大東亜戦争の呼称 [2008年10月08日(Wed)]
 去る9月30日、首相官邸で記者団から 過去の戦争観を問われた麻生首相が、 「大東亜戦争」と表現したことが話題になっている。
報道によれば、 「日清、日露(戦争)と、いわゆる 大東亜戦争、第2次世界大戦とは少し種類が違うと思う」と 総理は語ったようだ。
そして「明治憲法以来約120年。日本の歴史として 誇れる歴史もあれば、誇れない歴史もある」 との考えを示したという。
この「大東亜戦争」という呼称は、 1941年12月8日の真珠湾攻撃後、 同年12月10日の大本営政府連絡会議によって決定され、 同12日の閣議で政府が決めた呼称だ。
しかし、敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が 公文書での使用を禁止。これに洗脳された日本人が習い性となり、 教科書では今でも 「太平洋戦争」「第2次世界大戦」の呼び名が 一般的になっている。文科省は検定にあたって 自国政府が閣議で決定したことを覆していいものなのか。
河村官房長官は30日の記者会見で 「首相は吉田茂元総理の薫陶を子どものころから受けており、 教育勅語をそらんじることができる 我々同じ世代の唯一の国会議員だ。
第2次世界大戦を当時の大人たちが 大東亜戦争と表現していた。そういうことかなと思う」 と語った。
総理と私はわずか半年しか違わないが、 「教育勅語をそらんじることができる」なら 同世代では特別変った方、 ないしよく努力された方かもしれない。
私たちは、一般には「教育勅語」から 最も遠ざけられた世代である。河村官房長官は、 私からはさらに1年半ほど遅いお生まれ。 「教育勅語」にはほとんどご縁がなかったであろう。
それはともかく、私は 「過ぎる大戦」(今上陛下の「おことば」で使われる表現)を 「大東亜戦争」というのは、 当時の人々を尊重することであり、 それが具合が悪ければ、 新たに閣議で訂正すればいいと考えるのである。
2年前、私は田中須磨子さんという看護師とともに、 戦時に苦労された方たちの文集から抜粋して 『従軍看護婦たちの大東亜戦争』を祥伝社から刊行した。
櫻井よしこさんからは推薦文までいただいた。
日赤の近衞忠W社長に序文を書いていただいた。
ところで、もし、この題を『従軍看護師たちの太平洋戦争』としたら、 まことにヘンテコリンな表題になっただろう。
当時の人たちは、自分を「従軍看護婦」と呼んでいたのであり、 従軍した戦争は「大東亜戦争」なのである。
この戦争、最も長く戦った相手は中国(支那)である。
太平洋が戦場になったのは1941年12月からの 3年9ヶ月ほどだが、大陸では、 もっと前から戦が行なわれ、 人によっては、「15年戦争」という人がいるほどである。
また、日本は、 「東亜の解放 Liberation of the East Asian Countries」が 戦争目的の少なくともタテマエであったはずだ。
当時も、海軍は大本営政府連絡会議の席上で 「太平洋戦争あるいは対米英戦争等」の呼称案を提出したが 採用されなかった。それは、 「太平洋戦争」では、 「支那事変を含むと理解しにくい」と陸軍が主張したからであった。
敗戦後、 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の 民間情報教育局(CIE)が中心となり、 軍国主義、国家主義などを排除する政策を実施し、 1945年12月15日付けの日本政府に対する覚書 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ 保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」 (「神道指令」)により、「大東亜戦争」など 一連の用語の公文書での使用を禁止した。
私は、「太平洋戦争」という人は、 @ 海軍が負けたのは、主として 太平洋海域において米国海軍に敗れ、 国家が敗戦となったたから、
A 中国大陸において陸軍は負けてはいなったから、
B アメリカのしたことは何でも正しい、 そんな気分の人ではないかと思う。
こういうことはうやむやにしないで、 政府見解をきちんと出すべきだと愚考するがいかが?
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Posted by
吹浦 忠正
at 13:39 |
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北方領土、この13年間 [2008年10月08日(Wed)]
<大 >色丹島から雲上の国後島の爺々岳を臨む。 北方領土には、名勝がたくさんある。1995年11月28日付毎日新聞から。 中央が筆者(択捉島で)。この直前、同行の大島通訳が 「寛永通宝」をひろった。詳しくは、以前、小欄で紹介したので、 省略する。 13年前の1995年11月28日付毎日新聞の記事を 友人がコピーして渡してくれた。私が何度目かの 北方領土訪問をしたときの記事が出ていた。
う〜ん13年、 この間、北方領土をめぐってロシアとはいろいろあった。
私の予測通りのこともあったし、 想定外のことも少なくない。
まず記事を読み直そう。
記事中に出てくる「新樹会」というのは わが師・末次一郎が主宰していた全国的な政策研究実践団体であり、 現在、数十名の衆参両院議員をはじめ、 全国の都道府県知事、市町村長、同議員などの職にあったり、 地域づくり、NGO、経済界などで 活躍している仲間が多数いる。
私は20年余、その事務局長の任にあった。
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◇離島に歯止めかけ しっかりした“親日派”を
「国後島は明らかに根室の経済圏に入った。ビザなし交流の 明らかな成果です」。今年六月、国後、択捉両島を訪問した 北方四島交流推進全国会議の帰港報告会見。団長の 吹浦忠正さん(54)=政策研究団体「新樹会」事務局長、東京都=は、 胸を張った。
二年ぶりの国後島。地区行政府がある島最大の街、 ユジノクリリスク(古釜布)は、砂ぼこりが舞う未舗装道路沿いに、 壁にひびの入った古い団地が軒を連ねる。
そんな老朽化した住宅の窓に、 衛星放送受信の丸いアンテナが突き出していた。
「半分近くの家に普及していた。二年前は見当たらなかったのに」
ホームビジットしたロシア人島民の家のテレビは、 当然のように日本のニュース番組が流れる。
冷蔵庫、ストーブ、乗用車。食卓に出てきたバナナも 根室から買いつけたものだ。
次に訪れた択捉は、衛星放送テレビどころか、 肉や果物、日用品などあらゆる生活必需品が不足だ。
ロシアからの訪問団は帰島の際、四トントラック五、六台分の 家電製品を船に積み込む。
「自分たちの分だけではない。その金をもとに、 再び根室に仕入れに来る」。そんな構図を、 吹浦さんは指摘。
交流に最も積極的で、渡航者の半数以上を占める 国後島の生活水準が高まるのは「当然の理屈」という。
昨年十月の北海道東方沖地震以降、 ロシア本土に移住するロシア人が急増。
「モスクワ政府は何の補償もしてくれない」「日本の物資が なければ、生活は成り立たない」。
吹浦団長の元にも、切実な訴えが相次いだ。
国後、色丹島の人口は今年十月現在一万一千人。
地震前より二千人も減り、流出は続く見通しだ。
“領土返還の雰囲気作り”が外務省の建前論だが、 ビザなしは経済交流の色合いが濃くなった。
根室では「モノでロシア人を釣るのは本来の目的と違う」 という声がある。
だが、吹浦さんは「それなら、島を干しあげてしまえというのか」と、 反論する。
「このまま島が廃虚になったら、ロシアは メンツにかけても返さないだろう」と、吹浦さん。
「必要なのは現島民の生活を側面から支え、 離島に歯止めをかけること。島に、しっかりした “親日派”を作っていけばいい」
根室から最も遠く渡航費用の調達に苦しむ択捉、地震の被害から 立ち直れない色丹、この二島への援助をより厚くすること。
吹浦さんは「三島の生活水準が日本に近づくほど、 返還への環境は整う」と強調する。 ◇ ◇
一九九二年から始まった北方四島とのビザなし交流。
四年間に三十回、二千七百人の相互渡航で、 戦後五十年を経てなお日露両国の綱引きに 振り回される島の現状が浮き彫りになった。
さまざまな立場で参加した人の意見から、 交流のあり方と返還運動の進むべき道を探る。
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まず、「国後島は明らかに根室の経済圏に入った」と 私が胸を張ったのは事実だが、 ここ4,5年の国後島は明らかに顕著な発展を見せている。
「街灯がついた」「舗装道路がある」「港がきれいになった」という声を、 「ビザなし」訪問で現地を訪れた仲間たちが言う。
千島発展計画は確かに動き出している。 5年間で約700億円という予算は大きいが、 200mほどの区間に街灯がつき、 初めて舗装されたといって、 何も大騒ぎすることはない。
「新しく学校が建設された」、 それがどうした、 日本全国津々浦々にもっと立派な校舎が沢山あるじゃないか、 と言いたい。
そんなことで、一喜一憂、 動揺などしてはいけない。
ただ、「根室の経済圏に入った」は少し違う。 確かに、根室まで漁船で出向かなくとも、 中国製や韓国製の雑貨まで、島で手に入る。
それでも、生鮮食料品や中古車などは根室からが便利だ。
また、日本の人道支援で根室に急患が運ばれるケースも ままある。
そして、ロシア人たちが「根室の味」を覚えてしまった。
昨年訪問したとき、ウクライナ出身と言うある島民2世が 私に言った。
「根室を通じ、日本製品がいろいろ入ってきた。 その結果、都会的文化が“南千島”に浸透してきた。 根室の生活が当然と思うようになって来ている。 次にロシア経済が混乱したとき、 今の島民は耐えられなくなるかもしれない」。
「必要なのは現島民の生活を側面から支え、 離島に歯止めをかけること。島に、 しっかりした“親日派”を作っていけばいい」という私の考えは 今も変わっていない。
そして、親日的な雰囲気はどの島でも消えていない。
むしろ、物事を現実的に考える人が増えてきている。
その一例が、島での日本語の普及だ。
確か90年代後半から本格化した、夏季の日本語集中指導だが、 色丹、国後、択捉とも(歯舞は少数の国境警備隊員が 交代で勤務しているのみ)日本語を学ぶ人が増え、 最初は受講生だった人で、 既に教師としてロシア人の指導にあたっている人もいる。
だから、「根室の経済圏に入った」は誤解を招くが、 生活、医療、日本語などを考えると、 「文化圏に近づいた」くらいのことは言えるのではないか。
「ビザなし」交流15年の歴史は、 小さな試みかもしれないが、 着実に日ロ関係に影響を与えてきている。
今週は、約80人のロシア人島民が、 名古屋を訪問する。
またまた驚嘆して帰島するに違いない。
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ノーベル賞受賞の好人物 [2008年10月08日(Wed)]
この頃に考え出した理論で、 今回の受賞。益川敏英京大名誉教授「英語が嫌いだから、外国でのことは全部、 小林くん( )に任せてきたよ」 「海外に行ったことなんてないし、 パスポートも持ったことがない」 「嬉しいかって? ノーベル賞は所詮、社会的事象に 過ぎんからね。われわれが何十年も前に考えたことが、 実験屋に証明されたときのほうが、 心底うれしかったね」。
ノーベル物理学賞の益川敏英京都産業大学教授(68)は、 実に痛快な人柄のようだ。
天下のノーベル賞受賞者に、「好人物」と言っては失礼か、 「科学少年」がそのまま成長したような印象を受けた。
しかも、そんな言い方をしながらも、 今朝のNHKニュースの生中継に出演し、 「南部(陽一郎)先生(シカゴ大学名誉教授)は 若いころから仰ぎ見る存在だった。 その先生と一緒に・・・受賞・・・なんて」といって、 言葉を詰まらせ、眼鏡をはずして溢れる涙をぬぐう。
受賞が決まったお三方の理論については、 片鱗さえも理解できない私だが、 この益川さんという人の実直さ、正直さ、ナイーヴさに、 脱帽した。
わが世代に、こういう人物がいることが感激だ。
益川先生、受賞は次世代にどんなに励みになるかでも 慮って、 12月には、ストックホルムまで、初の海外旅行を お楽しみくださいな。
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Posted by
吹浦 忠正
at 11:06 |
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「大阪の文化」に甘えるな [2008年10月08日(Wed)]
金メダリストの品格に欠ける石井の 柔道から総合格闘技への転向が波紋を呼んでいるが、 これについて、 舞鶴在住の仲間・鷲田マリさんから、 こんなメールをいただいた。
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私も本人に会った事がないので 当たってるかどうか分からないですが 「大阪キャラ」と言うのが今回災いしてる部分もある と思われます。
ウケを狙うと言うか 振られたら面白い事を言わなきゃならない と考えてしまう大阪人の性と言うのがあるんです。
冗談を言ったつもりがマトモにとられたら 悲劇の始まり。
それでも言っちゃうんですね・・・(>_<)
石井も興毅も多分文化の違いに苦しんでいるのでしょう。
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鷲田さん、 そういう目でもこれからは、石井を見たいとは思います。
しかし、 北京五輪の表彰式で国歌「君が代」を歌わない、 金メダルなど川にすててしまいたいなどといっている 現状では、指導者が悪いんでは ないでしょうか、と申し上げたいのです。
それが日本中、世界中で通用するわけではないことを 教えるべきです。
私が「秋田文化」、 秋田のものさしで行動することをコントロールしたことには、 ずいぶんストレスに苦労しました。
しかし、「郷に入ったら・・・」ということも、 人生、大事なマナーなのではないでしょうか。
著しくバランス感覚にかけていては大人ではないのです。
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Posted by
吹浦 忠正
at 07:18 |
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