ところが、ところが、なんと、第2次長州戦争では
幕府の軍艦「富士山丸」(ふじやままる)が大活躍したことを、
昨夜、知った。

  週刊新潮に野口武彦氏(文芸評論家)が
もう156回も連載している
「幕末バトル・ロワイヤル」の先週号に
以下のように出ているのだ。

 「慶応2(1866)年6月7日、
幕府蒸気艦富士山(ふじやま)丸(木造螺旋、
排水量千トン、長さ約68m、幅10m)が
(僚船とともに)上関方面から近づいてきて
久賀へ十数発の砲撃を加える」とあるのだ。

 野口氏には以前、
同誌の編集長を通じてあることを質問したときに、
大変鄭重にお返事いただいたので、
いまさら、確認の要もないほど信頼できる。

 他の資料によると、
富士山丸は幕府からアメリカに発注され、1864年にNYで竣工した蒸気フリゲートだった。完全な帆走設備も併せ持っていた。

 主として幕府艦隊の練習用蒸気艦として使用され、
1866年の長州戦争ではそれなりの役割を果たし、
6月7日には長州領の大島の占領にあった。

しかし、その戦闘中に
艦上の備砲パーロット砲が破裂して負傷者が出たり、
高杉晋作のオテントサマ号に夜襲反撃をくらったりして、
苦戦した。

結局、大島から幕府軍が撤退することになり、
そのための支援砲撃を行いつつ、
敗兵の収容にあたった。

戊辰戦争では、
負傷した新撰組の近藤 勇を江戸に送ったり
ということもあったが、
海軍副総裁・榎本武揚が、
東京湾で新政府に引き渡した4隻の1つとなったことからして、
それほど有力な艦ではなかったようだ。

有力艦は榎本自身が引き連れ函館に向ったのであった。


 ただ、この軍艦を「ふじやま」と呼んだことが、
あるいは今でも「Fujiyama」という
きっかけになったもとかもしれない。

 どなたか、ほかに富士山を「ふじやま」と呼ぶ
しっかりした例をご存知の方があれば、
ご一報いただきたい。

 ないものと確信しているが、確認したい。

 さもないと、「フジヤマ」と冠した企業に
叱られそうだ。
ムラサキシキブの紫 [2008年10月26日(日)]












































 ごらんの写真は、ムラサキシキブ(学名はCallicarpa japonica
クマツヅラ科の落葉低木)。
今、都内のあちこちで見ることができる。

 もちろん、『源氏物語』の紫式部だが、
ウィキペディアに拠れば、
<この植物にこの名が付けられたのは
もともと「ムラサキシキミ」と呼ばれていたためと思われる。
「シキミ」とは重る実=実がたくさんなるという意味>
だからということだ。

 もちろん花も咲くが、白。
 
 それより、なんと言ってもこの紫に魅かれる。

 明日は奈良県五條市に向う。どんな花に会えるかな。
修身の教科書に敬服E [2008年10月26日(日)]











 戦前の「修身」の教科書の続き。今度は、
中華民国です。

 いまでこそ、この旗は台湾のみになりましたが、
かつては中国大陸に、また、国連安保理常任理事国の国旗として
掲げられたものです。

  ▲∵△∵▲∵△∵▲∵△∵▲∵

中華民国の国旗は赤地の上方一隅を青にし、
その中央に12の光芒ある白日の形を
染抜きたるものなり。

この赤・青・白の3色も
自由・平等・博愛の意を表せるものなりという。

○ ● ○ ● ○ ● ○ ●

もう少し、拙著『世界の国旗』(主婦の友社)で
説明しておきましょう。

台湾(中華民国)
 1906年、辛亥革命を導いた
孫文が考案したとされる〈青天白日満地紅旗〉、
略して〈青天白日旗〉と呼ばれる。

この旗が正式に国旗として制定されたのは1928年。

今でこそ台湾と周辺の島々だけの旗となったが、
日本との戦争の時期を含め、
かつては大陸全土に翻っていたし、
世界で最も知られた国旗のひとつだった。

白い太陽の12の光芒は午前・午後の各12時間を表わし、
たゆみない進歩の精神を表わしている。

青白赤の3色は孫文の唱えた〈三民主義〉、
すなわち、民族の独立(民族主義)、
民権の伸長(民権主義)、民生の安定(民生主義)
を表わし、
赤は民族主義と自由と犠牲を、
青は民権主義と平等と正義を、
白は民生主義と友愛と正直を表わしている。

太陽は公平さ、
12の光芒は十二支を示す。

オリンピックにはChinese-TaipeiのNOC名で、
特別の旗で参加する。
修身の教科書に敬服D [2008年10月26日(日)]



         


 1919年〜1934年のドイツ国旗であり、
 1945年〜現在までのドイツ国旗





  戦前の修身の教科書で、
国旗についてどのように書いているか、
次はドイツ。

 わずかにこれだけ。

   ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ●

フランスの国旗が縦に3色に分ちたるに対して、
黒・赤・金の3色を横に染分けたるものは
ドイツの国旗なり。

○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ●

 この教科書、おそらく
1934(昭和9)年発行のものかと思われる。

あるいは、その段階で、前年政権を獲得したナチスが
ハーケンクロイツ(鉤十字)への国旗変更に関する情報を
入手していたのかもしれない。

 第二次世界大戦に敗れたドイツは、
それまでの「鉤十字(ハーケンクロイツ)」の国旗を
ワイマール共和国時代の黒赤金(黄)の旗にもどした。

帝政時代、ドイツの国旗は黒白赤の横三色旗。

現在の国旗は、1813年、ナポレオンと戦った
プロイセン軍に参加した大学生を含む義勇兵の
“黒服・赤い肩章・金ボタン”に由来している。

ドイツは長らく多数の小邦に分かれていたが、
ナポレオン戦争の後、急速に統一運動が起こり、
その中心はイエナ大学をはじめとする学生たちであった。

1832年5月27日、ババリア憲法発布記念日を祝して、
学生を含む3万の群衆が、この旗を掲げて「ドイツ統一」を叫び、
同領プファルツのハンバッハの古城で祝宴を開いた。

これは、きわめて早い時期のこの旗の使用と伝えられている。

なお、東ドイツの国旗は、
この旗の中央に
労働者の象徴としてのハンマー、
知識人を表すコンパス、
そして両者を麦の穂で囲む紋章をつけたものだった。