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サハリンとの交流E [2008年10月10日(金)]





1855年の日魯通好条約から
1875年の樺太千島交換条約までの20年間












1875年の樺太千島交換条約から、
1905年のポーツマス条約までの30年間












<大>1905年のポーツマス条約から
1945年までの40年間。
以上、国交成立から90年間、北方4島は
平和裏に日本の領土であった。









1945年8月から9月にかけてソ連軍が
北方4島を占拠し、今日に至っている。
なお、サハリンと千島列島は、
1951年のサンフランシスコ講和条約で
敗戦国に本は放棄させられたが、
その帰属先は決定されていないので、
日本の教科書や政府刊行物のみならず、
日本での出版物はほとんどすべて、
当該部分を白くして帰属を明らかにしていない。








 日露両国は、
1991年4月のゴルバチョフ・ソ連大統領の、
そして93年10月のエリツィン大統領の
来日の機会に首脳会談を行い、
両国間の領土問題は
「択捉、国後、色丹、歯舞」の4島であると限定したので、
以後、サハリンや千島に対する公式な返還要求は行なっていない。

 93年の「東京宣言」以降、
日本は対露領土交渉ではまさに、
「正札」しか差し出していないということである。

 なお、得撫(ウルップ)島以北の千島についても
日本はこれを放棄しているので、
日本側はすでに大きく譲歩しているだということを
はっきりお伝えしたい。

 ただ、わが国の国会に議席を有している政党では
日本共産党のみが、
北方4島ではなく全千島を要求しているという事実にも
言及せねばなるまい。     (つづく)
サハリンとの交流D [2008年10月10日(金)]








  帝国書院刊「最新基本地図」より。






 今日なお、いわゆる北方領土問題が未解決のまま、
両国間には平和条約が締結されていないままになっている。

このことが、両国間の「ノドに突き刺さったトゲ」となって
国交が正常かされていない状況が続き、
このため、本格的かつ長期的な経済・技術協力、
外交・安全保障面での連携、
環境保護、感染症予防、貿易、人的・文化的交流など
さまざまな面で両国関係の発展を決定的に阻害している。

これは、両国関係のみならず、
世界で重要な役割を果たしつつある両国の立場や地位に照らして、
世界の平和と発展にとってもまことに残念なことというほかない。

 ご承知のように、日本側は
国内のさまざまな意見を集約し、
択捉、国後両島の返還がなくては
平和条約を締結できないという考え方であり、
ロシア側は1956年の「日ソ共同宣言」で
日本への引き渡しが決まっている
色丹・歯舞両島だけで平和条約を締結したいという考えである。

1993年10月の「東京宣言」で
両国の首脳が約束しあった、解決のための3つの原則、
すなわち、
@ 歴史的法的事実に立脚、
A 両国の間で合意された諸文書、
B 法と正義の原則に基づいて解決を図る
ということを想起していただきたいと思う。

他方、サハリンはサンフランシスコ講和条約で
日本が放棄した地域に該当するとされたが、
国際社会は必ずしも
サハリンや千島をソ連領として認めたわけではなかった。

今でも日本の教科書では北緯50度線以南のサハリンや
得撫島(ウルップ島)以北の千島列島は
どこの国にも帰属が決まっていない言う意味の表示をしている。

このためそうした地図がユジノサハリンスクの税関で
摘発されて没収という騒ぎもごく最近、惹起した。

 ちなみに、「表現の自由」「思想の自由」という
民主主義の基本を尊重する
日本では、各国がいかなる地図を持ち込もうとも、
それが没収されたという事例はない。
                         (つづく)

サハリンとの交流C [2008年10月10日(金)]





   宗谷岬に建つ灯台。ここからはサハリンがよく見える。






 第2次世界大戦の末期、1945年8月9日、
翌46年4月まで有効であった日ソ中立条約を破ったソ連軍の侵攻で
樺太は日ソ両軍の激戦地となった。

 後に真岡(現在のホルムスク)電報電話局の交換手9人が、
侵攻してくるソ連軍を前に服毒して自決した話は、
「氷雪の門」の悲劇として何度か映画にもなり、
全国民の涙を呼んだ、日本中であまりに有名な史実だ。

 日本は8月15日に「ポツダム宣言」を受諾して、
連合軍に降伏した。

 しかし、3日後の18日、サハリンのソ連軍部隊が、
千島最北端の占守島に上陸を企てた。  

 待ち受けた日本軍の精鋭部隊はこれと交戦し、
ソ連軍は大変な苦戦を強いられた。
犠牲者はソ連側のほうが数倍多い。

 日本側の一方的な停戦により、
ソ連軍の部隊は島伝いにどんどん南下し、
「択捉以南にはアメリカ軍が進駐しているか、
してくるのではないか」
と案じつつ、得撫島からいったん引き揚げている。

 当時のソ連側でも、北方4島と千島の間には、
歴史的法的な違いがあることを承知していたのではないかと
推察される。

 戦後、樺太では、朝鮮系の元日本人は
戦争で数千万人もの人命を喪って不足だった
ソ連の労働力を補うため
留め置かれ、
血統的日本人のみ強制的に帰国させられた。

 それでも工場技術者や炭坑関係者など約900人の日本人が
本人の事情やソ連側の求めで残留した。

 日本本土への帰還にあたり、2隻の引揚船が
北海道に向う航路で、「国籍不明」の軍艦による攻撃で撃沈され、
1千名もの犠牲者が出たことも忘れられない。

 戦後、ソ連は長期間サハリンを閉鎖地域とした。

 北海道本島の北端にある稚内の宗谷岬からは
樺太が望見できる。

 それだけに、旧島民をはじめ、
多くの日本人が樺太への渡航を望み、
中には、強く領土要求を掲げる人々もいた。
                           (つづく)

サハリンとの交流B [2008年10月10日(金)]






 1938年、サハリンの国境を越えて
愛人とソ連側に亡命した
当時屈指の人気女優・岡田嘉子














猿払村には日ソ両国の協力で遭難した
インデギルカ号で亡くなった人々への
追悼碑が建っている。洞爺湖サミットの前後に、
メドヴェージフ大統領が訪問することを
ベーリ駐日大使を通じてロシア側に提案したが、
同大統領は洞爺湖以外を訪問せず、
千歳から専用機で帰国した。










     猿払村では警察、消防のみならず、青年団を中心に
    厳寒期でありながらも、
    村を挙げて救援活動と、遺体の収容にあった。







 日露戦争中、樺太は唯一、
ロシア本土で戦闘を行った地となった。

 ポーツマスでの和平交渉を少しでも有利に進めようと、
日本は俄仕立ての師団を派遣、
少数から成る守備隊を圧倒し、
樺太全島を占拠した。

 この戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約により、
北緯50度線以南の樺太の割譲を受け、以北から撤退した。

 その後40年間、南樺太は日本の領土として、
近代的な地域づくりが行なわれた。

 最盛時70万人ぐらいの日本人が
居住していた(現在のロシア人は約50万人強)
といわれている。

 1990年代に駐ロ大使を務めた
丹波実氏も樺太の生まれであるし、
鈴木勲元文化庁長官は大泊(現コルサコフ)中学の
出身である。

この中学校は名門校に数えられ、
中央でも活躍する人材を大いに輩出した。

 日本で有名な詩人である宮沢賢治や北原白秋は
樺太の地を訪れ、
賢治の代表作の1つ『銀河鉄道の夜』は
この、果てしなく続く直線の鉄路からイメージされたといわれ、
また白秋は『フレップ・トリップ』と題する
優れた紀行作品を残している。

 1938(昭和13)年1月、
当時屈指の人気女優・岡田嘉子(1902〜92)が
愛人・杉本良吉とともにこの国境を馬橇で越え、
杉本はスパイ容疑のため、一月ほどで銃殺に処せられたが、
岡田は長い収容所生活を経て、生き延び、
1960年代には日ソ間を往来し、
両国で演劇の指導などにあたった。

 日本におけるスキーの草分け的存在である
猪谷六合雄(くにお)は豊原(現在のユジノサハリンスク)に
スキー場を開き、
その息子・千春は1956年、
コルチナバンペッツォの冬季五輪男子回転競技で
銀メダリストとなり、
現在、IOCの副委員長の要職にある。

 1939年2月、
カムチャツカ方面から沿海州に向うソ連の貨客船が
樺太と北海道の中間地点である猿払村沖で遭難、
村民たちの文字通り献身的な救援活動で756人を救ったが、
596人が亡くなるという事故もあった。
                           (つづく)

小沢政権、年内はなし [2008年10月10日(金)]







         昇る朝日か、沈む日か
       (北方領土付近の海上で撮影)





小沢政権の誕生は?

年内に?

ないと思うな。

今の週刊文春に、
宮川隆義氏(政治広A報センター代表)が
自民党惨敗の選挙予測を立てているが、
これで自民党内は、
むしろ体制の一層の引き締めで選挙対策にあたるのではないか。

自民党と民主党が「210議席の攻防」というが、
有権者もそんなにバカではない。民主党の候補者の中には
前回の自民党同様、どうしてこの人がという人が随分入っている。

 解散権を麻生さんが握っていること、
現に自民党が政府を持っていることの強さは計り知れない。

 民主党は選挙が年を越すと資金的にも、
党内事情も、
小沢さんにとって、ため息という事態になろう。
都心のお祭りA [2008年10月10日(金)]






































   都心らしく、鳥居の上には超近代的なインテリジェント高層ビルが
  覆いかぶさるように建っている。





 東京・虎ノ門の金刀比羅宮は「おかめひょっとこ踊り」。
都心のお祭り@ [2008年10月10日(金)]







































  しばし、写真を堪能されたし。
解散風も、株価大暴落も関係なく、
「わが世の秋」をお笑いください。

 わがユーラシア21研究所(港区虎ノ門、
文部科学省は目と鼻のさき)の真向かいが
金刀比羅宮(ことひらぐう)。

 きょう10月10日は年1回の大祭の日。

 評判の「おかめひょっとこ踊り」を始めて見物した。

 金刀比羅宮の鳥居に覆いかぶさって、
高層オフィスビル・虎ノ門琴平タワーがある。

 この大祭、周辺のオフィスから善男善女(私を含む)、
美男美女(もう一度、私を含む)、老若男女(もちろん・・・)
大勢がでかけて賑わっていた。

 聞けば、この神社、万治3年(1660年)、
讃岐丸亀藩の藩主京極高和が
芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請したことに由来するという、
もう350年もの歴史を有するお宮。

 虎ノ門に遷座したのが延宝7年(1679年)、
丸亀藩江戸藩邸の移転とともに
現在の場所に移設されたのだそうだ。

 金刀比羅宮は東京都選定歴史的建造物に選定されている。

 日本の最先端構造を誇る
虎ノ門琴平タワーが竣工したのが4年前、
盟友・三好秀和くん主宰になる三好国際特許事務所
(スタッフ300人弱、内、博士号保有者30余名)は
その23〜25階にある。

 日本で一番大きな弁理事務所かと思う。

 この神社、都心のど真ん中である立地を活用して(?)
鳥居の上に覆いかぶさるように琴平タワーが建っているのだ。
その非対称なところが、いかにも東京らしい。

「おかめひょっとこ踊り」、お面がいいし、
踊り手のサービス精神もなかなかのもので、
見ていて楽しい。

 秋、都心にも確実に秋が広がっている。

「収穫の秋」「祭りの秋」、そして「食欲の秋」、
一緒に行ったわがスタッフの石川雅子さんが、あんこいっぱいの
たい焼きをご馳走してくれた。来年も行こうっと!
                             (写真のみつづく)
解散は暫時沈静化? [2008年10月10日(金)]


    




  この人の胸三寸にかかっている解散






 衆議院の解散は、
世界恐慌かと思われるほどの金融波瀾を理由に、
暫時、引き伸ばしになりそうだ。

 もちろん、ほかにも

@ 麻生内閣の支持率の伸び悩み
A 各種の調査における公明党当選予測の低さ
B 解散を先延ばしすれば民主党候補が資金不足でもたない、
C 矢野元公明党委員長の国会招致の進みにくい諸事情
D 2次補正案でおいしそうな項目だけ並べたまま
  解散したほうが自民党に優位

などの理由があろうが、少なくとも10月には解散はなさそうだ。
年内に起こるかな? [2008年10月10日(金)]

         

   ”憲政の神様”尾崎行雄像(憲政記念館前)







 年内に以下のことが起こるかな?

@ 衆議院の解散。
A 小沢政権の誕生。
B 株価の復帰。
C マケインの米大統領選挙での勝利。
D 阪神の逆転優勝とクライマックス・シリーズでの中日の優勝
E 名古屋場所での安馬の大関昇進
F もう一人の日本人にノーベル平和賞授与
G 大手出版社やメディアの倒産
H さらなる大型偽装事件の発生や超有名人の逮捕
I 金正日主席の死亡発表
                        (つづく)
サハリンとの交流A [2008年10月10日(金)]




 1年を費やしてサハリンの囚人や労働者の調査
を行なった、アントン・チェーホフの像。ユジノサハリンスクで撮影。












   1890年代のサハリンの囚人労働者たち。
   ユジノサハリンスク郷土博物館で撮影。
 













当時使用された拘束具









    同時代の看守。





 1855年の日魯通交条約で両国は国交を樹立、
周知のように、択捉島までを日本の領土とし、
占守島から得撫島までの千島列島をロシア領に、樺太は全島を両国民の雑居地と決定した。

 その後、ロシアが樺太の開発に力を入れ、
20年後、樺太は榎本武揚駐露公使の尽力により、
平和裏に進められた外交交渉によって、
ロシア領となる代わりに、日本は全千島を領有した。
世に言う「樺太千島交換条約」の締結である。

 1890年、ロシアの文豪チェーホフがサハリン島を訪問している。

 当時サハリン島は主として、
政治犯をはじめとする囚人を収容する島となっており、
囚人たちの生活実態を調べるのが目的で、
チェーホフは肺疫の身を押して、馬車、船、徒歩を用い、
厳冬の季節には橇を使ってサハリンと首都の間を往復している。

 日露戦争中、樺太は唯一、
ロシア本土で戦闘を行った地となった。

 ポーツマスでの和平交渉を少しでも有利に進めようと、
日本は俄仕立ての師団を派遣、
少数から成るロシアの守備隊を圧倒し、
樺太全島を占拠した。

 この戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約により、
北緯50度線以北の占領を放棄し、
南の樺太の割譲を受けた。

 その後40年間、南樺太は日本の領土として、
近代的な地域づくりが行なわれた。

 最盛時70万人ぐらいの日本人が居住していたといわれている。

 現在の丹波実元駐ロ大使も樺太の生まれであるし、
鈴木勲元文化庁長官は大泊(現コルサコフ)中学の出身である。

 この中学校は名門校に数えられ、中央で活躍する人材を大いに輩出した。

 日本で有名な詩人である宮沢賢治や北原白秋は樺太の地を訪れ、
賢治の代表作の1つ『銀河鉄道の夜』はこの、
果てしなく続く直線の鉄路からイメージされたといわれ、
また白秋は『フレップ・トリップ』と題する優れた紀行作品を
残している。
                        (つづく)
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