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百人一首の桜6首 [2008年02月28日(木)]






   「春爛漫」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
  掲載させていただいております。禁無断転載。






 さきほど、『百人一種』に「桜を詠んだ歌は3首」と書き、
帰りの地下鉄の中で、思い出していたら、
6つも浮かんで来ました。

帰宅後、専門書で確認しました。
お詫びして訂正します。

☆//☆///☆/★\\\\☆

 まずは、超有名な小野小町の作。

花の色はうつりにけりないたづらに
 わが身世にふるながめせしまに


 続いて、『古今集』の紀友則の歌。

ひさかたの光のどけき春の日に
 静こころなく花の散るらむ

詞書(ことばがき)に「桜の花の散るを詠める」とある。


もろともにあはれと思へ山桜
 花よりほかに知る人もなし

『金葉集』に収録されている前大僧正行尊の歌。
心の寂しさを歌っている。


花さそふ嵐の庭の雪ならで
 ふりゆくものはわがみなりけり  

『新勅撰集』にある、入道前太政大臣の作。
藤原公経(きんつね)のこと。
承久(じょうきゅう)の乱の後、太政大臣に上り詰めた。
その人のさびしい気持ちを桜の散る姿に合わせて
詠んでいるところに妙味があるというべきか。


いにしへのならの都の八重桜
 けふ九重ににほひぬるかな
 
『詞花集』にある伊勢大輔の歌。
詞書に
「一条院の御時、八重の八重桜を人の奉りけるを、
その折、御前にはべりければ、
その花をたまひて、歌詠めと仰せられければ、詠める」とある。
作者の教養の高さとセンスのよさに脱帽するほかない。


高砂の尾の上の桜咲きにけり
 外山の霞立たずもあらなむ

『後拾遺集』にある権中納言匡房(大江匡房)の
スケールの大きい歌。山桜をはるかにのぞむ気分がいい。
「百人一首」とさくらC [2008年02月28日(木)]





  挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
  掲載させていただいております。禁無断転載。




『百人一首』には紅葉を読んだ歌が3首、さねかづら、松、八重むぐらを詠んだものが各1首ある。桜は6首、月の11首に次いで多い。思い出していていただきたい。

 花(桜)と月といえば西行(1118〜1190)、


   願はくば花の下にて春死なむ
    その如月の望月のころ


「その」は釈迦牟尼涅槃の日を指すか。西行は1190年、陰暦の2月16日、河内国南葛城の弘川寺(ひろかわでら)で亡くなった。享年73歳。

 吉田兼好(?〜1352以降)の『徒然草(137段)には、
「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見るものかは」
の名文がある。

世情を斜に構えて「もののあわれ」をいずこに感ずべきかを説明している。

そして「咲きぬべき梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ」と視野を広げる必要性を説き、歌の詞書にも、「花見に行ったのに既に散ってしまっていた」とか「差障りがあって花見に行けなかったが」などといったものもあるが、それらは、「花を見てと言へるにおとれることかは」と、このあと、視点を変えるすばらしさに議論を転換して行く。
「古今集」とさくらB [2008年02月28日(木)]





「やっと春が」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。






平安時代になると「花」といえば「桜」を指すと解釈するのが原則だ。

御所でもそれまで中国風に梅だったものを9世紀の初めに「右近の橘、左近の桜」に替えた。左近は外から正面に向かって階(きざはし)の左(東側)にあたる。左近衛府でその栽培を担当するから言うとのこと。

『古今集』春の部(134首)には「桜」の語が明示されている歌が41首、梅が17首、山吹が4首、藤が3首、ほかに単に「花」としている歌が33種あり、そのほとんどが桜を指していると解釈できる。中でも、

  花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに (小野小町)

世の中にたえて桜のなかりせば
春のこころはのどけからまし  (在原業平)

ひさかたのひかりのどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ    (紀友則)

いにしへのならの都の八重桜
けふ九重ににほひぬるかな  (伊勢大輔)

もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし  (前大僧正行尊)

高砂の尾上の桜さきにけり
外山の霞立たずもあらなむ  (大江匡房)

は『百人一首』にも選ばれて、広く知られている。しかし、『百人一首』にも採録されている有名な

  人はいさ心もしらずふるさとは
花ぞ昔の香に匂ひける      (紀貫之)

は「香り」である以上「梅」であろうが、紀貫之は別に、

  桜よりまさる花なき花なれば
あだの草花はものならなくに

と桜花を絶賛している。  (つづく)
「万葉葉」とさくらA [2008年02月28日(木)]




 「早春賦」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




『古今集』には桜の和歌が百首も
『古事記』には「此花咲耶姫(このはなさくやひめ)」が出てくるが、古代、「花」といえば「梅」をさしていた。それでも『万葉集』にも、

春雨のしくしく降るに高円の
山の桜はいかにあるらむ  (河辺朝臣)

あしひきの山桜花日並べて
かく咲きたらばいたく恋ひめやも (山部赤人)

去年(こぞ)の春逢へりし君に恋ひにてし
桜の花は迎へけらしも      (山部赤人)

とあり、また、

やどにある桜の花は今もかも
松風早み地(つち)に散るらむ  (厚見王=あつみのおおきみ)

世間(よのなか)も常にしあらねばやどにある
桜の花の散れるころかも    (久米女郎=いらつめ)

の意味深長な相聞歌もならんでいる。
               (つづく)
さくら @ [2008年02月28日(木)]







   「南アルプスの春宵」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 伊豆の河津桜の話をよく聞く季節になりました。

 しばらくは拙著『歌い継ぎたい日本の歌−愛唱歌とっておきの話』(海竜社)から桜に関係した一章をベースに、今の時点で補筆したものを掲載させていただきます。

★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

    さくら
               近代筝曲
 (現在の歌詞)
  さくら さくら
  野山も里も 見わたすかぎり
  かすみか雲か 朝日ににおう
  さくら さくら 花ざかり

 (もとの歌詞)
  さくら さくら
  やよいの空は 見わたすかぎり
  かすみか雲か においぞいずる
  いざや いざや 見にゆかん

「さくら」は、1888(明治21)年に東京芸術学校(現・東京芸術大学音楽学部)が出した琴の入門書で発表された曲、つまり、古謡そのものではなく、明治になって作られた曲である。

歌詞は、1941(昭和16)年の「うたのほん(下)」で文語体から口語体へと改められ、現在の教科書にもそのまま掲載されているが、以前のものが文語の美しさと品格を兼ね備えているため、今でも愛唱されており、一般には二つとも健在である。

 日本人のサクラ好きは論をまたない。   (つづく)
ポルポト政権幹部の涙 [2008年02月28日(木)]






  予備審査における「ダック」容疑者







   トゥールスレインの元収用所は、今では
  「観光名所」化している。


   写真はいずれもBBCから。




 今朝のBBCはカンボジアのポル・ポト政権時代序列第5位以内の幹部であったKaing Geuk Eav(通称:ダック)容疑者が去る21日、首都プノンペンのトゥールスレインの元収容所を見せられ、涙を流したというニュースを伝えている。

 この視察は、国連にサポートされている裁判所によるもので、カイン容疑者は人道に対する罪として裁判にかけられることになっている。

 BBSは記事の中でポル・ポト政権は100万人を殺したとしているが、日本では「200万人以上」という表現が多い。正確なことは誰もわからない。とにかく、インテリの多くが殺害された。政治家はもとより、教師、管理職、僧侶、記者などとその家族である。

 眼鏡をかけているというだけで、インテリ、すなわち反抗の恐れありということで、処刑である。

 もう、そのことについては各種のレポートがあるので、繰り返すまい。

 しかし、同政権崩壊からほどない1980年前半に、私はプノンペンはもとより、コンポンチャム、シアヌークビルなどを周った。トゥールスレインの元収容所は、今では世界からの観光客が訪問する「名所」になった観があるが、当時は、血の臭いがするかと思うほど、なまなましかった。

 今、日赤の社長となっている畏友・近衞忠W氏を誘ってのことだ。当時の朝日新聞1面トップで、二人が南東部のある集落で救援物資を配っている写真とともに掲載されている。

 二人ともショートパンツというのは、暑いからという以外にないが、当時の朝日の記者は、「ウチの1面にショートパンツで写真が出たのは、カーター大統領のジョギング姿以外にない」というので、「向こうは世界的有名人ゆえ、われわれはスタイル抜群ゆえの登場だね」と返事した。

 1972年の春ころ、われわれは3ヶ月、誕生したばかりのバングラデシュの極貧島ハチアで、同室生活、文字通り、起居をともにして救援活動にあたった。そのころのクセで、ショートパンツ姿だったのだが、日赤の古手の中には、「何たる姿」と眉を顰める人もいた。

 もちろん、カンボジアではあちらこちらで、虐殺の痕をこれでもか、これでもかというほど見た。首都のテレビ塔の周辺など、あまりに広大なところに人骨が散乱し、靴の下に人骨が刺さってしまうのが、あまりに辛かった。いまでもあの感覚は忘れられない。

 ポル・ポト時代の幹部は当時、もちろんそういう事態を百も承知だったに違いない。臭気だけでも気づかなくてはウソだ。

 あまりに急激な共産体制の推進、少数派による全国支配は恐怖政治しかない、「四人組」時代の中国の影響・・・理由はいろいろ挙げることができよう。

 しかし、根本には人間の残酷さという、世界の歴史に共通するものが、このときに噴出したのではあるまいか。

 バングラデシュでは、近衞氏らが来る前に内戦と印パ戦争があった。そこでも私は何度も残酷なシーンに出くわしたり、大量虐殺の直後にその場を訪ねたのであった。(詳しくは、拙著『血と泥と―バングラデシュ独立の悲劇』読売新聞社)

 こうした悲劇は、客観的、科学的にしっかりと検証されなくてはならない。それが未来への予防の始まりだ。

 カチンの森、南京、東京、広島、長崎・・・で何が実際にあったのか、なかったのか。検証は常に客観的、科学的に行なわれ、歴史的判断を下さなくてはならない。

 ポル・ポト派幹部の涙で、判事たちの目が曇ってはいけないのだ。