世界遺産・平泉が落選 [2008年07月07日(Mon)]
毛越寺(もうつうじ)の庭園。2008年4月17日、筆者撮影。 世界遺産への登録を目指していた平泉が今回、 落選した。
「普遍的な価値の証明が不十分」というのが理由だ。
関係者にはお気の毒だが、ユネスコも自分で指定しておいて 世界遺産が増えてきたから、これからは厳しくしようということだ。
富士山、鎌倉、長崎の教会群もすっかりビビってしまったと、 各紙に出ている。
以前にも書いたが、富士山を世界遺産にというみなさん、 ユネスコとはそのくらい身勝手な国際機関だと思うべし。
富士山のほうがユネスコより遥かに有名だし、 もし、商業主義の心がないなら、 「ユネスコごときに審査される必要はない」というくらいの 気概なり、矜持を持ってほしい。
他の候補地もユネスコにへつらうことはない。
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Posted by
吹浦 忠正
at 23:25 |
歴史 |
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サンキョー阿部浩・恭久父子 [2008年07月07日(Mon)]
阿部浩(はるか)氏、追悼会での遺影 サンキョー・グループの創業者である 阿部浩(はるか)会長が逝去され、 7月1日、帝国ホテルで盛大かつしめやかに「偲ぶ会」が行われ、 参上させていただいた。
この方は戦後日本の復興・発展の象徴のような方である。 私はいつかのレセプションでお目にかかりご挨拶しただけで、 もっともっとご指導をいただこうと思った矢先の訃報だった。
まずもって、謹んで哀悼の意を表したい。合掌。
伺うところ、ご出身は四国の松山とのこと。 1926(大正15)年のお生まれ。 終戦の半年前に徳島の通信隊に応召、 敗戦直後、 川口にいた兄に呼び出されて鋳物の卸業を手伝い始めたのが、 実業家としての第一歩だった。
その後、独立して卸し業からさらに製造業へと 業種を拡大、江戸時代から「鋳物の町」として知られ、 近代以降は「キューポラ(溶解炉)のある街」として 「全国区」になった川口発展の一翼を担った。
川口の鋳物はストーブから東京五輪の聖火台まで、 日本人の生活から喜びまでの基礎を演出してきたのである。
私が親しくしているのは1959(昭和34)年生まれの長男・恭久氏。
浩氏が鋳物から高級サウナ、ボーリング場、 そしてパチンコ店と最先端レジャー産業を切り開いて ブームを作ってゆく中で、 恭久氏は硬式テニス部で大活躍しながら、成蹊高校、大学へと 進んでいった。
いつぞや 六本木の豚組みでセガサミーの里見治会長にご馳走になったとき、 恭久氏が、高校時代にオーストラリアのカウラに 留学していたことを聞き、私との間ですっかり話が盛り上がった。
カウラはシドニーから西に330キロほど内陸に入ったところ。 ここで、日本人捕虜が集団脱走を試みるという 「カウラ事件」を起こしている。さまざまな研究書があるが、 私も『聞書き 日本人捕虜』(図書出版社)から20数年前に、 この事件に1章を割いて書いたことがある。
すなわち1944(昭和19)年8月5日深更、 日本兵1104人がオーストラリア軍の監視塔を襲撃、 鉄条網を越え、いっせいに脱走したのであった。
将校は別の場所に隔離されていたので、 しっかりした計画も指導もなかったという評価はやむをえまいが、 それは後世の冷徹すぎる判断だと非難されるかもしれない。
ナイフやスプーンを磨いで作った武器程度で、 監視塔の1つを奪ったが、 守備兵が機関銃の部品ひとつを抜き捨てたため、 その機銃を使用できず、 他の3ヶ所から機銃掃射を浴び、 日本人231人、オーストラリア人4人が亡くなった。
捕虜の中には、事件発生とともに自殺した人も30人近くに及ぶ。
脱走した捕虜たち全員が数日以内に捕縛され、 収容所に戻された。
待遇に問題はなかったが、 捕虜の数が増えすぎて、 下士官と兵を分離して収容することになったのが、 捕虜を屈辱とする日本軍の屈折した心理に影響をあたえ、 こうした事件になってしまった。
この点について論じるのは今日の小欄の趣旨ではないので、 ここまでにする。
しかし、恭久氏にしても、 私の世代で カウラについて一応の知識を持っている人に会うことは そうはないのではなかったのだろう。
おかげで私は現在のカウラ市民の思い、 恭久氏の世代の人たちの関心など、 多くのことをそのときに教えられたのであった。
恭久氏は大学卒業後、竹中工務店で9年活躍し、 その後、父を継ぐべく、サンキョーに入社、 2001(平成13)年に代表取締役社長となった。
その後、サンキョー・グループは、 2004(平成16)年、川口市や市民の協力を得て、 特別養護老人ホーム「春香苑」を完成した。
「春香」の名は「浩」のなの読み方「はるか」に 文字を充てたのだそうだ。恭久氏の研究熱心で、 おそらくは、現在、日本の特養施設では、 指折り数えるほど、ハードもソフトも優れた施設と いえるものになった。
グループは今1000人のスタッフを抱える大所帯となった。
亡き創業者・浩氏の築いた基礎を、 恭久氏はさらに花を開かせ、実をならせてゆくに違いない。
あらためて、日本の戦後復興とその発展に 粉骨砕身ご尽力くださった阿部浩氏の遺徳を称え、 ご冥福とご発展を祈る。再合掌。
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Posted by
吹浦 忠正
at 13:00 |
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