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「宵待草」2番の歌詞 [2008年04月22日(Tue)]




     挿画「夏」は石田良介画伯の特段のご厚意で
   掲載させていただいております。禁無断転載。






「『宵待草」(竹久夢二作詞、多 忠亮作曲。1917年)の
歌詞については、
以前、私が
『歌い継ぎたい日本の歌−愛唱歌とっておきの話』(海竜社)を
上梓したときにも、何人かの方から、ご質問をいただきました。

古いメールの記録を見ましたら、2番の歌詞について、
埼玉県にお住まいの浜田佳世子さん、
富山県にお住まいの宮腰義人さんなどから、
詳しい事情を知りたいと質問メールをいただいていました。

私の知っている範囲で、今一度、お答えさせていただきます。


 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

1938(昭和13)年、『宵待草』の歌をテーマに、
当時人気トップクラスの女優・高峰三枝子の主演で
映画が制作されました。

待てど暮らせど 来ぬ人の
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬそうな

この時の歌詞はこの一番だけ。あまりに短いと言うこともあって、
西條八十が2番を作詞して付け加えましたた。

  更けて河原に 星ひとつ
   宵待草の花が散る
  更けては風も
   泣くそうな

 ところが、この「花が散る」が植物学的に
おかしいということになったのです。

 宵待草(正しくはオオマツヨイグサ)は
散らずにしおれてしまう花なのだそうです。

 このこともあって、以後、この2番は全くといっていいほど
歌われないままなのです。

 今、市販されているCDで
この2番が収録されているのは、
美輪明宏の盤(kicx496)ぐらいです。

 そこで、西條八十はさらに第二節を補筆訂正しました。

  暮れて 河原に
   星一つ
  宵待草の
   花の露
  更けては風も
   泣くそうな

 あなたはどれがお好みですか?

 それともご自分で作詞されてはいかがでしょう。

 ご意見を、ご見解をお待ちします。


「宵待草」の歌詞 [2008年04月22日(Tue)]






「宵待草」の曲について、福岡の山本範蔵さまという方から、
「我が家にある宵待草の歌詞です。誰が作ったのでしょうか」
とのご質問をいただきました。

月が出たなら
開けよと
いうてよこした
この手紙
今宵も月は
出ぬそうな

 私はこの詩は初めて見ました。

 私の邪推でしょうが、雰囲気が少し違うので、
もしかしたら、一番の歌詞の作詞者である竹久夢二ではなく、
別の人ではないでしょうか。

 どなたかせい空くなことをご存知の方、ご教示いただけませんでしょうか。

 また、山本様にお伺いしますが、「我が家にある歌詞」の載っている本はなんという本なのでしょうか。出典を教えてください。
杉山隆建築写真展 [2008年04月22日(Tue)]






池上本門寺御廟所









   平山郁夫美術館










醍醐寺霊宝館









今里 隆先生









 今里隆(杉山隆)建築作品写真展の
オープニング・レセプションにお招きをいただいた。

 今里隆先生は、終戦直後、
東京美術学校(現・東京藝術大學美術学部)建築科に入学され、
かの吉田五十八教授の薫陶を受け、
以後19年師事、独立して40余年、
「一途に近代日本建築のデザインを追究」(ご挨拶状より)
された方。

 ご承知のように、両国国技館、料亭・金田中、
日本美術院、京都南座、醍醐寺霊宝館、
ヴィンセント・ゴルフクラブ・クラブハウス、平山郁夫美術館、
池上本門寺大客殿、成川美術館、
京都竹茂楼、田崎真珠迎賓館「阿古屋荘」といった施設や、
大平正芳下首相邸をはじめとする最高級木造住宅の数々を
設計してこられた。

 レセプションには美術・建築関係の著名な先生方、
メディアの方々、そして、
古川清 元東宮太夫(元駐マレーシア大使)など
100人を超えるお歴々が集まっておられた。

 私には今里先生の義父にあたる故・今里広記日本精工社長
とのご縁により、奥様から声をかけていただいた。

  以前、お邸にお招きを受けたこともあるので、もちろん、
隆先生とも面識はある。お人柄のすばらしさと、
年長者に非礼な表現ではあろうが、
少年のような澄んだ瞳を持つ方だ。

 思えば1960年代後半、
今里広記氏は世間から「財界の大立者」とたたえられていた。

 私は不思議なくらいかわいがられ、
国交回復直後の韓国に何度かお供するなどした。

 今里氏が目をかけていた
服部禮次郎、堤清二、牛尾次朗といった若手経済人も
ご一緒だった。

 経済界に君臨するだけではなく、
高度経済期の日本を引っ張っておられた。

「いや、ベアリング屋だから、
どこの会社とも親しくしなくちゃいかんから
顔が広くなっただけだよ」
と謙遜しておられるお姿から、
多くのものを学ばせていただいた。

「韓国は大事だよ。<近くて遠い国>ではなく
<近くて近い国>にせにゃいかん」。

 折から、この日、ちょうど李明博大統領が
両陛下に拝謁し、福田首相と会談していた。

 隆先生の作品には、
こうして名前を挙げてみると
随分接触する機会があったはずなのだが、
美術にも技術にもオンチな私は、
ただただ感服し、満足し、いいなぁと唸るくらいだった。

 まして、「杉山隆」という名前は知っていても、
不明をはじるが、
「今里家」を継がれていることすら存じあげなかった。

 図録に寄せた永井路子さんの
「日本美へのまなざし」には「今里作品でまず心に響くのは
屋根の姿のやさしさだ」とある。
例えば、本門寺の御廟所では<縄だるみ>という手法で
細やかな曲線を構想されたのだそうだ。

 今里隆建築作品展は、
日曜祭日を除く4月21日(月)から30日(水)まで。

 銀座8−2−8(日航ホテルの向かい)の
吉井画廊(電話:03−3572−5727)にて。

 今里作品と
それを撮したモノクロ写真のすばらしい陰影に、
目の覚める思いがし、やがてうっとりとする。
学生無料かつ優遇 [2008年04月22日(Tue)]










特定非営利活動法人ユーラシア21研究所理事長として
若き学徒たちに、呼びかけます。

当研究所は、日本財団の助成と、
会員のみなさまの参加費によって、
毎月1回以上、虎ノ門フォーラムという講演会を開催しています。

これは、ロシアを中心とする、ユーラシアの諸問題につき、ともに考え、
啓発し合おうという企画です。

最初からそうしているのですが、学生には無料で解放?開放しています。

どうぞ、積極的に参加してください。

なお、すばらしい質問をした学生には、さらに、
当研究所のさまざまな研究会や
夏季の合宿研修にも無料で招待します。

とりあえずは、「第15回虎ノ門フォーラムのご案内」を
研究所のHPから転載します。

 今回は、
当研究所理事の大貫康雄氏(東京財団理事、NHK前欧州総局長)より、
「ヨーロッパから見たロシア」をテーマにお話いただきます。

テーマ: ヨーロッパから見たロシア

と き: 2008年 5月13日(火) 18:00〜19:30 (開場17:30)

ところ: 海洋船舶ビル10階
          (港区虎ノ門1-15-16 Tel: 03-3500-1215)
     
聴講料:一般                        2,000円
     学生 (学生証をご持参ください)           無料

*人数の把握のため、
ご参加いただける方は「ご芳名、ご連絡先、所属等」を、
MailまたはFaxにてお知らせください。
ご連絡を頂戴した時点で受付完了とさせていただき、
ご返信はいたしませんのでご了承ください。

 虎ノ門フォーラム事務局
   Mail: t-forum@eri-21.or.jp / Fax: 03-3500-0215

今後のご案内が不要の方は、お手数ですが事務局までご一報ください。
宵待草は白? ピンク? [2008年04月22日(Tue)]



























川崎市にお住まいの田上征子さんという方から、
携帯電話で撮影したかと思われる写真とともに、
こんなメ−ルが来ました。

私の名前も古臭いですが、お名前から想像して、
同じ世代の「妙齢の美女」かと拝察いたします。
世代が違っていたらお目こぼしを。

竹久夢二が見た花はどっちかとのことですが、
浅学菲才の私にはとうてい判りかねます。

どなたかお知恵を貸してください。

 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

すばらしい桜の写真を拝見しました。
私は長野県高遠から川崎市に嫁ぎましたが、
あちらの桜もご覧になられましたか?

ところで、先日、
月見草が咲きました。

 本当に白いでしょ。
 夕方から深夜にかけて咲いています。

 ところがこの後、花の色が変わります。

翌日の朝、白い花はピンク色に変わっているのです。

 ですから、早寝の人は、
朝に見てピンクの花だと間違えるのです(笑)

 狭いながらも我が家の庭には月見草があります。

20年前に、幻の月見草といわれ
一本植えられた鉢を頂いたものです。

 それから増やし、友人たちに分けて、
今はあちこちに広がっています。

「宵待草」の詩をを書いた竹久夢二は、
黄色いオオマツヨイグサを見て作詞したのかな、
それともこの白い月見草を見てなのかなと
何時も考えてしまいます。

 博識の吹浦先生はどっちだと思われますか?

 神秘的でステキな花ですよ。

 今日は主人が戻る前に、家中を閉め切って、
柄にもなく、
久々に「宵待草」でも歌ってみようかな。
世界に冠たる看護教育を [2008年04月22日(Tue)]









「日赤医療センターを日赤看護大学に」と今朝ほど書きましたところ、
私が尊敬する札幌在住のジャーナリストY氏から
こんなメールがきました。

 みなさまもどうぞコメントをお寄せください。

 いっぱい集まったところで、
畏友・近衞忠W日赤社長に持ち込みます。

私の願いは「世界に冠たる日赤」になってほしいこと。

そして「世界に冠たる日赤の看護教育」に期待することです。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

世界最初というだけでも価値大ありですが
医師は病気を診れても、病人を診るのは
看護師の方がすぐれている、とは、
わが地の畏友、札幌医科大学学長の今井氏が発した言葉。

どちらも不可欠な存在ですが
実父が昨日、手術をした前後の見舞いなどから
看護大学の付属病院というだけでも
入院したくなる言葉の響きです。

実父の見舞いなどでの娘や家族の動き
などにも感謝していますが、手術経過を
待つ間に読んでいた売れっ子哲学者の
文庫本にこんな行がありました。

‥‥夫に変わらぬ敬意と愛情を抱いて
いる妻などというものはもうほとんど
「絶滅寸前種」であり、既婚者の5%にも
満たないであろう。95%の妻は夫に
飽きているか失望しているか憎んでいるか
忘れているかのいずれかである。‥‥

柳瀬様は5%に分類される方と確信して
おりますが、当方は上記の行を
拳拳服膺しつつ家族に感謝することにしました。
赤十字(24) [2008年04月22日(Tue)]





 伊予八幡神社の絵馬<。同神社提供







  ICRC(赤十字国際委員会)に掲示されている絵。
   朝倉恵里子さん提供。












   松山市内の露人墓地


     
松山の西に伊予市というところがあり、
そこに伊豫岡八幡神社というのがあります。

そこに、日露戦争の時、
赤十字の腕章を付けた日本軍の衛生兵が、
敵味方の区別なく救護している様子を描いた絵馬があります。

伊予市指定文化財になっており、
1990年代にはでもG.コマロフスキー大阪総領事が
視察に行ったりもしています。
 
 同じような絵馬が、ジュネーブのICRC(赤十字国際委員会)に
掲げられていることを最近、
翻訳家の朝倉恵里子さんが教えてくれました。

そのように戦場でも、
当時の日本軍は敵味方の区別なく救護するのだということが
よく指導されておりました。

 日露戦争時の捕虜の話については、
拙著『捕虜の文明史』(新潮選書)と
『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)に
譲りますが、捕虜の救援・救護について、
日本は日清、日露両戦役、
そして青島で戦った第1次世界大戦、
そのいずれでも実に手厚くやっています。

例外がないとは決して申しませんが、
これは世界で十分誇るに足るほどの
捕虜の取り扱いをやっていたといえると思います。
その事跡がうまく伝わっていないのが残念です。
 
日露戦争のときは全国の29ヵ所に捕虜収容所をつくり、
どこでも同じように捕虜の取扱を手厚く行なっています。
いちばん捕虜の数の多かったのが松山の収容所です。
 
私は何度も松山に行き、墓地に参拝しました。

また、北方領土に住んでいるロシア人約70名を
「ビザなし交流」で案内したこともあります。

日本がいかにロシア人の捕虜について
きちんとやってかということを見せる意味は
大いにあると考えています。

墓地が非常にきれいに清掃されて、
それをずっと地元の中学生たちが
受け持っているという様子を
見せようとしても、
松山の中には
それさえも恐る恐るという人がいるのが
残念です。

戦争に関係することは一切
やめてもらいたいというのです。

どこか取り違えしているんじゃないかと思うのですが、
そんな珍妙なことが今の日本の社会では
多すぎるように思います。

「昨日の敵は今日の友」と歌われた精神は、
世界共通の価値観として、大事にしたいものです。

小欄では、昨年、日露戦争におけるロシア人捕虜の様子について
、『捕虜たちの日露戦争』をベースに連載しましたが、
近いうち、同じ戦争での日本人捕虜についても
小欄で連載したいと考えています。
看護大学付属病院に [2008年04月22日(Tue)]




  日赤医療センターHPより







  濱田悦子日赤看護大学学長





日本赤十字看護大学は1986年(昭和61年)に、日本で10番目の4年制看護大学として開学したものだが、1890年(明治23年)の日本赤十字社による看護婦養成開始を淵源とし、120年近い歴史と伝統を有している。

 もちろん、赤十字の理念に基づいての看護学教育を実施することが根本である。赤十字の理念の第1にして最大のものは「人道humanity」。負傷者は敵味方の区別なく、救護すると言うのが理念の濫觴である。

濱田学長によれば「この理念は、看護においては、貧富、国籍、民族、宗教、社会的地位にかかわらず、その人のもつ苦痛や苦悩とともにたたかい、保護し、援助し、自力で快復できるようになるために、その人の価値観を大切にして、その人のかたわらで手をさしのべるということになります。この理念をあえて看護学の言葉であらわすと<ケアリング>となります」(同大学HPの学長挨拶より)。

この理念を臨床の場で実現できる看護師を育成しつつ、そして国際的にも活躍できる人を育てることを責務として、研究と教育を行っている大学なのである。

私は、日本赤十字社は同じ構内にある日赤医療センターを日赤看護大学付属病院とすべきであると考えます。この大学は、渋谷区と武蔵野市に校舎を持ち、隣接して、同医療センターと日赤武蔵野病院がある。

これを看護大学の付属病院としてこそ、日赤の看護教育の意義がいっそう高まるという問題のである。

まして、2,3ヶ月前に聞いた噂話に過ぎないが、看護大学の次の学長のポストを日赤病院出身の医師が自薦他薦で名を挙げているとか。

そんなバカなことはないよと、そのときは返事をして、忘れていた。昨日、同大学の島村忠義くんの訃報に接し、ふとその後のことが気になった。

さすがに濱田学長に訊くわけにもゆかず、さりとて、、いかに親しいとはいえ、人事については、近衞忠W日赤社長にいうことでもなし、「小欄という天」に向って私見を述べた次第である。

日赤看護大学はいうまでもなく私学。私学がそれぞれにすばらしい特徴を発揮してこそ存在意義がある。おそらくは世界最初の看護大学付属病院になるであろう、私案を、関係者は是非、前向きに検討してほしいものだ。
健康のありがたさ [2008年04月22日(Tue)]





   島村忠義先生  





 日本赤十字看護大学の濱田悦子学長からお電話をいただいた。

同世代の赤十字人として、若いころから私を啓発してくれた人である。懐かしさのあまり、二人で回顧談などをしていたら、突然、「実は・・・」と、島村忠義先生の逝去をお知らせするのが用件であることがわかった。

島村君は、今や社会福祉分野で泰斗とされている高橋重宏東洋大学常務理事の紹介で私が推薦し、日赤の教育部門に加わってもらった社会学者。享年63歳。多臓器不全と病名が書かれたファックスも来た。

私は長らく、島村君と研究室がとなりどうしだった。「生来のネアカ」(要するにバカということ)ゆえ、大声であちこちと電話で話しては、防音不十分の壁を超えてお騒がせする毎日だった私とは違って、終日、こつこつと勉強する学究の徒であった。若き死を悼む。
             合掌。

19日に亡くなられ、昨日が通夜、きょうが告別式とのことだが、あいにく私が発表しなくてはならない研究会があり、参列できない。ご遺族の悲しみはいかばかりかと思いつつ、とりあえず弔電を送らせていただいた。    再合掌。

声だけ聴けば、お互いに青年気取り? しかし、なにやらはまだ学長は健康不安を抱えている様子。「生来のネアカ」に加えて、「バカは風邪引かない」が、最近では「バカはガンにならない」との言いかえを信奉して、「孤独(孤高?)の健康」を保っている私である。

神に感謝。両親に感謝。(不当に酒を強要しない)仲間に感謝、そして家族に感謝(あやうく忘れるところだった。あぶない、危ない。反省,、反省、また反省)。
赤十字(23) [2008年04月22日(Tue)]




森 鷗外(森 林太郎)




森 鷗外(森 林太郎)も
ジュネーブ条約の研究と普及に尽力しました。

明治32年、1899年のことです。

森 林太郎が『偕行社記事』2月号に
「赤十字条約ナラビニ其略評」という論文を書いています。

これは本格的な学術論文であり、
当時の、すなわち,
1864年の10ヵ条のジュネーブ条約について、
1ヵ条ずつ解説を書いています。

この年は、ハーグで第1回目の万国平和会議が
開かれた年であることを想起したいと思います。

この会議で「陸戦法規」ができ、
戦争を人道と武士道(騎士道)の精神に則り、
包括的に規制することが論議され、
ジュネーブ条約は海戦にも及ぶことが
決められたのです。

鴎外はその後、日露戦争において、
ジュネーブ条約を遵守することを
第一線の救護現場で自ら実施し、
さらに、後に、陸軍軍医局長となってからは、
医療要員にこの条約の学習を義務づけたのでした。
 
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