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ロシアにも内部事情が [2008年04月18日(Fri)]









 ユーラシア21研究所が
安全保障問題研究会との共同作業で刊行した
『ロシアへの反論』(自由国民社、1600円)という
「名著」があります。

 8年前、日本語とロシア語で作成したものに、
3年ほど前、ロシア側がロシア語と日本語で反論してきました。

 それに対して、
今年の初めにわがほうが再反論を日本語で出版、
これが『ロシアへの反論』なのです。

 2月初旬に開催したユーラシア21研究所の
「虎ノ門フォーラム」でみなさまにご披露したところ、
出席していたロシア大使館員のA氏がその場で買い求め、
以後、私はロシア側から連絡が来るのを待っていました。

 4月11日(金)、当研究所の理事懇談会をしているさなかに
大使館のサプリン氏から電話。

「フキウラさん、大事な本が出ているようですね。
大使館では知りませんでした。至急5冊ほしいんですが」。

 14日(月)の昼前、他の用事もあったので、
私が大使館におもむき、5冊渡してきました。

 このサプリン氏の父親は、
ロシア外務省アジア局次長。
同国外務省の「ジャパンスクール」の現役トップです。

 しかも、何を隠そう、
そのオヤジさんこそ、
前回、われわれの本に反論を書いた張本人なのです。

 著者名は、V.V.アラージンとなっているのですが、
産経新聞の内藤泰郎モスクワ支局長が
この人を探して面会を求めたところ、
あっさりと
「自分が書いたのは<はしがき>だけ。
あとはぜ〜んぶ、サプリン次長です」とドロをはいた。

 内容からして相当の日本通でなければ書けない内容ですから、
認めざるを得なかったのでしょう。

 その後、なんどかサプリン次長本人にも会う機会がありましたので、
「もう少しうまくやったら」と“皮肉”も言っておきました。

 要は、大使館内の複雑な「人脈」で、
この「名著」がしかと回覧されていなかったようです。

 いまごろはモスクワに送ったり、分析したり、
きっとご愛読いただいていることかと思うと「光栄」です。

 当研究所では、なけなしの予算から今、
これをロシア語に翻訳し、とりあえずは、
ユーラシア21研究所のロシア語のホームペイジで、
また、資金ができれば、前回同様、モスクワで出版したいと念じています。

 嗚呼、「お国のために」やっているのに500万円の資金がない。
「お金がほしい」と天を仰いで長嘆息している毎日です。
婦人従軍歌 [2008年04月18日(Fri)]








『婦人従軍歌』(加藤義清作詞、奥好義作曲)について早速、青森県三沢市の方から、歌詞の問い合わせがありました。「ネットでみてもどうも怪しい」と書いてありますので、ここに正しい歌詞を書き記します。

加藤が、新橋駅を出発して広島に向おうとする看護婦さんたちをみて、一気に書き上げた詩と伝わっています。

私と田中須磨子さんという看護婦さん(当時・日赤中央女子短大専任講師)とで編集し、アンリーデュナン・教育研究所(橋本祐子主幹)から刊行した『ほづつのあとに』という従軍看護婦文集(「正」「続」「続々」「写真集」。写真集のみメヂカルフレンド社)がありますが、その表題は、この歌詞の冒頭の歌詞から採ったものです。

一昨年、祥伝社からその再編版『従軍看護婦たちの大東亜戦争』を上梓しました。

  *****************************************

火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 
あとには虫も声たてず
吹きたつ風は生臭く 
くれない染めし草の色

わきて凄きは敵味方 
帽子飛び去り袖ちぎれ
斃れし人の顔色は  
野辺の草葉にさも似たり

やがて十字の旗を立て 
天幕(テント)をさしてにない行く
天幕に待つは日の本の 
仁と愛とに富む婦人

真白に細き手をのべて 
流るる血潮洗い去り
まくや繃帯白妙の 
衣の袖はあけに染み

味方の兵の上のみか 
言も通わぬ敵(あた)までも
いとねんごろに看護する 
心の色は赤十字

あな勇ましや文明の 
母という名を負い持ちて
いとねんごろに看護する 
心の色は赤十字
北方領土講演録C [2008年04月18日(Fri)]









ロシア(ソ連)にはこれまで100回は行っているかと思います。

私が最初にソ連に行ったのは1968(昭和43)年でした。

その当時、ソ連は日本の65倍の広さでした。

今、ソ連が崩壊してそれでも40倍の広さがある国なのです。なので、あちこちで領土問題を抱えていたわけで、日本との間に領土問題があることを知らない人がほとんどでした。

1973年、日ソ専門家会議を開催しようとソ連側から話がもちかけられました。

わが師・末次一郎が「アジアの平和―京都会議」を開催しようとしたときに、トリヤノフスキー駐日ソ連大使から「ソ連はアジアの国でもある。参加させよ」と言ってきたのです。

今でこそ、日本の後押しでロシアはASEANにも加盟し、再来年はウラジオストクでその首脳会議が開催されるまでになりましたが、当時は、「ソ連がアジア?」と誰しもがいぶかりました。

そこで、私たちは「もう13カ国に招聘状を出してしまいました。体制の異なる国をにわかに加えることは混乱を招きます」と、体よく断ったのです。

すると、「それではマルチ(多国間会議)ではなく、バイ(日ソ2カ国)でやりましょう」と呼びかけてきましたので、「それでは」と応じたものでした。

2001年に末次が亡くなるまでは隔年に、その後は、少々ムリをして毎年開催しています。通算26回目にもなりました。

最初のころは、専門家会議といえるようなものではありませんでした。北方領土の問題を出すと、そんなものは解決済みだといってくるので、怒鳴り合いになり、テーブルをたたいたり、ものを投げたりというのは当たり前でした。

しかし、「いつ、どのようにして解決したのか」と迫ると次第に向こうは口をつむぐしかなくなりました。70年代の終わりには「領土問題はない」という言い方に換えてきました。

1991年4月、ゴルバチョフ大統領が来日して、領土問題は4つの島の帰属の問題であることを共同声明で明記するに至ったのです。
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