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単冠湾から真珠湾へA [2008年03月19日(Wed)]





単冠湾。写真は2007年9月に著者撮影。




単冠湾に初の公式訪問

 2007(平成19)年9月1日、私は戦後、日本人としては初めて、公式に択捉島の単冠湾を訪問した。いうまでもなく、真珠湾に向かう連合艦隊が集結したところだ。
「公式に」というのは、それ以前に、井出孫六氏ほか数人が、政府の「閣議決定」を無視し、ロシアのビザを取得した上で、つまり、択捉島をロシアの領土であるということを認めた形で、訪れたことがあるからだ。

 北方領土(択捉、国後、色丹の各島と歯舞群島)との行き来は、4島住民と日本人との間に相互に旅券・査証なしに訪問できることになっている。

 これは、1991年4月にソ連のゴルバチョフ大統領が同国初の国家元首の来日し、時の海部俊樹首相との会談でソ連側から提案された訪問の枠組みである。同年11月、双方の外相による交換公文によって、正式にこのシステムができた。

 旅券・査証なしということは、帰属が未定であることを双方が認め合っているということであり、毎年の協議によって、具体的な交流の日程や回数が決定される。

 4島を訪問するには、このほか旧島民による自由訪問(墓所にのみ参拝に行ける制度)や特定の共同学術調査に参加する枠組みがあるだけである。

 私は「北方4島交流推進全国会議」の副会長として1993年の第1回訪問のときから、北海道中部沖地震のときの救援活動を含めて、10回近く訪問している。しかし、私どもは最初から天寧(てんねい)をはじめとする単冠湾周辺を訪問したいという希望を出していたが、ロシア側はさまざまな理由を挙げて、事実上、同地区への立ち入りを認めなかった。

 今回は、北方領土返還要求運動連絡協議会の児玉泰子事務局長の並々ならぬ粘り腰で、ついに実現することができたのだった。

 択捉島へは根室港から500トン足らずのロサ・ルゴサ(はまなす)号で約5時間、国後島の中心地となっている古釜布(ふるかまっぷ)まで行く。ここで、検疫・税関など入域手続きを済ませ、視察や交流などを行なった後、国後水道を通って択捉島のオホーツク海に抜ける。そして内岡(なよか)の港で上陸する。古釜布からは約12時間かかる。

 内岡港では沈船を活用して防波堤が構築されていたり、ギドロストロイ社の水産加工場があったりで活気がある。中国や北朝鮮からも労働者が来ているとのことだが、直接顔を合わせることはなかった。

 内岡からはトラックの荷台に座席をつけたバスで7,8分の紗那(しゃな)に着く。紗那には水産加工と土木建築を生業とするギドロストロイ社の本社があり、IT完備の近代的な事務棟のほか、各種スポーツ施設、倉庫などが立ち並んでいる。

 ドーム式の温水プールがあったり、さまざまなスポーツを楽しめる屋内練習場もある。かつての共産党地区委員会は芸術劇場となり、小さいとはいえ、週5日刊という地元紙「赤い灯台(クラースナヤ・マリヤーク)」も発行されている。  (つづく)
単冠湾から真珠湾へ@ [2008年03月19日(Wed)]








  海軍・海上自衛隊OB、海上自衛隊現役隊員を中心とする伝統ある財団法人水交会の奇数月刊行誌「水交」(平成20年3・4月合併号)に拙稿「単冠湾。新高山、真珠湾」が掲載されました。

 2月25日に送られてきました。関係された皆様に感謝します。

 小欄の読者には既にご報告した内容が多いですが、専門的な知識と体験を持つ編集者の目でブラシュアップしていただいた部分もありますので、ここに連載させていただきます。

 また、数行ですが、紙面の都合?で削除された部分もありますので、その部分は補筆させていただきました。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 単冠湾、新高山、真珠湾、と言ってももう、多くの人、特に若い人たちには忘れられた存在なのかもしれない。実際、16年前、都内の某有名女子大で講演した時、「真珠湾ってどこにあるか」と尋ねたら、しばらく考えて「三重県です」との答え。そのまま帰宅しなかった自分をしばし悔やんだ。

 また、昨年は、ある若い国会議員が日本とアメリカが戦争をしたことを知らなかった場面に出くわして唖然とし、その話をある音楽会の打ち上げの場で話したら、肝腎のピアニスト(20代真ん中)がこれを知らず、私のほうがパニックしたことがあった。

 これでは、この3つの地名が直接、結びつくキーワードであるということには思いも及ぶまい。あるいは、存外、年配の方々にとっても、失念されてしまっているのかもしれない。

 今や、連合艦隊が択捉(えとろふ)島の単冠湾に集結して、ハワイに向かい、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まったという史実は、世間の常識ではなくなってきているのであろうか。

 そう思いつつ、また、それではならじと思いつつ、この3つを立て続けに周ってきた者として、若干のご報告を申し上げたい。  (つづく)
赤十字 F [2008年03月19日(Wed)]








 こういう経過と標章の種類についてお話しますと、ややこしくて大変です。これが赤十字のいちばん深刻な悩みです。

 私は、宗教というものの難しさとともに、マークの名前が組織の名前になったから、変えられないということもあろうかと思います。

 オリンピックはオリンピックという名前で五輪のマークですから、変えようと思えば五輪を変えることはそんなに難しくないだろうと思います。

 しかし、赤十字はマークの名前が団体の名前というのですから、マークの変更は、組織の名称の変更とイコールであり、それだけ難しいわけです。

 2004年のジュネーブ条約第3追加議定書で、今日認められているマークは、赤十字と赤新月、そして赤クリスタルの3つです。

 明治10年の西南の役の時にできた博愛社は、10年経って、日本赤十字社となりました。

 赤獅子太陽は、1979年、パーレビ国王が倒されたときに消え、ホメイニの指導するイランは新しい独自のマークをと努力しましたが、国際赤十字としては、多様なマークを統一して行く方針をゆずらず、結局、赤新月で妥協しました。

 イスラエルは「ダビデの赤楯(ユダヤのマークを赤くしたもの)」をズット続けてきましたが、それゆえに国際赤十字の正式メンバーには入れないでいました。いつまでたってもオブザーバーの資格だけでした。

 しかし、イスラエルとしては、大変な努力を重ね、国際赤十字との協議を繰り返して、独自の赤クリスタルという妥協の産物のような標章で加盟できたのです。

 その間、すべてのマークを統一しようという動きや案もいろいろ出されておりました。

 たとえばギリシャ神話にある「蛇が杖に巻きついていて、そこに羽がついているもの」です。

 これはヨーロッパでは古くから医療のマークといわれてきたものですが、これがいいと言いましたら、これもまたイスラム圏が、ギリシャ神話の「神」が気に食わない。

 アッラーのほかには神がないんだからというので、だめになりました。

 その次に出てきたのは赤いハートRed Heartです。

 これでは日本が困ります。遠くから見ると、「日の丸」といっしょだからです。

 旗というのは常にピンと開いているとは限らないわけですから、だらんと垂れますと、全く区別がつきません。

 それで折衷案で、真ん中が白くて、縁だけが赤い、こういうのはどうだろうというのをエチオピアが提案したのですが、提案したエチオピアの帝政が壊れて以来、エチオピアもこれをあまり推さなくなった。

 以上の経緯からして、赤い菱形で中が白抜きという、赤クリスタルは、私は「日の丸」の中を白く抜いたものを菱形にしたと見ています。

 結局、今もってばらばらというのは今日の赤十字の一番辛いところ、泣き所となっているのです。

 ですから、中東の戦場ではレバノンやパレスチナは赤十字、シリアは赤新月、イスラエルは赤クリスタルというややこしい標章で、実は、同じ組織が活動するということになっているのです。
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