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衞藤瀋吉先生を偲ぶ会 [2008年03月01日(Sat)]






北方領土返還要求運動でも衞藤瀋吉先生(左)は
大きな役割を果たされた。中央は末次一郎、右は、
佐瀬昌盛防衛大学校教授(当時)。
 1970年代後半、根室の納沙布岬で私が撮影した。






  昨年12月18日に昇天された「衞藤瀋吉先生を偲ぶ会」が3月1日、午前11時30分から、東京・神田の学士会館で開かれました。

  先生は昨年12月18日に昇天されたのですが、「みなさまの集まりやすい頃に」という奥様の思いもあって、ようやくきょうの開催になったようです。

  300席の会場に450人が参列したとかで、超満員。

  開閉会の挨拶をのぞき9人が弔辞、それに故人の愛唱歌として賛美歌510番が献唱され、中国やアメリカからの長文の弔電や感謝のメッセージの披露があり、さらに昨年11月に開催された国際シンポジウム「清末・中華民国初期の日中関係史」の冒頭で、入院先から駆けつけた衞藤先生が挨拶したDVDの上映、ご長男・光氏のご挨拶、これだけで2時間を優に超えました。

  配布された式次第を見ただけで、これは長丁場だぞとは思いましたが、その間、皆様のお話があまりにすばらしくて、感動の連続でした。衞藤瀋吉先生のことですから、実行委員会がその気になれば、各界の名士がずらりと並んで弔辞を読むのでしょうが、実際には、登場した人は弟子が大部分、ほんの少し友人がいたというくらいでした。

  まず、弟子である青山学院の高木誠一郎教授が、中国からの学位をお渡しするためとかで、死の床にあった衞藤先生に最後に会った弟子として、「先生と接点を得たことの幸せ」について述べ、その幸せを多くの仲間と共有した豊かな時に感謝している」と述べました。

  つづく9人は、
   岡部達味東京都立大学名誉教授、
   瀧川叡一元亜細亜大学教授(旧制一校同級生)
   中村隆英(たかふさ)東京大学名誉教授
   平川祐弘(すけひろ)同 上
   許 淑真(摂南大学名誉教授)
   平野和春(1981年卒業生)
   塩見泰子(やすこ、青山学院国際政経学部1987年卒業生、
         航空自衛隊部隊長)
   野口 健(亜細亜大学1999年卒業、登山家)
   平野健一郎(早稲田大学教授)。

  現代中国政治の大家である岡部先生は1956年からの弟子であり、「同僚待遇でもあった」と懐旧談を語り、

  瀧川先生は、裁判官を定年で辞めるとき、当時、衞藤くんが学長をしている亜細亜大学に招いてくれた」と友情に厚い人柄を紹介しました。

 中村先生は「統計学者であった自分に、昭和経済史をやれと新たな方向付けをしてくれた」、

  平川先生は「比較文学をするなら外国語を2つ以上しっかりマスターせよと学問への取り組み態度を教えてくれた」、

  台湾からの元留学生である許先生は「衞藤先生のおかげで日本のたくさんの知性に会えた」、

  平野和春氏は「パールバックの『大地』をしっかり読めといわれたこと、東大を退官されたときのパーティで衞藤先生が奥様に感謝するといって号泣されたことを思い浮かべる」、

  塩見さんは「自衛隊に行くと言った時、家族も友人も猛反対でしたが、衞藤先生がただ一人、祝福してくれたので、今も続けていられる。三沢基地の部隊長の時にはお越しいただけなかったが、今度、部隊長になったら必ず行くとおっしゃってくれた」、

  西表島からのビデオではあったが、野口氏は、「衞藤先生が始めた一芸一能制度で自分は亜細亜大学に学べた。学生時代、南極の最高峰に登ろうと資金集めをしたが、必要な600万円に200万円不足して困っていたとき、偶然、キャンパスで衞藤学長に声をかけられ、オマエは200万円で夢を諦めるのかと一喝され、その足で学長室に呼ばれ、個人的にそのお金を寄付してくれた」
と述べるなど、それぞれが、自分の人生にとって、衞藤先生との出会いが如何に決定的なものであったかを、率直に話されていました。

  最後に立った平野健一郎先生は、自他共に許す、衞藤先生の筆頭の弟子。東大教授の時の助教授であり、研究室も隣にさせ、文字通り、手塩にかけて育てられたという師弟関係の人です。

  11巻に及ぶ最晩年に刊行された『衞藤瀋吉全集』の企画・編集も、この人なかりせば、というご尽力でした。

「1956年以来、ご指導いただいて来ました。先生が、戦勝者であるアメリカと対等になるには学問の分野しかないと考え、その道に進んだと言われたことが常に頭にあります。衞藤先生は、国士で国際派の学者です。横文字を縦にするだけではだめだ。欧米の引用は極力避けよと指導され、世界に通用する道を独自に拓かれた」と述べ、「仲間とともにその志を継ぐ」ことを明言され、感動を呼びました。

  私は1968年に末次が「アジアの平和」日米京都会議を開催し、アメリカ側とともに「核抜き、本土並み、72年返還」という共同声明をまとめた会議のころから面識をいただき、73年には国際赤十字の駐在代表としてサイゴンにいた私に声をかけてくださり、以後、末次の主宰する安全保障問題研究会の委員と事務局長という関係で、ご指導をいただきました。ソ連、ロシアにも何度かご一緒させていただきました。

  最後に遺影に献花するとき、衞藤先生の奥様にご挨拶をしました。奥様はYWCAなどでも活躍された方です。

「長い間、いろいろご指導いただき、本当にありがとうございました」と
申し上げました。

 そしたら、驚いたことに、
「吹浦さん、衞藤が亡くなってすぐ、あなたは長文をブログに載せ、追悼してくださいましたね。ありがとうございます」と言葉が返ってきたのです。

  思い出は尽きません。自宅が近かったこともあり、ほんとうに頻繁にお目にかかり、いつも一緒に帰宅し、ご指導をいただききました。数々の思い出はいずれ少しずつ、書かせていただきます。

  こころからの感謝を捧げるとともに、ご冥福を祈ります。
秋に咲く桜 [2008年03月01日(Sat)]






   同じ頃に咲く桜あり。




桜にまつわる行事は全国各地にいろいろあるが、多くは春の行事。

ところが、秋に行うところもある。

中でも盛大なのが毎年、10月12日の夜、池上本門寺(東京・大田区)で行われる「お会式(えしき)」。

日蓮宗の開祖・日蓮上人(1222〜82)の命日にちなんで、遺徳をしのぶ法要講のこと。

信徒集団である講中の人々が「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え鉦(かね)や団扇(うちわ)太鼓、笛の音を響かせ、桜の造花を飾った万灯を押し立てて練り行列を行う。

参詣者は全国から45万人とか。花万灯は日蓮が入滅した日に桜が咲いた故事による。

亡くなった、豪族・池上宗仲の邸には今、大坊本行寺があり、時を合わせて「お会式桜」と呼ばれる桜が咲く。

 実際に秋に桜もある。コスモスのことではない。コスモスは秋桜と書く。cosmosが宇宙であるのに、日本では桜になってしまうところが面白い。

秋に咲く桜はやはり珍重される。兼六園(石川県金沢市)にも「10月桜」と「冬桜(ふゆざくら)」があり、管理事務所によると、2002年には各9月7日と10月3日に開花している。
桜の名所 [2008年03月01日(Sat)]





「春爛漫」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。






春はサクラの話題が日本中を走る。

1月後半に咲き始める
沖縄県・名護城公園の寒緋桜にはじまり、
ふるくから桜の名所として名高いところを思い起こすと・・・
熊本城(熊本県)、
竹田市の岡城址(大分県)、
岩国市の錦帯橋(山口県)、
尾道市の千光寺公園(広島県)、
造幣局(大阪府)、
紀三井寺(和歌山県)、
姫路城(兵庫県)、
京都市とその周辺各地、
舞鶴公園(京都府)、
吉野山(奈良県)、
長谷寺(同)、
彦根城(滋賀県)、
小田原城址公園(神奈川)、
武川村(山梨県)、
高遠町(長野県)、
飯山城跡(同)、
長瀞町(埼玉県)、
小木町(新潟県)、
三春町(福島県)、
二本松市(同)、
塩竃市(宮城県)、
鶴ケ城公園(福島県)、
長井市(山形県)、
角館町(秋田県)、
千秋公園(同)、
弘前城公園(青森県)、
静内町(北海道)。

 そして最後は
5月下旬に根室市(北海道)の真言宗・清隆(せいりゅう)寺で咲く「千島桜」…、
これ以上挙げては、名前の出て来ない名所に叱られそうだ。

 みなさまからのおおすすめスポットがあったらご教示いただきたい。

 清隆寺の千島桜は樹高2メートルほどで、ほとんど境内に30本ほどあるのみ。

 ご住職の細川憲了師によると、
1869(明治2)年に田中文七という大工さんが、
今は北方領土と呼ばれている国後島に出稼ぎに行ったとき、
持ち帰って植えたのが始まりで、
北大教授のの宮部金吾(1860〜1951)が生育を指導し、
1936(昭和11)年に命名したもの。

 終戦の1カ月前、7月14日に根室は市街地の3分の2以上を焼失する空襲にあい、
千島桜の多くが焼失した。

 このため道内ではめずらしくなったが、今もサハリンでは咲く。

 
東京の桜の名所 [2008年03月01日(Sat)]




「雪景色」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。
八ヶ岳南山麓はまだまだ雪でいっぱいのようです。






 もう3月。気が早いが
全国の桜の名所を思い起こそう。

まず、東京。

「花の雲 鐘は上野か浅草か」は芭蕉の句。

「花のお江戸」と言わるだけあって、
都内には今でも桜の名所が多い。

靖国神社、
千鳥が渕、
新宿御苑、
上野公園、
隅田川畔(向島・長命寺の桜餅が有名)、
駒込、
飛鳥山公園、
外務省、
目黒川岸、
増上寺、
池上本門寺、
桜新町に桜上水、
そして三鷹の国際基督教大学、
小金井公園、
八王子の森林総合研究所多摩森林科学園・・・。

 都内は、染井吉野が多い。

 この桜は大島桜と江戸彼岸桜が自然に交配してできた1本を、
駒込の染井墓地に近接していた植木屋さんが見つけ、
ピンクの色を好む人たちによって全国に広まった。

 成長は早いが、種がないので、接木(つぎき)して増やして行くしかない。

 きょうから3月、あと3週間ほどで、ことしも都内は満開かな。
東北や北陸は今からが大変だというのに。

唱歌・童謡と桜 [2008年03月01日(Sat)]




  イカル。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。









  5年前に私が行った調査で「歌い継ぎたい日本の歌」において上位を占めた曲の中でも「サクラ」ないしサクラを指していると思われる「花」という言葉が出て来る。

『蝶々』
『荒城の月』
『花』
『花かげ』などの1番の歌詞に、

『春が来た』
『青葉の笛』
『天然の美』
『叱られて』などの2番にである。

 私より少し前の世代の小学校(国民学校)1年生の国語の教科書は
「サイタ サイタ サクラガ サイタ」から始まっていた。
世界で花咲く桜 [2008年03月01日(Sat)]








「実相寺の春爛漫」。挿画は石田良介画伯の
特段のご厚意で掲載させていただいております。
禁無断転載。








  桜を愛する心は、日本人の気持ちの中に脈々と受け継がれている。

最近では、わが師・末次一郎の主導で、青少年団体と日本さくらの会とが、皇居・北の丸に100種近いサクラを植え、今では毎春、立派に花を咲かせている。皇太子殿下のご成婚を祝してのことだ。

  世界各地に日本のサクラが移植されてもいる。ワシントンDCの話はあまりに有名なので略すが、パリにも、モスクワにも記念のサクラが花を開いている。

  ハワイにサクラの名所があるわけではないが、日系人は毎年、「サクラ祭り(Cherry Blossom Festival)」を楽しむ。

ハワイ大学日本研究センターのシャロン・ミニチエリョ所長によれば、「日系青年会議所(JC)の主催で毎年、2月から3月にかけて、様々な文化イベントが実施されますがミス・サクラ・コンテストがメインイベントです」。
日本人は桜が大好き [2008年03月01日(Sat)]






「春爛漫」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載








 明治以降でも、与謝野晶子(1878〜1942)の

   清水へ祇園をよぎる桜月夜
    今宵逢ふ人みな美しき

の名歌がある。

「木の間なるソメイヨシノの白ほどのはかなき命抱く春かな(『白桜集』)」にちなみ、晶子忌(5月29日)は「白桜忌」と呼ばれ、戒名も「白桜院鳳翔耀大姉」。

  桜の満開をめでる歌や句もあれば、桜を、散り際こそその美の極致とする特異な存在と見る美意識も日本の伝統的価値観であろう。

  しかし、近代筝曲『さくら』は、満開の桜を愛でる典型的な歌といえよう。

  後に、宮城道雄(1894〜1956)が『さくら』のメロディーを発展させ、『さくら変奏曲』を作曲、今日でも筝のみならず、ヴァイオリン、ギターなどさまざまな楽器によって盛んに演奏されている。

『花咲か爺』や『遠山の金さん』の物語は、サクラがなくては成り立たない。

 学習院と日本大学はともに桜が校章。同窓会である桜友会と桜門会のメンバーは日本中で、そして世界で活躍している。

  昭和になってからも少年たちはサクラの花を形どった七つ釦(ボタン)の予科練に憧れた。こちらは、戦禍で多くが散った。
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